僕と先輩が手紙をまとめ終わり、カラスに託したのは、日没すれすれの時刻だった。そこから寺の敷地内にある全ての建物に鍵をかけ、鎧戸も閉めて、最後に南の離れの鍵を閉めた先輩が戻ってきたところで、玄関に鍵を掛ける。
――何とか間に合った。
ちいさいのは、部屋からもってきたゲタ吉の毛布にくるまって、身を縮めるようにして、僕の隣で眠っている。
……疲れているけど、同時に不安たまらないんだろう。その気持ちが、頭で考えるより早く分かってしまうのは、僕とちいさいのがとてつもなく近い魂だからだ。
元の世界で、ちいさいのは父さんと水木さんを、水神に奪われてしまった
――それも、目の前で二人が『溶けて』いくのを、つぶさに見てしまったのだそうだ。
だからちいさいのは普段、自分を守ってくれるゲタ吉の側から離れない。
……なのにまた、『目の前』で奪われてしまった。
ちいさいのの気持ちを決め付けるのは良くないけど、でも、この状況で不安にならない方がおかしい、と僕は思う。
先輩は先ほどから、描き損じた紋様のできそこないをためつすがめつしながら、たまにお茶をすすっている。僕はその湯呑みに時折お茶をつぎ足し、ゲタ吉の白い毛布にくるまっているちいさいのの背をそっと撫でながら、やっぱりお茶をすすって
――やがて、先輩がぼそりと呟いた。
「どうみても西洋魔術だよね
……これ」
先輩の手元を覗き込んでみると、二重円と四角形と謎の図形を組み合わせ、ところどころに文字のような模様が入った図が見えた。
……具体的に何の紋様なのか、僕にはさっぱり分からない。描き損じだけど、どこをどう描き損じているのかもよく分からない。アニエスだったら分かるかもしれないけど
――と、元の世界の知り合いを心に浮かべてみたけれど、もちろん連絡の取りようなんかない。少なくとも、今はまだ。
「和紙に墨で書いた符に、なんでこんなのの記憶が残ってるんだろう
……」
「混信してるかもしれない、って墓のの手紙にありましたよね。だから、どこまであの符自体と関係があるのか
……ちいさいのは、符みたいなものは見たけど、あの下半分かどうかまではよく分からない、って言ってましたし」
それも手紙には書いた。実際のところ。ちいさいのの言葉がどこまで墓の役に立つ手がかりになるのか、僕にはよく分からない。だから、無駄かもしれないけど、できる限りのことを細かく書いたつもりだ。
「すっきりしないなあ。
……ああ、でも
……うーん」
先輩が珍しく、口ごもった。
僕はまた先輩の湯呑みにお茶をつぎ足して、横目で先輩に視線を送る。先輩は僕よりずっと、言葉の扱いは上手い。だから、話したければ話すだろうし、話すべきでないと思ったら黙るだろう。でも、今の口ごもりかたは、明らかに
――話すべきだが話し方が分からないときの音、だった。
だから、視線で続きを促してみる。ためらいがちな口調で、先輩は続けた。
「この紋様の記憶が、誰のモノかは分からないけど
……符はともかく、この紋様の記憶の持ち主が、ゲタ吉を狙った張本人だとするなら。最初からゲタ吉『だけ』を狙う気で、ちいさいのは眼中になかった、んじゃないかな」
「この紋様から、そう言えるんですか? どうして」
「墓のへの手紙にも書いたけど、紋様の記憶に練り込まれてるみたいな感じで、繰り返して聞こえる言葉があったんだ。
――わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた、って。何度も、何度も
……」
言葉と先輩の声音に反応するように、僕の心がそわりと騒ぐ。とっさに言葉が見つからない僕をどう思ったのか、先輩は何かごまかすような苦笑を浮かべて、更に続ける。
「子供になくて、大人にあるもの。ちいさいのが知らなくて、ゲタ吉になら分かること。
……多分きみが、僕と出会って、初めて知ったようなこと。そういうのにつながる何かが、込められてる紋様だと思う」
慎重な口ぶりだったけれど、その記憶にじかに触れているからか、先輩の声音のどこかに
――夜、肌を重ねるときの響きが、混ざっている。
それでまた騒ぎ出す心を何とか抑えて、僕は冷静な言葉を作った。
「だから
……最初から、『ゲタ吉にのみ』、狙いを絞っていた証になる
……確かに、そうですね」
「ちいさいのが知るには、いくらなんでも早すぎる、と思うよ」
真っ白な毛布にくるまっているちいさいのは、僕たちの話し声を聞いても、起きる気配はない。
僕はまた、ちいさな背中をそっと撫でた。
「
……だとしても。ゲタ吉が、ちいさいのより、そういうのを優先するとは
……とても思えませんが」
「そうだよね。
……それに、この紋様は、全然関係ないところから混信した記憶だって可能性は残ってる。実際に現場で符を使った人間と、この紋様の記憶の持ち主は全然別、とか。
……このへん、墓のが何か探ってくれるといいんだけど」
――結局、何も分かっていないに等しかった。
まだ全容が分からない以上、待つしかない。
沈黙を埋めるちいさいのの寝息は一定で、取りあえず悪夢に襲われている様子はない。せめてもの救い、と言っていいのかどうか。
僕がまたちいさいのの背中を撫でていると、先輩が身を寄せてきて、ちいさいのの顔を覗き込んでささやいた。
「
……きっと、怖かったろうに。頑張ったな」
続いて先輩は、ちいさいのの判断力に驚いた話をしてくれた。カラスが二羽いて、手紙を二通書き、それも片方は墓のに、片方を先輩宛にした理由。
ちいさいのがどこまで考えてそうしたのかは、さすがに僕にも分からない。それでもちいさいのが、目の前でゲタ吉を奪われて、自分にできることは何かと必死に頭を巡らせたんだろう、ってことは分かる
――どうしたいか、どうすればいいのか、って。
二人でちいさいのの顔を覗き込んでいると、その視線に気づいたわけでもないだろうけど、ちいさいのがもぞもぞと姿勢を変えた。
それで、真っ白な毛布の下、ちいさいのが自分の片手の手首を、もう片方の手でしっかりと押さえているのが分かる。その理由も、僕にはすぐ分かってしまった。
ちいさいのの左手には、ゲタ吉が深い情を込めて編んだ組紐が巻かれている。それに必死に縋るように、ちいさいのが手を重ねている理由。
――心が、理屈抜きでずきりと痛む。分かる。分かってしまう。
ちいさいのにとってゲタ吉が、どれだけ大きい存在か。
あと、僕自身にとっても
――ゲタ吉は、『もしかしたらあり得たかもしれない未来の僕』だ。
気がつけば、言葉がこぼれ落ちていた。
「ゲタ吉
……、無事でしょうか」
「あんなめちゃくちゃな力の持ち主、わざわざさらうってことは、殺す目的ではないはず、とは思うんだけど
……」
先輩が言葉を濁したのは、その先の可能性が、ろくでもないものしかないから
……だろう。命が無事でもそれ以外が無事でないことなんて、いくらでもある。
夜明けが遠いと感じたのは、本当に、久しぶりだった。
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