ナガレ
2025-05-20 19:01:52
38057文字
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【web再録】in the midnight(ぶぜまつ)

2022/3/21閃華春大祭 2022 江中心プチ「ごーとぅすてぃじ 3」合わせ発行。ぶぜまつin現代遠征で、人間に成りすまして生活しながら刀剣男士の任務を行う話。ビジネスマンだったり、ルームシェアでご飯作って食べたり、水族館デート(?)したり、共闘したりするコンビやバディのような関係性の二振りです。
二振りの降り立ったビルは都庁のつもり。高層ビルから飛び降りるぶぜまつが書きたくて書きました。書けて満足。

発行から二年以上経過したので、webに全文掲載することにしました。本を手に取ってくれた皆様方、本当にありがとうございました!
※web掲載にあたり、改ページ等を調整しています。


【二】

 その日も松井は豊前より遅く帰って来た。明日は土曜日で休みだからと、少し仕事を詰めすぎてしまった結果だ。こうなると、刀剣男士が本業なのかそれともシステムエンジニアが本業なのかわからなくなってくる。順調に人間達の社会に染まっているなぁと、松井は帰り道で苦笑した。
 すっかり歩き慣れた道。用意された〝家〟はもう目の前だ。築年数は三十年近いが、内装や水回りは新しくて綺麗なオートロックマンション。リノベーション物件というらしい。エントランスの電気錠を解錠し、強化ガラスのドアを開ける。一応見ておくかと覗いた郵便受けの中は空っぽだった。ちょうど一階で停止していたエレベーターに乗り込み、ボタンを押して五階へ。二振りに用意されたのはフロアの端にある角部屋だった。
 今から帰ると職場を出る時に連絡しているが、松井は呼び鈴を押してから鍵を開けた。玄関の上がり框には電気がついていた。
 居間からテレビの音声が聞こえてくる。松井が顔を出してただいまと声を掛けると、豊前がいつものようにおかえりと返してくれた。
 すっかり着慣れてしまったビジネススーツ。戦闘衣装も洋装という視点では大差ないけれど、着慣れないからどこか肩が凝る。松井はスーツを脱ぐと、本丸の生活でも愛用している内番着に着替えた。
 さて、今日の夕飯は一体何だろうか。二振り暮らしが始まってからというもの、豊前がほぼ毎日何かしら夕飯を作ってくれる。それを食べる事は松井の密かな楽しみだった。
 食卓の上に乗っていた今晩のおかずは、鶏の唐揚げに甘酢あんかけを掛けたもの、明太子の食感と辛みがアクセントのコールスローサラダ。どちらも近くのスーパーで売っていた総菜をちょっとアレンジしてみた――らしい。相変わらず豊前は器用だなと松井は思う。
 さすがにこれぐらいは自分でやると言って、インスタント味噌汁には自分で電気ポットの湯を注いだ。味噌汁を冷ましながら松井が遅い夕飯を食べていると、突然豊前が松井に声を掛けてきた。豊前は床の上に敷いたラグの上に座り、ソファーを背もたれにしながら夜のニュースを見ていたはずだ。それなのに声がやたら近い。白米を咀嚼して飲み込むと松井は顔を上げた。
 ……近い。すぐ目の前に豊前がいて、松井の顔を覗き込んでいた。
「な、何だい?」
 あまりの近さに驚いて、少し声がひっくり返ってしまった気がする。豊前に松井の素振りを気にする様子は無い。目を細めてにんまりと笑みを浮かべると、手に持っていた紙切れをひらひらと振った。
「水族館、行こーぜ」
 明日は休みだろうと言って豊前が松井の目の前で振っている二枚の長方形の紙には、近くにある水族館の名前が書かれていた。

 翌日、昼過ぎ。松井は近くの水族館の入り口の前にいた。午前中は時代遡行軍の捜索を行い、午後からは取引先の偉い人に貰った優待券で水族館に行く。昼食はどこか外で食べよう。美味しい中華料理の店を教えてもらったから、混んでいなかったらそこにしようか。
 松井が口を挟む間も無く話は決まった。たまには息抜きも必要だと、陽光のような笑顔で提案されたら何も言えない。松井は頷くしかなかった。
 そんなこんなで午前中は敵軍捜索のために歩き周り、昼は豊前が同僚におすすめされたという店で、手頃な値段かつ十分に満足できる量の炒飯定食を平らげた。その後、腹ごなしがてら少し遠回りして、今日の目的地である水族館にやって来たというわけである。
(人が多い……
 人混みに閉口する松井を見かねたのか、豊前はここで待っていろと言って、水族館の入館口から少し離れた場所にあるベンチに松井を座らせた。松井をその場に残すと、自身は入館口の横にある窓口に小走りで向かう豊前。貰った優待券をそこで入館券に交換する必要があるらしい。窓口の列に並ぶ豊前の後ろ姿につい目が行ってしまう。どこにいても彼はよく目立つと思った。
 今日の豊前の装いは首回りが軽く開いたVネックシャツに薄手のジャケット、細身のデニムパンツ。午前中に街中で敵の捜索を行っていた事もあり足元はスニーカーだったが、どことなく彼の戦闘衣装を彷彿とさせる装いだ。休みはいつも内番着のようなジャージを着て過ごしているのに今日は違った。当代の流行には疎いが、彼にとてもよく似合っていると思う。
 それに比べて……と、松井は自分の出で立ちを見下ろした。わずかに卵色の混じった白色のカットソーに着丈が長めのカーディガンを羽織り、下半身は黒色のスキニーパンツと少しだけ踵の高いショートブーツを合わせただけの格好。どれも深く考える事なく手に取ったものだが、もう少し考えるべきだったかもしれない。
 ここ数日手入れを怠っていた爪化粧に欠けを見つけた松井が小さくため息を零していると、優待券を入館券に引き換えた豊前が戻ってきた。
 顔を上げた松井にぱっと破顔した豊前の口が、松井の名前を呼ぼうとして「ま」の形に開いた。しかしその口は言葉を発する事なくきゅっと閉じられてしまった。何だか顔が険しい気がする。松井は首を傾げた。
「豊前?」
「これ、松井の分。……ったく、油断も隙もねーな」
 松井に入館券を一枚渡すと、豊前はがしがしと後ろ頭をかいた。そして一瞬だけ警戒するように辺りを威圧する。――もしかして敵がいたのか。刀の柄に手を掛けるように腰の辺りに手をやった松井に緊張が走る。しかしそれは杞憂だった。
「何もいねーよ。ほら、息抜きすっぞ」
 豊前に促され、松井は立ち上がった。そして自然に手を取られる。取られた手が一瞬跳ねてしまった事に、豊前は気づいただろうか。豊前に特段の意図は無いはずだ。こういう事をさりげなく、しかも無意識でやるから変なあだ名がつくんだ。松井は豊前につけられた数々のあだ名を思い浮かべた。
「松井? どーした?」
……何でもない」
 少し血の巡りが良くなってしまったであろう自分の顔。豊前に気づかれていなければいいのだが。松井は己の手に触れる、自分よりもわずかばかり高い体温に意識を向けないようにした。そう、これは人が多くて混んでいるからはぐれないようにするための策。それ以上でも、それ以下でもないんだ。松井は自分にそう言い聞かせた。
 そんな松井の思いは露知らず、豊前は松井の手を取ったまま入館口にやって来た。訝しがられる事も好奇の目で見られる事もなく、入館券に今日の日付が入った判子を押されて中に通された。
 休日という事もあり、建物の中はそれなりに混んでいた。家族連れ、友人同士の団体、じっくりゆっくり見たいから一人で来ていると思わしき人。豊前と松井が並んでこの場にいても違和感は無かった。
 館内の空気は涼しく、ひんやりとして少し肌寒い。羽織り物を着てきて正解だった。松井は水族館に初めてやって来た。勝手が分からず、未だ取られたままの手を軽く揺らして豊前を呼んだ。
「ここからどうすれば?」
「そーだな……。とりあえず、順路って書いてある通りに進んでみっか」
 松井は了解したと頷いた。来館客達のほとんどが順路と書かれた矢印の指す方向に歩いて行っている。豊前と松井も人の波に乗る事にした。
 順路の先は建物の外、中庭のような場所だった。前に短刀の誰かが見せてくれた動物図鑑に載っていた動物がいる。……動物?
「なぁ、豊前。水族館には魚以外の生き物もいるのか?」
「海や川、水の中で生きてるやつならいるんじゃねーの?」
 なるほど。松井は納得した。松井の記憶が正しければ、あれは海の獣だ。海にいるのだから、水族館にいてもおかしくない。顕現してから色々な事を勉強して身につけた気になっていたが、まだまだ知らない事ばかりである。
 突然聞こえた海獣の大きな鳴き声に思わず敵襲かと身構えたり、海獣の水槽の隣にひっそりと並ぶシマアジの水槽の前で思わず美味しそうだと二振りして呟いたりしながら、豊前と松井はこの展示区画を後にした。順路は建物の中を指している。順路の通り建物の中に入ると次は日本の近海を泳ぐ魚達のいる水槽だった。またも二振りして魚を見ながら美味しそうだと呟いてしまい、今度は顔を見合わせて小さく笑った。
「明日の晩飯は魚でも焼くか」
「ここでする話じゃない気がするけれど、賛成」
 今日の夕飯を何にするか決まる前から、なぜか明日の夕飯のおかずが決まってしまった。
 次は何の展示だろうかと順路の矢印が向く方へ足を進めていると、辺りが暗くなってきた。肌寒さも心なしか強くなった気がする。どうやらこの先は部屋自体をわざと暗くしているらしい。壁に貼られた案内板には、『深海コーナー』と書かれていた。
……松井は平気か?」
 刀剣の中にはかつて海に落ちたもの、そのまま行方のわからなくなったものもある。そんな刀を依り代に顕現している刀剣男士の中には、海に一抹の恐怖を抱くものもいるだろう。しかし幸いな事に、松井にそのような経験は無かった。
「平気。だけど、少しどきどきする」
「そっか。暗いからあんまし離れんなよ」
 いつの間にか手は離れていた。松井は豊前に手を放してくれと言っていない。歩いているうちに自然に離れたのか、それとも豊前が解いたのか。――ちくん。心の奥、どこか柔らかいところにとげが刺さった音がした。
 水深二〇〇メートルを過ぎると人間の体では色を感じる事ができず、世界は灰色になるという。人の子を模したこの体も、海に沈んだら世界が灰色に見えるのだろうか。そこからさらに深く沈んで、水深一〇〇〇メートルの世界。そこはほんのわずかな太陽光すらも届かなくなる、文字通り深い深い海の底だ。
 深海、それは薄暗くも神秘的な世界だった。空からの光は届かず、水が冷たいまるで真夜中のような世界。そんな過酷な場所でも精一杯生きているというのだから、生命は侮れない。
 そんな世界でも、水の流れというものは存在しているらしい。水流に合わせてゆらゆらと揺れる不思議な生物を、松井はぼんやりと眺めていた。だから余所見をしながら近づいてきている存在に気づくのが遅くなった。
 ――ドンッ。
 暗がりではぐれたのだろうか。親を探して走っている子どもが松井にぶつかった。
「わっ」
「でーじょうぶか?」
 足元を照らす非常灯。その下でふらついた松井を豊前が咄嗟に抱き止めた。
「すまない。ありが、とう……
 爽やかで涼しげなのにどこか甘さを含んだ、松井の知らない香り。微かな香りを感じる程に近づいた事に気づき、松井の体温は急上昇した。そして急降下する。身だしなみとして普段から香水やコロンを纏う男士はいるけれども、豊前がそちら側とは聞いた事が無い。誰かに何か言われたのだろうか。
 だが、豊前がそういったものに興味を持とうがそれは松井に関係のない事で、口を出す事ではない。大丈夫だと返すと松井は豊前から離れた。半歩離れれば、あの甘さの混じる清涼な香りは届かなかった。
 光がほとんど届かないような深海にすむ魚の中には視覚が退化してしまい、その分鋭くなった嗅覚で繁殖の相手を探すものもいるらしい。匂いで異性を探したり惹きつけたりするのだろうか。……だからどうしたという話だが。松井の脳裏を先ほど読んだ深海魚の解説文が過ぎった。
「ここも人が増えて来たし、そろそろ次に行くか」
 豊前の言葉に松井は無言で頷いた。さっきまでは隣を歩いていたのに、今は豊前が半歩先にいる。前を歩く豊前の空の手がゆらゆらと揺れているが、松井はどうしてもその半歩が詰められなかった。
 そんな漠然とした寂寥を感じながら、松井は深海の暗がりを抜けた。エスカレーターで階を下り、ベンチがいくつか置かれた休憩所の角を曲がった先。そこに広がっていたのは、遙か遠い南の海だった。世界最大の珊瑚礁を持つ海を模した水槽は、人工の太陽光をさんさんと浴びて明るく色鮮やか。こういうのをカラフルと言うのだろう。自分の記憶の中にある海との違いに松井は目を丸くした。
 琉球生まれの男士に話に出てくる南の海。図鑑や映像でしか見た事のない海だ。物珍しそうに水槽の端から端まで移動しながらじっくりと覗き込む松井の後ろ姿を眺めながら、豊前は気づかれないようにこっそりと苦笑した。まさかここに一番食いつくとは思わなかったのだ。
 あの派手な色合いの魚も、焼いたり煮付けにしたりすれば食せるのだろうか。可食部が少ないような気もするが。そんな少々場違いな事を考えている豊前の前を、ウミガメが悠然と横切っていく。浦島虎徹の亀も成長したらあれくらいの大きさになるのかもしれない。あの大きさになれば、背中に彼を乗せて竜宮城まで連れて行ってくれそうだ。
「すごい。僕の知っている海とは全然違う。初めて見るよ」
「そーだな。俺も初めて見た」
「本物の南国の海もこんな感じなのかな」
「いつか見に行くか?」
「そうだね。いつか――
 見に行けたらいいなと呟き、松井は顔を伏せた。いつか見に行く事ができた時、僕は彼の隣に立っているのだろうか。彼にはこんな明るく色鮮やかな海も似合うけれど、僕にはとても――
 物思いに耽る松井。その伏せた横顔を豊前が水槽のガラス越しにじっと見ている事に、松井は気づかなかった。

 その後も順路に沿って展示を見ていた豊前と松井だったが、気づけば出口が見えてきた。出口の近くには土産物を売っている一角。手洗いに行ってくると言って別れた松井を待つ間の時間潰しにと、豊前は売り場に足を踏み入れた。
 ぬいぐるみ、文房具、絵はがき、菓子類。売り場には色々な土産物が所狭しと並んでいる。現世に遊びに来ているだけなら同胞達に土産を買って帰ってもいいのだが、今は遠征――任務中だ。一応、遊ぶためではなくて、戦いの英気を養うために来ている。形式上は。
 いつか非番の時に来る機会があれば、その時は何か土産を買って帰ろう。定番は菓子だろうか。揃いの小物も同胞には喜ばれそうだ。土産物を一つ一つ興味深く見ていると、ある商品が豊前の目に止まった。
 豊前の目に止まったのは、丸いシルエットにデフォルメされた水族館の看板キャラクターのストラップ。どこか眠たそうな目と、目の端にちょんちょんとついている短い下まつ毛、わずかに弧を描く事でほほえんでいるように見える口元。何だか気になって仕方なかった。本人に聞かれたら抗議されそうだが、どこか松井に似ていると思った。
……
 熟考する事、数十秒。一番手前にあったストラップを手に取ると、豊前は会計に向かった。誰かに渡す物ではないので、袋はいらないと断った。会計済みである事を示すシールだけ貼ってもらうと、豊前はデニムパンツの尻ポケットに買ったばかりのストラップをねじ込んだ。
 土産物売り場を出て近くの壁際で待っていると、松井が手洗いから戻ってきた。日暮れ時で外は暗くなりつつある。帰るのにはちょうどいい時間だ。
 出口に置かれた記念スタンプの台。松井は豊前に断りを入れると、半券の裏にそっとスタンプを押した。その表情は何だか満足そうで、水族館を出ると豊前は松井に声を掛けた。
「息抜きできたか?」
「あぁ。誘ってくれてありがとう」
 いい息抜きになったと、小さな笑みを浮かべる松井。この遠征はまだ続く。息抜きや気分転換ができたのなら良かった。松井が満足してくれたのなら何よりである。息抜きに誘った豊前も満足だった。
 そういえば、明日の夕飯のおかずは決まったが、今日の夕飯はまだ決めていない。今から献立を考えるのも、帰ってからそれを作るのも面倒なので、今日は何か出前を頼もう。豊前がそう提案すると、松井がそれならピザが食べたいと間髪入れずに申し出た。
「今から注文して、店に取りに行く形でいーだろ?」
「うん。ついでに何か飲み物も買って帰ろう」
 電子端末でピザの店を検索して、家の近くにある店を探す。歩いてすぐ近くの店があったので、そこに決めた。豊前の端末でメニューを見ながら決めて、松井の端末でメモを取る。松井のメモを見ながら豊前が店に電話を掛けて注文した。
……よし。いい感じの時間に出来上がりそうっちゃ」
「こんな贅沢、みんなには内緒にしておかないとね」
「そーだな。何言われるかわかんねーし、内緒にしとくぞ」
 二振りして口の両端を上げ、いたずらっ子のような笑みを浮かべて顔を見合わせた。

 * * * * *

「さっき、休憩スペースで営業の豊前さん見かけた」
「いいなぁ。社員食堂ではよく見かけるけど、それ以外だとなかなか見る機会ないよね」
「財布にゆるキャラのストラップ付けてて、かわいところもあるんだなって思っちゃった」
「そうなんだ。何か意外」
 ――営業の豊前さん。またこの話題かと、デスクトップパソコンのキーボードを叩く手を止めた松井はため息をついた。
 明るく誠実で人当たりが良く、それでいて謎めいたところもある。与えられた業務はきっちりとこなして成果を出すし、かと思えばどこか抜けている部分もある。ギャップ萌えというやつなのかもしれない。刀剣男士は神に連なる者だから、その容姿は人間達を魅了する。豊前が人の目を惹きつけてしまうのは当然だった。
 惹きつけられてしまった人間達は、豊前についてあれこれ好き勝手言う。彼の事を何も知らないくせに。
 と、そこまで思って松井はふと考えた。自分は豊前の事をどれだけ知っているのだろうか。
 豊前も自分も、同じ刀工から生まれた同胞。渡った経緯は異なれど、どちらも生まれ故郷を離れて西南の地に渡り、そこで惨い戦を目の当たりにした。その戦が松井の中に根を深く張っている事を豊前は知っている。時代の流れと共に刀としての彼はどこかに姿を消してしまったが、数百年の時を経て刀剣男士として顕現し、松井は豊前と再会した。
 刀剣男士、豊前江。同胞達のまとめ役である彼は面倒見の良い兄貴肌で、書類仕事は文字がびっしり書いてあるから少し苦手。体を動かす事は好きだけれど、畑仕事はあまり好まない。でも、当番が回ってきたらやる。文句はずっと言っているけれど。
 そんな彼の好きなものは早いもの。馬でも乗り物でも、何でも。早くはないけれど、桜の花も好きらしい。みんなやりたい事をやればいいという大らかさを持ち、言いたくても言えない事は無理に聞こうとしない、松井の心の内を誰よりも知っている理解者。しかしそれだけだ。
 松井は豊前が財布にストラップ(聞き慣れない単語だが、おそらく根付の一種なのだろう)を付けている事も知らなかった。僕は豊前の事を知っているようで、実はあまり知らないのかもしれない。そう思うと何だか胸の辺りがつっかえると言うか、もやもやとしてきた。――もやもや?
 どうしてもやもやするのだろうか。松井は首を捻った。誰にだって言えない事はあるし、身内でも知らない事がある。そういうものではないのだろうか。
 ……だめだ。今は仕事中で余計な事を考えている時ではない。松井は雑念を払うように目の前の画面を睨んだ。今の松井はこの会社で働くシステムエンジニアの一人。一刻も早くシステムの穴を見つけて改修しなければ。穴を放置する事は時間遡行軍の蛮行を許すようなもの。小さな綻びはやがて取り返しのつかない事になる。
 タンブラーの中に残っていたブラックコーヒーを一気飲みすると、松井は再び作業に没頭した。今日こそは終電前に帰ってやるんだという強い意志と共に、目の前の液晶画面を上から下へ食い入るように見ていく松井。ブラックコーヒーとエナジードリンクはもう飲み飽きた。あの適当に味付けをして炒めただけの、肉が多い野菜炒めを食べたい。「遅い時間だから軽いもの」と豊前が用意してくれるここ数日の夕飯は、何だか物足りなかった。
 明日は休みだ。部隊長の山姥切国広には一日だけ、半日だけでもいいから敵の捜索を免除して欲しいと、事前に伝えて了承してもらっている。二足のわらじに加えて、突然やってきた急ぎの案件。水族館に行った次の出勤日からずっと帰りが終電続きの松井は、出陣していないのに赤疲労一歩手前だった。
 何のために遠征部隊の一員として送り込まれたのかと、山姥切国広も初めは色よい返事をしてくれなかった。しかしそこは豊前が助け船を出してくれた。今の松井の状況を端的に伝え、その分は自分が動くからと申し出てくれた。
 豊前からここ数日の松井の行動履歴を聞いた山姥切国広は絶句していた。彼もこれはさすがにまずいと思ったのか、こちらの事は気にせずしっかり体を休めておけと労られてしまう始末だった。
「そーいうことだから、次の休みはしっかり休め。いざ敵と遭遇した時に動けんかったら困るだろ」
「そうだね。……よし、決めた。日付が変わる前に寝て、朝は早く起きない日にしよう」
「そーしとけ。休める時に休まねーとな」

 と、二振りがそんな会話を交わしたのは二日前の夜の事だった。「明日は休みだから少しぐらい羽目を外してもいいよね」と言ったのは仕事をきっちり片づけてから帰ってきた松井だが、これは少々外しすぎではなかろうか。日付が変わる前に寝ると言っていたのは、一体どこへ行ったのやら。
 居間のローテーブルの上に並んだ空き缶の数々に、豊前が作った簡単な酒の肴が載っていた皿。皿に盛られた料理の多くは松井の腹の中に消えた。きれいに平らげた松井は気持ち良く酔っている。あの空き缶の八割も松井が飲んだものだ。
 餌付けというと聞こえは悪いが、豊前はこの遠征の中ですっかり松井の胃袋を掴んでしまった気がしていた。何を作っても美味しいと言って完食する松井が悪い。任務が終わって本丸に帰ってもまた作ってくれるかと遠慮がちに聞かれたら、いつでも作ってやるよとしか言えないだろ。
 いつでも作ってやるという豊前の回答に、松井はとても満足そうだった。松井にそんな顔をされてしまったら豊前は勝てない。しかし厨当番の戦力に組み込まれるのは勘弁してもらいたいので、ただし誰もいない時に限ると、一応付け足しておいた。
 そして今、豊前は上機嫌な松井を前に(どうすりゃいーんだこれ……)と少し遠い目になっていた。
「ふふっ。これ、一度してみたかったんだ」
「そーかよ」
 豊前は同胞達に膝枕をせがまれる事が多い。別に減るものでは無いので、いつも快く貸しているが。膝の上に頭を乗せてくるのは篭手切江と桑名江。だが、今はそのどちらでもではない。――松井だ。松井が膝枕をせがんできた事は今まで一度も無かった。
「枕にしては少し固い」
「野郎のだぞ。当たり前っちゃ」
「でも、悪くない」
 くすりと笑う松井。明日の朝になっても全て覚えていて、土に埋まりたいと言い出さなければいいのだが。豊前は何度目かのため息をついた。
「さっさと寝ろ、酔っ払い」
……豊前は?」
「俺?」
「豊前はまだ寝ないのか?」
 膝の上の松井が真っ直ぐに豊前を見上げてくる。いつもは真っ白な頬も目元も今は酒精で赤味を帯びているし、目は潤んでいる。口元もほんの少し開いていた。松井は本当にたちが悪い。豊前は天を仰いだ。
 頼むから早く寝てくれ。もう色々と限界で、松井が寝たら自分も寝ると返すのが精一杯だった。
「こっちの気も知らねーくせに……
「豊前?」
「何でもねーよ。ほら、もう寝とけ。日付が変わる前に寝るんだろ?」
 どうやったら寝てくれるんだこれ。豊前は苦々しい表情で缶の中身をぐいと飲み干した。片手には缶ビール。もう片方の手は無意識に松井の髪を梳いていた。思ったより指通りが良いなと思ってしまうくらいには、豊前も気が緩んでいた。
 しばらく豊前が松井の髪に指を通していると、松井の目が閉じている時間の方が長くなってきた。そろそろと言うか、やっと寝てくれそうだ。
 寝入ってしまう前に布団に連れて行こう。豊前が松井に声を掛けると、「んん……」と寝ているのか起きているのかよくわからない返事が返ってきた。
 ――本当に仕方のない奴。口ではそう言うが、豊前が松井に向ける表情は優しくて、ひどく甘かった。豊前自身はそれに気づいていなかったが。

 翌朝、松井は頭痛と喉の渇き、それと肌寒さで目を覚ました。頭痛と喉の渇きは昨日飲み過ぎたからだと思う。どれだけ酒を飲んだのかいまいち覚えていないが、かなり飲んでしまった気がする。記憶も所々飛んでおり、付き合ってくれた豊前に迷惑を掛けていなければいいのだが……
 次に松井は、肌寒いと感じたのは上半身裸だからという事に思い当たった。下着は身に着けているが、何故か寝間着を身に着けていない。肌寒いのも当然である。。
 そして気づいた。ここは自分の部屋ではないと。部屋の間取りはほぼ同じだが、置かれている物が違う。ここは豊前の使っている部屋で、松井が寝ていたのは彼のベッド。酒の勢い、一夜の過ち――スキャンダラスな言葉が松井の脳内を飛び交っていく。そんなまさか。
 その時、松井の隣で何かがごそりと動いた。肩口、背中、首にぽつんとあるほくろ。――豊前だ。松井は固唾を呑んだ。
「ん……松井? 起きたのか。体調は?」
「え、その……
 むくりと起き上がった豊前もまた、身に着けているのは下着一枚のみだった。そんなまさかの輪郭が濃くなり、現実味を帯びてくる。松井は一気に青ざめた。
「何も無かった」
 青ざめた松井を一瞥した豊前は、それだけ言うとベッドから出て洗面所に向かった。洗面台の蛇口を捻って冷水で顔を洗うと目が覚めて、思考回路がゆっくりと動きだす。思考回路が動いて最初に思い出したのは昨夜の出来事。洗面台の鏡に映る己の顔は酷い顔だった。
(何も無かった。本当に、何も)
 豊前に声を掛けられて立ち上がった松井が足を縺れさせて転びそうになり、その体を支えたところまではよかった。直後、鼻の辺りを押さえて鼻血が出そうだと申し出た松井にちり紙を差し出すのが間に合わず、ぼたぼたと指の隙間から垂れた血液で二振りとも部屋着が汚れてしまった。血液の染みを抜くのは大変だと聞いたので、急いで部屋着を脱いで洗濯機にぶち込んだ。上も下も脱いだ理由は覚えていないが、二振りとも酔っていたからだろう。
 豊前が洗濯機のスイッチを入れて乾燥まで設定してから居間に戻ると、松井はその場で完全に寝落ちしていた。床の上で寝かせるのは、体を痛めるだろうからまずい。かと言って勝手に松井の部屋に立ち入るのもどうかと思ったので、豊前は仕方なく自分の部屋に運んでベッドに寝かせた。
 一つしかないベッドを松井に譲ったので、自分は居間に戻って酒盛りの片付けをしてからソファーで寝ようとしたけれども、寝入ってしまった松井に腕を掴まれたまま放してもらえなかった。松井は寝ているはずなのに、腕を掴む力はやたらと強かった。完全に抱き込まれている。
 もう知らん。なるようになってしまえ。豊前も酔いが回って随分と眠たかったので、開き直ってそのまま狭いベッドで松井と一緒に、文字通り一緒に寝た。
 ――それだけだ。
 魔が差しそうになったけれど、あんな安心しきった寝顔を目の前で見せられたら何もできやない。でもこれぐらいなら許されるだろうと言い訳をして、目と鼻の先の寝顔を眺めているうちに自分も眠ってしまっていた。これが事の顛末で、松井の思っているような事は何も無かった。
 何も無かったけれど、何かあれば何か変わったのだろうか。松井との関係性が変わる事。それは己の望むものではない。ないけれど――。ふと湧き出たものを打ち消すように、豊前は頭を振った。
 表情を取り繕った豊前が自室に戻ると、まだベッドの中にいた松井が何か言いたげにしていた。しかし豊前は松井に何も言わせなかった。何も無かったのだからこの話は終わりだ。
 豊前の態度で察したのか、松井がそれ以上何か尋ねてくるという事は無かった。昨日は迷惑をかけてすまなかったしばらく酒は控えると、ひどく申し訳なさそうに謝罪しただけだった。
 これでいい。何も変わらなくていいし、変えてはいけないのだから。豊前の望む事はただ一つだけ、今と変わらない松井との関係が続く事だけだ。理解者として松井に慕われる、ただそれだけでよかった。
 豊前は怖かった。変えてしまった事で、君は僕の理解者でなかったと言われる事が。松井から向けられる無条件の信頼を失う事が。唯一無二の立ち位置を守り続けたい。ただそれだけだ。
 だから、松井が何か言いたそうにしているとわかっていながら無視した。言わさなければ聞く事もない。自分でもずるいと思うが、この立ち位置を手放したくないのだ。ぽっと出の見知らぬ誰かに奪われてなるものか。

 その日は一日中ぎくしゃくしていたままで、何となく声を掛けにくかった事もあり、昼食は別々だった。松井は何も食べていなかった。夕飯は一緒に食べたが、豊前が松井に今日は何が食べたいかと聞く事はなく、無言で食卓を囲んだ。言葉を交わしたのは「いただきます」と「おやすみ」の二言だけだったかもしれない。
 どこかぎこちないまま休みを終えた二振りだったが、その日の夜には元の距離に戻っていた。
 きっかけは本当に些細な事だった。休憩スペースで偶然豊会った松井が豊前の隣に来て、「そろそろあの野菜炒めが食べたい」と漏らした。ただそれだけだ。ずっと取り組んでいた案件がやっと片づいたから、今日は定時に帰る事ができると言う松井。それなら帰りにスーパーで材料を買っておいてくれと豊前は返した。
 松井よりも少し遅く帰宅した豊前が冷蔵庫を開けると、中には豚の小間切れ肉とカット野菜。あと、いつも飲んでいる銘柄よりもちょっとだけ単価の高い缶ビールが数本入っていた。
……すぐ作るから待ってろ」
 居間で雑誌を読む振りをしながら、ちらちらとこちらの様子を窺う松井。どこか不安げな表情の松井に豊前がそう告げると、ゆっくりと安堵の表情に切り替わる。それで十分だった。

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