kanaco
2025-05-16 21:17:06
29148文字
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黒猫シリーズ まとめ【完】

龍兄貴と3少と黒猫・藍鈴に愛されて日々を過ごす信一くんのおはなし。いったん完結。
1P【黒猫】黒猫と出会った信一が狭間で兄貴と再会し、三少はハラハラする
2P【黒猫ちゃんと!洛信編】黒猫を師匠と呼ぶ洛軍が、信一に贈るキス
3P【黒猫ちゃんと!十二信編】黒猫を相棒と呼ぶ十二が、信一に贈るキス
4P【黒猫ちゃんと!四信編】黒猫に絡まれがちな四仔が、信一に贈るキス
5P【風と猫とお昼寝 】黒猫とスヤスヤ眠る三少を見てホッコリする洛軍さん

【黒猫】

「しくじった」と信一は思った。

 気がついた時、彼は見知らぬ小道にいた。
 そしてこの小道に来るまでの記憶は完全に抜け落ちていた。

 信一がまず思い出せるのは龍捲風がいなくなった九龍城砦を取り仕切るために、今日も朝から忙しく活動していたこと。そして洛軍に会い自分の顔色を心配されたことだ。「疲れているんじゃないか」「無理をしすぎなんじゃないか」「働きすぎだ」「何か俺にできることはないか」と休んで欲しそうに仕切りに訴えていた。「休め」という明確な言葉までを彼が発さなかったのは、信一が言わせなかった、という方が正しい。

 実際、働き詰めではあった。

 しかしそれも当然で、確かにこれまで城砦を取り仕切るボスの補佐をしていたとは言え、主管となったとたんに自分の力量不足を感じるばかりだ。馴れない対応や知らない状況も多く勃発する。なんとか皆の日々が平穏に回るように毎日走り回り、頭もフル回転させる中で休憩や睡眠時間が減っていく。その上自律神経が乱れているのか、貴重な休み時間も寝つきが悪く、寝たら寝たで良い夢は見られない。自然と眠りは浅くなる。

 だが立ち止まることはできなかった。
 一度止まれば、なし崩しになってしまう気がした。

 自分が強い意思を見せていれば、そういう思いを汲み取りすぎる優しい洛軍は強く出れない。十二は毎日砦にいるわけではない。大兄貴と王九がいなくなったことで黒社会の均衡は崩れ、虎兄貴と十二もそちらの対応に追われている。唯一自分に真っ向から意見してくるだろう四仔のことは、意図的に会うことを避けていた。奴は気がついているだろうし、いつか大目玉を食らうかもしれない。それでも避けるくらいしか信一は思いつかなかった。もうこれ以上の考え事は勘弁して欲しかったのだ。

 疲れているとは思っている。立ちくらみの回数が多くなってきた、とも気がついていた。

 それでふと通路で立ち止まった時、頭上で「にゃぁ」という声を聞いた。

 見上げると好き勝手に積み上げた建築の都合によって出来上がった、2階以上も天上の高い、謎の吹き抜け。その高い位置の隙間に入り込んで頭をひょっこり出している、鈴がついた青い紐を首に巻く黒猫がいた。

「あの猫………


 ──龍捲風は猫と喋れる。


 九龍城砦には、そんな内輪な都市伝説があった。砦にはたくさんの猫が棲みついていて、龍捲風が大嫌いな鼠を退治するという仕事を担っている。そして龍捲風が砦の情報を不思議なほどに隅から隅まで把握しているのは、猫たちから情報を収集しているのではないか、という噂があったのだ。それほどまでに龍捲風のボスとしての完璧さが際立っていた、ということである。信一としてはその真相は何とも言えぬところだ。本当に自分の兄貴が猫の言葉を理解していたとは思わないが、彼が猫と会話すること自体はよく見かけた。信一がまだ幼かった頃に、そういう姿を見て時興味本位で「何をお話してるの?」と何度か尋ねたことがある。龍兄貴は猫とそして信一の頭を撫でながら楽しそうにはぐらかすだけだった。

 今高所にいる猫は龍兄貴とよくお喋りをしていた、その時の黒猫によく似ている。

(いや……そしたら計算合わねぇけど……

 龍兄貴と仲が良かった黒猫はまだ生きていればかなりの老猫だろう。
 上にいてにゃあにゃぁと鳴く鈴の猫はまだ若そうに見える。

「なんだ?降りれなくなったのか?」

 話しかけるとやはり「にゃぁ」とひと鳴き。
 猫がなんと返事をしたかは分からないが、困っているのは確かなのだろう。

 信一は壁を見やる。この場所は壁に剥がれがあったり木の柱がでっぱりデコボコしていて、上階までよじ登ることが可能だった。2階への階段が反対側の通路にあることもあり「面倒くさい」「ショートカット」とのたまいながら頻繁に登ってきた場所である。

(まぁ、危ねぇからヤメロってよく兄貴に怒られていたんだけど

 だから猫も上がってしまったのでは。

(猫ちゃんも九龍城砦の住人ってな。………ん?住猫か?)

 砦で困っているならは須らく救わなければ。

 信一は手慣れたように壁を登り始めた。少年時代から使用しているから、どこに足と手をかければ良いかは頭に入っている。落ちたことなど一度もない。問題は今じゃ片方の手指が2本しかないことだがそれでも器用に登っていく。

 そうして猫の場所に辿りつき、でっぱった柱を指が残っている左手で掴むと「わりぃ、右手がうまく使えないんだ。肩に飛び乗れるか?」と問うた。猫が右肩に飛び乗ってきた。足場になるように右の前腕で支えてやる。猫が体勢を整えたので、この状態からどうしようかなと思案する。不安定な状態で下に降りるより、もう上へ登り切ってしまった方が早いし安全だろう。

 そう、確認しようと一度下を見たのがいけなかった。

 最近よく出る”めまい”が突然に勃発した。右耳が詰まったように篭りつんざくような高音が脳内を走る。その耳鳴りが大きくなるのと同時に視界が真っ白に変わる。「あ、やべっ」と思った時には、左手が宙を掴んで体勢が後ろへと倒れているのを自覚した。とっさに肩の猫を腕に抱え直す。


 落ちる。


絶対に猫がつぶれないように背から落ちた体勢を変えず、庇うように両腕に抱くことだけに意識を集中させる。
 
 浮遊は一瞬。

 どこからか「兄貴!」という部下の悲鳴と、「信一!」というアイツの絶叫のような悲鳴が一緒に聞こえたような気がした。


 不思議。

 アイツってあんなに強いのに、そんな声も出せるんだな……
 
 そう思ったと同時に、意識がプツリと切れたのだった。


******************


「落ちた……

 持っている記憶はそこまでだ。そしてこの見知らぬ小道に立っていた。

 え、マジかよ。これって俺死んだってこと??
 あんなに壮絶な死闘を繰り広げても生きていたというのに、こんなことでアッサリ!?

「しかも~、お……お前もいるのかよぉ~」

 信一の目の前に、あの鈴がついた青い紐を首に巻いている黒猫がちょこんと座っている。助けようとした時には気がつかなかったが、瞳の色が綺麗なブルーだ。顔つきもシュッとした美猫だった。

 えーうそ~、俺クッションにもなれなかったの?

 あまりのショックに膝を抱えてその場に座り込む。目にジワっと涙が滲んだのを腕に押し付けてどうにか防ごうとした。パシパシと、右膝を何かが叩く。顔を上げてちょっとだけ濡れた瞳で前を向くと、黒猫が寄ってきて「どうしたんだ、元気だせ」と言わんばかりに右前足で信一の膝を小突いていた。左手を伸ばして頭を撫でてやる。そうするとウリウリと頭を手のひらに擦り付けるように、成すがままに可愛がられてくれる。

「ごめんな……

 俺って本当に、ヘタばかり打つ。

 マジでボスに向いてない………
 猫が慰めるように信一の指先をペロリと舐めて「なぁん」と鳴いた。
 信一は猫を抱き上げる。

 小道は一本道だった。

 木々と花々に囲われた自然豊かな散歩道といった景色で、柔らかな木漏れ日が葉の間から差し込んでいる。風は無いが、ポカポカとした穏やかな気候だった。足元には青々とした苔や野草が広がっており、小川のせせらぎが遠くから聞こえる。心が癒されるような道が続いている。先は見えない。他に人の気配はなかった。それどころか生き物の気配がない。

 自分と、この黒猫以外には。

 どうしたらよいか分からず、しかし座り込んでいても仕方がないので信一は正面の方向へと歩き出した。正直、自分が置かれている状況は分からない。死んだのか、そうではなくて他の異常事態が起きているだけなのか。同じような景色が続く道を信一は黙々と歩いた。猫は腕の中で大人しくしている。

 もしも自分が本当に死んだのだとしたらと信一は心を重くした。残してきた九龍城砦と仲間たちのことが気がかりすぎたからだ。立て続けに管理者を失うだなんて、自分以上の苦労を彼らに強いてしまうに違いない。

 自分がアップアップなのは分かっていたのだから、素直に洛軍の言うことを聞いていれば良かった。可哀想なあいつ、俺を止められなかったって自分を酷く責めるんだろうな。そういう真面目で優しい奴だから。十二少は怒るだろうなブち切れるに違いない。彼の精神に変に作用を残さないといいが。あいつ、強いんだけど一度タカが外れると一挙に崩れやすいからなぁ、昔から。四仔は怒るし自分を責めるだろう。正直なところ一番心配なのは彼だった。耐えているものが多すぎる男に、余計な重しをさらに押し付けてしまったかもしれない。しかもそれを放出する術を知らず抱え込んで人知れずに独りうずくまるような奴だから

 それに……

 龍兄貴に託されたのになぁ。九龍城砦の最期を、自分が代わりに見届けてやりたかった。それに生きろと言われた。そんな彼の最期の願いすら叶えてやれないなんて、なんて不出来な部下なんだ。

 悔しさと切なさと恋しさが込み上げる。
 
「帰りてぇ」

 はた、と信一は立ち止まった。良い匂いがする。甘くて瑞々しそうなフルーツの香りだ。誘われるように左を見ると横の低木に美しく鮮やかな赤い果実が実っていた。薄い皮から感じ取れる果肉は柔らかそうだし、香りからして蜜がたっぷりありそうだった。

(これって食べれるかな)

 そういえば、食欲もわかずに朝は普洱茶を一杯を飲んだだけだったことを思い出す。何かを食べたいな、と思ったのは久しぶりだった。それこそ例の事件勃発の契機となった、あの宴会以来だった。

 左手を果実に伸ばす。その瞬間、ずっと大人しく収まっていた黒猫が鈴を鳴らしながら暴れ出した。その小さな右足が強めにバンバンと信一の右頬を叩く。

(ええ~っ、猫パンチっ)

 「食うな」とでも言いたげに、信一の柔らかい頬をなお連打しながら「しゃあしゃあ」と鳴く。そして突然に腕の中でそのしなやかな体を大きく左右へと振り、信一の腕の中から逃げ出してしまった。

「あ!」

 信一が声を上げたが、気にした風もなく黒猫はシュタっとスマートに地面に降りると体を前方へ向ける。一度だけ、「にゃ」と言って頭のみ信一の方を振り返る。

 そこで待っていろ。

 美しい青い瞳がそう言っているようだった。それから猫がタッと走り出した。
置いていかれてしまった信一は唖然とする。

「なんなんだ???」

 とりあえず、果実に伸ばした手は引っ込める。変わった猫。信一の考えを読んでいるようだし、まるで何か知っているような振る舞いだ。とはいえ取り残されてしまったので、どうしようと考える。走って追いかけるか。

 ここでふと、この散歩道に来てから初めて信一は後ろを振り返った。そして目を見開いた。

「え?」

 信一の目に広がった光景、それは「闇」だった。道どころではない。暗いとかいう話ですらない。そこにはただの「黒」がある。ぽっかりと、信一の背の側には「無」だけが在った。

 前を向く。ずっと先へ続く、自然に包まれた明るい散歩道が続く。
 後ろを向く。漆黒の空間がただただ広がり続く。
 戻る道は、ない。

 ここで初めて信一は背筋をゾッとさせた。選択肢など自分にはないのだ。散歩道を進んだら自分はどこに辿りつくのだろうか。少なくともみんながいるあの砦に帰れることはないだろう。

 漆黒の闇をみつめ、ただただ唖然と立ち尽くしていた。


 その時。

 リンっと鈴の音がした。

 足元にスリっと懐いて体をこすりつける、小さな生き物。
 
 そして”誰か”が、信一の背後に立った。

(え?)

 振り返ろうとした瞬間に、それを許さぬように後ろから腕が伸びてきて、信一の目を掌が覆う。

 知っている手の感覚。
 知っている煙草の匂い。
 
「振り返ってはいけないよ、信一」
 
 知っているその声。

 信一の体は、言葉には形容しようがない、しかし洪水のように溢れ出る感情で震えた。
 信じられないと思いながらも、そうであって欲しい祈りを込めて尋ねる。

「龍兄貴?」

 後ろに立つ者が、優しく微笑んだ気配がした。


******************

「そのまま前を向いて、進みなさい」

 そう、龍捲風は言った。

「大丈夫だ。俺が出口まで連れて行ってやる」

 右手で信一の目を隠したまま、左手を信一の背中にそっと添えて前へ歩くように促す。目の前は闇だったはずだ。先ほど信一が見た時は地面すらなかった。しかし龍捲風に優しく押されて踏み出した一歩は、しっかりと地面を踏みしめた。信一の歩みに合わせて、リンリンと音をさせながら黒猫が足元を歩いている気配がする。(お前が連れて来てくれたのか、この人を)と信一は思った。

「良い子だ。さっきも言ったように、決して振り返ってはいけない」

 お前を送り届けてやれなくなるからな。

………俺が兄貴の言いつけを守らないことなんてあった?」

 失敗することはあるけど、守らないことはなかったでしょ。

「ふふ……子供の頃は、けっこう腕白だったと思うがな」
「子供の頃のことはノーカン」
「現金なヤツだなぁ、お前は。ところで、こっちに来てから何も口にはしていないな?」
「食べてないよ。食べようとしたら、猫がダメだって。ねぇ、兄貴、歩きにくくない?目隠ししなくても大丈夫だよ?俺ちゃんと目をつむってるし」
「まぁ……そうなんだろうが。……俺が世話を焼きたいんだ」
「そっか……嬉しい」
……そうか」
「うん」
「そうだな」

 思いにもよらない再会は、穏やかで朗らかなものだった。

「俺死んだの?」
「死んでいない。死なないよ」

 龍捲風の生前、信一と龍兄貴は目と目をしっかりと合わせて話すことが常だった。自分たちの瞳は己の気持ちに対して雄弁で、会話をせずともその視線だけでお互いのことが分かったものだ。今は目を合わせることはできない。それでもあの優しい目は今もありありと思い出せる。きっといつもと同じ目をしているだろう。

 黒社会では怖れられる伝説の男の、自分に向ける穏和で陽だまりのような目を。

 これがどういう状況なのかは分からないが、絶好のチャンスだと信一は龍捲風にたくさん話かけた。王九を倒して砦を取り戻したこと。「あの風はあなただったのだよね?ありがとう」と感謝をのべること。その後の九龍城砦のこと。住んでいる皆の近況。洛軍、四仔、十二少のこと。虎兄貴、そして秋兄貴のこと。全部伝えるのだ。

「みんな頑張ってる。あなたのいない、あの九龍城砦で」
「知っているよ」
……俺も頑張ってるつもりだったんだけどなぁ」
「お前はよくやっているよ。誰よりもだ。みんなもそれをよく分かっている」

 少しだけ会話が途切れた。

「だが、無理はするな」

 背にあった手が信一の後頭部へ動き優しくなでた。
 そういえば高所から落ちて頭を打ったことを思い出す。

「休むことも覚えろ。ちゃんと病院にもいけ」
「兄貴がそれを俺に言うわけ?」
 
 手を背に戻しながら龍捲風が無邪気に笑う。
 ハハハじゃないよもぅ、と信一は膨れる。

「俺、気がついてたよ。それが何かは分からなかったけど、具合が悪そうなこと」
「そうだな」
「言葉に言わなかっただけ」
「視線は痛いほど感じていたさ。お前は目でモノを言う」
「秋兄貴に、龍兄貴の死亡診断書を見せてもらったけど腫瘍だなんて」

 それで何にもしないだなんて。
 そんなのって、もう

「すまなかった、信一」

 信一はまた泣きそうになった。
 この場所に来てから、涙腺がバカになっているのかもしれない。

「俺もごめん」
「ん?」
「あなたを守れなかった。苦しい思いをさせてしまった。生きろって言われたのにこんなことになっているし、なかなか九龍城砦の復興もうまくいってない。死んじゃった兄貴にすら心配かけて、そのうえこうやって世話まで焼かれてる。それに……

 声がでなかった。

 あなたを過去から脱却させることが叶わなかった。俺はあなたに救われたのに。

「そんなことはない」

 あまりにも耐えがたい過去に呑まれて人生を無意味と捨て去っていた、そんな俺の人生に彩りを取り戻してくれたのは、間違えなくお前だ。お前との日々が俺の人生に喜びを呼び戻し、前に進ませた。お前に出会ったのは”俺の幸運”だったんだ。俺がお前に救われていたんだよ。

「お前は俺の自慢の、華やかな子だからな」

 お前はそこにいるだけで周りを巻き込んで鮮やかに人の心を動かす。
 生きて、そうして周りの人々にその彩りを分けてやれ。
 そういうお前に助けられるヤツがたくさんいるだろう。そしてお前も彼らに助けられる。

「ねぇ、哥哥」
「なんだ?信仔」
「俺との未来のこと、少しでも考えてくれてた?」

 返事は返ってこなかった。

(嘘がつけない人)

 ふふ、と信一は笑う。

「お前の未来を考えることが、俺の一番の楽しみだったよ」

 龍捲風がそう言った時、彼に目を覆われている状態であるのに、目の前が眩い白き光に包まれたことが分かった。
 闇を抜けきったのだ。

「愛する我が子、俺の大切な信仔」

 行っておいで。

 掌が外され、トン、と背中を押された。
 信一は目を開けて、後ろを振り返ることなくしっかりと足を踏み出す。
 
 チリンという音が前の方からする。
 早くこっちへおいでと言わんばかりに猫が「にゃぁ」と鳴いた。

**************

 信一の睫毛が震えたのを見て、緊張した面持ちで静かに見守っていた3人の男が一同に反応した。

 信一が高所から落ちて頭を打った。そのまま起き上がらない。慌てた部下たちから連絡を受けて四仔が血相を変えて現場へ駆けつけ、落ちるところを目撃し真っ青な顔をした洛軍がそれでも努めて冷静に信一を診療所に運び込み、九龍城砦と仲間の様子を見に来た十二が診療所の重たい空気に呑まれてから、半日が過ぎようとしていた。

 診療所のベッドに寝かされた信一がゆっくりと目を開け、しばし虚ろな目で天上を見つめる。

「信一?」

 四仔が珍しく気遣うような柔らかめの声をかけると、信一の目がキョロと動く。

「四仔」
 
 名前を呼んだ。反対側に目線を動かし、

「洛軍、十二少」

 友人たちの名前を呼ぶ。それから静かに長く息を吐き出した。

 戻ってきたのか。

 随分と意味ありげな夢を見ていた気がした。なんとも自分に都合の良い夢だ。普段は夢なんて起きてすぐに記憶が薄れていくのに、鮮明に覚えている。久しぶりに聞いた声、慣れ親しんだ煙草の香り。今もまだあの人の手を目元に感じるような気すらする。

「何があったか覚えているか?」

 信一が自分たちの名前を読んだことで少し安心したような顔をした四仔が問う。洛軍と十二少は医者の診察を邪魔しないように息を潜めているようだった。心配する視線だけは強烈に感じるが。

「ああ。猫が高いところで降りれなくなっていたから、どうにかしようと思ってよじ登って猫を抱えたところまでは良かったけど、下見たらめまいを誘発して、そのまま落下した」

 なんとも不甲斐ないことだ。

「頭いてぇし」
「盛大に打ったようだからな」
………萎える」
「無茶をしすぎだ」

 非難するような四仔の声に肩を竦めたかったが、体はまだ思うように動かなかった。
 正直なところ思考も明瞭というわけではない。

「気分は悪くないか?吐きそうとか」
「頭が痛いしボーっとはするけど、気持ち悪いとかはない」
 
 そうか、と四仔が言った。

「それに、久しぶりに兄貴に会ったから気分はむしろ良い」

 3人がギョッとしたような顔つきに変わった。信一が目を覚ましたことで柔らかくなった空気がまた重みを持つ。そんな空気に頓着しないままに、信一はポツリと呟いた。

「また……連れて行ってくれなかったな」

 四仔が手を振り上げたのを感じた。叩かれでもするのかと思ったがその衝撃はこない。頭を打っていたことを思い出して堪えたようだった。振り上げた手は拳へと握られると解かれ、そのまま信一の頬に向けられた。その頬を容赦なく抓る。

「いひゃい

 それも立派な頭部への刺激っ。俺の端正な顔が伸びる!と思いながらも、まぁ酷い言葉を言ったよな、という自覚もあり甘んじて受け入れている。

「そういうことを言うんじゃない」と四仔の極力感情を抑えた声をだした。
「お前よりあいつの方が死にそうな顔をしている」

 ですよね……と、自分の方が倒れそうなほどに青ざめている洛軍の顔を見やる。その隣にいる十二は、ただその言葉の真意を推し測ろうと鋭い視線を自分に向けていた。洛軍にそういう心配な顔をされるのは、そして十二にそういう探られる顔をされるのは全く本位ではない。それに、自分としてはそう暗い気持ちでもないのだ。なぜならば、

「でも俺も連れていって、とは言わなかったし、思わなかったなぁ」

 むしろ帰りたいと思った。お前らのいる九龍城砦へ。

 3人が今度は目を丸くした。

 彼らは例え信一が生きるか死ぬかの瀬戸際で亡き龍兄貴と会ったとしても、龍兄貴が信一を黄泉の国へと誘うとは思わなかった。あの柵の向こうで自分たちに「生きろ」と言ったのは兄貴だ。むしろ生の世界へと促してくれるのではないかと。だがしかし、もしも信一が心の底から彼の傍にいることを願ったならば、龍兄貴がそれを叶えないという保証も確信はできなかった。

 何故ならばあの人は、本当に信一に優しくて甘かったから。

 洛軍が目を潤ませて安心したような息を吐く。十二が間の抜けた顔で両肩を下げ気を緩める。四仔の表情はいつも通りだったが、その目の奥が優しくなったのが信一には分かった。全然喋らないくせに心情が分かりやすい奴らだなぁ、と心中だけでそっと笑う。

 信一の顔の横にトンと何かが現れた。リンッと首輪の鈴が鳴る。青い目と青いリボンをした黒猫だった。

「その猫、眠っているお前の傍をずっとウロウロしていたぞ。お前が助けたおかげで無事だ。ケガも一切ない」

 四仔の言葉を聞いて、ホッとしてうなずく。
 黒猫が頭をスリスリと信一の頬に擦り付けた。

「お前、ありがとうな。助かったよ」

 俺、ちゃんとお前のことを助けられたのか。それなのに俺を助けるためにあんなところまで一緒にきてくれたのか。本当に不思議な猫だ。猫が、どういたしまして。それより覚えているか、というように「にゃぁん」と鳴く。

「分かってるって。大丈夫だよ」

 猫の鼻先と信一の鼻先がコツンとぶつかって、信一がくすぐったいと笑った。

「信一……猫と喋っているのか?」

 大分と顔色が良くなった洛軍が首をかしげる。

 お前が猫を助けたのに、お前が「ありがとう」なのか?とも。
 それには答えず、猫と一緒に洛軍を見やってクスクスと笑う。

「洛軍」
「なんだ」
「ちょっとだけ体を休めようと思う。だからお前を城砦福祉委員会 副会長”代理”に任命する」
「!」
「すぐに戻るようにするけど、無理はしないようにする。俺の部下たちが基本は動くだろうから、お前はいつも通り砦の平穏に気を使ってくれていればいい。ちょっとの間だけ頼まれてくれるか?……ごめんな、ずっと心配をかけてたな」

 洛軍がすごい勢いでコクコクと頷く。嬉しそうに目をキラキラとさせている。

「十二も、そういうわけだから、ちょっと

 さすがに洛軍と四仔がいる前では黒社会の話題は避けておきたい。いくつか握っている件については十二は察しがついているだろう。

「はいはい、この十二さまにまかせとけって」

 十二がニカッと気持ち良く笑った。

「四仔」
「ん」
「動いて良くなったら検査のできる病院に行きたい。頭打ったし一応」
「やけに建設的じゃないか」
「ちょっと反省したんだ」

 四仔がフッと息を吐くように笑った。それはとても穏やかだった。

「もう少し安静にしていろ。知り合いの医者に連絡をつける」
「ありがと」

 猫が「えらいぞ」とでも言うように信一の首元にグリグリと頭をこすりつける。
 その温もりに、眠気が誘われた。色々あって、少し疲れてしまったのもある。

「わり……やっぱもうちょっと寝るわ」

 目を閉じると、あの人の手のひらを感じるような気がする。
 体温は感じなかったけど、それでも温かかったあの人の温もりを。


「「「おやすみ、信一」」」


 3人の声がした。チリンと鈴の音がして猫がすぐ横で丸くなった気がする。
 そうして信一は、久しぶりに心休まる眠りへと沈み込んで行った。