煤逃
2025-04-27 11:47:07
19598文字
Public
 

石田孫太郎の『猫』を可愛がる


はじめまして。煤逃です。本と猫が好きです(厳密に言えば動物全般が好きです)。
そしてこちらがタイトルにある石田孫太郎『猫』です。



石田孫太郎『猫』(河出文庫, 2016年)


この『猫』がどんな本かといいますと

日本近代の、記念すべき最初の本格的な猫研究書。該博な知識と愛情あふれる鋭い観察によって、初めて著された瞠目の猫大全。猫のかわいらしさが余すところなくこぼれ出る。
石田孫太郎『猫』(河出文庫, 2016年), (カバー裏表紙)

第一章 猫
第二章 猫の日常生活
第三章 猫の智情意
第四章 猫の実用
第五章 猫の美談
第六章 猫に関する重大なる伝説
第七章 猫辞典
第八章 猫の帰らぬ時の心得
第九章 猫と俳句の宗匠
絶筆 虎猫平太郎
石田孫太郎『猫』(河出文庫, 2016年), (目次から石田孫太郎が執筆した章相当の部分のみ抜き出し)


このように、猫の生活から生態、実用の側面、猫が登場する美談や伝説や俳句の紹介まで、猫のあれこれが幅広く紹介された本になっています。
数年前にたまたま手に入れたのですが、あまりの面白さにその年のベストをかっさらっていきました。
特にお気に入りの箇所をいくつか引用してみます。

しかし本書はあえて猫の科学的研究を公にするものではなく、全く猫が憎悪と嘲罵とを受けているのに同情し、彼がためにその冤を雪ぐを以て主眼としたので、一言にして尽くせば猫が極めて愛らしき家畜なることを明らかにし、政府の奨励に一助を与えんとするにほかならぬ。浅薄の誹りは再び受けるであろう、誤謬の訂正はこれを行うを躊躇しない。
石田孫太郎「自序」『猫』(河出文庫, 2016年), p.5

五、斑の波斯ペルシヤ種 この種の猫は種々なる猫の交雑によって出来るもので、青にせよ、黒にせよ、また白にせよ一色なるを崇とする波斯ペルシヤ猫の仲間においては、このぶち猫は純粋なる波斯ペルシヤ猫としての尊敬を受けぬのであるしかしながらいかなる色の配合によって出来たるぶち猫にせよ、綺麗なるは無論のことで、これには三色のぶち猫たると二色のぶち猫たるとを問わない。しかれどもこのぶち猫の綺麗なと綺麗ならざるとはぶちとなるべき毛色の配合によるので、乱雑な毛の生え方では却って醜を増すことは、ひとり波斯ペルシヤ猫においてのみしかりではない。
石田孫太郎「猫の種類」『猫』(河出文庫, 2016年), p.20-21.

要するに猫の色彩はあくまで美術的であって、見るのも厭だというようなものは一匹もいない。勢態もまた愛着を引くに適している。美わしき少女が小猫を懐けるを見よ、いかなる猫嫌いの男も振り返って見るであろう。猫を見たのではない、乙女のみを見たというのは一場の弁疏に過ぎぬ。
石田孫太郎「猫の態勢美について」『猫』(河出文庫, 2016年), p.33

二十六、猫の前に鰹節 鰹節に限らず猫の好むものを猫の前に置いて、猫に食われたからとて猫を叱る者を笑った語。猫がその前に置かれたる鰹節を食うたからとてあながち泥棒したとは言われまい、よし泥棒したのであっても、好物を畜生の前に置いた不注意は免れまい。令夫人達の嗜むべき点であろう。
石田孫太郎「猫辞典」『猫』(河出文庫, 2016年), p.154

※記事内の引用文について、旧字があった場合はすべて新字にあらため、ルビや傍点は一部を除き原則省いています。また引用中の太字はすべて筆者によるものです。


ご覧の通り、猫にメロメロだけど、どこかドライな眼差しもあるけど、やっぱりメロメロという絶妙で独特な味わいが感じられ、これがとんでもなくツボに突き刺さりました。
日本近代の、記念すべき最初の本格的な猫研究書」とのことですが、研究書という割には猫可愛さに目がくらんでいるとしか思えない記述が散見されます。


特に「猫と色の嗜好」という文章に目のくらみが顕著なので、ざっくり紹介してみましょう。

猫の好きな色について実験をしてみました。
我が家の平太郎・彦次郎・久子の前で、赤・青・白の紐を引きずってみるというものです。
結果、みんな赤の紐に飛びつきました。
紐だけでなく、首に巻くリボンや涎掛けでも三色を比較してみましたが、いずれも赤が一番喜んでいました。つまり猫は赤色が好きということです。
特に子猫は赤の紐に飛びつくのが早かったので、猫のなかでも子猫はことさら赤色が好きだと考えられますね。
猫にリボンや涎掛けをつけるとして、淡い色だと汚れが目立って困るけど、赤なら子猫も喜ぶし、人間から見ても猫がますます愛らしくて嬉しいし、子猫には赤色のリボンや涎掛けを選ぶのがいいでしょう。
※ただし偶然の結果という可能性もあります。
「猫と色の嗜好」は青空文庫で全文が読めます。

文体は読みやすくなるよう改変していますが、そして抜き出す箇所も厳選してはいますが、実験の内容と石田孫太郎の主張はおおよそこんな感じです。本当に。
猫も喜び吾々が見ても可愛らしい」なんて実験レポートに書いていいんですか、先生。
あとこんなに猫にメロメロなのに「やはり野蛮人にも及ばぬ猫のことなれば、その好むところの色は燃ゆるが如き赤色であるらしい」なんて書いちゃうところが、石田孫太郎の石田孫太郎たるところだなと感じます。

こんな文章が次々登場すれば、これで「日本近代の、記念すべき最初の本格的な猫研究書」なのか……という気持ちにもなるというものです。
その脱力感も含めて自分は『猫』が大好きなのですが。


ただ、こんなに愉快であるにもかかわらず『猫』はマイナー本の部類です。
もっとおもしろ猫本として注目を浴びてしかるべきだと思うのですが、そもそもこの本自体が品切・重版未定の状態です。
いろんな人が「面白い!!」とワクワクしているところを「そうでしょうそうでしょう」と眺めたいのですが、なかなか叶わないなあ……などと残念がっているうちに、ふと思いつきました。

過去の感想を探せばいいのでは?



石田孫太郎『猫』(河出文庫, 2016年)石田孫太郎『猫』(誠文堂新光社, 1980年)


河出文庫版で「日本近代の」と紹介されていた通り、『猫』は1910年に一番古いバージョンが出版されています。
その後、1917年に『猫のはなし』として新装版が、1980年に『猫』として別の出版社から復刻版が出て、2016年に出版された河出文庫の『猫』はいわば四代目にあたります。
1900年代の発行当時にはSNSも通販サイトのレビュー欄もありません。
でも、雑誌や新聞の書評欄で取り上げられていたり、当時の文学者の日記に登場したりしている可能性はあるのでは……

そう思ってみると、当時の読者が『猫』をどんな風に読んでいたのかは大変気になります。
おもしろエッセイ枠だったの? ちゃんと研究書として読まれてたの?
自分と同じように「石田孫太郎ってば猫愛が隠せてないね~!」なんてニヤニヤしながら読んでたの────!?


というわけで、この記事の目的は石田孫太郎『猫』が発行当時どんなふうに読まれていたのか探りつつ、いっそう『猫』を楽しもう!でお送りします。
調べるぞ~!


石田孫太郎『猫』関連簡易年表
1874年 石田孫太郎 生
1905年 「吾輩は猫である」連載開始
1910年 求光閣より『猫』が刊行
1917年 求光閣から新装版として『猫のはなし』刊行
1936年 石田孫太郎 没
1957年 内田百閒『ノラや』刊行
1980年 誠文堂新光社より『猫』復刻版が刊行
2016年 河出文庫より『猫』復刻版が刊行


見つけた文献を紹介していく前に、簡単に調査方法を説明します。
自分の調査方法を示しておくことで、今後『猫』探りをしようという仲間の二度手間を防げますからね。

今回の調査で使用したのは、主に国立国会図書館デジタルコレクションです。
これは国立国会図書館が運営するデジタルアーカイブで、ちょうど旧『猫』たちくらいの年代の図書や雑誌が本文の読める状態で収録されています。

特にありがたいのが全文検索の機能で、これがあることで石田孫太郎について言及のある文章全般が探せました。
これは一般的な図書館の蔵書検索ではできないことです。
※国立国会図書館デジタルコレクションすべての資料が全文検索の対象になっているわけではないです。


この記事で紹介する文献のうち、国立国会図書館デジタルコレクションで本文が読めるものにはリンクを添えていますが、一部は閲覧のために会員登録が必要です。
会員登録自体は自宅からもできるので、ぜひ読みたいという方は登録してみてください。

★国立国会図書館デジタルコレクション(個人向けデジタル化資料送信サービス)について★


それでは今度こそ見つかった文献を紹介していきます。
『猫』が登場する文献は思ったより多く見つかったので、そのうち特に面白かったものを厳選してご紹介します



記事の区切りのためにカメラロールからおいでいただいた猫。
くつろいでいたところを警戒モードに入らせてしまって申し訳なかったなと思うものの、
クリームパンみたいなおててと立派な尻尾がとても可愛い。鋭い眼差しも素敵。





水木京太「『不完全な家』にて」

石田孫太郎氏の「猫のはなし」は斯種の著書として最も早く愛読したものである。これは愛猫平太郎虎次郎久子藤子の日常生活を主として猫の一般に観察を及ぼしたもので、猫かいかに愛らしき家畜であるかを理解させるに務めてゐる。私はこれを猫なき下宿で読んで、書中を漫歩する諸猫の姿に見とれると共に著者の周到親切な観察に敬服し、郷里に在つて何故もつと細かに猫を味はなかつたらうと後悔した。後年駿河台の夜店にこの貴重な文献が一山積まれてゐるのをふと発見したので、蟇口の底をはたいてありだけ十七冊買つて来た。そして猫飼養宣伝の目的から無理強ひに知友の家庭へ頒布した。其効果は未だ十分に挙がらないけれども、これを読んだ者が必ずよく猫を理解するに到る事丈は信じて疑はない。
水木京太「『不完全な家』にて」『中央公論』41(1), 1926, pp.138

猫好きが『猫』を読んで悶えている様子、これが見たかったんだよ……!!と思わず天を仰ぎました。
この文章に出会えただけでも『猫』の調査をして本当によかったとほっくほくです。

猫を家畜と呼ぶところに石田孫太郎の「畜生」呼びを思い出してニヤニヤしてしまいますね……
この人も相当な猫好きであることが文章全体から伝わってくるのですが、猫は大好きで家族の一員だけど家畜で畜生というのは、この時代の猫の捉え方、あるいは「家畜・畜生」という言葉のニュアンスそのものが現在とは違っていたのかもと思います。


「『不完全な家』にて」は全体で23,000 字程度あるのですが、幼少期・下宿時代・猫嫌いの妻と結婚した後と、それぞれの時期の猫との付き合い(あるいは理想通りには付き合えない辛さ)が情感たっぷりに綴られていて、単体で読んでもとても面白い文章でした。
著作権保護期間が満了しているのをいいことにテキストデータを作成・公開しているので、ぜひぜひ全文を読んでみてください。

水木京太はこんなに猫好きなのに妻が猫嫌いのため猫が飼えず(飼わず)、その代償に猫文献を集めていたとのことで、いつか猫と一緒に暮らせていたらいいなあと祈らずにはいられません。


ちなみに、この「『不完全な家』にて」は『猫』と合わせて久保より江「私の猫のはなし」という文章で紹介されているのですが、

 水木さんは猫のゐない家を『不完全な家』と呼ばれるらしい。そのなかには古今東西の文籍からその梗概まであげてあつたが、最初の愛読書として石田孫太郎氏の『猫のはなし』を推奨し、幸ひ夜店で手に入つた十七冊の同書を、飼猫宣伝の為に友人知己に頒付なすつた事も書いてあつた。私は猫を愛することに於て、人後に落ちない積りだから、今更宣伝される必用はないが、その『猫のはなし』はよほど委しい観察がしてあるらしく、その点で是非一度見たいと思つてゐる。実はこれを書く前に、一寸拝借を願はうかと大に心が動いたのだが、知らないかたに依頼状を出すのがきまりわるくてやめた。
久保より江「私の猫のはなし」『より江句文集』(京鹿子発行所, 1928年), pp.154-155.

この葛藤がもうすごくよくわかるというか……

こんな便利な現代に暮らしていながら「わかる」というのは不遜ではあるのですが、本好きとしては他人ごとじゃない感があり、思わず呻き声をあげました。

当時は国立国会図書館デジタルコレクションはもちろん、国立国会図書館もインターネットもない時代です。
ブックオフオンラインもメルカリも日本の古本屋もありません。
「本が見つからない」の度合いが現代とは段違いだろうなと思うと本当に……手元の『猫』を貸したくてたまりませんでした。

そして「私は猫を愛することに於て、人後に落ちない積りだから、今更宣伝される必用はないが」とかなりの強火っぷりが垣間見えてニコニコしてしまいました。
みんな猫が大好きなんだな~!


また『猫』入手の苦労については鹿子木東郎も「愛猫家への入門知識」で語っているのですが、この二人が苦労した時期は『猫』の流通量そのものが少なかったのではと思われます。
この後に発行される誠文堂新光社の『猫』は現代でもまま古本を見かけるのですが、当時発行済みだった求光閣の『猫』と『猫のはなし』は全然見かけないので……

1「猫」・・戸川秋骨(石田孫太郎)著 明治四十三年の四月に、東京京橋の求光閣から発行、四六判二百六十八頁、定価四十銭。むろん今は絶版で、容易に手に這入らぬ。記者は昨春二月頃に、東京有楽橋近くの新古書店廉売市で此の書を始めて見、その時売価五十銭とあつたので、買はうかどうしようかと思案したが、マァまて、戸川氏の本だから神田にもあるだらうと、そのまま帰つて仕舞つた。農業世界で猫の特輯をやらうと思つたのは、それから一、二ケ月後のことである。同時に先づ最初に手をつけたのがこの書の探索であつた。
 併し戸川氏の「猫」は、どこにも見当らない。心当りの猫マニアと云はれる人には片つ端から当つてみたが、これを持つてゐる人は一人もなかつた。上野の帝国図書館にもないし、九段下の大橋図書館にも見当らなかつた。
鹿子木東郎「愛猫家への入門知識」『農業世界』30(15), 1935, pp.152


そんな当時に思いを馳せると同時、2025年の自分が『猫』を手に取ることができているのは、求光閣、誠文堂新光社、河出文庫と『猫』が刊行を繰り返されてきたからで、どうしてそうなったかといえば、「もっと『猫』が読まれてほしい! 読まれるべき!」と思い、動いた誰かがいたからだろうなと、非常にグッときました。



井伊義勇『猫』

 石田孫太郎著「ねこ」によれば、猫は数の観念もなく、物体の大小の観念もなく、多い少ないの観念もない、と記しているが、これは浅薄皮相な観察ではないかと思う。また実験が適切でなかったかもわからない。数の観念および、ものの大小とはいっても、その正確度が人類と同程度またはそれに近いものを有しているならば問題はなく、実験の必要もないわけである。
 石田氏によれば猫を四匹一列に並べておき、その前方に、肉片を大小とりまぜて撒き、猫がその大きな肉片に飛びつかずに近くにあった小さい肉片に飛びついたことについて、こう記しているのである。これだけの実験をもって直ちに猫の数の観念、ものの大小の観念の有無を決定するのは早計ではなかろうか。
井伊義勇『猫』(角川書店, 1958年), p.86

石田孫太郎の実験に対する批判を発見して「だよねー!」と頷いたものの、このあと「私の家の仔猫は」と続いてずっこける気持ちでした。
データ数が頼りないという意味ではその反論は石田孫太郎のそれと大差ないような気がしますが、そこのところどうお考えでしょうか井伊義勇氏。

また続きを読み進めてみると、科学的根拠云々による批判というよりも、自分の観察した猫と重なるかどうかという部分での批判では……と感じます。
「猫っていうのはさ、」というオタク語り的気配を思い浮かべてしまうというか。


足うらの黒い猫は鼠をよくとるといわれているが、これは事実のようである
 石田孫太郎著「ねこ」によると、猫の食餌をいつも十分やっておくと鼠をとらないとあるがそれはたしかである。また鼠を捕るためには、美食も妨げとなる。
 私の家で飼っていた黒猫は、全身漆黒の烏猫であったが足の裏だけ白かった。満三か年間に鼠は二匹しかとらなかった。
井伊義勇『猫』(角川書店, 1958年), pp.210-211

 やっぱり「うちの猫語り」の延長線上にあるのかもしれません。



アン・ヘリング「解説 ブリッグズ博士と『猫の民俗学』」

 日本で猫の飼い方や猫の文化史を初めて研究のテーマにしたと思われる石田孫太郎氏(一八七四年~一九三六年)も、養蚕と猫との関係に気づいて、本格的に猫の研究を進めることにしたそうである。明治四三年(一九一〇年)に発行された石田氏の代表的作品『猫』は、長いあいだ幻の名著とされていたが、昭和五五年(一九八〇年)誠文堂新光社から、復刻版として発行された。動物の文化史と文学に関心のある方が、久しぶりにこの必読書を自由に参照できるようになったことは大変よろこばしい。
アン・ヘリング「解説 ブリッグズ博士と『猫の民俗学』」『猫のフォークロア : 民俗・伝説・伝承文学の猫』(誠文堂新光社, 1983年), p.245

こちらでは『猫』は研究書として紹介されているのですが、生物学ではなく文化史という面から評価されていることにハッとしました。
確かに『猫』の生物学的見地についてはデータが怪しい感が強いように思うのですが、『猫』では猫に関する逸話や猫が登場する慣用句の取りまとめもされており、猫にまつわる文化の資料として価値があるのかもしれません。


また同書巻末には誠文堂新光社『猫』の広告があり、当時どんな本として売り出されていたかが覗けるのも嬉しいポイントでした。

 明治四三年に出版されたわが国最初の本格的な猫の本。生態、飼い方、心理、美談、伝説、ことわざ、俳句などが広範囲に書かれ、増補「虎猫平太郎」は思うままに書かれた好エッセイ。
キャサリン・M.ブリッグズ 著, アン・ヘリング 訳『猫のフォークロア : 民俗・伝説・伝承文学の猫』(誠文堂新光社, 1983年), (巻末広告)

「猫の本」というざっくりした紹介で、必ずしも研究書としては売り出されていなかったのかもと思います。
また、生態・飼い方……という列挙の仕方は、研究書だとしても「猫に興味のある人」全般が手に取れるという印象を受けました。

一緒に紹介されている本も、『絵本 猫づくし』『猫に見せたい本』『猫のぷいさんひげ日記』『猫と楽しむグルメブック』と見事に猫尽くし。

ぷいぷい。
 人間が書く日記というものを猫のわらわもやってみようと、ひげを撫でつつひねりつつ一日いちにちのことを書いてみたぷい。
八鍬真佐子『猫のぷいさんひげ日記』(誠文堂新光社, 1981), p.1

こちら『猫のぷいさんひげ日記』の冒頭なのですが、あまりにキュートでキュートで……ぷいぷい……
国立国会図書館デジタルコレクションで公開されてるから後で読もう!と思ったのですが、あまりのキュートさにくらっときてしまい、流れるように通販手続きを完了させていました。古本はまだ流通があったので……

こんなことのできる人間が久保より江に「わかる」だなんて口が裂けても言っちゃいけないですね……



大木卓『猫の民俗学 増補』

猫を居つかせる呪 その一法としては、転宅した時に猫の足を水で洗ってやると落ちつくという(石田孫太郎氏、『ねこ』一九一〇年)。これは多少実際的な証拠がありそうにも見えますが、人間の嫁入りの時、婚家へ着くと上り口でたらいに足を入れて洗う儀式をする所があるから油断はならず、人間の儀礼の応用かも知れない。
大木卓『猫の民俗学 増補』(田畑書店, 1979年), p170.

こちらの本でも参考資料として『猫』がたびたび引用されており、やっぱり研究書として頼られていたのだなぁと感じます。
また、この本の参考文献欄を見ると、なるほど確かに石田孫太郎『猫』以前に猫の生態や文化史などをまとめた日本語文献はなかったようです。
「日本近代の、記念すべき最初の本格的な猫研究書」はだてじゃないんですね。



奥野信太郎「猫」

ところが、日本ではかうした本(筆者注:猫に関する文献、特に猫に関する美術・文学・演劇・風俗などを紹介するもの)がないのみか、簡単な猫物語さへごく少ない。僕の承知してゐるかぎりでは、昔、石田孫太郎といふ人の書いた「猫」といふ二百五六十頁の本が発行されてゐるきりである。この本には猫の美談や、俗諺や、俳諧などの章があるにはあるが、大体は飼養法その他実用記事が多くて、ファン・ヴェヒテンの「家庭の虎」の興味津々たるには遠くおよばない。しかしとにかくこれが唯一の本だとすると、なかなか貴重な文献といふことにもならう。
奥野信太郎「猫」『こんにゃく横丁』(文芸春秋新社, 1953年), p19.

かと思えばこんなご意見も。猫の登場する文化的産物を興味深く味わうには、『猫』では物足りないとのこと。
逆にこんなに絶賛されている『家庭の虎』がどんな本なのか気になりますね……

なお、著者の奥野信太郎は「『不完全な家』にて」の水木京太と親交があった模様で、「猫」からは水木がおそらく生涯猫を飼えずにいたこと、水木の没後はその猫文献が慶應義塾大学の図書館に引き取られたことがわかります。
この人とこの人がつながるのか……! というわくわくや、水木京太のその後がわかるという点でも興味深い文献でした。


 猫は実に天命に逆らはない動物だ。その生活ぶりはあくまで自然に忠実であり、且つ平和を愛好する。もちろんかれらの世界には知性といふものはないが、そのかはり火炎ビンもなければ破防法もない。なまなか知恵を悪用して原爆などといふものを発明したのはそもそもなんという動物であつたつけ。
奥野信太郎「猫」『こんにゃく横丁』(文芸春秋新社, 1953年), p20.

「猫」の結びの部分からの引用です。

一読して、すごい物言いだなあと思ったのですが、出版年を見てはっとしました。
この文章が書かれたのは遅くとも1953年、終戦から10年も経っていません。破防法(破壊活動防止法)は前年1952年の施行です。
猫だって喧嘩をしたり争うことはあるだろうなどと反射的に思いはしつつ、でも当時の奥野信太郎にはこう書きたくなる思いがあり、その背後には現代の自分からは精一杯に想像することしかできない(真に理解はし得ない)様々な物事があるのだ、ということを、ぼんやりながらではありますが想像するきっかけになりました。



駒井卓「猫の毛色の遺伝」

即ち黄が伴性因子によるなら,雄ではその一つで黄色が表現され,雌では二つ重ならなければならないから,黄色の猫は雄が雌よりも遥かに多くなければならぬ。ところが黄猫に雄が多いことはDarwinやDoncasterも云つており,これらの学者は雌の三毛に対応するのが雄の黄だと考えた。日本でも明治43年発行の石田孫太郎氏著「猫」に,猫のセンサスの結果が一つ出ており,これには雌雄の比が三毛では90:4,黄では18:103となつている。
駒井卓「猫の毛色の遺伝」『遺伝の綜合研究 第1』(遺伝の綜合研究委員会, 1950年), p73.

こんなところにも『猫』が!? と一番驚いた文献がこちらです。

完全にド理系、生物学の研究論文で、「立派なところに呼んでもらって……」と驚くようなくすぐったいような気持ちになりました。
Darwinってあのダーウィン? ダーウィンと並ぶの? 石田孫太郎の『猫』が?

確かに『猫』には猫の毛の色ごとの雄雌比といった数値も掲載されているので、それを別の研究に使うこともできるのか(とはいえ信頼できるデータかというと母数が少ないしサンプルにも偏りがありそうで怪しい感があるけれども……)と思ったのですが、『猫』と見比べると駒井論文ではそもそも引用の数字が間違っており、思わずずっこけてしまいました。
三毛猫の雌雄比は86:4ですよ!




と、ここまで『猫』を読んだ人々の感想などを見てきましたが、『猫』の感想や紹介以外にも『猫』調査のなかで面白い文献が見つかったので、こぼれ話的に紹介していきます。

愉快な文献がまだまだ続くよ!



ふたたび警戒心あふれる猫の写真で一息。鋭い眼差しと、ウィスカーパッドの淡いブチ模様が素敵。



奥野信太郎「猫好きさまざま」

 さてそれから数日後、ぼくは神奈川県小田原在の一老婦人から“太郎”という猫の写真にそえて一通の手紙を受け取った。
 文面によれば、石田孫太郎氏の愛人であった婦人らしい。石田氏は明治の末年「猫」という本を著した人である。”もうわたくしも余命いくばくもありませんから、わたくしたちの愛猫であった太郎の写真をあなたに贈りたいと思います”と、その手紙は結んであった。
奥野信太郎「猫好きさまざま」『町恋いの記』(三月書房, 1967年), p.135

こんなことあるんだ……こんなことを勝手に(じゃないかもしれないけど)エッセイに書いちゃっていいんだ……と、二重に呆然とする気持ちになりました。
どこか遠いところのおとぎ話に触れたような感覚があります。

著者の奥野信太郎は、文学研究家であるとともにテレビ出演もしており、また猫を十匹ほども飼育していたとか。
手紙の送り主も、奥野信太郎が猫好きと知って太郎の写真を託したのでしょう。それが理由になるのかとも思うのですが。
でも、たとえば、自分にとって大切なものといえば本が思い浮かぶのですが、その中でも特に思い入れのある大事な本たちを、自分がいなくなったあとも大切にしてくれそうな誰かに託したいという気持ちはわかるように思います。

なお奥野信太郎は『かじけ猫』という本でも同じエピソードを紹介していて、この件は奥野信太郎にとっても印象深い出来事だったのかなと思われます。

※石田孫太郎は『嫉妬の研究』という本も書いているのですが、愛人と聞くとこの著書をなんとなく思い出してしまいます。
『嫉妬の研究』には、「変形的嫉妬心と家庭との関係」や「嫉妬は一夫一婦の母」という文章が収録されています。




大木卓『猫の民俗学 増補』

こまかく仕切られた家の中を気ままに闊歩しようとする猫殿にとっては、戸障子ふすまドアなどという類はまことにじゃまな存在でありました。フスマの合せ目に顔を向けてデンとすわり、達磨大師よろしくの辛抱強さで、人間様があけてやるまで、開けゴマとばかりに一心に端坐している猫はまだいい方で、少しコーラノハイタ奴は手前で開けたりもするが、あとを閉めてくれないから困るとは人間のぐちである。
大木卓『猫の民俗学 増補』(田畑書店, 1979年), pp.34-35.

先ほども引用した『猫の民俗学 増補』ですが、読み進めるなかでこんな記述を見つけてもうニッコニコでした。
すごーくよくわかる、わかりすぎる。
実家の猫と、猫のいるリビングの様子がはっきりと目の前に浮かびます。
そうなんだよね、自分で開けられて偉いんだけど閉めてくれないんだよね……
猫の振る舞い一つからこんなに心が通じるのかと、しみじみしつつ嬉しく思いました。


昨今も開けると化けるなどさわいでいる人はたくさんあるが、私にいわせれば猫が人手を借りずに自分で開けるなどは殊勝の至りで、図々しい手合になると、ニャンとかなんとか人を呼びつけて開けさせる殿様もござる。
大木卓『猫の民俗学 増補』(田畑書店, 1979年), p.35

こちらもよーくわかります。こういうときばっかり可愛い声で鳴く。
そういう猫様ですよ、我が家の猫も。



雑誌『農業世界』

先ほど引用した鹿子木東郎「愛猫家への入門知識」の掲載誌であり、石田孫太郎「評価の高い!! 三毛の牡猫」が掲載されているなど、石田孫太郎と浅からぬ縁のある雑誌です。
石田孫太郎が亡くなった際も、追悼記事を小さくではあるのですが掲載していました。

で、この『農業雑誌』がなにかというと、どことなく石田孫太郎に通じる愉快さを感じるんですよね……




断然儲かる養殖毛皮獣(その一)
猫も杓子も毛皮を持つ世は正に毛皮の洪水時代なのです。それがため今日では、野生のものだけでは到底需要に応じ切れなくなり又、旨くやればソロバンがとれるので、次第に毛皮獣の飼育が盛んになつてきました。その中でも狐、狸、鼬、兎等はその代表的なものですが、最近は鼬に似たフエツチとか、かはうそ、ヌートリヤ等までがこの舞台に登場して、飼育家を待つてゐます。
※画像右(下)より抜粋

猫のお手々をぬるま湯で綺麗に洗つてやつてゐるところ
お爪は爪剪り鋏で時々手入します
※画像左(上)より抜粋
『農業雑誌』30(15), 1935, (巻頭グラビア)



『農業雑誌』30(15), 1935, (巻頭グラビア)


もうクラクラしてしまいますね……
この号は「有利愛翫 犬・猫・兎・狸・猿・山羊 家禽・其の他の小動物」特集号なのですが、狸や鼬など毛皮獣として紹介された動物たちの写真はもう二ケ月もすれば皮にする事が出来ます(飼ひ方は四一頁をご覧願ひます)」など実用を重視した説明書きとともに掲載されているのに対し、猫については飼育法が説明されてはいるものの、猫そのものの実用性からは外れた内容のように感じられます。
特に「猫のお面相」の見開きは猫可愛さのために作ったとしか思えず……


当時の猫はペストを媒介する鼠を捕ってくれる役畜という側面があり、『猫』もそうした猫への注目をきっかけに書かれた面があるそうです。
また石田孫太郎は天気予報にも猫が役立つと主張していたり、『農業雑誌』における猫も単なる愛玩動物ではなかったのかもしれません。

ただそれはそれとして、猫にメロメロな文章や写真だなあとは思うのですが。
特に「猫のお手々をぬるま湯で綺麗に洗つてやつてゐるところ」や「お爪」なんて、愛猫家にしてもちょっと可愛すぎる言い回しじゃあないでしょうか。


あまりに愉快な部分が多いので、「ひょっとして記名記事以外にも石田孫太郎が書いてたりしない……?」と疑ったのですが、同誌31巻12号(猫の特集号)の編集後記を見ると「尚猫の執筆者に就いて簡単に紹介すると石田孫太郎氏は昨年の本誌十一月増刊で紹介した「猫」の著者(戸川秋骨とせしは誤り)以上何れも愛猫家中の識見者。」とあるので、編集部員として無記名記事を担当していた可能性は低いかなと思われます。
つまり猫愛あふれる愉快な書き手が石田孫太郎の他にもいたということで大変嬉しいですね! 


なお雑誌内には『猫』関連以外にも思わず手が止まってしまう記事がいろいろ見つかり、

方喰亀次郎「儲かる鼬の飼ひ方ABC」       1935年 30巻15号
川村清一「最も美味なる食用菌『しめぢ』の話」  1936年 31巻12号
渡邊一郎「だから養豚は止められぬ」       同
吉田秀臣「最近私が非常に感激した話」      1936年 31巻11号

などなど、目次を眺めているだけでもかなり楽しかったです。




記事の区切りのためにカメラロールからおでましいただいた鳩たち。
猫に限らず動物全般が好きですが、町中でなんとなく会える動物という点では鳩もかなり好きです。




さて、今回見つけた文献のうち特に面白かったものの紹介は以上です。

『猫』が猫研究書の先駆けとして重宝されたり、猫好きに楽しく読まれたりしていたことがわかって大変満足でした。
また『猫』と同じ時代の空気を感じられるおもしろ猫文献がたくさん見つかったのも大収穫でした。


今回の調査の中心となった『猫』は入手困難な状態ですが、国立国会図書館デジタルコレクションで求光閣版の全文が読めますので、気になった方はぜひ。
また次のページには、『猫』の一部を収録している猫アンソロジーなどを紹介しています。

ただ、ただ、できたら品切・重版未定になっている河出文庫の『猫』が重版されますように。
あわよくばこの記事がバズって、それをきっかけに河出文庫版が重版されないかなと思っています。

あるいは、他の出版社から新しい『猫』が登場しても嬉しいです。
編集者の皆さん、石田孫太郎は著作権保護期間が満了してますよ!!
『猫』未収録の石田孫太郎の猫文章もいくつかありますし、水木京太も同じく著作権保護期間満了済みなので、「『不完全な家』にて」も合わせていかがですか!
石田孫太郎「小猫を迎ふ」(『猫』未収録の文章)と水木京太「『不完全な家』にて」はテキストデータの公開もあります!
※どちらもとても面白いのに国立国会図書館デジタルコレクションではログインしないと読めないので、著作権保護期間が満了しているのをいいことに自前でテキストデータを作って公開しています。
どちらもとても面白い文章なので、編集者ではない方もぜひ読んでいってください。



それでは、今度こそこの記事は終了です。
ここまでお読みくださり本当にありがとうございました。

参考文献リストとして、次のページに『猫』関連文献一覧を掲載しています。
本文で紹介できなかったものを含めなるべく網羅しつつ、一言コメントを添えたりもしているので、もう少し『猫』と触れ合いたいという方は覗いてみてください。
こちらも国立国会図書館デジタルコレクションで読めるものなどリンクを設定しています。