かなざわ
2025-04-20 22:55:29
11822文字
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たとえば頁をめくる速度で

よだつか。海外在住の夜鷹の元へ司が慎一郎から預かった手紙を届けに行っている数年後if。ゆっくり距離が縮まっていく話。


五頁目

※伝書鳩はスケートリンクの夢を見るか頁裏直後

「うう、目が腫れぼったい……
「だろうね」
 あれだけ泣けば、と付け加えたのは心の内でだけだ。
 涙が止まった司は落ち着いたようで、唸りながら目元を押さえている。
「冷やさなきゃ……顔洗ってきます」
 些かふらつきながら立ち上がった司は、荷物からタオルを掴むと洗面所へ消えていく。笑うも泣くも全開なんだな、と半ば感心しながらその背を見送った。
 ああいうのを滂沱というのだろう。あまりに盛大に泣くものだから、途中で目が溶けてしまうのではないかと危惧してしまったほどだ。
 純の涙腺はずいぶん前に枯れて久しいから、あれだけの勢いで泣いているのを見るのはいっそ爽快感すら覚えた。
 何もかもが違うから、興味を抱き、時に苛立ち、知りたいと思うのかもしれない。
 なんとなく、自身の手のひらに視線を落とした。つい先ほどまで司に触れていたそこに、まだ熱が残っているような気がした。発熱していると言って差し支えないほどに高い体温。
 溶ける、と。そう思ったのは、司の目だけの話ではなかった。触れている場所から、純の手も一緒に溶けてしまうのではないかと感じたのだ。
 ありえない。
 胸中で否定しながら立ち上がる。熱いものに触れた反動からか、喉が渇いていた。
 冷蔵庫から水のボトルを出していると、司がキッチンに顔を出した。
「レンジ使いますね」
「うん」
 何か飲むのだろうか、と考えながらボトルの蓋を開けていると。司が手に持っていたタオルをレンジの中にぽんと放り込んだ。
 純の常識では、タオルはレンジで温めるものではない。驚きに動きを止めるが、何と声をかければいいのか分からなかった。
 純の様子に気づかない司は、慣れた手付きでタイマーをセットした。ブウン、と低い音を立てて、レンジの中にオレンジ色の光が灯る。
……それ、何してるの」
「え?」
 ようやく絞り出した声に、司が純へと顔を向ける。腫れた目元は痛々しいが、彼自身はすっかりいつもの調子を取り戻しているらしかった。
 かけられた言葉にきょとんとして、純の目線がレンジに注がれていることに気づいたようだった。
「ああこれ、蒸しタオルを作ってるんです」
「蒸しタオル?」
「泣いた後の目の腫れって、冷やすのと温めるのを交互にするのがいいんですよ。濡らしたタオルを温めて、蒸しタオルにするんです」
「へえ……
 知らなかった。
 純の内心での呟きを悟ったのではないだろうが、司がふっと苦笑いを浮かべた。
「ご存じだと思いますけど、俺の涙腺緩いので。必要に迫られて身に付いた知識です」
「そう」
 司が教え子に関する諸々で一喜一憂しているのは知っている。
 笑うのも泣くのも、喜ぶのも悔しがるのも、どれに対しても全力なのだろう。自分のことで自分以上の感情の振れ幅を見せる人間がすぐ近くにいるというのは、どんな気分なのだろうか。
 押し付けるのでも強制するのでもなく、ただただ心を明け渡してくる相手がすぐ隣にいて、自分を信じ支え続けてくれるというのは。
 現役時代のどこかで、そんな相手に出会えていたなら、僕は。
「ひっ?! な、なん、なに、え、なんですか……?」
 肩を跳ねさせた司が、心底から驚いたと言わんばかりの表情をしている。
 純よりやや高い位置にあるその顔を眺めて一拍置いてから、持っていたボトルを司の首筋に押し付けていることに気がついた。
 なんで僕は、こんなことしているんだっけ。
 無意識に体が動いていた。それに少なからず動揺しかけたが、すぐに思考を切り換えた。リカバリーの為の切り換えは選手時代には必須要素だったから、思考のコントロールは難しくはない。
「冷やすんでしょ」
「ありがとうございます……いや普通に渡してくださいよ、驚いた……
「ついでに水分摂ったら」
 言外に込められたあれだけ泣いてたんだし、という意味を汲み取った司が、ひくりと口許を引き攣らせた。
 すぐに感情が表情に乗るところも、司は純とは真逆だった。あんなに動かしていて、表情筋は疲れないのだろうか。
 疑問に思いはするがいちいち問い質すことでもない。司がボトルを受け取ったのを確認して、純は再度冷蔵庫の扉を開けた。
「いただきます」
 背後で、司が律儀に挨拶をしてくる。
 純は水のボトルを再度手に取りながら、僅かに首を傾げた。
 冷蔵庫の中に入っていたボトルはちゃんと冷えていて。それを手にした純の手も、相応に冷たくなった、そのはずだった。
 けれど司に触れた手のひらに、まだ熱が残っているような気がした。
 そんなこと、あるはずがないのに。
 思考の乱れを振り切るために水を口に運んだ。冷えたそれが喉を通り、胃の腑に落ちていく。
 冷たいものは嫌いじゃなかった。リンクの空気を思わせるそれに触れると、思考が冴え渡り必要なものがクリアに見えてくるから。
 静かに水を傾けながら、いつも通りであることを確認する。何も変わっていない、何も。
 胸中に広がっていた波紋にも漣にも似た何かが、ゆっくりと収まっていく。
「あ、できた」
 次の瞬間、レンジが響かせた電子音と呑気な独り言が、鼓膜を揺らした。ボトルを持っている純の指が、ぴくりと震える。
 変わらないはずの純の日常に入り込んでいる、いわば異物のような存在。異分子で、理解できなくて、予想外の相手。
 純のペースを乱す相手なら、いつもなら不快になって追い出しているか、視界にも入れていないだろうに。
 無視できないのは、何故なのか。
 考え込んでいるうちに、ボトルを握っていた指に無意識に力を込めていたらしい。
 気づいた時にはグシャ、と音がして、ぼたぼたと水が床に落ちていた。
「わっ?! 何してるんですか!」
 レンジを開けていた司が純の元へやって来る。ひしゃげたボトルが手の中から取り上げられ、代わりに乾いたタオルが濡れた指を包んだ。手指に滴る雫を、タオルが丁寧に拭き取っていく。
「服は濡れてないみたいですね、ってどうかしたんですか?」
「別に」
「そうですか……あ、もしかして眠たいです?」
 司の問いに、咄嗟に浮かんだのは分からない、という言葉だった。
 水を飲んだばかりなのに、喉が渇いているような心地がする。
 息も切れていないし、心拍数だって平常時とそう変わらないはずだというのに。
「俺はもう少し起きてるんで、床拭いておきますよ。寝ちゃってください」
 赤い目で、腫れた瞼で、司はいつも通りに笑う。
 返事をしない純をどう思ったのか、無理矢理背を押されてキッチンから出されてしまった。司の手がぐいぐいと、強引に背を押してくる。
「おやすみなさい。よ……純さん」
 夜鷹さん、と呼びかけたのを言い直した声が、その声音だけで分かるほどに盛大に照れていた。
 名前を呼ぶだけで、何をそんなに。
 振り向いて顔を見ようとしたが、純の動きを察したらしく背中に置かれている司の手の力が強くなる。
……おやすみ、司」
 ここまでされれば、今は顔を見られたくないのだろうと察することが出来た。
 純の挨拶に安堵したらしい司の手が、ぽんと背中を軽く叩く。それは気安い仕草だったが、悪い気分にはならなかった。
 もういい、今夜は寝てしまおう。
 言われてみれば眠たいような気もするし。
 欠伸をしながら、純は寝室へ足を向けた。