nuka_boshi
2025-04-09 22:50:13
32255文字
Public 利吉さんで賽殺しパロ
 

【RKRN】転生したら母親が伝子さんだった利吉さん その6【シリアス死ネタ】

ようやくこの物語も大トロです。今回も利吉さんが曇ります(ネタバレ)。
大丈夫だと思いますが一応®️15Gくらいのつもりで読んだ方がいいかもです。
前回の最後のページでようやく主人公らしいメンタルを手に入れてくれた利吉さん。……物語の折り返し地点はとっくに過ぎてるんですが主人公ログインするの遅過ぎませんかねぇ……??(頭抱え)
主人公らしからぬ、ぐだぐだジメジメ悩んでばっかで大変な主人公ですが、ちゃんと彼には幸せになってほしいと思ってます。お魚、嘘つかない。

余談ですが前回の瞬間最大風速滝夜叉丸、直前の嘘エミュとの温度差が酷いなって読み返して初めて気づきました。いやだってウソついてるときの滝夜叉丸ってお魚の中ではどこに出しても恥ずかしい立派なカス野郎なので……(目逸らし
でもそんな滝夜叉丸が弱いとこ隠そうとあくせくしてるのが好きです。いつか彼を主人公にした話書きたい。多分利吉さんよりはメンタル強いので手加減殆ど無しで書ける気がするので。



 夜。すっかりとばりが降りた空が、そんな予兆も無かったのにいつの間にか雨を降らせていた。夕食の際に流れていた気象予報の言葉通りぱらりぱらりと降り出した雨が、まるで予定調和の物語を読み上げたように感じて酷く不気味だった。
 ――どうせ降るならば、いっそのこと土砂降りになってくれれば良いのに。そうすれば――今から行う選択への罪悪感を、少しでも雨と共に洗い流してもらえるかもしれない、……などと。私は窓の外を眺めながらそう思った。
 ……今の私には、理不尽な運命への怒りも、殺人への躊躇も何もない。脳に残る不要な情報を全て排除し、全神経と肉体、精神を研ぎ澄ませ――嘗ての世界でそう在ったように、プロの忍者として、ただ冷徹に。私は深く吸い込み、あらゆる感情を捩じ伏せて覚悟を決める。
 もしこれが、名も知らぬ運命の神が仕組んだ遊戯の類だとしたら。私の選択を、遊戯と称して見守る悪趣味な神が何処かに居ると仮定するならば。
 ――――この遊戯に、決着は必要不可欠だ。そうでなければ、終わらない。
 ……有耶無耶にする訳にはいかない。元の日常に帰る為に。そうでなくとも、胸を張って生きていく為に。
 ――――だから。
 汗で滑る包丁のを、私は固く握り直す。己の意志を、決意を、――――確かめ直すように、固く。
 この包丁は夕食後に伝子の目を盗んで台所から拝借したものだ。この数日、共に食事を作った事で、凶器となり得る刃物がどこにあるかは概ね把握できていた。――出来る事ならば、彼女の愛情を踏みにじるであろうこの凶器だけは選びたくなかったが、この平和な世界では使える凶器も限られている。より確実に、苦しませずに事を為すには、――痛む心を捨てなければならなかった。
 泣いたりはしない。幸せを自らの手で勝ち取るまで、元の世界へ帰るまで、誰が泣くものか。私はもう泣かない、絶対に。
 ――そうさ、そうとも。かつてこの世界について調べた時、滝夜叉丸に教わったあの本にも書かれていたではないか。どのような呪いも、命の対価でしかみそげない罪も、拒む力も、絶望も。永劫に続くものはあり得ない。時間で朽ち果てないものは存在しない。例えそれが神により閉ざされたものであったとしても、八という数字と、確固たる意志の力がそこにあるならば、「奇跡」という鍵となって打ち破られると。したたる水滴が岩をも穿うがつように、時が癒せぬものなどないのだ。だから、気に病む必要など無い。だから、胸が引き裂かれるような心の痛みも、躊躇いも。全てこの世界へ置いていくのだ。――何も遺せない私が彼女に贈る、せめてもの手向けの花の代わりとして。
 ――さあ。
 この悪夢のような遊戯盤を、終わらせる時だ。
 終わりにするのだ。全て、終わらせるのだ。――そう、ひぐらしのなく頃には、新たな未来を歩めるように。
 私は自らに言い聞かせ、そっと一歩を踏み出す。きっと今日というこの日は、私にとって一生で一番長い日となるだろう。けれど、もう迷うものか。――私はあの人を――――、山田伝子を、……殺す。
 躊躇する最後の感情を消して、私は一歩を踏み出した。……後戻りを許さない、罪にまみれたその一歩を。
 足音を立てぬように廊下を歩く。静かに、けれど確実に。
 伝子が眠る部屋の扉を、音を立てぬようにそっと開ける。――鍵などない。当たり前だ、家というのは安心できる場所であり、そこに住まう者に殺意などあろうはずも無い。彼女にとって、私は『山田利吉』。少々おかしな事を口走り、誰かを殺す殺さないなどと言い出していたとはいえ、愛する息子でしかないのだ。それに、彼女は昨日の話し合いで概ね問題は解決したものと思っているに違いない。和解し、これからについてじっくり話し合えると信じて疑わない彼女が、『山田利吉』を拒む鍵を掛けるはずもなかった。
 だから私は驚くほどあっさりと、彼女の部屋に侵入する。静かに寝息を立てる伝子はぐっすりと眠っていて、その顔は穏やかだ。
 ――せめて、苦しむ事が無いように。せめて、彼女に哀しいものを見せずに済むように。――――――一撃で、彼女が眠っている間に全てを終わらせなければならない。
 私は包丁を構える。……瞬間、私は突然奇妙な錯覚に襲われる。まるでこの女子供でも当たり前に使えるであろう包丁が、突然無骨な大鋸おがか何かにすり替わったかのように、ずしりと重く感じたのだ。――躊躇がまだ残っていたのだろうか? 私は汗ばむ手で無理矢理に包丁を振り上げる。
 ――後になって考えれば、包丁を無理に振り上げる必要など何処にも無かった。ただ最低限の動作で仕事を成せば良いだけのことだと、誰の目にも明白だった。しかし私は、肌にじっとりとまとわりつく躊躇と罪悪感をどうにかして振り払いたくて、する必要もない愚かな行為に手を染めた。
 奇妙な錯覚は、そのまま私の認識を阻害し続ける。振り上げたその瞬間、包丁の柄が熱を帯び、ぐにゃりとしたにかわになったかのように感じた。錯覚が生み出した刹那とも言える時間。けれど、それは私にとって致命的だった。ただのにかわになってくれたならそれで良かったものの、意地の悪いことにそいつは掌の中でビヨンと弾け、私の指先を潜り抜けて逃げ出そうとする。
――――――ッ!」
 宙に飛び出そうとした包丁を咄嗟に掴みとらえる。殆ど反射的に、本能に従っての行動だった。指先を尚も滑らそうとする汗は、熱い熱と粘度で皮膚にこびりついていて、そんな事は無いはずなのに、まるで返り血のような錯覚さえ覚えた。
 だから。私はそれらの錯覚に囚われ、包丁を取り落とすまいと神経を集中させ――、そして本当に初歩的な、元プロ忍としては馬鹿馬鹿しいとしか言いようのない愚かな失態を犯した。
 ――ガタッ。
 おろそかになった足元がグラつき、伝子の部屋の箪笥たんすに触れて音を立てる。それは小さな音だったが、静寂を破るには、何より伝子の意識を取り戻させるには充分すぎる大きさだった。
 心臓が食い破られそうなほどに大きな音を立てて暴れだし、全身の皮膚が裏返りそうなほどに汗が吹き出る。突然身体中の血液が氷水と入れ替わったかのような気色の悪さに襲われながら、私は心のどこか冷静な部分が、何をしているんだお前はと自分自身を叱咤しったしているのを聞いていた。
 ――ああもう、くそくそくそ、くそったれッ! 何をもたついているんだ! 躊躇などしないと、もう迷わないと、あれほど誓っただろうが!
 それとも何か? 元の世界へ帰るというのは、ありふれたあの日常へ帰るというのは、嘘なのか? また、何もかもを嘘にして投げ出すつもりなのか? お前はそれで幸せになれると、本気で思っているのか?! ――そんなわけがないだろうッ!?
「んぅ………――――利吉?」
 身じろぎ、ゆっくり身を起こそうとした伝子は、寝ぼけ眼のまま私の姿をとら――、その手に包丁が握られている事に気付き、ハッと息を呑む。
 ――――――見られた。見られて、しまった。
 その事実に気付いた瞬間、急にそれまで行方を眩ませていた冷静さが私の元に舞い戻って来るのを感じる。目撃された以上、言い訳は出来ない。後戻りも、もう出来ない。そもそもこの機を逃せば、やり直す機会は永遠に訪れないのだ。――ならば、私の取るべき手段はただひとつ!
 もう音を立てぬよう慎重になる必要もない。力強く踏み込み、ただ命を刈り取る為だけの刺突を繰り出す。微かな雨音に混じって、包丁が宵闇よいやみを斬り裂くヒュッ、という音と、伝子の短い悲鳴が耳に届いた。
 ――外した、という事実に脳内で舌打ちをする。急所を狙ったその攻撃は、咄嗟とっさに身体をよじって飛び起きた伝子によって躱されてしまった。
 ――――落ち着け、冷静になれ、山田利吉。お前にはプロの忍者として培った数多の経験と、必ず帰るという誓いがある筈だろう? 滝夜叉丸が、星を自称する彼が見ている事を、知っているだろう?
 星がどんな物かなど、幼子おさなごにだって答えられる。――雨雲どころか深い絶望に覆い隠されようと、その上に輝くもの。それが星だ。
 例え直接見ていなくとも、例え彼がこの場に居なくとも。彼が一度見届けると口にした以上、私の選択の全ては彼に見られていると思え。――お前は、あれほど気高いこころざしを見せられて、それでも尚みっともなく逃げるつもりか? ――――否。胸を張り、誇りを持って生きようとするならば、幸せになりたいと願うなら。もう一度やり直すと決めたのなら。ここで無様ブザマを晒している場合バヤイでは無いだろうッ!?
 求められているのは、ただ心の臓に刃を突き刺すというだけの至極単純な行為。しかも相手は戦いの心得などまるで無い、平和ボケした一般人だ。出来て当たり前、出来なくてどうする? ――たったひと突きだけのその行為に、呼吸を合わせられない筈が無いだろう? 何故息を荒げて、手を震わせる必要がある? 落ち着け落ち着け落ち着け、落ち着けぇ……ッ!!
「利吉っ、どうして――っ!?」
「うるさいッッッ!!」
 伝子の悲痛な声に、荒ぶる呼吸と鼓動に、降りしきる雨の音に、私は怒鳴り散らしていた。耳に届くありとあらゆる音が、酷くわずらわしかった。
「私は……、帰るんだ……っ!」
 元の世界へ。私を待っているであろう人達の元へ。帰る。――帰る、帰る!
 どうして、だなんて今更理由が必要か? 私が私である為に、幸せを掴む為に。与えられた僅かなチャンスの中で、最大限の努力をして何が悪い? 清貧せいひんであれば例え不幸であっても価値がある、とでも言うつもりか? ――そんな物、恵まれた人間の綺麗事だ。御立派な綺麗事如きで、誰が私の努力を阻めるものかっ!
「利吉! やめなさいっ!」
 伝子の悲痛な叫び声は、寧ろ却って私の覚悟をより強くさせた。――やめるものか。これしか道は無い、これが私にとって最善の未来なのだ。己が一度は捨てた人々の手をまた取りたいと願うのは、確かに傲慢ごうまんで浅ましいことだ。世界中の全ての人々に後ろ指を差されるに違いない。――けれど、それが何だというのだ? 優しい世界を振り払ってでも、絶望の闇を灯りも無しに歩く事になると知っていても、決して平坦ではない道のりだと分かっていても――――
「それでも私はッ!」
 僅かに裏返る叫び声と共に、二撃目を鋭く繰り返す。伝子は咄嗟にその身を庇おうとしたのか、亀のように身体を縮こまらせた。その挙動に僅かな躊躇いが滲んだのか、それとも悪趣味な神の悪戯か。繰り出された刺突は、彼女の右腕を掠めるようにえぐっただけだった。
「っうぅ……ッ!」
 恐らく生まれて初めて晒されたであろう、殺されるという悪意。今まさに殺されると、殺されようとしているという事実に痛みと共に晒された伝子が、苦痛に顔を歪める。いつの間にか、外は雷が鳴っていたらしい。室内がカッと一瞬だけ照らされ、彼女の恐怖を受けて宙を踊る赤い鮮血が、稲光いなびかりを受けて僅かな線を描く。まるで羽衣のように空を舞ったその血液が、私の腕や頬に跳ねた。一瞬の光はすぐに消え失せ、辺りには私たちを包み込むかのような闇が訪れる。生暖かい飛沫しぶきも、赤い色も、何もかもを覆い隠す、くらい闇。
 私は唇を噛み締めた。――返り血などこれまで数えきれないほど浴びてきた。人を殺す事だって、何も初めてじゃない。なのに――何故、何故こんなにも、おぞましく感じるのだ。飛沫しぶきを浴びた腕や頬を、何故こんなにも黒く赤く禍々まがまがしいもののように感じるのだ。今さら怖気おじけ付くのか? ――しっかりしろよ、山田利吉。お前の覚悟はそんな物か? そうでないならさっさと立て!
 すっかり荒くなった呼吸音を隠すように、雷鳴と雨音が激しくなる。――今更になって、私の望んだ土砂降りに見舞われているらしい。暗闇の中、伝子が僅かに動いた気配を感じ、私は足に踏み込む力を入れた。
 ――邪魔はさせない。そうさ、例え百を超える言の葉だって、今の私の意志を崩せやしない。私は必ず幸せになるんだ。室町の世に帰って、父と母に、土井半助に、そして我が子に会いに行くんだ!
 だから。
 私が振り絞ったその覚悟は、私を邪魔するべく立ち塞がる全てを排除する為の覚悟だったから。彼女が恐怖に怯えようが理不尽に怒ろうが、全て排除するつもりでいたから。
 ――――だから、次に稲光いなびかりが部屋を照らしたその瞬間、私の身体は縫い付けられたかのように止まってしまう。
 照らし出された光景が、あまりにも予想外だったから。場違いだったから。
 彼女はまるで抱きしめる相手を探すかのように震える腕を伸ばしていた。痛みと恐怖で歪みそうになるのを必死に堪えて、こちらを安心させようと微笑んで。
 その笑みは、百を越える言葉よりも雄弁だった。――私と共に生きる明日を、未来を信じて疑わない微笑み。親として、子を安心させようとする優しい笑み。
…………ぅぁ……
 情け無い声が漏れたのとほぼ同時に、突然視界が歪む。流すまいと思っていた筈の涙が込み上げてきたのだと気付いた瞬間、込み上げてきたのは理不尽な程の怒りの炎だった。
 どうして……どうして私などの為にそこまで母であろうとするんだ! 私は貴女の息子では無いのに! 貴女の息子の本当の『山田利吉』は、もうこの世界のどこにも居ないのに!! もっと理不尽に怒って良いのに! こんな目に遭って、辛いと泣き叫んで当然なのに! ――なのに何故……ッ!
 脳髄のうずいさえをも焼き焦がす激情の焔は、私の思考を白く染め上げ動けなくさせた。それに抗おうと、包丁を持つ私の手が大きく震える。荒れ狂い暴れる感情は、今や私の全身をむしばんでいた。
 ――――そうだ。この人は、私の母ではない。私の本当の両親は、遠い室町の世で今も私の帰りを待っている筈だ。こんなどうしようもなくなった、何も見えていなかった愚かな息子を。だから私は、山田利吉は彼らの元に帰らなければならない。なんとしてでも帰って、父に、母に、皆に謝らなければならない。そうでなければ山田利吉はどこにも進めないのだ。
 私が私である為に、目の前のこの女性をなんとしてでも殺さなければ。そうでなければ、この悪夢は終わらないのだ。
 ――だから。私がこんなにも震えているのは、目の前の彼女が見当違いな行為をしている事への怒りであって、哀しみや躊躇いなどではない。そうに違いない。――いや、そうでなければならないんだ。こんな……っ、こんな感情は間違いなんだ。違うったら違う! 私は絆されたりなどしない。為すべき事をするだけなんだ! だからやめろ、やめてくれ!! 貴女が優しさを向けるべき相手は、もっと他に居るだろうッ!? 貴女の本当の息子が居なくとも、乱太郎も、しんべヱも、他にも受け持っている教え子が沢山居るはずだろう!? 私に構っている場合かッ?! 貴女は――、貴女が命を捧げるべき相手はもっと他に居るじゃないか!!
 歯を食いしばり、固く目をつむって無理矢理に涙を振り切る。決意を固める為に。殺意を研ぎ澄ます為に。
 ――だというのに。何故この人はこれほどの眼差しを向けるのだ。今まさにただ息子と同じ顔をしただけの愚かな他人に殺されかかって、何故それで尚そのようないたわりの表情を見せるのだ。
 言いたい事が山ほどあるだろうに、命の危険が迫る今この瞬間に何も言わずただ腕を広げるだなんてどうかしてる。まるで、言葉などなくとも未来が得られると、寧ろ未来を掴む為には言葉など邪魔になるだけだとでも思っているようではないか。何たる愚かしさ。なんて滑稽な。――――――なのに何故、私はこうも心を揺さぶられてしまうのだろう。
…………利吉」
 伝子はこちらを怯えさせないよう、つとめて優しい声を出す。その声が微かに震えているというのに、この腕を振り抜くだけで凶器が届く程に死が間近に迫っているのに、そこに恐怖を感じていない筈も無いのに。――――なのに、何故。
……私はッ! 私は貴女の息子などではないッッ!!」
 ――だからどうか、その目をやめてくれ。
 それだけを願って必死に泣き叫んだ。貴女がその優しさを向けるべきは本来の『山田利吉』であって、私ではない。私には、その優しさを受け取る資格などないのだ。――――だから。だからもう、やめてくれ。どうか、どうか。
……利吉。大丈夫よ。貴方が記憶を失っても、いいえ、例え本当に別人だとしても。私が絶対に味方になるわ。――だから、信じて」
 私の頬を伝った涙のひとしずくが、山田伝子の腕に落ちた。よく見知った、けれど知らない女性。私とは全くの他人でありながら、父である伝蔵とは姿以外何も似ていないクセに、それでも母であろうとする女性。
 ――――嗚呼、この人はまさしく母親だ。私はどうしようもなく愚かな赤の他人でしかないのに、この人はどうしようもなく山田利吉わたしの母なのだ。
………………
 思わず声が漏れる。彼女は傷付いた右腕を押さえる事も、私の凶行から身を庇うことすら放棄して、未だ両の腕を広げていた。強張った笑みを、泣くものかと無理に形作って。ただただ、私を信じて。
 ――――――無理だ。
 一度気付いてしまえば、直視してしまえば、もう無理だった。
 どうせ裂かれるなら、いっそこの身を裂いてくれた方が遥かにマシだった。優しく、それでいて乱暴に引き裂かれた心が痛みに悲鳴をあげ狂い出す。あまりにも大きなうねりとなって暴れる様々な感情に、最早抗うすべは無かった。
――――私には……っ、出来ない…………ッッ!!」
 出来っこない。出来るわけがない。この腕を無視して、この残酷な凶器を突き立てるなど、不可能だ。眼から耐える事なく溢れ出す熱い雫と共に、私の――山田利吉の手から僅かに血をまとった包丁が滑り落ちる。カランと甲高い音を立てて地を這った包丁を無視し、山田伝子は私を優しく抱きしめた。
……利吉」
 伝子はただ、穏やかに私の名を呼んだ。それだけで充分だと、たったそれだけで何もかもが伝わると信じて。私が立ち止まると信じて。
 目から熱いものが流れ落ちる。止めどない涙が、まるで罪をみそごうとするかのように流れ出す。
 ――嗚呼、私は父に、山田伝蔵にこんな風に甘えた事があったろうか。こんな風に弱みを赤裸々せきららに見せた事があったろうか。みっともない姿を見せて、涙を見せて、それでも大丈夫だと思えただろうか。――目の前の彼女が私にずっとそうしてきたように、きっと父も私の『親』で居てくれた筈なのに。私はどれだけそれに気付けていただろう。
 そう思い至り、私は固く目を閉じた。
 ――今すぐ父に会いたかった。会って謝りたかった。きっともう二度と会えない父に、ちゃんと息子として向き合いたかった。もっと、あの人の『息子』をすればよかった。
 例え忍者でなくてなっても、たとえ嘗てのような優秀さがなくなっても、それでもきっとあの人も、私を見捨てたりなどしないだろうから。
 山田利吉は、何者にもならなくて良かった。ただ、ごく普通の息子でいれば良かった。――そんな些細なことに気付くのに、どれだけ遠回りをしたのだろう。遠回りをして、戻れない世界に迷い込んで、それでようやっと気付くのだから愚かとしか言いようがない。
 止めどなく溢れる涙を止めようとしたのか、目の前の山田伝子が、私をギュッと抱きしめる。私が痛みを感じぬよう優しく、暖かく大きな腕で。
 だから、……気付けば絶対に言うまいと思っていた言葉が、泣声なみだと共に漏れ出ていた。
……お母、さん」
 この人は、母上ではない。私の母はもっと毅然きぜんとしていて、厳しい人だった。厳しさの中に優しさを持った人だった。当然、父上でもない。父はもっと不器用で、こんな風に真っ直ぐに優しさを向ける事などきっと出来なかった。
 母上でも父上でもない、けれどどうしようもなく『母親』なこの女性を形容する言葉は、これしか浮かばなかった。
……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!」
 嗚咽と共に私は謝り続ける。
 ――父上。ごめんなさい、帰れなくて。
 ――滝夜叉丸。ごめんなさい、きっと帰るという約束を守れなくて。
 ――――伝子さん。ごめんなさい、傷付けてしまって。
 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
 ただただ泣きながら繰り返す私の背を、伝子は静かに撫で続ける。幼児をあやすかのように、大丈夫よと繰り返しながら。
 そして私は、暖かな温もりの中で、――いつしか意識を手放していた。