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桜霞
2022-10-01 17:47:07
49262文字
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【twst夢】フライパンは無敵
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監督生をおれが守る(フライパンを胸に)
#twst #twst夢 #not監督生 #女監督生 #オリ女主 2020/01/28にpixivに投稿したものの再掲です。
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オンボロ寮の朝食は、リンの気分や冷蔵庫事情でころころ変わる。こんがり焼いたパンに卵、サラダ、少々のフルーツと、紅茶、またはコーヒーといった洋食の日もあれば、白ごはんと卵焼き、お味噌汁という和食の日もあった。
合宿で最初の朝食は、どうやら洋食文化が主流らしい賢者の島、というかナイトレイブンカレッジの大食堂のラインナップを参考に、洋食にしようかとリンは考えていた。
いつもより三十分は早く起床して、さっさと着替えとメイクを済ませてしまう。いつもは多少のんびりしながらなんちゃって浴衣姿でユウやグリムと一緒に作るのだが、今日からはそうも言っていられない。
「リンさん、おはようございます」
「おはよう。ねえユウ、私、ちょっとやってみたかったことあるんだけどさ」
「なんでしょう」
「フライパンでお玉ガンガン鳴らして『起きろ野郎共!!』つって」
「あはは! 眠気吹っ飛びますね!」
少しだけ眠そうなユウの目元からも、ぱっと睡魔が散って行ったようだった。
「でもヴィルなんかはキレそうだよな」
「あ、いえ、ヴィル先輩は早朝ランニングに行ったので、今ならバレないと思います」
「マジ?」
リンはソワッとした。その手にはまだ油が敷かれる前のフライパンが握られている。しかし、リンがお玉お玉と引き出しをがさがさしているうちに「おはようございます」とジャミルが顔を出したので、リンは小さく舌打ちしてお玉を引き出しに放り込んだ。
「なんですか」
「いや、無駄にできる時間がないことに対する苛立ち」
「そりゃあ、無駄はない方がいいでしょう」
「なーに言ってやがる、無駄がねーと人間文化は死んじまわぁ。卵、何がいい?」
「
……
スクランブルエッグで」
「はいよ」
「手伝います」
腕まくりをしたジャミルに、リンは「じゃあレタス千切って」と片手間に冷蔵庫を開けてボウルを取り出した。ユウは既にトマトを次々と六等分にしている。
「ユウ、それ切ったらお皿出してね」
「あ、はい。えっと、その前に、エース達、起こしてきていいですか?」
「ん? あいつら目覚ましくらい持ってんだろ?」
「いえ、その、モーニングコールを頼まれたわけじゃないんですが
……
ちょっと
……
その
……
」
ごにょりと口元をまごつかせたユウに、リンは頭上に疑問符を浮かべながら目を瞬かせた。
「なに、なんかやらかしたの」
「昨晩、遅くに騒ぎがあったが、あれか?」
「え? そんなのあった?」
「気付かなかったんですか? 俺は思わず飛び起きてしまって
……
」
「そんなに?」
「俺も詳しくは知らないんですが
……
何があったんだ?」
「
……
エート」
それが、そのう
……
かくかくしかじかで
……
、と経緯を話したユウに、ジャミルは呆れた表情を隠さなかった。リンは眉間を押さえ、一つ嘆息し、「行っておいで」と短く言った。はい、とユウが小走りで談話室の方に降りていく。入れ違いで、すっかり支度を整えたカリムがキッチンに顔を出した。
「いい匂いだな~! おはよーございます、リンさん! ジャミルも、おはよう!」
「はい、おはようさん」
「おはよう。卵はどうする」
「俺、自分でゆで卵する!」
「ばか、そんなのやらせられるわけないだろ。火傷でもしたらどうする」
「なに言ってんだ、水に卵放り込むだけだろうが。ほら、それ終わったらそこのキャビネットから皿出して、サラダ盛り付けて。カリム、はいこれ」
小さな鍋を、カリムは目を輝かせて受け取った。ジャミルは渋々といった体で、キャビネットの戸を開けた。
「卵、先に入れて。水は卵がつかるくらい。あとは火にかけるだけ」
「蓋は?」
「要らんよ。火は強火。炎の先がなべ底に当たって少し余るくらい。とろっとしてるのと、固いの、どっちが好き?」
「とろっとしてるやつ!」
「じゃあ五分くらいかな。スマホで時間見て、終わったらコンロから降ろして、ひたすら蛇口から水を注ぎ続けろ」
「分かった!!」
待ってる間、ジャミルを手伝うな! とカリムはスマホをセットして、サラダの盛り付けをしようとしたが、ジャミルはすぐさま「カトラリーを出してくれ」と指示を出した。カリムに盛り付けをさせたらどうなるか分かったものではないからだ。
リンはトースターにパンをセットして、やかんで湯を沸かし、大小さまざまなマグにティーバッグを放り込んだ。
「Bonjour! 清々しい、いい朝だね!」
「おはようございます」
「はい、おはよう。卵の希望は? カリム、ナイフとフォークはその隣」
あった! と歓声が上がった直後、カリムのスマホが鳴った。うわあと驚いたカリムは、そのままエペルにカトラリーを「これ頼む!」と手渡して、慌ててコンロの火を止めた。そして蛇口からひたすら水を鍋に注ぐ。リンはジャミルの皿にスクランブルエッグを盛り付けた。
「えっと、僕、目玉焼きで
……
」
「では、私もそれで」
「ウチは片面しか焼かないんだけど両面がいい?」
「ノン! メルシー、お気遣い頂いてありがとう」
「目玉焼きを両面焼くって、どうやるんですか
……
?」
「さぁねえ、私もやったことないからなあ」
「
……
」
やったことないんですか
……
、というエペルの突っ込みが聞こえてくるようだった。リンはくつくつと喉の奥で笑いながら器用に卵を二つ割って塩コショウをすると、すぐに蓋をした。そして、カリムの持っている鍋に指を突っ込む。
「うん、冷めたな。そこのキッチンペーパーで軽く拭きな。はい、塩。鍋は置いてって」
「サンキュー、リンさん!」
「ルーク、リンゴとバナナあるから、てきとうに切ってくれる?」
「ウィ! 任せてくれたまえ!」
チン! と小気味良い音を立てて、トースターからパンが飛び出した。既に食べ始めているジャミルとカリムの傍に紅茶と一緒に皿を追加し、新しいものをセットしたところで、苦い顔をしたエーデュースとグリムがのろのろと姿を見せた。
「おはよう。顔洗って着替えておいで」
「アッス! おはようございます!」
「はよーっす
……
、ってか、リンさん聞いてよぉー!! 昨日散々な目に遭ったんだぜ、俺ら!!」
「そのせいで私がケーキ食べ損ねることになったんだろ!」
「えぇー!?」
エースが愕然と悲鳴を上げる。リンは眦を吊り上げて「四十秒で支度しな!!」と声を張り上げた。エースはなんだよぉとぶうたれながら、それでも洗面所の方へと引っ込んでいった。デュースとグリムも、それに続く。
「ユウ、あんた卵どうする?」
「エース達の分とまとめてゆで卵にしちゃいます」
「じゃあ私のも追加でよろしく」
エペルとルークの皿に目玉焼きをそれぞれ乗せて、リンは焼き上がったパンもそれに添えた。
「先に食べ始めてて。後はやるから」
「いただきます」
「Merci」
ルークが切り分けてくれた果物をそれぞれ小ぶりな器に盛って、テーブルの上に並べる。ジャミルとカリムはほとんど食べ終わってしまっていたので、果物に手をつけるのも早かった。二人揃ってぺろりと皿を空にすると、ジャミルがさっさと二人分の皿を重ねてシンクに置いた。
「先に歯を磨いてろ」
「分かった!」
カリムと入れ替わるようにして、エース達はようやく席に着いた。ユウが五人分の食事を置き、リンと入れ替わり立ち代わり、紅茶や果物の皿を置いて行く。
「いただきまーす」
「イタダキァス!」
「リン、ティーバッグもらうんだゾ」
「あぁはい、ミルクもね」
シンクを片付けたジャミルの後から、エペルとルークが自分たちの使った食器を片付ける。リンはようやく椅子に腰かけて紅茶で喉を湿らせた。やれやれ朝はやはりどたばたするなと一心地つきかけたところで、ばたんと寮の玄関が音を立てる。ヴィルが戻ってきたのだ。
キッチンに姿を見せたヴィルに、エースとデュースは気まずそうに首を竦めた。グリムは突然神妙な顔をして、「これはお前が作ったんだよな」とユウとリンに確認しだす。
「おかえり。卵の希望は?」
「
……
オムレツ。シャワーを浴びてくるから、後でいいわ」
「あいよ」
腰を浮かせかけたリンは、さっさと自分の分を食べ終えることにした。朝は時間が過ぎ去るのが特に早く、気が付けばいつもの朝食を終える時間帯になっている。あんなに早起きしたのになあ、とリンは嘆息したい気持ちをぐっとこらえた。
「後でいいわ、だって」
「気まずい朝食にしたくなけりゃあさっさと食ってさっさと片付けて、さっさと朝練行きな」
「
…………
はぁーい」
エースはいかにも「不機嫌です」という顔をしたままがつがつとパンを食べた。ちまちまとゆで卵の殻を剥いていたデュースも、ぺろりと朝食を平らげる。
「リンさん、お昼ごはん、どうしましょう」
「あぁ、仕出し弁当みたいにするつもり。お昼ごはん何時だっけ」
「十二時半くらいになると思います」
「じゃあ十一時に抜けてきて。ジャミルとカリムにも、一応伝えてね。練習を優先させてもいいけど。グリム、あんたも手伝いな」
「しょうがねーんだゾ」
ツナ缶富豪のためだからな! グリムはフンスと鼻を鳴らした。そこへ、荷物を持ったカリムたちが顔を出す。
「エース、デュース、俺達先に行くな!」
「あ、ウス!」
「えっ早くね?」
「お前たちが遅いんだ。遅刻するなよ」
「二人とも、行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
カリムはにっこり嬉しそうに笑ってそう返し、ジャミルは小さく「行ってきます」と会釈した。
その後、あまり間を空けず、エース達は自分たちの食器を片付けて、エペルと一緒にポムフィオーレ寮のポールルームへ移動した。ユウとグリムもそれについて行った。
「長いランニングだったな」
「
……
他にも野暮用があったのよ。ステージ用の音源を受け取りに行ってたの」
レタスのサラダと、みずみずしいトマト。綺麗にカットされたリンゴとバナナ。形のいいオムレツ。少しのケチャップと、紅茶。香ばしく焼き上がったトースト。バターは無し。
目の前に並べられた朝食に、ヴィルは何も言わなかった。カトラリーを綺麗に使って、ぱくぱくと食事を進める。
フライパンを洗って油を落とし、残った少しの時間で昼ご飯用の下拵えを始めたリンは、我知らずほっとした。
「あぁ、そう。じゃあ明日からはもうちょっと早い?」
「そうね。
……
」
ふと、食器の触れ合う音が止まる。リンは気にせず、ひたすらレンコンを薄く切った。
「
……
怒らないの」
「なにが」
「聞いたんでしょ。昨晩の騒ぎ」
「あぁ。トレイのケーキを食べ損ねた。折角の気遣いだったのに、無駄にしちまって
……
今朝食べようと思ってたって、昨日言えばよかったな」
「、え?」
思わず眉をひそめたヴィルに、リンは包丁を扱う手を止めて、ヴィルの方を顧みた。
「私が怒っているのはな、ヴィル。お前が私を、共犯にしなかったことについてだよ」
「───」
ヴィルは今度こそ瞠目した。リンはすぐに下拵えを再開させた。それに引きずられるようにして、ヴィルも食事を再開させる。
朝練の開始時間まで、もう間もなくだった。
「
……
アンタは、一年たちの肩を持つのだと思ってた」
「私が協力すると言ったのは、チームに対してだ。リーダーは、お前だろ」
「そう。
……
ごちそうさま」
「お粗末様でした。時間ないだろ、そのままでいいよ」
「悪いわね」
「いいよ。行ってらっしゃい」
「
……
えぇ」
必要な準備を整えると、ヴィルは彼を待っていたルークと共に、ポムフィオーレへと移動した。
◆
全国魔法士養成学校総合文化祭、開催二週間前。
VDC合宿も折り返し地点を迎えたその日の放課後、各寮の寮長と文化祭運営委員会のメンバーは、鏡の間に集合していた。二日間にわたって開催される文化祭の具体的な進行スケジュールと、その後の後片付けの手順を確認するためだ。
例によってマレウスはいなかったし、今回は副寮長のリリィも出席しなかった。なんならクロウリーまでが、「後は任せましたよ!」とどこぞに出かけている始末だった。
「
……
と、こんなものかな。あとは各ステージと、エリアの運営長に任せよう。後片付けに関しては、問題がありそうだったら一週間後までにボクまで報告するように」
運営委員長のリドルが、そう言って場を締め括る。誰からともなく息をついて、肩の力を抜いた。
「おい。音響と照明についてだが」
「はい。なんでしょう」
レオナの声に、リドルは瞬いてそちらに向き直った。
「セットリストのデータ保存を弄る。いいな」
「
……
それは学園の機材の設計や設定の話になるので、一度事務室に問い合わせる必要がありますね」
レオナは面倒そうに、一つ嘆息した。そして、気だるそうにスマホを取り出す。
「どうせリンだろ」
「え? 事務室の文化祭担当ですか? 確かにリンさんですけど
……
」
間を空けず、レオナのスマホから着信音が響き渡る。獣人は耳の位置がヒトとは違うことが多々あるので、スマホで通話するときは専らスピーカーにすることが多いのだ。
程なくして、ぷつっという特有の音と共に『もしもし』とリンの声が木霊した。
『ちょっと、仕事中なんだけど』
「出るのが遅え」
『かけても無視するお前が言う? なによ、なんかあったの』
「音響と照明のデータ保存についてだが、弄るぞ。いいな」
『あぁ、裏はお前が仕切るのね。ハイハイ、分かった、任せるわ。よろしくね。あっ、帰りに事務寄ってチェスの駒回収してって』
「知らねえ」
レオナはあっさり通話を終了させた。スマホをしまって、用は済んだ、さて帰ろうと顔を上げた瞬間、自分に突き刺さる複数の視線に、思わず眉根が寄る。
「
……
なんだよ」
「いやそれはこっちの台詞でしょ。なに? 拙者たち何を見せられたの?」
「あぁ?」
「ヒッ!」
なんでもないです、と宙に浮いていたタブレットが臨時で出された机の下に消えていく。無意識に眼光鋭くタブレットを見遣ったレオナは、訝し気な表情を消せなかった。カイワレ大根のことは、本当によく分からない。分かりたいとも思えないが。
「
……
今のは、リンさんの連絡先ですか
……
?」
胡乱気に言葉を発したのはアズールだった。
「
……
それがどうした」
「『それが』『どうした』ですって?」
心底からそう言ったレオナに、アズールは思わず呻き声を上げて顔を覆った。
「
……
その
……
学園の生徒と事務員という立場で、連絡先を交換するのは、いいんでしょうか
……
」
レオナがあまりにも泰然とした態度でいるのでうっかり流されてしまいそうになったが、リドルはどうにかして言葉を絞り出した。しかし、リドルがようやく形にしたそれを、レオナは鼻で笑って一蹴した。
「くだらねえ。俺はもう行く。じゃあな」
資料片手に、レオナはさっさと退散した。鏡の間を出た途端、窓から差し込む夕日が、会議が案外長引いてしまったことを告げている。小さく舌打ちしたレオナが、歩調を早めようとした、そのときだった。
「レオナ」
「
……
んだよ。お前まで説教か?」
「違うわ」
ヴィルは「アタシだって手短に終わらせたいのよ」暗に、己の言葉に端的に答えろと迫っていた。
「あれのこと、あんたよく知ってるみたいね」
「あれ?」
「リンとかいう奴よ。事務員の」
「
……
さぁな」
ヴィルの方を顧みていた半身が、踵を返そうとする、その瞬間、ヴィルの鋭い声が夕暮れの廊下を通り抜けた。
「あれは、なに?」
「
……
あ?」
質問の意図を掴みかねて、レオナは再びヴィルを顧みた。
「都合が良すぎる。いい大人すぎて、気持ち悪い。
……
それともあんたはそう思わないわけ?」
いっそ挑むように嘲笑し、ヴィルはレオナを静かに見据えた。
「それとも、すっかり餌付けられちゃった?」
瞬間、レオナから怒気が爆発する。
眼光鋭い翡翠の瞳孔が、きゅるりと細められた。
「───口の利き方には気を付けろよ」
「だったら質問に答えなさいよ」
獅子の放つ圧になど屈さず、女王は凛とした姿勢でもって、彼の怒りを叩き落した。レオナは依然厳しい瞳でヴィルのことを見遣っていたが、やがて一言、ぽつりと言った。
「
……
都合がいいなら、利用してやりゃあいいだろうが」
「
……
そうだけど」
「世界的トップスター様はご存じねえかもしれねえが、
あんなのはそこら中にごろごろいるぜ
・・・・・・・・・・・・・・・・・
」
「
…………
」
反論しかけたヴィルはしかし、開いた唇を、もう一度引き結んだ。
その様子を見て、レオナは小さく鼻を鳴らすと、もう話すことはないとばかりに踵を返した。長い獅子の尾が、ひょんと揺れる。
ヴィルはしばらくの間その背を睨めつけていたが、やがて身を翻してハイヒールの踵を鳴らした。
王、という役目を背負った者共を抱える場所は、とにもかくにも『特別』だ。国中から優秀な者が招集され、多くの幸福のために様々な仕事に取り掛かる。
世界中の人間すべてがそれぐらい優秀ならば、王というシステムは必要ない。さらには、国中を捜して人員を掻き集める必要も無い。
リンほどの人物は、文字通り、世界中に数多存在している。ただ、言ってみれば、小さなコミュニティの中で、マイノリティに配されるだけだ。
たとえば、ナイトレイブンカレッジのような。
「
……
ラッキーだと、思うしかないってことね」
忌々し気に吐き出されたそれは、地を這うようだった。
◆
全国魔法士養成学校総合文化祭、開催一週間前。
この時期になってくると、文化祭の主役である生徒達とは違い、事務員や教職員にはある程度の余裕が出てくる。
準備期間と称し、全ての授業が休講となるからだ。生徒達は展示や舞台の準備に奔走し、大人たちは自分たちの職場や現場でそれらを静かに見守るのが仕事になっていた。当日までの、ささやかな体力温存期間である。嵐の前の静けさとも言えた。
リンは久々に、煙草を吸った。身体の中心、奥の方で、張り詰めていた糸がゆるゆる緩んでいくのが分かる。
───もうこのままここに寝ころびたいな
……
そこまで広いスペースではない喫煙室に、紫煙がふわりと漂った。
クルーウェルの手を借りて、自分自身で調合した、体に害はない───はずの───煙草。(けむりくさ)リンのそれは、どこか味わい深い、フルーティな紅茶の味がする。
「
…………
」
深い呼吸。
癒しの香り。
すっかり緩んだ、気持ちの糸。
しなやかな躯に溜まっていた疲労は、あっという間にするりとリンを支配した。
ふと、意識が遠ざかる。
「っ───!」
瞬間、がしりと逞しい何かに抱き留められて、リンは音を立てて息を吸った。数拍の間、衝撃で思考がいやにクリアに広がっていく。気付けばリンの手から煙管が取り上げられていて、思わず追った視線の先には、どこか焦った風情のクルーウェルがいた。
「
……
意識は」
「
……
あります」
「
…………
」
肺が空になる程の息をついて、クルーウェルは姿勢を正した。リンを抱えた腕はそのままに、煙管をその細い指に返す。
「お前は、なんだってそう、俺の目の前で意識を飛ばそうとするんだ」
「いや、あれもこれも意図したものじゃないんですが、
……
すみません。気が緩みまして」
リンは重い瞼を伏せた。そうして、欠伸をひとつ、噛み殺す。
このまま先生にもたれてもいいかなあ、と埒外なことを思いついてしまうくらいには、どうやら疲れているらしい。リンは意識して深い呼吸をすると、さりげなくクルーウェルから顔を背けて、煙管を咥えた。煙が彼の方に行かないようにする素振りで、さりげなくクルーウェルの腕から離れていく。
「
…………
疲れているな」
「まぁ
……
流石にね。割に合わない給料のせいで、気合も入らないし
……
」
寮母まがいのことをやっているからといって、リンの給料に色がついたわけではない。ただ、少ない補助金が支給されただけだ。
柔らかで、どこか爽やかな香りの中に、どこか鋭いものが混じりだす。クルーウェルが、自分の煙草に火を点けたのだ。
───こっちの方が、目が覚めそうだな
……
しかし、先程リンの意識を奪い去ろうとした疲労や睡魔と言った類のものは、未だ茂みの影から爛々とその双眸を輝かせて、その機会を強かに疑っているらしかった。先程とは段違いに、四肢が、そしてそれらを繋ぐ身体の中心が重い。
「眠れていないのか?」
ああでも、とリンは口元に指を寄せて、どこか思案する素振りを見せた。
形のいい薄い唇が、ふゆりと形を変える。
「こう
……
意識を失って
……
次の瞬間、目覚めているような
……
眠った気がしないというか
……
そんな感じはありますねえ
……
」
ま、疲れてるからなんでしょうけど、とおどけるようにして付け足された言葉に、クルーウェルは短く「そうか」と返すに留まった。
「仔犬たちは? 上手く行きそうなのか」
「プロデューサーが誰だと思ってんです。大丈夫ですよ」
リンは、あっけらかんと言い放つ。クルーウェルは、咥えた煙草を持つ手で口元を隠しながら、小さく苦笑した。
無責任な期待でも、身勝手な信頼でもなんでもない、「あいつなら大丈夫」という、いっそ凶悪的とも言える信用を、掛け値なし向けられる仔犬たちが───特にヴィル・シェーンハイトが───可哀想だなと、素直に思う。
そして、たかだか数週間の付き合いであるヴィルに対してそこまでの質量を向けられるのも、リンの強さであるには違いない。クルーウェルは感嘆を通り越して呆れ、いっそ気持ち悪さを覚えるほどだった。
───たかだか小娘が、よくぞここまで。
「なんです」
「いや、別に」
「?」
不思議そうな顔をしながら、リンが灰皿にとん、と役割を果たした火種を落とす。馨しい香りが、溶けるように霧散した。
「先生ェ」
「なんだ」
「コーヒー奢って」
クルーウェルはポケットを漁って取り出したコインを指で弾いた。ぱしりと受け取ったリンが「サンクス」とクルーウェルを通り過ぎる。
「油断するなよ。季節の変わり目だからな」
「分かってますよ」
しなやかな細身は、ひらりとその影を翻して行った。
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