──波。
ぴかっと一閃。
見慣れた光が何ブロックか先の街中で影を弾き飛ばし、遠くの闇を濃くした。一拍遅れて「辻Y談だー!」という人々の叫びが波打ってロナルドの足を止めさせる。勢いよく振り返ると、さざめきを縫ってこちらに走り来る黄色い紳士服を見つけた。ロナルドに気づいた赤い瞳は弧を描いたものの、口許は、げ、と引くつき、器用に“しまった”という顔をした。拳を握る。振りかぶって殴ろうと構えたところで包帯の落書きが目につき、一瞬、挙動が遅れた。右手には買い物袋を持っていた。ロナルドが握った左手で殴る前に進路を軽快なステップで変更した黄色い吸血鬼は、高笑いしながらまた杖から光線を放って路地の暗闇へと溶けていく。ああクソ。
場は騒然、口から飛び出る秘めた猥談に悲鳴をあげたり蹲ったり泣き伏したりと混沌を極める。若干慣れた人もいるのか、すぐに自分の時間を取り戻している冷静な通行人たちもいた。今日はオフだったが、迷わず左手で殴っていれば間に合ったはずだ、ロナルドは奥歯を噛み締めながら握ったまま奮われることのなかった左手を見た。
包帯の巻かれた手の甲に気味の悪い顔が描かれている。
ドラルク曰くこれはジョンらしい。
ドラルクの描く生き物の顔は大体全て同じで、目と鼻と口がついているだけの種族のない化け物にしか見えないが、これはロナルドを心配しているジョンの顔らしかった。
昨晩、開いた傷を診てもらった病院から帰宅後すぐにマジックで描かれたものだ。“見ろこの顔を。こんな憂い顔で見つめられたらしばらく左の暴力は使えまい”となぜか自信満々に言われた。ジョンを見ると、心優しいアルマジロは落書きの顔に寄せた表情をして“安静にしてね、ロナルドくん”と手を撫で撫で労わってくれた。左手の化け物はどう見たって化け物だったが、ロナルドはうんと頷き、殴る時は右で殴るねと顔にまで落書きしてこようとしたドラルクを殴って殺した。
どうやら効果はあるらしい。
左手で殴ろうとしたとき、この落書きではないが、心配してくれるジョンと、あとあんまり楽しくなさそうなドラルクの顔が頭を過った。
そのおかげでY談おじさんを捕らえ損なったが、あのおじさんを捕まえたところで最近じゃVRCからも胡乱な態度を取られるのでそこまで悔しく思うこともないのかもしれない。現場は散々だが。
一応猥談のほかに被害はないか確認してから帰ろうと歩きだすと、今度は、店の軒先で見知った痩躯が目に留まった。あ、とロナルドは声を上げた。
「やっぱりおっぱいが好き」
こんばんは、グレゴリーさん。
そう言ったはずだった。
しっかりY談波を浴びてしまっている。ロナルドが自分の発言に硬直したと同時、細い首がこちらを向いて口を開いた。開いて、閉じる。困った顔をして、グレゴリーは会釈を返した。ああ。彼も下劣な催眠光線の被害に遭っている。
今日は穏やかな夜そのもののような犬を連れてはいないらしい。確かに、いつも会う時間帯からは外れていた。グレゴリーの手にも買い物袋が下げられている。ロナルドは歩み寄りながら自分の胸をとんとんと指差した。
「健康的なおっぱいによしよしされたいですよね?」
昨日はあれから大丈夫でしたか? と訊きたかった。カァーっと耳たぶまで熱くなっていく。吐く息が白く濁りまくった。話しかけない方が良かったかもしれない。吸血鬼の催眠のせいと分かっていても、これはとんだセクハラだ。真意も伝わらない。
グレゴリーは持っていたビニール袋を後ろ手にすると、肩を竦め、困り顔のままおもむろに口を開いた。
『……I'm excited that he feels safe letting me take the lead』
そして思い切り苦い顔をした。
初めて見る嫌悪の表情にロナルドは狼狽え、「でも自分より細い指に手首を握られるのも結構いいですよね」と言っていた。猥談だとしても英語分からないので安心してください大丈夫です、と伝えたかった。え? 今しがた自分が発した内容を振り返る。自分より細い指に、何て?
秘めたる猥談に思考が引っ張られそうになったのを、グレゴリーの流暢な英語が『But the most exciting is when I take over humans』と遮った。全く聞き取れなかった。これが英語の授業の丁寧なリスニングなら一単語ぐらいは聞き取れたかもしれなかったが、身構えていない状態でネイティブに喋られるとこれっぽっちも頭に入ってこなかった。ただ苦々しい表情から言いたくもないことを言わされていることだけは分かる。ロナルドはあたふたと、大丈夫です、よくあることなんで! と慰めのつもりで言った。実際には、おっぱい! と叫んだだけだったけれど。
伝わらない性癖と言語に二人とも微妙な顔をして、どちらともなく頭を下げて、それから手を振った。今夜は立ち話ができる状態ではない。双方同意見のようだった。
それぞれが帰路に着く間際、彼が無事に夜道を歩けているか気になって少しばかり見送ると、グレゴリーが持っていた買い物袋の中身が透けて見えた。妙に引っかかるものがあって、痩せた背中から、グレゴリーが立っていた店の看板へと視線を移す。あれ、と思った。
思うだけにした。
何せ喋ったら全てが猥談語彙に変わる。ロナルドはくちを噤み、左手の心配するジョンではないジョンを見て、また楽しくなさそうな同居吸血鬼を思い浮かべ、足早に、家へと急ぐことにした。息は白く唇の隙間から漏れ出ている。