さもゆ
2025-01-14 09:19:04
36172文字
Public 吸死
 

【ドラロナ】犬を愛さぬ者、紳士に非ず

ジョギング中よく会うようになった犬と飼い主とロくんと、ロくんの善性を利用されるのが我慢ならないド公の話。
※犬は死にません
※名前と自我のあるモブと、犬が出てくる
※ドラロナできてない


 おや、随分久しぶりに嗅ぐにおいだ。
 元気? いいよ答えなくて。本気で気になるわけじゃない。しかし驚いたな、前に会ったのはいつだっけ? 場所は覚えているんだが。
 ロンドンは飽きた? てっきり好きなんだと思っていたよ、カサブタが浮いたみたいなテムズ川や、スラングだらけのお喋りなスモッグ、アプリコットと敵意を煮詰めたロンドナーたちのことがさ。きみにとったら家族みたいなもんだろう? ︎︎私は好きだったよ。彼らはとてもいい猥談を披露してくれる。
 この町もいいところだよ。
 おもちゃ箱、あるだろう。人間の子どもが遊ぶような、無害な箱だ。その箱に入っている気分にさせてくれる。笑った子どもの顔を可愛いと思うかい? 泣いた顔の方が好きかな。どちらでもいいけど、どちらにせよ、私は無害なのでね。ここは害が無いというのを、存分に楽しめる場所だ。
 きみはどうかなあ。
 ま、そんなことはどうでもいいか。私が本当に聞きたいのはただひとつ。準備はいいかね? ︎︎では。久しぶりに会ったお祝いとして、とびきりのY談──
 ︎
 
 
 ──波。
 ぴかっと一閃。
 見慣れた光が何ブロックか先の街中で影を弾き飛ばし、遠くの闇を濃くした。一拍遅れて「辻Y談だー!」という人々の叫びが波打ってロナルドの足を止めさせる。勢いよく振り返ると、さざめきを縫ってこちらに走り来る黄色い紳士服を見つけた。ロナルドに気づいた赤い瞳は弧を描いたものの、口許は、げ、と引くつき、器用に“しまった”という顔をした。拳を握る。振りかぶって殴ろうと構えたところで包帯の落書きが目につき、一瞬、挙動が遅れた。右手には買い物袋を持っていた。ロナルドが握った左手で殴る前に進路を軽快なステップで変更した黄色い吸血鬼は、高笑いしながらまた杖から光線を放って路地の暗闇へと溶けていく。ああクソ。
 場は騒然、口から飛び出る秘めた猥談に悲鳴をあげたり蹲ったり泣き伏したりと混沌を極める。若干慣れた人もいるのか、すぐに自分の時間を取り戻している冷静な通行人たちもいた。今日はオフだったが、迷わず左手で殴っていれば間に合ったはずだ、ロナルドは奥歯を噛み締めながら握ったまま奮われることのなかった左手を見た。
 包帯の巻かれた手の甲に気味の悪い顔が描かれている。
 ドラルク曰くこれはジョンらしい。
 ドラルクの描く生き物の顔は大体全て同じで、目と鼻と口がついているだけの種族のない化け物にしか見えないが、これはロナルドを心配しているジョンの顔らしかった。
 昨晩、開いた傷を診てもらった病院から帰宅後すぐにマジックで描かれたものだ。“見ろこの顔を。こんな憂い顔で見つめられたらしばらく左の暴力は使えまい”となぜか自信満々に言われた。ジョンを見ると、心優しいアルマジロは落書きの顔に寄せた表情をして“安静にしてね、ロナルドくん”と手を撫で撫で労わってくれた。左手の化け物はどう見たって化け物だったが、ロナルドはうんと頷き、殴る時は右で殴るねと顔にまで落書きしてこようとしたドラルクを殴って殺した。
 どうやら効果はあるらしい。
 左手で殴ろうとしたとき、この落書きではないが、心配してくれるジョンと、あとあんまり楽しくなさそうなドラルクの顔が頭を過った。
 そのおかげでY談おじさんを捕らえ損なったが、あのおじさんを捕まえたところで最近じゃVRCからも胡乱な態度を取られるのでそこまで悔しく思うこともないのかもしれない。現場は散々だが。
 一応猥談のほかに被害はないか確認してから帰ろうと歩きだすと、今度は、店の軒先で見知った痩躯が目に留まった。あ、とロナルドは声を上げた。
「やっぱりおっぱいが好き」
 こんばんは、グレゴリーさん。
 そう言ったはずだった。
 しっかりY談波を浴びてしまっている。ロナルドが自分の発言に硬直したと同時、細い首がこちらを向いて口を開いた。開いて、閉じる。困った顔をして、グレゴリーは会釈を返した。ああ。彼も下劣な催眠光線の被害に遭っている。
 今日は穏やかな夜そのもののような犬を連れてはいないらしい。確かに、いつも会う時間帯からは外れていた。グレゴリーの手にも買い物袋が下げられている。ロナルドは歩み寄りながら自分の胸をとんとんと指差した。
「健康的なおっぱいによしよしされたいですよね?」
 昨日はあれから大丈夫でしたか? と訊きたかった。カァーっと耳たぶまで熱くなっていく。吐く息が白く濁りまくった。話しかけない方が良かったかもしれない。吸血鬼の催眠のせいと分かっていても、これはとんだセクハラだ。真意も伝わらない。
 グレゴリーは持っていたビニール袋を後ろ手にすると、肩を竦め、困り顔のままおもむろに口を開いた。
……I'm excited that he feels safe letting me take the lead』
 そして思い切り苦い顔をした。
 初めて見る嫌悪の表情にロナルドは狼狽え、「でも自分より細い指に手首を握られるのも結構いいですよね」と言っていた。猥談だとしても英語分からないので安心してください大丈夫です、と伝えたかった。え? 今しがた自分が発した内容を振り返る。自分より細い指に、何て?
 秘めたる猥談に思考が引っ張られそうになったのを、グレゴリーの流暢な英語が『But the most exciting is when I take over humans』と遮った。全く聞き取れなかった。これが英語の授業の丁寧なリスニングなら一単語ぐらいは聞き取れたかもしれなかったが、身構えていない状態でネイティブに喋られるとこれっぽっちも頭に入ってこなかった。ただ苦々しい表情から言いたくもないことを言わされていることだけは分かる。ロナルドはあたふたと、大丈夫です、よくあることなんで! と慰めのつもりで言った。実際には、おっぱい! と叫んだだけだったけれど。
 伝わらない性癖と言語に二人とも微妙な顔をして、どちらともなく頭を下げて、それから手を振った。今夜は立ち話ができる状態ではない。双方同意見のようだった。
 それぞれが帰路に着く間際、彼が無事に夜道を歩けているか気になって少しばかり見送ると、グレゴリーが持っていた買い物袋の中身が透けて見えた。妙に引っかかるものがあって、痩せた背中から、グレゴリーが立っていた店の看板へと視線を移す。あれ、と思った。
 思うだけにした。
 何せ喋ったら全てが猥談語彙に変わる。ロナルドはくちを噤み、左手の心配するジョンではないジョンを見て、また楽しくなさそうな同居吸血鬼を思い浮かべ、足早に、家へと急ぐことにした。息は白く唇の隙間から漏れ出ている。



「おかえり」
「おー。ただいま」
 家に帰るとドラルクは顰め面でロナルドを迎えた。
 最近はずっとこの顔をしている。元からシンデレラをいじめていそうな継母顔だが、ここ数日はどうも、それより幾ばくか、良心的な保護者じみた皺の寄り方をしている。と思う。薄くて狭い眉間にくっきりと皺が刻まれているのが面白くて、ロナルドは断りもなく眉間に指を当てる。「何だ」これぐらいじゃ死にはしないのか、ドラルクは鬱陶しそうにしながらもぐりぐりと眉間を押されていた。平らにならない。
「なあドラ公」
 直接光線を浴びたわけではないため効きが甘かったのか、自分から紡がれる言葉が思考そのままなことに安堵を覚える。グレゴリーも、今頃は解けているだろうか。
「あのさ、……昨日の話だけど」
「ああ。そうだったな」
 昨夜は結局、怪我人はさっさと寝ろと寝かしつけられ、今夜は今夜で、ロナルドが買い物に行くときに起き出してきたため、話はまだできていなかった。ドラルクはずっと険しい顔つきをしていたが、ロナルドと話をしないほど薄情でも無関心でもなかった。彼は基本的にいつも、ロナルドを揶揄う目的でロナルドのことを注目している。今回は全く楽しそうではなかったが、だからといってその注目が外れるわけではないようだった。
 居住スペースのダイニングチェアにそれぞれ座り、テーブルの真ん中にジョンを置いて、「で?」とドラルクは両手を組んだ。首元のヒラヒラは昨夜のものとは別のものだろう。昼間に干した洗濯物の中に血で汚れたクラバットがなかったため、もしかしたら捨てたのかもしれない。靴下や衣類に執着するとは言え、さすがに普段から汗臭いだの何だの言う男の血を吸った布を再使用はしまい。「何を聞いてほしいって?」
 ロナルドは唇を湿らしてから言った。
「犬を……飼うことになるかもしれないってなったら、ど、どうする?」
「どうって、そりゃ、時と場合によるが」
 ジョンがヌ、とご主人を見つめた。浮気じゃあないよ、ジョン、ドラルクが優しい声音で言い、ジョンの頭を指先で撫でる。
「飼わなきゃどうにもならんってなったら、飼うさ。世話もするだろう。うちには犬アレルギー持ちもいないし、散歩や力仕事なんかはきみができる。食事の管理は私の方が得意だろう。ジョンの言うことをよく聞いてくれる子じゃないと困るが、今のところ金銭面に不安もない、私たちは犬が飼える」
「う、……
 うん、と頷けたかも怪しい。
 何だか少し。なぜだか。泣きそうになってしまった。
 昔から犬が好きだった。飼ってみたいと思っていた時期もあった。けれど子どもながらに、家ではそれは難しいことを知っていた。知っていたから、犬が好きだとは言っても、飼いたいとは言ったことがなかった。
 こんなに現実的に、まさか血の繋がった家族でもない吸血鬼に、前向きな言葉をもらえるとは思っていなかった。
 自分たちはきっと犬が飼える、その想像はとても素敵で、素晴らしいものに思えた。
「だけれども、きみ。今はどうにもなっていないだろう。どうしてそんな話をしようと?」
「グレゴリーさんが……
 その名を出すとドラルクの眉がぴくりと動いた。ロナルドは気づいたが、もう一度グレゴリーさんが、と言って言葉を続けた。「たぶん、体の調子が、良くなくて。犬の、ルインの里親を、探してるんだと……思う」
「それで? ひとの好さそうなきみに犬を押しつけたいって?」
「そんな言い方、」
「その男、本当に犬を愛しているのか?」 
「愛してるから、自分がいなくなった後のことを考えるんだろ」
 言ってから、目の前がちかりと光る思いがした。
 部屋の電気よりも眩しくて、星のように遠い光だった。驚いて瞬くと、目の前にはその光を覆い隠す顔色の悪い吸血鬼が静かに座っていた。
 ああ。
 不意にロナルドは、そっか、と思った。そっか。そうだった。
 この場において、一番早くいなくなるのは、自分だ。
 ドラルクには。
 ドラルクには、たとえロナルドがいなくなったあとも、夜も昼も楽しく過ごしてもらわなければ、困る。
 決して。
 棺桶の外側で、永遠の時間を、泣き伏して過ごしてほしいわけじゃない。
 自分がいなくなったあとのことを考えるのは楽しくないが、ドラルクがロナルドのいない夜を楽しく生きていってくれるのなら、そのためならば、考えないわけにはいかないのかもな、と思った。まだ早いのかもしれない。三十年後とか、それぐらい経てば、もっと現実に近いこととして考えられるのかもしれなかった。だが、まだロナルドの中では、それは本当に、星のように遠い未来だった。瞬きを繰り返して目の前の夜の住人を見つめる。睫毛が濡れる感覚があった。
……グレゴリーさんはルインを大事にしてる。撫でる手も、見つめる目も優しいんだ」
「それほど大事にしているなら、一緒に生きればいいだろう」
「人間と、犬なんだよ」ロナルドは諭すように言っていた。「お前やジョンみたいにはなれない」
「駄目だ」
 ドラルクはキッパリと言った。
「そのグレゴリーとかいう紳士の、愛犬を、うちで預かるような真似は、できない」
「何で」
「“たぶん”、“思う”。わやわやしたものばかりだ。私はまだその紳士にも飼い犬にも会っていない。きみが一人で突っ走っている可能性もある。よって、飼う飼わない以前の問題だ。もっと確かな情報と計画を寄越せ。この話はこれで終わりだ。閉廷!」コン、テーブルを指の背で一度叩き、ドラルクはもう話すことはない言わんばかりに立ち上がってキッチンに向かった。
 細く薄い背中が、グレゴリーと重なる。
 ドラルクの言葉は最もだった。
 ここで駄々を捏ねられるほどロナルドは子どもではない。
 一度きちんとグレゴリーと話をしなければ駄目だ。ロナルドは決意をし、愛くるしくロナルドの心配をしてくれているジョンに手を伸ばした。落書きとは比べ物にならない。けれど、この包帯を変えようとはなぜか思えなかった。ロナルドはジョンと、ジョンにはちっとも似ていない落書きを見比べ、本物の頭を撫でやる。ジョンは信頼しきった態度でヌーと撫でられてくれている。うう、かわいい。やっぱりアルマジロが一番だ、それは覆ることのない真実のように思えた。

「明日にでもグレゴリーさんと話をしてみる」
 食卓に並んだ料理の品数がいつもより多い。
 手を合わせる前にそう言うと、ホットミルクを一杯持ってきたドラルクは「私も行く」と席に着き言った。「いい加減、きみがご執心している紳士と犬を見ておかなければならない」
「うん」
 ロナルドが素直に頷くとドラルクは意外そうに眼を眇めた。何か言われる前に口を開く。
……俺と、お前との話だから。ジョンと、メビと、キンデメと、死のゲームの話でもある。もし犬を飼うってなったら。だったら、やっぱり、お前にも確認してもらわなきゃだろ」
 ヌンも行く、とジョンが声を上げる。
 うん、にっぴきで会いに行こう、とロナルドが返すと、ドラルクは相変わらずの顰め面のまま牛乳を飲み干した。勢いよく上下していく喉仏が珍しくて、何とはなしに「あっづァ」とぬるめたはずだろうにホットミルクの一気飲みに耐えきれず死んだ様まで見届けてから、手を合わせる。いただきます。
 この食卓に犬がいる光景を想像してみると、ドラルクの言葉のおかげかわりと容易く思い描けた。口許が緩む。けれど、あの黒くて大きな犬を想像すると、それはどうにも、現実的ではなかった。



 翌晩、今度は何の邪魔もなく日が暮れたばかりのジョギングコースをにっぴきは歩くことができた。
 道すがら何度かドラルクが死ぬことはあったが、時間のロスはそこまで発生していない。しかし河川敷、いつもなら見かけることができるはずの姿は、どこにも見当たらなかった。
「いつもここで?」
「おう。このへんが散歩コースで、毎日同じ時間に散歩してるって言ってたんだけど……。あれかな、昨日Y談おじさんに会ったから、気まずくて顔合わせたくなかったのかも」
「はあ?」辺りを見渡していたドラルクは大口を開けてロナルドに指を差す。「きみ昨日はそんなこと一言も、」
「ドラ公」
「あ?」
 ロナルドは冬の寒さと、寒さで何度か死んだ目の前の吸血鬼と、ひっきりなしに漏れ出る自分の白い息に意識を向けながら、何かとんでもないことに気づいた気になって眉根を寄せた。「何か温かいこと ・・・・・言って」
「は? ……ジョンの腹毛。暖炉の炎。手編みのマフラー。ホットワインとシチュー。二円コタツ。何?」
 眉をひそめたもののロナルドの唐突な要望通りに単語を羅列したドラルクを、ロナルドは、まじまじと見つめた。
 尖った鼻と耳、こけた頬、落ちくぼんでいる両目。真っ青な肌。色のない唇。
「ドラルク……
 白い息を吐き出しながら、ロナルドは自分の口許を押さえた。気づかなかった。本当に? 違う。見慣れていたから、今更気に留められることじゃなかったんだ。そうか? だって昨夜も。
 でもグレゴリーさんは、とロナルドは思った。グレゴリーさんは、いいひとのはずだ。
 全裸で街の緑化活動をしたりしない。性癖の暴露をさせたりもしないし、ビキニ姿の手下を従えているわけでもない。ロナルドの事務所に勝手に転がり込んで、そのまま居着いて、相棒になってしまったりもしていない。
 ただ愛する犬と一緒に暮らしているだけの、体の弱い、いいひとだ。
「グレゴリーさん、吸血鬼かもしれない」
 それでも疑念のまま言うと、ドラルクが大きく目を見開き、歯列の隙間からスラングじみた何かを発した。
 彼の、グレゴリーの口からは、ドラルク同様、凍えた息が吐かれるのを見たことがなかった。
 体温は冷たかったし、昨晩、彼がいた場所は、吸血鬼向けの食材が売っている店の前だった。袋には血液パックらしきものが入っていた。店の窓にあの痩せ細った体は映っていたか? 分からない。吸血鬼退治人のくせに、そこまで見れていなかった。甘ったれが。
「耳は、丸かった。目の色も赤くはねえ。牙も出てない。けど、でも、そうか、体が弱いから、吸血鬼っぽくないとか? そうだよな。俺は退治人だし、わざわざ吸血鬼だって名乗るのも不安だろうし、」
「そうやってあれこれ予想をするってことは、きみは彼を疑っている」
「何を?」
「グレゴリーが悪い吸血鬼か、そうじゃないかだ」
「悪いひとじゃない」
「人間じゃないからな。ああ、」ドラルクは忌々し気に舌打ちをした。「吸血鬼? 納得がいく。私のものに手を出そうとしやがって」
「待って。なに? なんの話、」
「お前の話だろうが」
「俺? っつーか何でそんな不機嫌、」
「そいつは紳士なぞじゃあないな。間違いなく。本当に犬を愛しているのならば、手放そうとはしないはずだ。決して。なぜ同じ時間を共に生きようとせず、人間のきみに託すような真似をする?」
 腕の中のジョンがドラルクを見上げ、ロナルドはジョンを見た。「お、お前だって、一度は、ジョンの幸せを思って、身を引いただろ。それと一緒じゃねえの」
 ドラルクがぐう、と唸った。ぐうの音しか出ないことを言えたようだった。ロナルドは笑ってしまいそうになりながら「でも、そっか」と安堵の息を吐いた。「それならやっぱり、いいひとじゃん。ルインのことを思って、きっと自分じゃない飼い主を探そうとしてたんだ。お前とジョンのこと考えたら、やっぱちゃんと、グレゴリーさんとルインで話し合ってもらった方がい……
 ロナルドの言葉が途中で切れる。
 ポケットに入れていたスマホがけたたましく鳴ったからである。たちまち顔つきを鋭くしたロナルドがスマホを確認すると、ギルドから一斉送信の応援要請が入っていた。内容はこの間と同じだ。シンヨコハマの至るところで下等吸血鬼の群れが発生、吸対と協力して制圧するよう書かれている。個人事務所のロナルドには、一応連絡はしたが、現場を見て判断するので急いで来なくてもいい旨も書かれていた。開いてばかりの左手の怪我を気遣われているのかもしれない、と思った。
「ドラ公、一旦事務所戻って着替えるぞ」
「仕事?」
「おう。まだ呼ばれてねえけど、人手は多い方がいいだろ」
「呼ばれてないんなら行くことないだろ。大体、普段から働きすぎなんだ。今日くらい休んだとて、」
「昨日は休んだ。充分だ」
「完全週休二日制って知ってる?」
「うちには取り入れてない」
 すげなく言って踵を返すと、うォん! という犬の吠え声がこだました。既視感。じわりと嫌な予感が汗とともに滲み、振り返った先、夜から溶けだしたような大きな犬が駆けてきていた。
「ルイン、」
「は?」
 ロナルドは弾かれたように走り出していた。ルインのリードの先には誰もいない。嫌な予感がどんどん膨れ上がって、破裂寸前だった。グレゴリーは“もう長くない”と言っていた。吸血鬼の“長くない”とは、どれぐらいの時間を表している? それがたとえば、今夜だったら?
「ルイン、案内してくれ」
 引きずられているリードを掴むと、黒い大きな犬は一声鳴いてロナルドを引っ張った。強い力だった。彼はこんな力を持っていて、グレゴリーにあんなにそっと寄り添っていたのだと思うと、冷たい風が目に染みるからではない、自然と涙が滲みそうになった。
「オイ待てロナルド!! その犬──」
 後ろでドラルクが乱暴に叫ぶが、走り出したロナルドの耳には最後まで届かなかった。犬と共にひた走る。

 そして、駆けている最中、ふと頭の片隅で再生される言葉があった。
“きみの善性を利用しようとする輩なんざ、いっぱいいる。きみは誰も拒まないから”
 その台詞は何よりも説得力があった。
 誰が言うよりも、信じてもいいのかもしれない、と思った。ドラルクはロナルドの家に勝手に居着き、吸血鬼で、そしてロナルドが思い切り殴ってもいい存在だった。利用して、されている関係で、今じゃ立派に相棒だった。
 目の前を走る夜そのもののような犬を見る。駆けている方角は、最初に送った、グレゴリーとルインのマンションのようだ。
 ロナルドは握ったままだったスマホを操作し、最初からそれが目的のようにライトを点け、濃い闇の先を照らした。ルインが振り返る。大丈夫だよ、ロナルドは言い聞かせるように呟き、毛で覆われているルインの目に向かって微笑んで見せた。