さもゆ
2025-01-14 09:19:04
36172文字
Public 吸死
 

【ドラロナ】犬を愛さぬ者、紳士に非ず

ジョギング中よく会うようになった犬と飼い主とロくんと、ロくんの善性を利用されるのが我慢ならないド公の話。
※犬は死にません
※名前と自我のあるモブと、犬が出てくる
※ドラロナできてない

 犬がいる。
 しかも大きい。熊みたいな犬だ。
 行く先を照らす懐中電灯がなければ、影がそのまま動いているかのように見える。
 思わずでかいワンコ、と擦れ違いざま呟いてしまうほど、その黒い生き物は超大型犬だった。擦れ違って、立ち止まって、自分の吐いた白い息が掻き消える前に二度見して、それから向こうも立ち止まってこちらを振り向いたので、「あっ」と挙動不審ぎみにほとんど無意識で声をかけてしまう。
「お、大きい犬ですね」
 大型犬故の配慮なのかリードを短く持つ飼い主も「あ、」と少し戸惑ったのち、はにかんで頭を下げた。
「よく、言われマす」
 外国人だった。
 ひょろりと背が高く、細い。犬を従えているというよりは、犬に従っているように見えるほど痩せぎすの男だ。少し犬が走っただけで傍らの河川敷に落ちてしまうんじゃないかと思わせてくる。男がそのままロナルドと向き合ったのをいいことに、ロナルドは会釈しながら一歩近づき、まるで飼い主を支えているように大人しく佇んでいる大型犬の前へとしゃがみ込んだ。
 真っ黒い毛に隠れて目許は見えないが、ふんふん、がっしりした鼻を近づけてくる。下からそっと手を差し出すと、嗅がれ、顎を乗せられた。か、かわいい、内心で歓喜する。
「かわい……大人しいですね。何て犬種なんですか?」
「ニューファンドランド、と、何かのミックスだそうでス」
「ニューファンドランド……初めて聞いた。でかい~かわいい……おとなしい……
「デスって。良かっタね、ルイン」
「ルイン?」
 犬の名前デす、飼い主が言ってルインの頭を撫でた。頭の黒い毛がふわふわと掻き混ぜられる。ルインが嬉しそうに口を開け、垂れた舌がロナルドの手を舐めた。冬とは言え自分の体温が高いからか犬の舌は冷たく感じた。犬に舐められた。しかもでかくて大人しくてかわいいワン公に。
 うー、と呻いて抱きつきたくなるのを堪える。かわいい。かわいい。犬が好きだ。猫も好きだけど。アルマジロも大好きになったけど。それでも子どものころから犬が好きだった。昔も今も飼うことはできないので、下校中や仕事の帰りや巡回中に顔見知りになった犬と飼い主に挨拶するだけで満足していたのだが、この今まで見てきたなかで一番大きな犬のルインは、ロナルドのかわいいと思う心をほかの犬同様、簡単に射止めた。刺さった矢がしばらく抜けそうにない。
 手を舐められながらぷるぷると白い息を吐き出し震えているロナルドを見兼ねたのか、飼い主の男が同じくしゃがみ込んで言った。
……一緒に散歩しマすか?」
「えっ! や、でも、ご迷惑じゃ」
「No problem. このまま離れた方が問題がアリそうでス」
「え、ええ、ほんとに? いいんですか?」
「ハイ」
 頷いた男は頷いた拍子に何度か咳をして、細い肩を震わせた。中々咳が止まらない。失礼、と言って口許を取り出したハンカチで拭う。「少シ、肺が弱くて」言った男の胸板は確かに薄っぺらで、言っちゃ何だが、同居吸血鬼並みにすぐに死んでしまいそうだった。不安になったロナルドが手を伸ばすと、大丈夫、と言うように首を振られ、代わりにリードと懐中電灯をやんわり渡される。「スミマセンが、ルインを少し、散歩させてあげてくだサい。私はちょっと、休んでから行きまス」
「大丈夫なんですか? ええと、」
「グレゴリーいいます」
「グレゴリーさん。俺はロナルドと言います。大丈夫ですか? 俺、負ぶりましょうか。家まで送っていきますよ」
 街灯に照らされている薄い色の目をきょとんと丸くし、ロナルドよりうんと年上に見えるグレゴリーがあどけなく笑って言った。
「良かったですネ、ルイン。いい人そうダ」



 ロナルドが日課のジョギングから帰ると、事務所側にいた同居吸血鬼が「くさっ」と声を上げた。
 ソファの横を通りざま殴って殺しておく。夏は散々汗くさいと言われてきたし、冬でもまあ汗は掻くのでこの後続く言葉はムカつく煽りと風呂への催促だろう、ロナルドとしても温かい湯に当たりたかったので揶揄われる前に後ろを通り過ぎようとする。しかし腕に砂粒が絡みつき、輪郭を保った手に、袖を引かれた。振り返る。
「ンだよドラ公、俺は今から風呂に」
「おかえりゴリ造、これは何のにおいだ?」
「あ? ただいま」遠回しの嫌味だろうか。掴まれた手を振り払ってから威嚇すると再生したドラルクは意外にも真面目な顔つきをしており、多少なりとも面食らう。「な、何だよ。……そんな汗くさい?」すん、腕を嗅いでみるが自分じゃよく分からない。そんなに汗くさくないはずだ、と思う。だって。今夜はそもそも、そんなに走っていない。
「いや、汗じゃなくて。汗は常にきみから香るが」
「常に俺のにおい嗅いでんなよ鼻高おじさん」
「常に嗅がせに来てんのはお前だろ同居ゴリラ」
「自分から嗅ぎに来たのはテメーだろが押しかけおじさん」
「黙れ押しかけられルド。大体、最も初めに押し掛けてきたのはきみの方──ええいそんな話がしたいんじゃない」ヒートアップしそうだった埒の明かない言い合いをぶち切り、「汗じゃない」と首を振る。「何のにおいだ? これ」あの形の良い吸血鬼らしい尖った鼻をロナルドに寄せる。
 寄せられたロナルドはもう一度自分でも嗅いでみる。分からない。柔軟剤のにおいが微かにするなと思う。
「何だよ。いいにおい?」
「全く不快なにおいだ」
「ヤなんだけど。そんな状態で走ってたってこと?」言ってから、はたと気づく。「え、待て、じゃあ、ルインにも実は臭がられてたってこと? 嘘だろ」
「ルイン?」
 顔をしかめたドラルクに「今日出会った犬」と答える。「すげーでかくてさ。大人しくって、ふわふわで、めちゃくちゃかわいーワンコだった。俺くさかったのかな。一緒に散歩しちゃった、鼻大丈夫かな……
……でかい犬? ああ、なるほど。獣臭か」近づけていた顔を離し、頷く。「ゴリ臭と混ざって分からなかった」
「そんなに臭いなら柔軟剤とでも混ざってろ」
 再び拳で塵にし、もう構わずに居住スペースへと引っ込んだ。雑魚吸血鬼にとっては大型犬の獣臭ですら刺激が強いらしい。不安になって損した。

「っていうか、散歩したって何だ」
 風呂から上がり、夕飯を囲んでいる最中にドラルクが言った。
 ちびちびと飲んでいたホットミルクを置き、ロナルドを見つめてくる。
 ロナルドの数分後にお出かけから帰って来ていたアルマジロも、テーブルの上でスプーンを持つ手を止めて、主人の視線を真似して見つめた。何の話? というつぶらな瞳を受けたロナルドは、ジョンにも分かりやすいように一から答える。
「ジョギング中にでっかいワンコと会ってさ。今まで見たことないくらい。飼い主さん、グレゴリーさんって言うんだけど。その人がちょっと体調悪そうで、ちょっとだけ俺が散歩したんだ」
 ヌッヌイ、イヌ。ジョンが復唱する。ロナルドはうんと頷いて得意げに続けた。
「えっと、ニューファンドランド? っていう犬種のミックスらしくて。熊みたいに手足が大きくてさ、でもすげー大人しくて、吠えたりもしなかった。グレゴリーさんをベンチで休ませてる間に河川敷歩いたんだけど、引っ張りもしなかったしさ。すっげー、」かわいかった! 少年の無邪気さを頬に浮かべて笑うのを、ジョンはなぜか、ヌ……と小さく眉間に皺を寄せて見つめていた。
「浮気だぞロナルドくん」と軽く言ったのはドラルクだった。「ジョンの前でほかの動物に現を抜かすとは」
「えっ!?」
「ヌッヌイ、イヌ……
「えっえっ違うよジョン! もちろん一番可愛いのはジョンだよジョォン! けどだって俺そのっ昔から犬も好きでぇ……!」
「浮気男の下手な言い訳にしか聞こえないぞ」
「ウエーン!」
 ご飯を食べているからだけではないぷくぷくと膨らんだほっぺを、ぷいとジョンは逸らした。咽び泣いて、違うんだよと何が違うのか必死に言い訳を並び立てるロナルドに、「それで」とドラルクがむくれたジョンのほっぺをつついてやりながら言う。「その飼い主の男、何て?」
「へ?」
「グレゴリーとやら。外国人か?」
「おう。最近この辺に越して来たんだってよ。肺が弱いらしくて、めっちゃ咳き込んでて。一応家まで送ったんだけど」
「は? 送ったのか。家まで」
「うん。いいですって言ったのに、今度お礼させてくださいって」
「おい大丈夫かそれ」
 皮膚の薄そうな顔に明確に皺が寄る。
 ロナルドはおかずに箸を伸ばし、何が、と続きを促した。そのしかめ面が溜め息を吐き出す。
「何がって。あのなあ。あんまり私に保護者じみたこと言わせるなよ。防犯ブザー持たせたくなる」
「とりあえず飯を食う。食ったら殺す」
「お食事優先とは賢い猿 グッドボーイだな若造。そのべたべたの髪にドライヤーを使いこなせてこそ立派な人間 グッドガイだぞ」
「殺した」
「バカ食い終わってから殺せ!」
 頭を狙うと食卓に塵が降り兼ねないため、テーブル下の足を蹴って殺した。下半身から塵になり一瞬で床へと姿を消した主人を追ってジョンがヌーと泣き縋る。ジョンを抱えてすぐ復活したドラルクは椅子に座り直すと、「まあ、きみのその絶対的な暴力は信じられるが」とジョンを食卓に戻してやり、何事もなく続けた。「きみの対人スキルは全く信じてない。その飼い主の男、何もしなかっただろうな」
「何もって何が。何?」
「具体例出さなきゃ駄目か? 何か売りつけられそうだったり。あるいは、経典を出されて有難いお話をだらだらと語られたり、いやきみだと呪いじみた道具を押しつけられそうだな。あとは、そう、変に触られたりとか」
「お前……」ロナルドは眉間に皺が寄るのを感じた。さすがに、この吸血鬼が何を言わんとしているのか理解できたし、その心配の仕方は、自分にも覚えがあった。「疑いすぎだろ。俺だぞ。妹じゃあるめえし」そりゃ妹が知らない男を家まで送ったと言えば、ロナルドも似たようなことを確認するだろうが、自分は男で、退治人で、成人もしている。犬と飼い主を家まで送った程度で防犯ブザーを持たせたくなるような存在ではないはずだ。たまに思う。この吸血鬼は、たまに本当に、ロナルドのことを五歳児だと思っているのではないか?
「疑いたくもなるだろ」
 吸血鬼が頬杖をついて言った。「きみの善性を利用しようとする輩なんざ、いっぱいいる。きみは誰も拒まないから」
 ロナルドは眉間に皺を寄せたまま、途端にこの目の前の男が何を言っているのかいまいちよく分からなくなり、とりあえず、目の前の男が作った飯を食った。



 二回目に犬のルインと飼い主のグレゴリーに会ったのは翌晩だった。
 昨日と同じルートだ。冬の夜は早い。街灯が点き始める時間帯、事務所を開ける前にパトロールがてらジョギングをするのが最近の日課だった。河川敷のそば、ベンチの近くで佇む真っ黒い大きな影と、細長いシルエットを見つけたロナルドは、「あっ」とまた声を上げ駆け寄った。「ルイン、グレゴリーさん」
 ロナルドが白い息を吐き出しながら立ち止まると、のっそのっそと大きく太い手足で歩いてきたルインが、すり、ロナルドの足に擦り寄った。それからお行儀よく地べたに座る。かっ、と大声で言いそうになり、慌てて小声で「か、かわいい……。こんばんは」と毛足の長い頭をそっと撫でた。その様子を見ていたグレゴリーが「こんばんワ、昨晩は、ありがとうゴザイましタ」とロナルドに向かって頭を下げる。
「や、そんな」
「散歩だけでナく、家まで送っていたダけテ。感謝しまス」
「いえいえ、そんなそんな。頭を上げてください」
「代わりと言っては何デスが」
 ごそり。グレゴリーが手提げ鞄から何かを取り出し、頭を上げた。
「遊びまセンか、ロナルドさん」
 掲げて見せたのはフリスビーだった。

「ルイン! いくぞ!」
 ルインはよく走った。
「スッゲー! めっちゃ飛ぶ!」
 大きな体で軽々と地面を離れ、ロナルドが投げたフリスビーを何度もキャッチしてはお利口に持ってきた。
「いい子だな~! よーしよしよし!」
 わっしわっしと頭を撫でると、ふさふさの尻尾をぶんぶんと揺らす。
 河川敷で、子どものようにはしゃぐロナルドは、すっかりこの巨大で大人しい犬に夢中だった。たまに加減を誤り突進してくる姿すら愛らしい。あのロナルドが何度か衝撃を受けて地面に倒れたが、その度、ロナルドはきゃあきゃあと笑い声をあげた。
 今もフリスビーを咥えて駆け寄って来たルインを懐で受け止め、地面に尻をついて頭を撫でやっている。は、は、と舌を出すことはあっても吠えないし、噛まない。ロナルドは毛むくじゃらの大きな犬をぎゅっと抱きしめ、撫で繰り回す。腕の中でわふ、と嬉しそうにくぐもった鼻息が聞こえた。頬に当たる鼻は冷たく湿っていて、ロナルドは自分の熱を持つ頬を自らくっつけた。
「良かったデス」
 傍で見守っていた飼い主のグレゴリーが満足げに声を落とした。
「ワタシじゃ、充分に遊べなイ。ルインが楽しそうデ、ワタシも楽シイ。ありがとうございマス、ロナルドさん」
「やっほんとそんな! すんませんめっちゃ楽しんじゃって……
「犬がお好きナンですカ?」
「えっはい! もうかわいくって、」緩みまくった表情筋が昨晩のジョンのぷくぷくほっぺたを思い出し少し引き締まる。「アルマジロの可愛さは殿堂入りしているとして、犬は、犬も、はいめっちゃ好きです……
「カワイイですもんねえ」ルインを見下ろし、それから「アルマジロ?」とロナルドを見る。
「あ、はい。家にアルマジロがいて……同居人の、家族なんですけど」
「吸血鬼ドラルク?」ごほ、咳が出た。口許を慣れた仕草で押さえたグレゴリーはこんこんと続けて咳をする。気遣わし気に手を狼狽えさせたロナルドを瞳の微笑みで制し、ロナルドの返事を待つ。「ああ、ええと、はい」ロナルドは曖昧に頷いた。こういうことはよくあって、たとえば退治人のロナルドを町で見かけたひとは大抵「吸血鬼ドラルクは?」という反応を示すものだから、最初こそ何であいつとセットで見られなきゃなんねえんだと苛ついたものだったが、今となっては。慣れたというか仕方がない気持ちというか、妙に落ち着いてしまっていた。当たり前になっている。退治人ロナルドのそばには、吸血鬼ドラルクがいる。「ご存知だったんですね、俺が吸血鬼退治人だってこと」
「シンヨコハマに来て、すぐ。あなたは有名人デス」
「いやー、」
 悪い意味じゃないといいのだが。何せこちらは全裸にもなるし猥談も大声で叫んでいる。
「吸血鬼ドラルクの使い魔が、アルマジロでしたネ」
「そうです」
「仲が良い?」
 誰と誰の、とは訊かなかった。ロナルドは誰でも一緒か、と思って頷いた。
「とっても」
「いいデスネ」グレゴリーは痩躯を折り曲げて黒い大きな犬を撫でやる。「ワタシも吸血鬼だったラ、彼と主従になれていたかもシレなイ」撫でられたルインは毛に隠れた目で飼い主を見上げ、わふ、と鼻息を漏らした。ロナルドの目には、充分な信頼が一人と一匹にはあるように思えた。
……どれくらい一緒にいるんですか? ルインくんと」
「どれくらい? ええと、そうですネ」日本語が見つからないのか、何度か首を傾げたあと、「ワタシが、二十代ノ頃からでス」と頷いた。海外の血を引いていると見た目年齢が実際より上に見えてしまうので、もしかしたらもっと若いかもしれないが、グレゴリーはロナルドにとって三十代半ばぐらいに見えた。少なくとも、ルインを飼い始めて五年以上は経っているだろう。百八十年を共に過ごしている主従を知っているばかりに、それはとても短い時間に感じた。
「これからも一緒にいたいですか」
 ロナルドが何とはなしに、ともすれば無神経とも取れる質問をしてしまうと、グレゴリーは少し困った顔をして「ハイ」とまたルインの頭を撫でた。
「できれバ、一緒に。ずっと一緒に、いたいデす」



「くっさ」
「またかよ」
 ロナルドが事務所に帰宅し、ソファの後ろを通り過ぎると、昨晩同様、座ってゲームをしていた吸血鬼が砂になって崩れ落ちた。
 今夜はジョンがいる。崩れた主人にヌーと泣いて縋っている様を、ソファの背もたれに肘を置いて眺めるロナルドは、手を伸ばしてその小さな頭を撫でやった。ヌーヌー泣きながらすりすり指先で撫でられてくれているジョンはやっぱり可愛い以外の何ものでもない。
「お前さ。あんまりジョンを泣かせてやるなよな。お前のこと大好きなんだから」
「いや泣かせている要因はきみにもあるからな? 何窘めてくれやがってんだ」
「百八十年もさー、一緒にいんだから……
……何だい、その顔」
「あ? どの顔だよ」
「七面倒で心配しなくてもいいことをわざわざ心配している顔だ。何だ? 先週雨に濡れた長靴はもう乾いてるだろ」
「お前って未来の心配はまるでしねえよな」
「当然だろう」再生したドラルクの顔はわけが分からない、というふうに片眉が上がっていた。「今が一番楽しい。私には常にそうだ。思い出か、今しかない。どちらも素敵な暇つぶしだ」
 ふうん、ロナルドは興味なさそうに相槌を打った。心の中では、お前ってやっぱり吸血鬼だよな、とどこか考えても仕様のないことを考えていた。ドラルクには、ジョンがいる。永遠を共にする使い魔、親友、家族。決して破れることのないその誓いは、寿命の確約されている人間にとっては真実味がなくて、おとぎ話のようだった。ドラルクにはきっと、その人間より寿命の短い犬と、飼い主の、いつか必ずくる永遠の別れに思いをはせるような時間は、ないのだろう。
 ︎︎じゃあ俺のことは、とロナルドは更に考えて、頭を振った。楽しくない、と思ったからだった。この享楽主義の吸血鬼のそばから、いつか必ずいなくなってしまう自分のことを考えてしまうのは。
「で? 獣臭ゴリルドくんはまたワンコロと遊んできたのかね。あーあーこんなに砂をくっつけて。あ。違えこれ私の指だ」
 死んだ際に飛び散って付着した自分の指の欠片を元に戻しつつ、ジョンを抱えて座り直す。ロナルドは背もたれに腕を乗せたまま「うん」と素直に頷いた。
「今日はフリスビーで遊んでもらった。楽しかった」
「ジョンだってボールになれるのに」
「ならすな。っわージョン! 丸まらなくていいからね~! 俺ジョンをボールにするんじゃなくてあのそのう、おはじきとかなら一緒にしたいな~♡」
 ドラルクの肩から頭によじ登り、ロナルドの腕から胸へとよじよじ登ってヌンヌン鳴くアルマジロを、ロナルドは蕩けきった顔と声で出迎える。直接的に浮気者と言われたわけではないが、限りなくそう言われた気分になってジョンを抱きかかえると、ジョンはロナルドの服を口に含んで黙り込んだ。心臓が口から出るかと思った。可愛さと愛しさと申し訳なさと庇護欲を唇を噛みしめて耐えていると、耐えすぎて、涙が出てきた。どうしよう。ジョンがこんなにも可愛い。
「ジョンは寛大なアルマジロだからな。別に誰と遊ぼうが構わんだろうが、その分、甘やかしてやれよ」
「うん♡」ジョンに向ける甘えた態度を一転し、ドラルクを見やる。「お前ってさ、前から思ってたけど、やっぱ嫉妬とかねーんだな。やじゃねーの? 自分の大好きなジョンが、ほかのやつに甘えんの」
「ジョンの一番は私だと分かっているからな。きみだって知ってるだろ」
「まあ」
 予想通りの答えに無意味なことを訊いたなと内心ごちる。しかしドラルクは、その言葉に続きをつくった。
「それに、まあ。愛しの使い魔と城の従者が仲良くしていたって、微笑ましいだけだ。城主の労働環境作りが良い証拠だし、いい気分にはなる」
 とりあえず殴って殺しておいた。
 ジョンがロナルドの服をしゃぶりながらヌーと泣いている。よしよしと小さな頭を撫でた。誰が従者じゃ。

 私も会いに行ってみようかな、とドラルクが言ったのでジョンの機嫌は益々お悪いものになってしまった。
 昨晩と流れは同じだ。ロナルドが風呂から上がって夕飯を囲み、もぐもぐと咀嚼している最中、ジョンがそれならヌンも行くとほっぺたをぷくぷくに膨らませてテーブルに置かれているドラルクの手の上に座り込んだ。ドラルクは仕方がなさそうに笑いながら、手袋をしていない手でジョンの甲羅を撫でさする。「違うよ、ジョン。可愛い犬を見に行くんじゃない。これは敵情視察さ」
「敵情視察ぅ?」
「そ」存外に真面目な顔をロナルドに向ける。「きみを骨抜きにした人間と犬の主従が、どんなもんなのか気になる」
「何でだよ。普通に可愛いルイン見に行きゃいいだろ」
「犬なんぞに興味はないわ」
「じゃやっぱ行く意味ねーだろ」
「興味があるのは、飼い主の男の方だ」
「グレゴリーさん? 何で?」
「今日は家まで送った?」
 ロナルドは美味しいご飯を食べながら、苦虫を嚙み潰したように唇をひん曲げた。まるで昨夜の続きが始まってしまっている。
「何だよ。また疑ってんのかよ。送ってねーよ。今日は一緒に遊んで、そんで終わり。悪い人じゃねえ」
「悪い人ってのは、後から悪さをするタイプもいる。警戒しといて越したことはない」
「お前さー、それ。やめろ。俺は成人してる男だぞ」
「まだガキだろ」
「そういう台詞はさあ、親戚のおじさんとかが言うやつなんだって。たぶん。知らんけど」
「私ときみの年の差は埋まることがないんだ、きみはずっと五歳児だよ」
 ロナルドがいずれ老人になることなぞ少しも知らない口振りだ。
 髪や眉に白髪が混ざっても同じことを言ってくるんだろうか、この吸血鬼は。……白髪の老人になっても隣にこの黒い吸血鬼がいる未来が見える。あほくさ、ロナルドは思った。クソゲーしかり、こいつはたまに傍から見てつまらないものに酷く楽し気に執着するときがある。ロナルドがそれだとしたら、本当に、未来のことなど考えても無駄かもしれなかった。だってクソゲーが突然動作を止めたりリセットされたり挙動がおかしくなったりを、ドラルクは普段から好んでいるわけなのだし。ロナルドが未来から永遠にいなくなったとしても、先刻言ったように、ドラルクは思い出を大事に今を楽しく生きていってくれるのかもしれない。その方がいいな、と思った。そうじゃなきゃ駄目だ、とも。
……ガキ扱いしても俺は退治人だからな。いざってなったら誰でも殴れる。知ってんだろ」
「知っているよ。きみのパンチは老若男女、種族問わず平等だ。だが暴力で解決できない場合もある」
「たとえば? いや、ちげえ。だからグレゴリーさんはそんなんじゃないって。マジで考え過ぎだぞ。どしたん? 昔犬飼ってたひとに酷いことされたとか?」
「ああ。仲の悪い家の息子が、私の飼っていた鳥を飼い犬に襲わせて食い殺させたことがある」
「ごめん」
「嘘だ」
「あ?」
「今のはきみの危機感を高めようとして吐いた本物の嘘だ。だからそう悲壮な顔をす、箸で刺すな馬鹿!!」
「悪質な嘘吐くな阿保。ボケ。もうお前の言うことは信じねえ。グレゴリーさんはいい人だもん」
「たった二回会った程度でいい人呼ばわりか」
「お前は会って二回目で家に住み着いたから悪いひとだ。悪いひとの言うことは聞いちゃいけねえって兄ちゃん言ってたもん。お前の言うことは信じない」
「五歳児ムーブやめろ、洒落にならん!」
 洒落だろ。成人してるんだっつの。
 とにかく、次行くときは私も着いていくからな、寝てても起こせよ! と喚かれたのであーはいはいと適当にいなしておく。まあ実際に会ってみればごちゃごちゃ言わなくなるだろう。それに、あの人懐こくて大きな犬の可愛さを、誰かと共有したくもあった。



 ところが翌晩、陽が沈んだばかりの事務所に下等吸血鬼の群れが出たという退治要請の緊急電話がかかってきたため、ロナルドは寝起きのドラルクを置いて現場へと急行することになった。
 太陽が沈むと外気温が一気に下がり、誰も彼もが白い息を吐き出している。雪が降る前が一番寒い。身を切るような冷たさのせいか血潮の熱さを彼らは求めているのかもしれなかった。到着した現場では、植物と鳥を掛け合わせたような下等吸血鬼の群れが空と地を支配していた。奇しくもそこはグレゴリーとルインと出会った河川敷の近くで、彼らの散歩ルートに沿っている。吸対の規制線が張られてはいたが、ロナルドは咄嗟に、あの痩躯の男と大きな犬の姿がないかを探していた。
 地を這う群れを蹴散らし、飛び掛かってくる輩は殴り飛ばしていると、頭上を飛んでいた一匹が、不意に羽ばたきを止めてロナルドのそばに落ちてくる。地に落ちたそれは塵となり、後には銀でできたライフル弾が残っている。吸対の狙撃手の子だ、ロナルドは正しく認識しておそらく遠くのどこかから見ているだろう味方に手を振って応えた。
 連絡ではこの群れが何ヶ所かに広がっており、各退治人が赴いて仕事をしている。吸対の応援もあるのならば、たとえ数が多くとも全て制圧可能に思えた。頭上を飛んで逃げ出すやつがいるかもしれないという不安がなくなり、存分に、目の前の敵だけを倒し続けられる。
 自分の応援があいつで良かった。ロナルドの友人である半田の後輩は、いつも良い仕事をしてくれる。
 頭上でスパスパと煙草の煙より心地よくたなびく弾道に、知らず唇がむずりと綻ぶ。狙撃手って、カッコイイ、ロナルドは素直にそう思っている。それに、とても助かる。戦闘において信頼のおけるスナイパーがいることは、どんなときでも、勝利を確信させるものがあった。いつぞやの共同戦線が終わったあとライフルを抱えた彼に「何ニヤついてたんですか、ロナルドさん」とちょっと不服そうに言われたことを思い出し、慌てて顔を引き締めた。半田のようにヤバい奴だと思われたくはない。
 足元に伸びてきた蔦を蹴り飛ばし、本体とその周囲を飛ぶ数匹をまとめて撃ち倒していく。近接と中距離を同時に、あるいは交互に繰り返し、長距離は狙撃手に任せていると、一帯の数は瞬く間に減っていった。そのとき、微かに、銃声とは違う、何か低く響く音が聞こえた。
 撃つのをやめる。ハエ叩きと拳に切り替え、身を躱し、ぶん殴りながら、何だ? と周囲の気配を探った。ロナルドの視界の端から闇が駆けてくるのが見えた。
 新手の吸血鬼か、すわ熊か狼かと思った。違う。あれは犬だ。
「ルイン!」
 ロナルドがそちらに顔を向け、犬に飛び掛かろうとしていた下等吸血鬼を見つけるや否や、銃口をぶれることなく定め引き金を引いていた。撃たれた下等吸血鬼の塵を物ともせず、あの大人しい大きな犬が一心にロナルドの元へ駆けてくる。嫌な予感がした。リードは首から垂れ振り回されており、それを握る飼い主がいない。
「ルイン! グレゴリーさんは!?」
 ロナルドが叫んで駆け寄っていくと、太い手足を急転回させたルインが、うォん! と吠えて来た道を駆け戻って行く。ロナルドを振り向き、また前を向いた。間違いない。着いて来いと言われている。
「サギョウくん! 俺はあっちに行く!」
 聞こえるはずはないがそう叫び、地面に残っていた飛べない下等吸血鬼を全て銃弾に伏して犬の後を追う。一応身振りでルインが駆けていった先を指で示し、スコープ越しに伝える。ヒュパ、と鳴って乱れることなく的を当てる音が、返事かどうかは分からない。
 ルインに導かれた場所はやはりあの河川敷で、真っ黒い川のそば、枝のように倒れている人影が見えた。
 ︎︎彼の体を、数匹の下等吸血鬼が纏わりついている。急速に頭の中が冴えていく感覚がした。
 銃は駄目だ、グレゴリーに当たる。
 駆けて行って殴るのも惜しい。まだ距離がある。
 ロナルドは滅多に出さない護身用ナイフを抜き取り、自分の左手を躊躇いもなく傷つけた。グローブの中に一瞬にして血液が染み渡る。それを歯で噛んでぞんざいに外し、血のついたナイフを突き刺すと、前方に向かって投げ捨てた。
 気づいた下等吸血鬼たちが羽ばたき、地を這って、そしてどこが目とも分からなかったが確実にロナルドの姿を捉えた。下等は下等、でも吸血鬼だ。己を倒しに来た退治人を、本能から察せられないわけがない。数舜震え、しかしすぐにロナルドに向かって襲い掛かって来る。いい子だ、ロナルドは口の中で呟いていた。お前たちの相手は俺だ。ほかの誰にも、その牙を、その爪を、向けさせやしない。
 新鮮な血液目掛けて飛び込んできた全ての下等吸血鬼を、ロナルドは、拳のみで倒す。灰色の塵が雪のように舞い、赤い帽子と外套を汚した。一息も吐かずに、グレゴリーのそばへと駆け寄った。
「グレゴリーさん! 大丈夫ですか? 意識は? 怪我は?」
 膝を擦りながら跪き、支え起こした体が冷たいことに息を呑むも、「大丈夫でス」としっかりとした返事が返ってきたことにより、そこでようやく、吐き出した息が白く長く濁った。
「良かった、本当に。お怪我は?」
「ありまセン」
「どうしてこんなところに。規制線、張ってあったでしょう」
「具合が悪ク、咳き込んでいたラ避難に遅レてしまッテ……スミマセン」
 見たところ本当に怪我もなく吸血もされていないようだったが、肺が苦しいのか、とんとんと自分の胸を叩いてこほこほと咳を零している。ロナルドは自分の赤い外套を脱ぎ、目についた吸血鬼の塵を払ってから、グレゴリーの肩にかけやった。「VRCまで送ります。一応、診てもらわないと」
「平気ですヨ。ロナルドサンが助けに来てくれタのデ」
「ルインが呼んでくれたからです。本当に、」グレゴリーのそばで先ほどの必死さが嘘のように静かに寄り添っている夜色の犬に片手を差し伸べる。「お前の判断は正しい。偉いぞ、ルイン。自分で立ち向かわずに、助けを呼ぶのが一番なんだ。お前はきちんと、グレゴリーさんを守ったよ」頭を撫でようとして、それが血塗れの手だったことに気づき慌てて引っ込めようとする。けれどもルインが頭を下げて、ぺろりとロナルドの手を舐めた。自分の手が火傷しているような痛みをやっと自覚する。ルインの舌の方が冷たく、労わるようにぺろぺろと舐められ、寸の間、そうやって舐められたことに心が躍ったが、すぐに「ウワァ! だめ! ばっちいでしょそんなもん舐めたら!」と手を後ろに回した。ぐりぐりと頭を擦りつけてくる。お礼を言われているようだった。かわいい。うれしい。抱きしめたい。いやこんな汚れた姿で抱きしめられない。くやしい。
 震えて歓喜を噛みしめているロナルドに、グレゴリーがごほっと大きく咳をしながら「ルインは本当に、いい人を見つけテくれマしタ」とのんびり笑った。

 散歩の終わりにいつも通っている病院に行こうとしていたと言うので、ロナルドは落ち着いたらVRCに寄ることを勧め、今度必ずお礼をさせてくださいと言う一人と一匹に手を振って別れた。後ろ姿を見えなくなるまで見送り、現場に戻ると、やっぱりちょっと不服そうな顔をしてライフル銃を担ぐ白い服の青年が立っていた。悪いとは思うが、ほっとしてしまう。彼が姿を現すということは、仕事が無事終わったということだからだ。
「ロナルドさん」
「ごめん、サギョウくん。急に持ち場離れたりして」
「ほんとですよ、びっくりしたんですから」
 あの弾道はびっくりを表していたのか。それでも必ず中てるのだからやはり彼には信頼しかない。
「遮蔽物も少なかったし、サギョウくんだから大丈夫かなって思って……ごめんな」
 彼はあまり感情が透けない瞳をぐ、と細めて(もしかしたら睨まれたのかもしれないが)「べつに」と唇を尖らした。「まああんなの、そりゃ僕なら全然大丈夫ですけど」と言うのをロナルドはうんと頷いて肯定する。ロナルドの隠しもしない信頼を目の当たりにしたサギョウは益々顔を複雑に歪めて「さっきの犬は?」と河川敷の方を向いた。川に広がる濃い影は、犬と同じ色をしていた。
「最近知り合ったひとの飼い犬でさ。ちょっと行ったところで下等吸血鬼に襲われかけてて。間に合ったから良かった」
「間に合ったんですか?」
 視線をロナルドの手に向けて訊いてくるので、ちょっと決まりの悪い思いをしながらも「これは仕方なく囮として。真似すんなよ。半田と、……隊長さんに怒られるぞ」大事な部下に間違った戦い方を吹き込んだとあっては大問題だ。ロナルドこそ怒られる。一応現場の先輩らしいことを言うと、彼は「狙撃手はそんなことしません」とキッパリ言ってくれた。それはそうだ。陰から獲物を撃つスナイパーが囮になるのは展開として最悪が始まっている証拠だ。ヒヨシ隊にそんな未来は来ないだろう。
「川の方」
「ん?」
 青年の丸い瞳がじっとロナルドを窺うように見上げてくる。
「何か、薄っすら霧みたいなのが立ち込めてて。ここからは離れていたし、問題ないだろうとあまり意識を向けていませんでした。すみませんでした」
「エッ」
「僕が気づいていたら、撃てる距離でした」
「やっそんな、」
「先輩にもあなたひとりにいい格好をさせるなと言われていたのに」
「そんなこと言われてんの!? 半田あの野郎!」
「隊長にも最大限サポートしろと」
「たっ隊長さん……!」
「もっと視野を広げて、注意深くなります。これからもよろしくお願いします」
 丁寧に言い、頭を下げる協力組織の青年に、ロナルドは「サギョウくんて、半田が関わらないと本当に真面目でいい子だな」と言うつもりのない本音を漏らしていた。サギョウを悪い子だと思ったことはもちろんないが、普段目にするのは半田に振り回される不憫な場面が多いだけに、彼の本来のひとの好さに触れてしまうと益々同情に似たものを抱いてしまう。サギョウも全く同じ顔つきをして「ロナルドさんこそ。先輩がいないときはわりと普通にカッコイイですよ」と誉め言葉か分からないことを口にした。お互い苦労している。



「うるせーな走り回ったし犬も触ったし硝煙塗れなんだから当たり前だろ、風呂入ってくる」
「まだ何も言っとらんだろ」
 現場の後始末や各メンバーとの報告、手当てを終えロナルドが帰宅できたのは日付が変わって更に数時間経ってからだった。ほとんど夜明け前だというのに住居側で大人しくジョンと一緒にロナルドの帰りを待っていたらしい同居吸血鬼は、ブーツを脱ぐロナルドにあからさまな視線を投げて寄越したので、先んじて釘を刺したのだが。その釘が刺さったところから抜け落ちて再生してしまうのがこの貧弱吸血鬼の能力だ。ドラルクは「くさい」とやはり予想していた言葉をそのまま吐いた。「汗と、煙と、湿った獣のにおいがする」
「だからそう言ってんだろ」
「また例の犬に会ったのか? 仕事は? 上着は?」
「仕事先で、グレゴリーさんとルインに出くわしたんだよ。上着はグレゴリーさんに貸した」
「何だ? 襲われてたとかか?」
「ああ。怪我が無かったから良かったけど」
「じゃあこの血のにおいは? きみの血?」
「これ、洗濯しといて。縫ったらまだ使えっかな? 直せそうなら、やってくれ」
 包帯の巻かれた手で、乾いた血のこびりついたグローブをドラルクに差し向ける。ドラルクの腕の中にいるジョンが、ヌァ、と身じろいだ。気遣わし気に主人を見上げ、ロナルドを見て、ロナルドくん、大丈夫? と優しい言葉をかけてくれる。大丈夫だぜ、ロナルドは笑って言った。「加減しろって怒られたけど、暴れなけりゃ生活に支障はないって。すぐ治るよ」
「加減しろ? 何の」
 質問ばかりで中々受け取ろうとしないので、グローブをドラルクのポケットにねじ込んでやる。てっきり何かしら煽られるか文句を言われるかと思っていたが、おかしなことに、ぎくりと身を強張らせてねじ込まれるだけだった。洗濯籠に入れたら入れたで、ほかの洗濯物が駄目になってしまうことくらいは分かる。ドラルクの衣服はデスリセット対象内だし、ちょうどいいと思っての行動だった。頓着なく離れ、風呂の前に水を飲もうとキッチン内に入る。
「自分でやる場合は大抵ブレーキがかかるのに、それができないんなら最初からアクセルを踏むなって怒られた。VRCのひとにも、ギルドでも」
「何の話してる?」
「お前が訊いたんだろ。俺の手の話だよ」
「どう聞いたって車の話だったろ今のは。なに? ブレーキ? はあ? 自分でやったのか。なぜ?」
「手っ取り早かったから。グレゴリーさんが襲われかけてて、距離があった。銃は危なかったし、吸血鬼を誘き寄せるには血だろ。まあ、そりゃ、褒められた判断じゃなかったけど……。確かに。ちょっと指先傷つけるだけで良かったのかも。今度はそうする」
 手のひらを思いきり切り裂いた皮膚は、実のところ、縫合まで至ってしまっていた。そんなに深く斬ったつもりは、大丈夫です、と萎縮して言ったロナルドの前で微笑んだ医者が、大丈夫かどうか判断するのはあなたじゃありませんと静かに言ったのが中々怖かった。ロナルドは大人しく手術台に括り付けられた。
 入院とかしなくて良かった。こんなんで入院なんてしたら、情けなさ過ぎるし、兄にもっと顔向けできなくなる。自分はまだまだだ。それこそ、サギョウのような若者にカッコイイと言われるほど、本当はちっとも成熟していない。もっと努力を、もっとひとを上手く助けられるようにならなくては駄目だ。
 苦い思いごと冷蔵庫から取り出した水を飲んで喉を潤していると、いつの間にか背後まで来ていたドラルクの影が傍らに落ちていた。振り返ってぎょっとする。
「お前。顔。どうした」
「どんな顔してる?」
「どんな顔っつーか。ない。首から上、どこに落としてきた?」
 見ると玄関からここに至るまでに点々と砂が降り積もっている。「何だよ。何で顔だけ……
「嗅がないようにしてる」
「エーン、そんな汗くさい?」
「私の気遣いだ。きみは泣いて感謝するべきだ」
「右手は暴れられるってこと忘れんなよ雑魚おじさん」
「私が吸血鬼だってことを忘れるなよ若輩退治人くん」
「ああ?」
「きみの性質はいい加減理解しているがね。病院に私の棺桶は持ち込めないんだ、あんまりつまらんことをするな」
……なに? なあ、顔戻せよ。表情分かんねえと煽ってんのかの判断ムズイだろ」
「この声が煽っている声に聞こえるか?」
「楽しくなさそうな声には聞こえる」ロナルドはちょっと迷ってから言った。「……怒ってる? わりと真面目に」
「わりと真面目にかなり怒ってる」
「俺のせい?」
「大部分は」
「じゃあ意地でも謝んねえ」
「こンの天邪鬼ルドが。まあいい。私も謝られたいわけじゃない。ただこれだけ。心に留めておいてくれ」
「なに?」
「私に楽しくないことを考えさせるな」
 聞きようによっては横暴で傍若無人そのものだったが、それはどこか切実な響きを持っていた。
 ロナルドは面食らって、なにお前、と心の中だけで思った。おまえ、楽しくないこと考えられんの。たとえば、この面白いらしい若輩の吸血鬼退治人が、年老いていなくなる先のこととか? それは。
 それは何だかとても酷いことをさせている気持ちになって、ロナルドは、分かった、と素直に頷いた。あまりの聞き分けの良さに、本当に分かってんのか? 絶対分かっとらんだろ、としつこく差してくる指を右の小指だけでへし折って砂にする。指切りにしては随分乱暴だったが、これがロナルドらしい精一杯だった。