kurotera
2025-01-01 01:27:01
72939文字
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たとかとはなし 上

2023年12月に発行した温泉スカウトパロディ本の再掲です。
書き手本人が見た幻覚で諸々をねつ造しています。
高濃度の幻覚話。

 
 ごつごつとした幹の肌を削り、棚から拝借してきた蜂蜜を塗る。てらてらと光るそれは夜の内に昆虫たちを誘い、朝早く戻れば空の虫かごをじゅうぶんに満たしてくれるだろうと、少年は考えていた。
 頭の上でヒグラシが鳴いている。
 山に入った時よりも、日差しが弱くなってきた。夕暮れの到来に少年はほんの少しだけ残念に思いながら、蜂蜜の瓶をリュックに入れた。
 太陽が沈まぬうちに山を下り、麓の村にある家に帰らなければならない。
 
 夏休みの間、村に住む祖父母に預けられている。
 少年が暮らす街とは違って、この村には山と川しかなかった。テレビのチャンネルも少なく、娯楽もない。知る人ぞ知るという温泉があって、近年それで町おこしをしようという動きはあるものの、少年にとってそれが面白いかどうかはまた別である。
 
 なのでこうして山の中で見つけたクヌギの肌に蜂蜜を塗れば大きなかぶと虫が採れないものか、と試してみたり、川のほとりで日向ぼっこをしている亀を捕まえ引っくり返してみたりして、退屈を紛らわせていた。
 それももうあと数日もすれば母が車で迎えに来る。残り少ない夏休みは家で過ごすことになる。
 長閑すぎる田舎では少年も退屈してしまうのは彼の祖父母も百も承知で、村からの道がある山へ遊びに行ってもいいと許していた。
 ただ祖母はひとつだけ、少年に言い聞かせたのである。

 
 お天道様が沈んだあとは、山にはいってはいけないよ。
 そうでないと山から出られなくなってしまうからね。
 それと、行っていいのはミツルギ様のお社までだよ。
 それより上へは、行ってはいけないからね。
 
 
 どうやら祖母は昔、その山にある神社がずいぶんと賑やかだったころにそこの巫女さんを勤めていたらしい。ゆえに信心深く、何の変哲も無いただの山を怖がっているのだと少年は子ども心に思っていた。
 無論夜の山は危険であり、迷子になれば大事だという大人の心配が言いつけの理由の大半であろう。そういった事にまだ疎い子どもは祖母の真剣な顔に、この優しいおばあちゃんを怒らせたくはないと感じたので素直に従っていたのだった。

 ――ふわふわと光が漂っている。

 道に戻ろうとした少年の目の前をゆっくりと横切ったそれに、思わず目を奪われた。よくよく見るとそれは光を纏った蝶のようである。不思議なことにその羽根は青から赤、赤から橙と色を変えながら羽ばたいているように見えた。
 そんな蝶、博物館でも見たことがない。
 そもそも、誰も見たことのない蝶なのかも。
 少年の頭によぎったのは、そんな考えだ。
 テレビでたまに見かける、自分と同じ年頃の子どもが新種の虫を発見したというニュースも、思い出した。
 ここ一週間、ずいぶんと退屈な夏休みを過ごしていた少年の好奇心をくすぐるには、充分だった。
 虫取り網を握りしめなおす少年の決意を知ってか知らずか、蝶は光の鱗粉を振り撒きながら木々の奥深くへと飛んでいく。誘われるように、少年は歩き出した。

 かみかくしにあうからね、いいかい。

 音もなく、小さな影を追う。
 獲物を見つけた高揚感を胸に抱きつつ、その影から目を離さない。
 太陽が沈んでいく。梢の間から差し込む光は徐々に陰り、空は茜色に染まる。夜はすぐそこだった。
 琥珀色の目が嬉しそうに細まるのを横目に指をつう、と動かせば、それに操られるように蝶はくるくると舞い、愚かものを誘う。
 

 奥へ、もっと奥へ
 おいで、おいで
 おいで

 歌うように囁き、笑みを浮かべる。
 隣の影が音も無く離れるのを感じながら、ふらふらと奥へ進む小さな獲物へとゆっくりと歩き出した。

 カァ、カァ、とカラスが鳴く声に我に返って、少年ははっと顔をあげた。
 すっかり日の落ちた空は夕陽の残滓もわずかとなり、闇に染まりかけている。
 慌てて周囲を見渡せば、鬱蒼とした木々が並ぶ雑木林の中は先ほどよりもずっと、暗い。――いつの間にか、蝶も見失ってしまった。

 お天道さまが沈んだあとは、山に入ってはいけないよ。

 ここにきてようやく、少年はあれほど言い聞かされていた筈の祖母の言葉を思い出した。そうはいっても、帰られなくなるという恐怖よりも祖母や祖父に大目玉を食らってしまうという恐怖がまだ勝っている。
 今ならまだ間に合うと急いでもと来た道を戻ろうと、回れ右をして一歩踏み出す。
 ぱきり、と木の枝が折れる乾いた音がした。

 どれほど歩いただろうか。
 来た道を戻っている筈であるのに、一向に元の道にたどり着かない。
 お社のある中腹あたりならば、子どもの足でゆうに帰ってこられる程度の場所で、道からすこし外れたとしてもすぐに戻ってこられる筈なのだ。しかしその道が、見つからない。

 山から出られなくなってしまうからね。
 かみかくしにあうからね。
 いいかい。
 

 不意に、祖母のしわがれ声を思い出す。その途端、得体の知れない恐怖が少年の内側から沸き起こり、がくがくと足が震えだした。
 言いつけをやぶったばかりに、出られなくなってしまったのだろうか。
 そんな考えに支配され、ぐすりと鼻を鳴らす。ひぐ、と潰れたような声が漏れた瞬間、ぼたぼたと目から涙があふれ出した。
 おばあちゃん、と泣いて祖母を呼んだとして、足が止まってしまったとして、山から出ることは叶わないのだが、どうしようもなくなった少年はそうするしかない。

 かわいそうに

 しばらく泣きじゃくっていた少年の耳に、奇妙なことに誰かの声が聞こえた。
 それは大人が自分を捜し求めているような声ではなく、くすくす、といった笑い声である。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの、真っ赤になった顔をあげれば目の前には先ほどまで追いかけていたあの蝶がぼう、と暗闇の中で淡く輝きながら羽ばたいている。
 ふわふわと揺蕩いながら飛んでいった先に、ひとつの人影が見えた。
「おや、迷い子だ」
 村祭りに着させられるような装束を着た少年がいる。
 自分よりもいくばかりかは年上に見える。さらさらと艶やかな白金の髪と飴色の瞳は、不思議な雰囲気を孕んでいた。
「ええ、兄者。迷い子です」
 別の声に少年が振り向けばそこには同じような和服を着た少年が、もう一人。
 こちらは淡い菫色の長い髪を三つ編みに結っている。つり目がちな琥珀色の双眸が、嬉しそうに細まっていた。
 突如現れた少年達は小さな子どもを見下ろし、くすくす、くすくすと楽しげに笑った。その頭に白い獣の耳を生やしており、同じ色の尾が二つ、ゆらゆらと揺れている。
 見知らぬ二人に少年が驚き目を丸くしていると、白金の髪の少年が一歩踏み出す。歩みは軽やかでどこか現実味がない。
 動けない少年の眼前に立ち、彼をまじまじと眺めたのち、ねえ、と声をかけてきた。
「夜の山には来てはいけないと、かか様に教わらなかった?」
 優しく柔らかな声が問いかけてくる。飴色の双眸はじっと少年を見据えて、視線を逸らさない。
「兄者、人はすぐに言いつけを忘れる生き物なんです。こんなに小さい人の子ならばなおさらでしょう。かわいそうな生き物です」
「ふふ、そうだったね、弟。……とても哀れだ」
 弟と呼ばれた少年も興味深そうに人の子を眺めては、兄者と呼ぶ少年と子どものまわりをくるくると歩き回っている。とん、とん、と足取りは軽やかで、兄の相づちに嬉しそうに笑って、そしてすとん、と子どもの右隣にしゃがみ込んだ。
「本当に、かわいそうです」
 つり目がちな琥珀色の双眸がきゅ、と細められ、唇が弧を描く。本心で哀れだとは露とも思っていない、そんな笑みを少年に向け、かくりと首を傾げた。
「もう山から出られません」
「あははっ」
 弟の言葉に兄が嗤い、恐ろしさに思わず立ち上がろうとした子どもを逃がすものかとその左隣にしゃがむ。
 ちょうどいい玩具を見つけたと喜びながら、子どもの黒い髪を愛でるように、すらりとした指で撫で、震えている小さな手をそっと握る。

 たぶらかされてしまうよ、誘い込まれてしまうよ。

「ねえ、人の子。お前は黒曜石のように美しい毛並みをしているね。 オレ達の眷属におなりよ」
 けんぞく、という言葉を少年は知らない。しかし自分を見つめてくる飴色の目はきらきらと妖しく輝いていて、恐ろしいのに目を逸らせない。
 何も言えずに固まっていると、右からもう一人が身を乗り出して、肩を掴んできた。
「大丈夫です。兄者はとっても優しいんですよ。一緒に暮らすうちに大好きになります。いいでしょう? どうせもう、おうちに帰れやしないんですから」
 両側から囁いてくる二人の笑い声が恐ろしく、少年はガタガタと震えるばかりだ。腰を抜かしてへたりこみ、何も答えられないでいる子どもの様子も彼らにとっては楽しい余興に過ぎないようだった。兄の指がつと柔らかな頬を撫でる。
「勿論、お前が嫌だというのならばオレ達はどこぞなりとも行ってしまうよ。人の子、お前の嫌がることはしたくないんだ」
「でも兄者、この子はちいさくて弱いから、猪や熊と出会ってしまえばおしまいですね。さっき奥の沢でみずちがとぐろを巻いているのも、オレは見ました。彼らには……オレ達のようにお話が通じるでしょうか?」
 どうだろうか、と二人が笑い合う。いよいよ袋小路に追い詰められた心地で、少年が口を開く。
 はい、けんぞくになります。
 そう頷こうとすれば――カラスの鋭い鳴き声が頭上で響き渡った。
 弾かれたように二人が顔をあげる。兄は忌ま忌ましげに傍らの大樹を睨み上げ、そして少年の髪を撫でていた手をゆっくりと離した。
「弟」
……はい、兄者」
 残念、と弟が眉を寄せて立ち上がる。恐怖と混乱で放心している少年を、冷ややかな目で見下ろしながら、兄は不機嫌そうに尾を揺らした。
「運がいいね」
 一言だけ言い放ち、弟と共に茂みへと消えれば、やがて静寂が訪れる。
 真っ暗な中、何が起きたのかも分からぬまま捨て置かれ、ついに少年はふつりと意識を手放してしまった。

 村の子だ。
 ここ数週間、毎日のように山で遊んでいる。おそらく村の者の血縁者なのだろう。懐かしい匂いがささやかに香るのを感じ取りながら、気を失った子どもの傍らに降り立ち優しく抱き上げる。
 あの二人に傷つけられていないかと確かめながら、眷属の鴉が知らせてくれて幸いだったと安堵の息を吐いた。
 ばさりと濡羽色の翼を広げ、一歩、跳ぶ。
 風を纏い、瞬きほどの刹那のうちに社についた。石畳の上に着地すれば、装束を着た二人の男に出迎えられた。
「間に合うたか」 
「ああ、そのようだ。喜ばしいな!」
「阿形、静かに。子どもが起きてしまうよ」
 山吹色の髪をした男が目を輝かせて喜び声をあげるのを、しぃ、と咎める。それはよくないと口を閉ざしながらも興味津々といった様子で子どもの寝顔を覗き込む阿形を見やり、隣の銀髪の男は苦笑いをした。
「本殿の中に布団を敷いておる。そこで一晩寝かせておけばよかろう」
「ありがとう、吽形。夏とはいえ山は冷える。このままでは風邪をひいてしまうだろうからね」
 銀髪の男はその言葉に頷き、そして目を細めた。してあるじよ、と帰ってきた男に問う。
「人里にほど近い領分で悪さをしておるのは何者じゃ?」
……どうやら野狐が外からやってきたらしい。鴉が教えてくれたよ」
 まだ姿は見ていないけれど、と本殿に上がり、敷かれた布団に子どもを寝かせる。ずいぶんと泣きじゃくったからだろうか、幼い顔は涙でどろどろになっている。やれやれと手拭いでぬぐってやり、くしゃりと黒い髪を撫でた。
「ほう……狐ならば珍しくともなんともないが」
「少し嫌な予感がする。この子を助けたときに何か――そこらにいる狐たちとは違う気配がした。少なくとも今まで山にいなかった類いのものだ」
「さすらいの狐だろうか? 彼らは気まぐれだ、悪戯が度を過ぎたのではないか?」
 困ったことだ、と阿形が眉を下げ、吽形がうむ、と頷く。そして己の主、ひいては山の主たる鴉天狗を見やった。
「しかし、あるじの言うように、用心するに越したことは無い。ここ最近は落ち着いているとはいえ、我らのあるじはお役目についてまだ二百年ほどじゃ。力を見誤り、侮って悪さをする者もおろうて」
 くつくつお吽形が笑うのをじろりと睨み、本殿の戸を静かに閉める。これからどうするかを思案しながら、山の麓を見下ろした。
 まだ見ぬ野狐が更に悪さを働けば、最悪、人死にが出る可能性もある。それは出来るだけ、避けたい。
 考える鴉天狗のもとに、眷属の鴉が舞い降りてきた。
……戻ったか。ありがとう」
 褐色の形の良い指で羽根を撫でれば、機嫌良く羽ばたく。声なき声に耳を傾け、そして金色の眼を伏せた。
 野狐は山を去っていない。しかし姿は見えないという。何か、奇妙な気配がするといった程度だ。
「何かあればすぐに知らせるんだ。いいね、山のあるじ、御剣の命だと伝えてくれ」
 鴉が短く鳴き、去って行く。もう一度あたり一帯を見渡せば山の麓、村では灯りがうろうろと行き交っていた。おそらく、中で眠る子どもを捜し回っているのだろう。
 明け方にはこの社にたどり着き、大人達が少年を無事連れ帰るに違いない。そこでようやく、一安心だ。
 幸い、夏の朝は早い。

 古来、小さいながら霊験あらたかな山である。社のある中腹までは子どもでさえ登ることの容易い、ある程度整備された山道であるが、社から頂上へは許可がなければ立ち入ることも禁じられている。そして日が沈めば、山にすら立ち入ってはならない。古くからそう定められている霊場であった。
 ゆえに、様々なもの――人も、人ならざるものも、この霊山に引き寄せられるのである。人は里に、人ならざるものは山の中に。
 人と人ならざるものの間に線を引き、互いの領分を乱さぬように間を取りもつ。山に流れる龍脈が淀まぬよう力を振るい、時には人の前に力を以て威を表わし、山への畏怖を思い出させる。現世と常世の境界が曖昧なこの地を守り統べる。
 御剣はそういったお役目に就いておおよそ二百年の、山神である。
 褐色の肌に濡羽色の髪と猛禽の翼、望月の如き双眸を持つ美しい鴉天狗だ。
 無論、麓の村の人間にはその姿は見えないが、彼らはもっぱらミツルギ様、天狗様と呼び慕っている。
 古くから続く家の人間の中には、三千院の鬼神様、三千院権現様と呼ぶ者もいた。
「ミツルギ様、奥の院におわす鬼神様、孫を守ってくださりまことに感謝つかまつりまする」
 朝を迎えた社の本殿の中では、老婆が恭しく伏してただひたすらに拝んでいる。
 彼女は若い頃、この社に巫女として勤めていた女であった。ゆえにあれほど口酸っぱく日の落ちた山には入るなと少年に言い聞かせていたのだが、昨晩いよいよ少年が帰ってこなかったので、寿命が縮むような思いをした。夫と村の者が夜通し探す中、ひたすら家で孫をお守りくださいと山の神に祈っていたのである。
 社の外では老爺が肝が冷えきったといった顔で眠りこけている少年を抱き上げている。起きたらげんこじゃ、説教じゃとぶつぶつぼやきながら捜索の手伝いをしてくれた村の衆に頭を下げているのを、境内の狛犬たちが見守っていた。
 

 ――数日後。
 夏の暑さも、日が落ちれば引いてくる。入道雲を立たせていた青空は夕焼けに染まり、その端に夜を滲ませていく。
 飴色の双眸は眼下、山すそを睥睨していた。
 社の本殿、その屋根のてっぺんに腰掛け、兄狐は二叉の白尾を揺らしている。隣には同じく二叉の白尾を持つ弟狐が、つり目がちな琥珀色の双眸をきょろきょろと彷徨わせていた。 
「山神はうまくこの山を治めているようだね」
 ぽつりと兄狐が呟く。愉快げな声の端々には、僅かな嘲りが含まれている。
「こんな立派なお社、オレははじめて見ました!」
 無邪気な声をあげながら、弟狐が境内を見下ろす。
 その言葉に兄狐は応えないまま、目を細めれば弟狐はぱっと表情を明るくさせ、淡い菫色の三つ編みを揺らしつつ首を傾げた。
「でも兄者ならばもっと、上手に治められます。山もこれ以上豊かに出来るし、あの村里に住む人間だって、どうせ文句なんか言いやしません」
「ふふ、そうとも。人間はどうせ――山の神の中身がすげ変わろうとも気にはするまいさ」
 兄狐が唇に弧を描く。す、と指をあげればその先に音も無く燐火が灯った。
「しかし、カラスにオレの戯れを邪魔されたのは気に食わないな」
「兄者はあの迷い子が惜しいのですか? ……オレが、とってきましょうか?」
 弟狐が尾を揺らし、寂しげに兄狐に問いかける。その様子にああ、と小さく嘆息しながらもう片方の手で弟狐の柔らかな髪を撫でた。
「いいや、別に惜しくはないよ。たまたま見つけただけの戯れにすぎないからね。オレが言っているのは……邪魔をされたことさ」
 兄狐の言葉と共に指先の燐火の勢いが増す。それは、いつでもこの社を灰燼に帰すことが出来るのだと言いたげに周囲の空気を揺らした。
 弟狐がその炎と妖しく笑みを浮かべる兄狐を見比べ、そしてゆるく首を振った。
「兄者が手を煩わせる必要はありません」
 琥珀色の双眸が再び境内に向けられる。何かを感じ取ったか、社の主が姿を見せている。
 あれが? と弟狐が問えば、そうだろうね、と兄狐が頷く。そうですか、と弟狐はその姿を暫く眺めていたが、やがてにっこりと微笑んだ。
「あんなのより兄者のほうが、ずっと強くて綺麗です」
 
 不吉な予感を抱かせるような夕空だった。
 向こうに連なる山々へと沈む太陽は、どろりと溶けていくように見える。もうあと一刻もしないうちに、夜の帳が空を覆うだろう。
 山に人間がいないかを確かめる。あんなことがあったのだ、警戒するべきだろう。そう考え、鴉天狗は山を見回ろうと翼を広げた。
 
 ――くすくす、と笑う声が耳に届く。
 
 鴉天狗が振り向けば、そこには少年が一人、佇んでいた。
 淡い菫色の髪を結った――狐だ。琥珀色の双眸が懐っこく見つめてきている。口元も弧を描いて、微笑んでいた。
「こんにちは、鴉さん」
「やあ、野狐くん……今日は君が迷い子かい?」
 律儀にも挨拶をしてきた侵入者に軽い皮肉を言ってやれば、弟狐はきょとんとした顔で瞬きをした。それからぱっと表情を明るくさせて、首を振った。
「そうじゃないんです。オレ、お話にきました」
「お話?」
「はい、ここのお社を――山を、明け渡してほしいんです!」
 弟狐の言葉に一瞬理解が追いつかず、鴉天狗の表情が固まる。ややあってぴくりと片眉を上げて、口を開いた。
「なんだって?」
「兄者がここの山が欲しいと言っているんです。だからオレ、あなたにお願いするために来ました! あ……山が心配ですか? 心配しなくても兄者がちゃあんと、この山を治めてくれます! きっと、山も喜んでくれますから、安心してください!」
 だから、と弟狐が目を輝かせ、鴉天狗に一歩近づく。
 菓子をおねだりする子どものような態度と、それとは裏腹な、傲慢ともいえる要求がちぐはぐで鴉天狗は深いため息を吐いた。
 ――純粋に言っているぶん、たちが悪い。
「そんなこと、するわけないだろう」
「え……
 鴉天狗の厳しい声に、野狐が目を見開いた。どうしてですか? と悲しげな声と共に、白い耳と尻尾がしゅんと垂れ下がる。断られるという考えを本気で持っていなかったらしい。
 その様子に鴉天狗の金色の瞳がす、と細められた。
「この社は俺――山神たる鴉天狗を奉っている。だから同時に、俺にはこの山を守る義務があるんだ。君たち野狐に請われたからといって、はいそうですかとここを明け渡すわけにはいかないよ」
 毅然と言い放てば、弟狐は困惑したように尾を揺らす。
「それなら兄者だって、そんなこと簡単に出来ます。あなたが知らないだけで兄者は凄いんです。山も守れるし、今以上に豊かに出来る。……それって良いことですよね?」
 弟狐の問いに鴉天狗は呆れたように首を振る。話にならない、と言いたげに自分よりも小さな体躯の彼を睨めば、いよいよ野狐は悲しげな顔をさせた。
「君たちは人を害そうとしただろう? そんな野狐風情にこの山は渡せない。いいね、分かったらお兄さんに――
 ぼう、と炎が揺れる。それは狐火、燐火と呼ばれるものだ。弟狐のまわりにひとつ、ふたつ、と火の玉が浮かび上がる。
「それなら、仕方ありません」 
 琥珀色の瞳がきろりと閃き、目の前の鴉天狗を冷たく見据える。
「分かってもらうまでお話ししないと。どうすれば分かってくれますか? その真っ黒な翼に火をつければいいですか? それとも、腕か足を食いちぎりましょうか? ……そうだ、良いことを思いつきました」
 幼さを残す顔がニタリと笑みを形作る。
 しかし先ほどの無邪気な笑みとはいたって違う、本性を曝け出したような酷薄な笑みであった。
 燐火が弟狐の周囲を舞い、今にも飛びかからんと燃えさかる。
「遊びましょう、カラスさん。ちょっと遊んで、疲れたら……オレのお話、聞いてくれますよね」
「まったく……聞き分けのない野狐だ……いっそ毛皮にしてやれば静かになるかな」
 鴉天狗も無作法者を圧するように濡羽色の翼を広げる。
 山のあるじの怒りに呼応するかのように風が舞い、鋭く鳴った。
 燐火。矢の如き炎から身をかわせば、次の瞬間には眼前に狐の姿は失せている。
「やっぱり、たいしたことありませんね」
「くっ」
 背後から振り下ろされた一撃を羽団扇で防ぐ。爪と柄が打ち合う音と共に、猛禽の羽毛がいくつか散った。
 強い殺意に思わず飛び退くものの、狐の鋭い爪は幾度も襲いかかり鼻先を掠める。衰えることなく、寧ろ増していく勢いに鴉天狗は防戦一方だ。
 迫る羽団扇でいなしていたがついに、狐の一閃は鴉天狗の腕を掠めた。
「カラスさん、お願いですから――山をオレ達に明け渡してください。これで分かったでしょう、お前にこの山は分不相応なんです」
「調子に……乗るなよ!」
 鴉天狗が羽団扇を振るう。強い風の奔流が巻き起こり、弟狐が咄嗟に飛び退けば、見えない刃が地面を抉った。
 放たれた旋風の一陣が弟狐の頬を掠め、その幼げな頬からつと、血が流れた。
 はっとした顔で弟狐が指で頬を拭う。己の血で赤く染まった指を見つめ、悲しげに目を伏せた。
「どうして分かってくれないんですか? オレ達……兄者がここを統べたほうが、山は喜んでくれるんです。弱いカラスのくせに、山の神でいるだなんて――
「手癖の悪い野狐には勿体ない山だからね。君がどれだけ〝話し合い〟をしようが、俺の意思は変わらないよ。……ところで、君が大好きな兄者くんはどこかな、弟の君だけをここにやって、ひどい兄上じゃないか」
…………
 鴉天狗の挑発に、きろりと琥珀色の瞳が輝く。
 その指に揺らめく燐火が勢いを増すのを見て、鴉天狗も身構えた。
 どうやら、狐の尾を踏んだらしい。
「お前ごときに兄者の手を煩わせません」
 燐火が踊り、鴉天狗に襲いかかる。羽団扇で風を起こし、それを消し飛ばすがその隙にこっちですよ、と弟狐が飛びかかってくる。小柄な体躯に相応しく俊敏な身のこなしだ。燐火を凌げば爪の一閃が襲いかかり、爪をいなせば燐火が飛んでくる。
 ――強い。そこらの妖怪よりも桁違いに。
 鴉天狗の喉元を狙って、弟狐が蹴りを放つ。避けることが難しく咄嗟に腕で防いだものの、勢いにまけぐらりとよろめいた。
 出来た隙に、弟狐がニヤリと笑みをつくり、腕を振り上げた。
「弟」
 火を纏った爪で目の前の天狗を切り裂こうとした手が声と共にぴたりと止まる。弟狐の目がぱちりと瞬き、そしてすぐに鴉天狗の前から飛び退いた。
……っ、……
 そちらを見ればもう一匹、狐がいた。
 白金の髪の狐。おそらく彼が――兄だろう。揃った二匹の野狐を睨みつけながら、腕をさすれば弟狐が尾を揺らした。
「兄者、時間がかかってごめんなさい。あれが何度言っても分かってくれないんです」
「ああ、弟……お前はよくやっているよ。彼がひどく強情で、自惚れものなだけさ。お前のせいじゃないよ。……頬に傷が。痛くないかい?」
「オレは平気です。少し不覚をとりました」 
 懐っこく答える弟狐の頬や頭を優しく撫でつつ、兄狐が笑う。そして静かに、鴉天狗を見やった。
「かわいい弟が楽しそうに遊んでいるのを見ると、兄としては混ざりたくなるものさ。そうは思わないかい、山の主?」
……こちらとしてはそろそろ寝床に帰ってほしいところだけどね」
 鴉天狗の冷たい声に、兄狐がくすくすと肩を揺らした。
 弟狐は兄狐の隣で、じっと鴉天狗を見つめている。
「そうだね、では寝床に居座る傲慢なカラスを狩るとしよう」
 兄狐の指先に、白い燐火が揺らめいた。

「まずいのう」
 闇の中、一柱と二匹が風と炎と爪を舞わせながら戦っている。その様を眺めながら、吽形は苦々しい顔をした。隣では眉尻を下げながら阿形が首を傾げている。
「あるじが珍しく圧されているではないか! このままでは本当に殺されかねないぞ」
「しかしな、我々は手出しが出来んのじゃ。知っておるじゃろう、阿形」
「ああ、山の決まりだ、吽形。我々はあくまでこの社に属する狛犬だからな。山のあるじになろうと挑む者を、止められん」
 自分としては今の方があるじとして好ましいが、と阿形が呟く。そうじゃのう、と吽形も唸るが、戦いの行方を文字通り見守るしか出来ない。
「あははっ!」
「そらっ!」
 鴉天狗を翻弄している爪と燐火がついに彼の脇腹を裂き、濡羽色の翼を焼く。
「ぐっ…………!」
 痛みに呻き、膝をつく。傷から流れた血がぼたぼたと落ち、境内の砂を濡らす。羽根を焼いた火はすぐに消えたが、飛べるかどうか怪しいほどの痛みを感じた。
 もはや満身創痍の姿を、兄狐が冷たく見下ろす。その傍らで弟狐は嬉しそうに微笑んでいた。
「つまらないな」
………………」 
「最初から素直にオレ達に従っていれば、ただのカラスでいられたのに」
「この山を野狐ごときに……っぐ……!?」
 兄狐の手が鴉天狗の髪を掴む。
 痛みに顔をしかめたが、鴉天狗はぎろりと兄狐を睨み上げた。まだそんな威勢を張れるのかとニヤリと笑みを浮かべ、兄狐が獲物を地面に突き倒す。なおも戦おうと翼を動かし立ち上がろうとする鴉天狗を見て、弟狐がけらけらと笑った。
「煮て食おうか」
「焼いて食おうか」
 二人囁き、弟狐は腕を振り上げ、兄狐が燐火を踊らせる。
 夜闇に鋭い爪がぎらつき、白い炎が空気を焦がす。

 ひとつ、雪が舞い降りた。

 夏の暮れ、降るはずのない雪のひとひらの奇妙さに狐たちが手を止めれば刹那、びゅう、と二匹と一柱の間に冷たい風が吹き込んできた。
「な……!?」
 その勢いに兄狐が思わず手で顔をかばう。弟狐も驚き身動きがとれないままでいる。
「お前らが食おうとしているそのひよっこは、煮ても焼いても美味くはないぞ」
 突如、聞こえてきた声と共に風雪が止む。
 横やりをいれてきた声の方を向けば、そこには人影が一つ。
「お前……
 その姿を見て、鴉天狗が苦々しげな表情で呻く。何をしに来たんだ、と問えば月の光が差し込み、正体を露わにした。
 
 ――鬼である。
 
 独特なかたちに整えられた若緑の髪に、桔梗色の瞳を持つ鬼。
 額を飾る一本の角には、炎の如き紋様が刻まれている。
 菊の花があしらわれた華々しい羽織、黒地に牡丹柄の和装を洒脱に着こなし、黒く染めた爪が飾る指は煙管を揺らしている。
 飄々とした出で立ちであるが、纏う気配は底知れない。
「何しに来たとはとんだ言い草だなぁ?」
 ボロボロじゃねえか、とくつくつと笑い、鬼は桔梗色の双眸を細める。所々焦げ、血が滲んだ地面を見渡してから、三人に鋭い眼差しを向けた。
「っ」
 弟狐がびくりと身体を強ばらせ、兄狐は微かに眉を寄せながら鬼を睨みつけている。その様子を見て、鬼はニヤニヤを意地の悪い笑みを浮かべ、そして口を開いた。
「なあ、そこの狐の兄弟」
 呼びかければ二つの眼差しが鬼を睨む。しかし彼らの瞳には、どこか畏れのようなものを孕んでいた。
「せっかくだ、俺とも遊んでくれないか?」
……
「そこでボロボロになっているひよっこよりは、楽しませてやれるぜ?」
 煙管を燻らせながら一歩踏み出すが、狐たちも警戒するようにじり、と一歩退いた。その様子に鬼がふん、と鼻で笑う。
 どうやら己と相手の力量を察せぬ愚か者ではないらしい。それなら寧ろ、からかいがいがある。
「ほら、どうした? この山が欲しいんだろう? 遠慮なんてするなよ、退屈は鬼をも殺す…………なあ」
 お前たちがその退屈を、退治してくれるんだろう?
 煙管で眼前の二匹を指せば、弟狐は耳を倒し、兄狐は弟を庇うように間合いを取る。
 未だにかかってくる気配のない兄弟たちに、そう恐がるなよ、と鬼がゆったりとした歩みで、二人に近づく。
 兄狐が牙を剥き、尾を膨らませるのを見て、いよいよ可笑しいと鬼が笑う。
「前山神の力を特別に見せてやるって言ってるんだ」
 煙管を吸い、紫煙を吐き出す。桔梗色の瞳をぎらりと輝かせ、狐たちに笑んだまま、見据えた。
――嬉しいだろ?」
 鬼が放つ圧が耐えきれなくなったか、それとも挑発への忍耐が失せたか、弾かれたように弟狐が飛び出した。兄狐が止める間もなく爪を閃かせ、鬼へと飛びかかる。
「おう、元気がいいな」
 襲い来た爪を煙管で軽々と受け止める。圧しきろうと弟狐が腕の力を込めるが、煙管は微動だにしない。
「く……この……!」
「そら、お返しだ」
 笑いながらそのまま押し返し、ひゅん、と一薙ぎ振るう。細い煙管は風の刃を生み出し、それは弟狐の腕や腹を切り裂いた。
「かはっ……!?」
「弟!」
 反撃を受けた弟狐がどう、と地に落ちる。焦った兄狐が駆け寄り、弟を庇う。一瞬のうちにずたずたに切り裂かれた和装は、腕や腹から溢れる血で赤く染まっている。しかし、傷口そのものは浅いようだった。
「お前ェ……!」
「なんだ、つまらんな。退屈を殺すにはほど遠い」 
 鬼があざ笑えば兄狐は顔を歪める。白い燐火は二匹を守るように飛んでいるが、鬼に襲いかかることはない。
…………
 兄狐はしばらく鬼を睨みつけたままであったが、すぐに気を失った弟を抱き上げる。じりじりと後ずさり、やがて夜闇に溶け消えていった。

「坊や」
 意識を朦朧とさせた鴉天狗が鬼と狐たちの戦いから目を離せずにいれば、後ろから声がかかった。涼やかな声にはっと顔をあげれば眼前は再び風雪に覆われる。強い眠気が襲い、思わず目を瞑ると、ふわりと身が軽くなる感覚がした。
「やれやれ、物騒なことだよ」
 呆れたような声をうつらうつらとした意識で耳にする。
 あなたもどうしてここに、と問おうとしたが、声が出ない。びゅうびゅうと吹雪く音を聞きながらなんとか意識の糸を掴んでいたが、それも叶わず、鴉天狗は眠るように気を失ったのだった。
「こっぴどくやられたようだ」
 山の中腹にある社よりも更に古く、こぢんまりとした小さな社に、鴉天狗は運び込まれた。
 気を失った山のあるじをここに連れだし、寝かせているのは美しい――雪女である。杜若色の艶やかな髪に、焦香色の瞳を持つ目元は涼やかだ。
 白い着物を乱れなく着付けているその身の周囲は冷たい空気を孕んでいたが、女の眼差しは、柔らかい。
 女がつと指を動かせば、雪の結晶が現れる。それは鴉天狗につくられた火傷の痕に寄り添った。
「狐の火はしつこいからね。僕の雪で冷やそうじゃないか」
 火傷を雪で癒やせば焼け爛れた皮膚から白く小さな火が浮かびあがり、逃げていく。お待ちよ、とそれを摘まめば瞬く間に凍りつき、床に落ちて砕け散った。
 気を失いながら苦悶を浮かべていた鴉天狗の表情が、僅かに和らいだのを見て雪女はほっと、安堵の息を吐く。
 戸ががらりと開く音と共に、鬼がやれやれと頭を掻きながら入ってきた。
 おかえり、と雪女が出迎えればおう、と片手をあげる。
「あの狐ども、しばらく悪さはせんだろうよ」
「折檻があまりきかなさそうな顔だったけど、放っておいて大丈夫なのかい」
「俺がしゃしゃりすぎるのもよくねえのさ」
 どかりと二人の傍らに座り、傷ついた鴉天狗をまじまじと見つめ、鬼はふん、と鼻を鳴らした。それを横目に火傷の手当をしながら、雪女が小さく息を吐く。
……久しぶりに来たけれど、このあたりも随分と変わったね」
「変わらないものなんざ、つまらないだろう?」
 俺はいつだって退屈で死にそうなんだ。ぼやきながらそばにあった行灯、火袋の戸を開けては煙管の雁首を近づける。不死の身でよく言うと雪女は苦笑いを浮かべたが、その様子にそっと眉を寄せた。
……行灯の火で煙管を呑むと、願い事が叶わなくなるそうだよ」
「おいおい、俺が誰に願いごとをするんだ?」
 笑いながら紫煙を吐き出し、桔梗色の眼差しを雪女に向ける。それもそうか、と肩を竦め、雪女が鴉天狗の寝顔を覗き込む。
「それにしても随分大きくなったね、君の子は」
「元はと言えばお前が拾ってきたんだろ?」
 面倒を押しつけやがって、と呆れたように鬼が指摘すれば、くすくすと雪女が笑う。
 随分と前の話であるが、この山に捨てられた赤子をたまたま通りがかった雪女が拾ったのである。その時の赤子が、今ここで眠っている鴉天狗であり、その時の山神が、今ここで悠々と煙管を呑んでいるこの鬼――三千院の鬼神であった。
 雪女と鬼は文字通り百年、いやそれ以上の知己である。
「君が山神の御役目をこの子に引き継いだと風の噂で聞いた時には驚いたものだよ」
「人間どもに神輿を担がれるのも飽きたんでな。こうして奥の院でただの鬼として隠居するのが自由でいいぜ。せいせいすらぁ」
「ふふ、素直じゃないねえ」
……今さら山神復帰なんざ面倒なことは御免被るってわけだ」
 ふうん、と雪女が相づちを打ったが、すぐにおや、と顔を上げた。静かな場所であるはずなのに、何かが誰かを呼ぶ声を遠くに聞いた気がしたのだ。
 それが誰の声であるのか、雪女はすぐに気がついた。
「ああ、向こうで狛犬たちが急に消えたあるじを探しているね」
 煙管の灰を落としていた三千院もつと顔をあげる。どこか宙を見つめていたが、目を細めやれやれと首を振った。
「相変わらずだな、やつらも」
「しかしまあ、随分と心配されているじゃないか……ああ、起きたね」
……気がついたか」
 呻き声と共に金色の目を開いた鴉天狗を見やる。痛みに顔を顰めつつ起き上がった若者は、自分を見つめる二人を認めた後、眉を寄せてふい、と顔を逸らした。
「気がついたならさっさとあの子たちのところにお戻り」
 山を守る山神が社にいなくてどうするんだい、と雪女が急かせば、鴉天狗が無言のままふらふらと立ち上がる。扉を静かに開き、そして一陣の風と共に消えた。
 その様子に残された三千院が苦々しい顔をし、紫煙を吐く。
「ったく、礼のひとつぐらい残していかねえか」
「許しておやり。……ここからお前が出るはめになったのが、あの子にとっては恥なのさ」 
……かっこつけが」
 雁首に詰まった灰を落としつつ、三千院は舌打ちをした。
 それも腹の底から苛立ったというわけではなく若輩者特有の振る舞いをしょうがなく思う、親心じみた心境からくるものである。
 外の暗闇を眺める三千院の横顔を暫く見つめ、雪女が口を開いた。
「三千院」
「どうした、葵」
 葵、と呼ばれた雪女は居住まいをただし、小さく首を傾げる。
「暫く厄介になりたいんだけど」
「ほう……そりゃいったいどういった風の吹き回しだ?」
 葵の言葉に片眉を上げながら三千院が問えば、涼しい顔をさせて笑う。
「酒を交わす相手としては丁度いいだろう? 僕も久しぶりに山に来たんだ。あんなことがあった手前、彼が気がかりなのは仕方の無いことさ。なにせ、僕が拾った子だからね」
 葵の言葉にふん、と鼻を鳴らし、三千院は黒い爪で自らの顎を軽く掻いた。
 そこまで言うなら好きにしろと答え、立ち上がった。棚にしまい込んでいた酒を取りに行く為である。
 山の最奥、奥の院。鬱蒼とした木々は夜風に揺れ、何事かを囁いている。
 
「あるじよ、無事だったか!」
「ああ、すまない。心配をかけた」
 己を探しながら山の中を駆けていた狛犬達の前に姿を現し、鴉天狗が謝罪する。
 その姿に安堵した阿形が謝ることはない! と声をあげればその声量に傍らの木から鳥が飛び立った。
……手助けしてやれんで悪かった。あるじが失せた後もあの狐どもは姿を見せておらぬ。安心せい」
「いいさ、君たちが手出しできないのはこの山の決まりだ…………
 しょうがないさ、と微笑むも、よろけてしまった鴉天狗を吽形が支える。しばらくは養生かのうと呟けば、山のあるじは顔を顰めた。
「吽形、ひと月の後には神無月だ。それまでに治さなければならないと思うのだが」
「そうじゃのう、阿形。あるじよ、しばらくの雑事は俺達に任せておけ」
「大船に乗ったつもりでいたまえ!」
……ありがとう、二人とも。何、すぐに治すさ……
 狛犬達に伴われながら暫く歩けば、社に戻ってきた。夜はいっそう深くなり、ひっそりと眠りについている。
 本殿にあがり、奥へと入る。焼け焦げ、裂かれ、ぼろぼろになった装束を脱ぎ、襦袢姿になった。腕を動かせばひどく痛み、思わず視線を落とせば、雪の結晶が火傷の痕を優しく覆っている。

 大樹の根元に出来たうろの中で、狐たちは寄り添い合っていた。
 気を失ったまま眠る弟狐の傷口に、兄狐が手をかざせば柔らかな光が灯り、ゆっくりとそこが癒えていく。それでも暫くは、弟は安静にしないといけないだろう。
「まさか鬼神が出てくるとはね」
 すまない、と謝罪の言葉と共に淡い菫色の髪を撫でる。すうすうと安らかに眠る弟の顔を見て、ほっと息を吐き、尾を揺らした。
「しばらくはここで過ごそう。……大丈夫さ、きっとオレ達は居場所を手に入れる事が出来るよ」
 柔らかな髪を指で撫で続けながら、兄狐はそっと語りかけ目を伏せる。
 うろの外では秋の訪れを告げるが如く、虫の音が控えめに鳴り始めていた。