八木くんと蟹沢くんと魚谷くん/加美くんと三郎くん

年中組とロスサガ/番外編ミロカミュ 現代日本のパラレルにするなら名前を変えてもいいんじゃないかシリーズ
八木くんと蟹沢くん 初出・同人誌(個人)「八木くんと蟹沢くん コピー本版」2012
魚谷くん 初出・同人誌(合同)「八木くんと蟹沢くんと魚谷くん」2012
陣馬先輩と宿命 初出・同人誌(個人)「八木くんと蟹沢くんと魚谷くん再録」2016
加美くんと三郎くん 初出・無配ペーパー「加美くんと三郎くん」2013

八木くん→シュラ 蟹沢くん→デスマスク 魚谷くん(ととやくん)→アフロディーテ
陣馬先輩→アイオロス 二子玉川宿命→サガ 加美くん→カミュ 三郎くん→ミロ
出てないけどラダマンティスは村田万次郎(高校生)、カノンは二子玉川海音(万次郎のカテキョ)で、カノンがラダに「なだ万」とか適当なあだ名つけるラダカノを書くつもりで10年経った

ダイフクさんの漫画もめ〜っちゃよかった。自分のもお気に入り。名前考えるのが一番楽しかった


加美くんと三郎くん


 泳ぐこと自体はそれほどでもなかったが、三郎は水中に潜る遊びが好きだった。何が楽しいのか説明し難いので誰にも言っていないが、ほぼそのためだけに水泳部に入っている。
 潜るのは誰もいないプールが良かった。夕暮れのプールは不気味に黄昏ており、遠くの音を断ち切って潜った水中の、無音の世界で生まれた泡が無音のままゆらゆら登って行くのが良かった。まるで自分が人間ではない何かに、水に限りなく近しい、輪郭のない生き物になったかのようで、それが良かった。
 銀色に光る泡を水中から見上げていると、三郎は必ず宮沢賢治の難解な幻燈とやらを思い出す。小学校の国語の時間にクラムボンって何だと思いますか、と聞かれ、自分は確か泡だと言った。本当はそれにピンときていたわけではないけど、三郎にはそれ以外の答えが思いつかなかったし、おそらく今は的確な答えを求められているのではない、ということだけはわかっていた。それこそ国語の本質だなどと思ったわけではなく、ただそれが、お話の末尾についているおまけの設問だったから、というだけだったが。
 酸素を使い果たしてしまったので水面に出る。部活自体が終わってから既に20分経っており、ぼんやりと潜りたいがためだけに残っていた三郎は一人取り残されていた。練習で火照った身体も既に冷めており、血液の温度が水温に引っ張られている。水泳部員は特別に温水シャワーを浴びることが許されているが、もしかしたらせっかちな後輩がボイラーを止めてしまっているかもしれない。
 焦る気持ちについてこないだるい身体を無理やりプールサイドに引っ張り上げると、生暖かい風が身体を冷やした。早く帰らなければと思いながら髪の水を絞る。水滴が乾きかけのプールサイドを黒く染める。終わりかけの桜がプールに降り注いでいるのを見て、明日の掃除も大変そうだなとぼんやり考える。

 三郎の隣席に転校生がやってきたのは、始業式の一週間後のことだった。新学期に間に合わなかったのは、彼が帰国子女だからだと言う。
 俄然色めき立つ教室に入ってきた生徒は確かに期待を裏切らず、切れ長の目の上に濃いの眉を乗せ、エキゾチックと言えばいいのか、とにかく目を引く顔をしていた。彼が薄い唇を開くのを固唾を飲んで見守っていたクラスメイトは、その口から出てきたのが流暢な日本語であったこと、黒板に書かれたのが「加美悠一」という漢字四文字だったことに、必要以上に落胆した。
 三郎はというと、自己紹介を聞き流しながら、窓の外を眺めていた。窓を閉めると暑いけれと開けると風が冷たいし、カーテンがうざったい。それをどうしようかと考えていたところで、「じゃあ」と教師の声がする。「窓際の一番後ろ、開いてる席に座って」
……
 それでもぼんやりしていた三郎は、教師の言う空席が自分の隣であるということに、転入生が歩み寄ってくるまで気づかなかった。
 緊張しているせいなのか、それとも生来のものなのか、凛としたような、張り詰めたような空気を纏っている彼は、
「よろしく」
とひとこと言った。風に髪の毛が煽られ、白い額が見え隠れしている。
 一度は落胆した者たちも、ホームルームが終わるまでの10分間で、彼の国籍が日本であれ名前が漢字であれレアカード「帰国子女」であることに変わりはないと考え直したらしい。加美は興奮気味なクラスメイトに机を囲まれてしまっていた。
「どこの帰国子女なの?」
「フランス」
「マジ!?やばいんだけど!!」
「フランス語しゃべれるの!?」
「喋れるが、読めない」
「えー、なにそれ」
 加美と三郎との間には必然的に人の壁ができていて、その隙間からのぞき見る彼は、愛想こそ無いが、ひとつひとつの質問にきちんと答えていた。そのくせどこか上の空で、目の前の人間から良く視線を外していた。三郎がなんとなく追いかける三郎の視線の先にあるのは、黒板と時計の間とか、教室の隅とか、よくわからないポイントだらけだ。
 まるで猫だと思いながら眺めていると、時折視線がぶつかった。その瞬間だけ空気が張り詰めるような気がして、三郎はその度にほんの少しだけ息を止めた。
 二人が会話らしい会話を交わしたのは、加美の転入からさらに3日後のことだった。
 水泳部への新入生の勧誘もあらかた終わっていた。そろそろゆっくり潜ることができるかな、と考えながら席を立つと、「三郎」と声を掛けられた。
 既に聞き慣れた加美の声だったが、それが自分の名前を呼ぶのは初めてだったので、狼狽えた三郎は「あ?」とヤンキーじみた返事をしてしまい、慌てて咳き込んだ。
……大丈夫か」
……大丈夫。なに」
「三郎は水泳部だったか?」
「うん」
 頷く三郎に、加美は顔を寄せてくる。こちらをじっと覗きこむ瞳を見て思わず息を止める。不快だからではなく、なぜかしら潜っているときと同じ気分になった。それから、彼が纏わせている空気は、水中のそれと同じだと何となく思う。
「頼みがあるのだが」と彼は真顔で言った。「泳ぎを教えて欲しいのだ」
 三郎は再び咳き込んだ。

 水泳部にカナヅチはいない。故に生徒にはコーチングの技術など皆無なのだが、顧問は春の大会に出る選手の指導につききりだった。結局、連れてきた人間の義務として、三郎が加美を教えることになった。体育の授業ですら滅多に使わないビート板を引っ張り出してきた三郎は、プールの端に立っている加美にそれを投げてよこした。カビの生えた板をつまみ上げ加美は顔をしかめる。
「これは……
「仕方ないだろ。誰も使わないんだ」
「日本の学校では皆泳げるものなのか」
「いや、うちの体育は種目選択制だから、泳げない奴は基本的に泳がないまま。これも使われないまま」
 言いながらビート板を掴むよう促すと、加美はしぶしぶといった顔で板にしがみつき、浮き上がった。
 白い背中が水面に見え隠れする。
「運動が苦手なわけではないのだが」
「そうみたいだな」
「水泳だけがどうしてもできない」
「フランスじゃ泳がないのか」
「泳がない。海も浮かぶ程度だ。学校にプールはない」
「そうなんだ」
「ああ」
 顔にすら水をつけない加美のバタ足は、お世辞にも上手いとは言えなかった。膝が曲がっているせいなのかそれとももっと他に大きな原因があるのか、大きな水しぶきが上がるだけで、ちっとも前に進まなかった。5月に入り、加美のプレミアが外れ普通の生徒になってもまだ上達は見られなかったが、加美はちっとも気にしていないようだった。

 その日は夕方から霧雨が降り出し、部活は中止になった。顧問が雨の日の室内トレーニングと言い出さないうちに、と言わんばかりに、部員たちは一目散に更衣室に向かう。プールには加美と三郎だけが残った。
「加美も上がらないと。風邪引くぞ」
「お前は」
「もうちょい」
……風邪を引くぞ」
 呆れた顔をされるのかと思ったが、加美は笑っていた。
 三郎はなぜかしらそれに甘えるような気分になり、水底を蹴った。ビート板を抱えたままの加美から離れ、仰向けのままひと掻き、ふた掻きすると、水面の間に背中を滑りこませる。息を止めてそのまま沈む。水中から眺めた天井には雨粒の作った無数の輪が広がっている。銀色の泡がゆらゆら昇っていく。
 久しぶりだった。そういえば、加美を教え始めてから、潜ることをすっかり忘れていたのだ。
 頭を出すと唐突に雨音が蘇った。その隙間から加美がこちらを見ている。それからぽつりと言った。
「三郎が潜ってるのが気持ちよさそうで、羨ましかった」
……?いつの話だ?」
「春休み。学校には来ていたのだ。手続きに手間取って編入は遅れたが」
「そうなのか」
「職員室からプールが見えた」
 桜が散っていた、と加美は楽しそうに続けた。「花びらが風だけで泳いでいたから、誰もいないと思った。それなのに何かがすうっと浮き出てきて、ホラーかと」
「嫌なこと言うな」
「客観視してみろ。……いや、羨ましかったんだ。そういう生き物に見えた」
「どういうこと」
「魚だろうか」
……
「いや、魚ではないな」
……
「輪郭のないような、人間ではない生き物に」
……
 魚もいない、水深もないプールで潜って何が楽しいのか、三郎はずっと説明できずにいた。だから一人で潜っていたし、それが好きだと思っていた。それなのになぜか、加美も一緒に潜ればいいのだと、三郎は初めて思った。
 加美はまだ泳げない。水面に顔もつけていない。だが、彼は潜るだろう。羨ましいと言っているのだから、彼もそういう生き物なのだろう。だとしたら、泳げなくても、できるはずだった。
「潜るか?」
 手を引くと、加美はやっぱり頷いた。
 二人分の泡が昇る。
 三郎は加美の顔を見なかった。曇天を映した鈍い色の水の中で、輪郭の溶け出した水の中で、泡と水紋だけを見ながら、クラムボンのことを思い出していた。それから、クラムボンはもしかしたら泡ではないのかもしれないと考えていた。

 帰り道、加美は「再来週また転校する」と言った。軽い調子だった。
……そうなの」
「次はどこだと思う」
「え、またヨーロッパとか?イタリア?ドイツ」
 矢継ぎ早に思いつく国名を片端から挙げる三郎に向かって、加美は事も無げに
「シベリアだ」
「シベロシア?」
 ぎょっとする。本当はフランスのほうがずっと遠いのだが、シベリアという響きが地の果てだった。
「そうだ。……また泳げなくなるな」
……お前、まだ泳げてないだろ」
 そうだった、と加美は笑う。「でも、潜るかもしれない」
……
 動揺を飲み込んだ三郎は息を止め、シベリアの海を想像してみた。音のない世界、シベリアの水温は加美の皮膚を刺すだろう。吐き出した泡は凍りついていくだろう。それでもなぜか、彼の輪郭は溶けて広がっていくのだろうという気がした。水に近しい生き物になった加美が、きらきら凍る泡を吐きながら、水面を見上げている。
 ……は かぷかぷ笑ったよ。
 三郎は心の底から「いいな」と言った。加美は笑いながら、「遊びに来ればいい」と答えた。