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残りの夜が来た
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星矢
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八木くんと蟹沢くんと魚谷くん/加美くんと三郎くん
年中組とロスサガ/番外編ミロカミュ 現代日本のパラレルにするなら名前を変えてもいいんじゃないかシリーズ
八木くんと蟹沢くん 初出・同人誌(個人)「八木くんと蟹沢くん コピー本版」2012
魚谷くん 初出・同人誌(合同)「八木くんと蟹沢くんと魚谷くん」2012
陣馬先輩と宿命 初出・同人誌(個人)「八木くんと蟹沢くんと魚谷くん再録」2016
加美くんと三郎くん 初出・無配ペーパー「加美くんと三郎くん」2013
八木くん→シュラ 蟹沢くん→デスマスク 魚谷くん(ととやくん)→アフロディーテ
陣馬先輩→アイオロス 二子玉川宿命→サガ 加美くん→カミュ 三郎くん→ミロ
出てないけどラダマンティスは村田万次郎(高校生)、カノンは二子玉川海音(万次郎のカテキョ)で、カノンがラダに「なだ万」とか適当なあだ名つけるラダカノを書くつもりで10年経った
ダイフクさんの漫画もめ〜っちゃよかった。自分のもお気に入り。名前考えるのが一番楽しかった
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魚谷くん
彼はどちらかひとつだけだと言うに違いなかった。
一方を選んだ人間が必ず他方を捨てなければならないという法はない。魚谷だってそういう局面があろうことは知っているが、今回に関しては、必ずしも取捨選択が求められているところではなかった。そうする必要はどこにもない。それでもやはり彼は、どちらかひとつだけだと言うのだろうと思う。
どちらも手に取ることはできないだろうかと考えながら、魚谷はゆっくり自転車を漕いだ。晩秋の街中を走るとすぐに指先が冷える。金木犀はもう散っていて、オレンジの花弁は地面の上にも見当たらない。
…
今日は夜中までバイトだから先に夕飯を作って出なければならない。家事のことを考えはじめたのは、それが魚谷の生活の切実な一部だからだったが、半分は直面している問題からの逃避のためだった。
道すがら八百屋と肉屋と魚屋を覗いたが、特別いいものも特別安いものもなかったので、結局スーパーで見切られていた鮭の切身を買った。これと白菜でホワイトシチューでも作る。貧乏臭い見切りのシールが彼にはとても似合わないと思う一方で、自分たちにはこれ以上ないくらいうってつけだとも思う。
魚谷の住む部屋は質素の域を超えたボロアパートである。最近など、鉄の板だけで作られた階段が足をかけるだけでたわむ気がする。二ヶ月前から大家に会うたびに修繕を要求していたが、いつまでたっても業者がやってくる様子はなかった。この分だと自分が溶接でもなんでもしたほうが早そうだが、四畳一間のアパートのためにそこまでする思い切りは未だに持てない。
「ただいま」
午前中だけ日の差す部屋はすでに薄暗いが、彼の影がゆっくりと動くのは見えた。
「おかえり、」
「起きなくてもいいよ」
上半身を起こした同居人は、顔の中心に美しい眉根を寄せ首を振った。魚谷が出かける前と寸分たがわず顔色が悪い。青白い額に色素の薄い髪の毛がはらはらとこぼれるのを見て、夕日が差し込んだら、あれがきらきら光ってさぞ美しかろうと思う。
「
…
すまない」
「何が。それよりサガ、今日の夕飯、シチューでいいかな。鮭の」
「アルバイトはないのか」
「ある。私が終わってからだと遅くなるから先に作るよ」
「
…
私の分だけならば、お前が作ることはないよ」
「
……
」
本当は、近所の居酒屋でまかないつきのアルバイトをしているので、ついでではない。だがそう言わなければ、彼はきっと食事の準備などしない。というよりも食事を取らない。
魚谷は気持ちの倍大げさに肩を竦めてみせ、「ついでだ」と言った。
「
……
」
彼は一層眉を顰める。そうさせているのはこちらなのに、全ての罪は自分にあるのだという表情をしている。
魚谷の同居人は、二子玉川宿命、宿命と書いて「さが」と読む、大層な名前の青年である。大層な名前だが顔を見ればそれも無理ないと誰もが納得する。彼の特徴は比類なく美しいその容貌だった。
…
美しいというと語弊がある。彼はギリシャ彫刻そのものだった。それも、ひとかけらの欠損もない、完璧な造形物だった。ただ、今は、大半の時間を床で過ごしている。
「すまない」
「
……
」
魚谷は、睫毛の影のせいで一層暗くなった宿命の目元をぼんやり眺めた。部屋中に響いていた安物時計の秒針の音を意識しなくなっていることに気づいて、やっと我に帰る。
「
…
ついでだから、さ、」
再び響き始めた秒針と一緒に首を振り、エコバックから鮭の切り身を引っ張り出す。なんとなく、値引きのシールを隠す。
「だからととやくんはさあ、もったいないって~、」
「ね~。モデルやればいいのに~」
ねえ~と顔を見合わせる酔客二人は店のオーナーいわく『魚谷の常連客』で、毎度のことながら泥酔している。もし権限があれば限りなく水に近い水割りを出したかったが、彼女らの注文はあいにく新しい焼酎のボトルだった。
「ねえととやくんやらないの?」
「何を?」
「モデル!」
「予定はないな」
「やりなよおー」
「
…
じゃあ、いい仕事があれば紹介してください」
水割りセットを渡しながら笑ってやると「ひゃあ」と嬌声が上がった。ひゃあではない。
「飲み過ぎじゃないですか、あの人たち」
「いつも通りじゃないの」
赤毛のオーナーは唇を片方だけ持ち上げ、洗おうとしていたらしいタッパーを魚谷に手渡した。
「アタシも、モデルでもやればいいと思うわ~。年齢もごまかさなくていいんじゃないの」
「
……
」
自分の容姿が世間的にお得寄りであることは理解しているが、魚谷はそれを追求しようとはかけらも考えていないので、肩をすくめるしかない。
「私の高校はバイト禁止なので」
「あら、うちはいいの」
「手伝いはいいのかなあとか」
「ずいぶんお金のかかるお手伝いね」
「暮らしが厳しくて」
「
…
しみったれた若人ね~」
鷲鼻に皺が寄る。
余計なお世話だったが、仕事をくれる人間に文句は言えなかった。タッパーと共に溜まっていた食器を熱すぎる湯で洗うと、ささくれがチリチリと存在を主張する。タオルで強く拭って痛みをごまかしながら、ふと思い立ち、冷蔵庫に首を突っ込んだオーナーの背中に声をかけた。
「そういえばオーナー」
「なに」
「内職ありませんか」
「え?」
「内職。前にやった花を作るやつでも何でも」
「
……
、」
振り返ったオーナーは虚をつかれたという顔をする。大して難しくない魚谷の言葉の意味を飲み込むと、今度は深い深いため息をついた。
「あんた本当にしみったれてるわね。
…
指先ボロボロじゃない。ハンドクリームとか塗りなさいよ」
「生活感があっていいでしょう」
「良かないわよ!」
若いもんがもったいないと嘆かれる。ハンドクリーム云々はともかく、そう言われる理由の一端は魚谷にだって分かる。分かるが、魚谷自身がこの生活を苦としていないので、オーナーの嘆きが直接胸を刺すことはない。そのことに対しては、ほんの少しだけ胸を痛める。
「年寄り臭いですよ♡」
「誰のせいよ」
「はは」
「ははじゃないわよ。あとあんたに言われたくないわ」
「すみません。それで、ありますか」
「
…
あるわよ。あるある」
このオーナーも、かつて魚谷と同じようにアルバイトに内職に明け暮れたのかもしれなかった。だからこそ造花一本5円などという、それこそしみったれた仕事が彼の元に舞い込むのだし、だからこそこの人は、魚谷を助けてくれるのに違いなかった。
胸が再びちりと痛む。
「ありがとうございます」
「お兄さんまだ悪いの」
「
…
ええ」
「心配ね」
オーナーの言葉にではなく、彼が本当にいい人間であることに胸を痛める。彼には深く感謝している。感謝しながら、魚谷は嘘をついている。
「ええ」
一つ目の嘘として、二子玉川宿命は魚谷の兄ではない。
同じ児童養護施設で育ったので魚谷は宿命のことを幼い頃から知っていたが、だからといって彼を兄「のようだ」とも思えなかった。
宿命は幼い頃から今と変わらぬ完璧な造形で、またそれに見合う完璧な精神を持っていた。そして同時に、その姿はどこか無理をしているように見えた。宿命は否定するだろうが、少なくとも魚谷にはそう見えた。
全てにおいて模範生の彼が何に抑圧されているのか、魚谷は不思議でたまらなかった。同時に、周囲の人間がそれに対してなんのフォローもしようとしないこともまた、不思議でたまらなかった。だから魚谷は、せめて自分だけは彼を守らなければならないと思っていたのだ。
思い返せばおかしな話だ。魚谷自身、宿命が自分などに守られる必要のあるような場面は一度たりとも見たことがなく、それは単に、魚谷一人の思い込みから生まれた使命感なのかもしれなかった。
「ただいま」
二度目の帰宅は既に深夜で、部屋の暗闇の中に宿命の気配だけがあった。寝息は聞こえない。おそらく宿命は起きている。
今日に限ったことではなく、魚谷は、宿命が本当に寝ているところを一度しか見たことがない。普段宿命が魚谷の前で眠りに落ちないのは、彼にとって自分が他人である証拠だ。
「
……
」
魚谷は忍び足で畳を踏み、空気をかき回さぬようそっと衣類を脱いだ。宿命が起きていることに気づいていると悟らせてはいけないと思う。これも、魚谷にとって宿命が他人であるという証拠に他ならない。
…
だからどうということもない。ただ対外的に説明しやすいから、彼は兄だ。
音を立てずに部屋着になってから、魚谷は電気スタンドのスイッチを押した。今日一日放ったらかしにしていた問題が少しくすんだ蛍光灯の下で光っている。
進路希望調査の提出締め切りは明日朝だったが、魚谷の用紙は真っ白だった。
「
……
」
進路に悩んでいるつもりはなかった。夢も希望もない人間ではない。ただ、希望の大学に行くには転居が必要だった。今と同じような生活は難しいであろうことは明白だった。だが、何とかならないことは
どちらかひとつだけだ
と宿命が脳裏で囁いた。
…
だが、何とかならないことはないはずだ。魚谷は首を振る。いや。どちらかひとつだけだ、お前は私を捨てなければならないのだ。違う。そんな必要はない。お前は早く私を見捨てなければならないのだ。違う。そんな必要はない。私のためにお前が思い悩む、そのことが既に間違っているのだ。
違う。サガのせいなんかではないのだ。
宿命がこのうちに来たのはほんの一年前、ちょうど今頃と同じく秋の終わりかけた寒い日だった。一人暮らしをしていた魚谷がアルバイトに出ようとしていたところ、ボロアパートの入り口に、ちょっと見ないくらい目を引く人間が立っていた。こんな容姿の人間を魚谷は一人しか知らない。だが、彼からは施設を出てから数年間音沙汰が無い。たわむ階段を降りきるまで魚谷の推測は確信にならなかったのだが、
「
…
サガ?」
「久しぶりだな」
宿命は微笑んだ。十年振りに見た彼は、昔と変わらぬ完璧な造形だった。
「
…
久しぶり」
昔と変わらぬ顔にはしかし、かつての抑圧感はなかった。むしろ何かから解放されたような表情をしていた。
魚谷はその表情を、晴れ晴れとしている、と感じた。きっと宿命の身に、何か素晴しく良いことがあったのだろうと思った。だから、一体何があったのかと軽い気持ちで尋ねた。すると彼は、
「私は人を殺した」
と言った。
「
……
」
何の比喩なのかさっぱり分からなかった魚谷は、その告白に対してどう返答しようか思案した。だが、沈黙を許さないとでも言うように、宿命は再び「人を殺した」と宣言した。
「
…
サガ?」
「お前にはもう会えないかもしれないから、今日は最後の挨拶に来たのだ」
「
……
」
「今から出掛けるのだろう。呼び止めてすまなかった。
…
ありがとう」
「
……
」
魚谷は宿命の顔をもう一度見た。
彼の表情はやはり晴れ晴れとしているように見えた。それ故に、ひどく病んでいるように見えた。今すぐ笑い出しそうにも見えたし、泣き出しそうにも、激昂しそうにも見えた。そして今すぐ消えそうに見えた。
何があったのかなど、知る由はなかった。本当に人を殺したかどうかもわからない。ただ、彼は狂っていると思った。
「
…
私は出掛けない」
「
…
?」
「サガ、お茶でも飲まないか」
「
……
」
「ねえサガ。お茶を飲もう。寒いだろう。私のうちはすぐ近所なんだ。狭いけど」
「
……
」
狭いけれど、狂人の一人くらいならば匿うことができると思った。
単純に可否のみで言えば、魚谷の考えたとおり、それは可能だった。宿命は魚谷の家に足を踏み入れるとその場で崩れ落ち、三日間昏睡したが、魚谷は彼をきちんと介抱した。目が覚めた彼にすぐ動くのはよくないと言い、押しとどめて再び寝かせることもできた。
宿命は目に見えて弱っていた。よく自分のところまで辿り着けたものだ、というくらいに弱っていた。
「ねえサガ、」
「
……
」
「どうして私のところに来たんだ」
「
…
もう会えなくなるかもしれないからだよ」
「
……
そうか」
こんな体でもう会えなくなるから挨拶に来てくれた、そのことに感謝して、魚谷は彼をどこかへ送り出すべきだったのだ。
だが魚谷はそうしなかった。そうしなかった魚谷の甘えによって、この生活が始まったのだった。
魚谷は今でも、宿命に何があったのか、本当に彼は人を殺したのか、殺したとしたら誰をなのか、何故なのか、何も知らない。知らないまま彼をここに閉じ込めている。体調など回復しなければいいと思っている。二つ目の嘘は、そうだ、自分はきっと、宿命を心配などしていないのだ。私は彼を閉じ込めておきたいだけなのだ。
今の生活を続けられないのならば、大学になんか行きたくない。いや、行きたい。本当はここから出ていきたい。いや、サガとここにいたい。だからサガのせいなんかではないのだ。全部私が悪いのだ。
…
いや。今の生活を続けることだって、できるはずだ。そうだ、どちらも手に取れるはずなのだ。宿命を説得さえすれば。彼を引き留めてさえおければ。
…
そんなことが、
考えているうちに眠ってしまったらしく、気付いたら既に朝になっていた。上半身を起こすと肩にかかっていた毛布が落ちる。
「
……
」
「おはよう」
「
…
おはよう」
「昨日も遅かったのではないか」
悲しげに微笑む宿命の髪が朝日に照らされて、透明なファイバーのようにきらきら輝く。
魚谷は目を細める。
オーナーは、翌日すぐに造花の材料を用意してくれていた。現実逃避にはもってこいの箱を抱えてバイトから帰宅すると、珍しく明かりが点いたままだった。
「起きてたの」
「ああ」
いつだって起きていたくせに、宿命は魚谷の滑稽な問いかけにも律儀に応じた。たったひとつの暖房器具であるこたつに足を突っ込む。狭い空間にも関わらず、魚谷の足は宿命の足にはぶつからなかった。
「それは?」
「内職。造花セット」
「
……
」
宿命が何か言いたげに表情を翳らせる。言葉が出てくる前に「サガも作らないか」と言ってみた。宿命にこんなことを持ちかけるのは初めてだった。
「一本五円」
「
…
私にできるだろうか」
「できるさ」
どこから送られてきているのかもわからないキットの箱を開けると、針金の入った茎や、塩化ビニールの葉や、布で出来た花びらが入っている。これを薔薇の形にしてどこかへ送るのだ。
どこかへ送られた薔薇はどこかの流通経路に乗り、誰かの手元に買われていく。せいぜい百円程度で売られるであろう偽物の薔薇が何に使われるのか、魚谷には想像もできなかった。
「
…
ほら、簡単だろう」
「
…
どうかな、私は不器用だ」
うっすらと笑った宿命は、それでも箱に手を伸ばし、白い花びらを取った。
自分と同じようにパーツとパーツを組み合わせていく宿命の手元を、魚谷はぼんやりと見つめた。確かに彼はひどく不器用で、そのことが魚谷に強烈な罪悪感を与えた。
「
…
ほら、」
「
……
」
「やはりお前が作ったものとは似ても似つかない」
「
…
同じだ」
「そうか」
不恰好な白薔薇を掲げ、宿命は笑った。
彼だって分かっているのだ、と魚谷は思う。分かっていてこの茶番に付き合ってくれているのだ、やる必要のない内職や、する必要のない貧窮した生活に。
…
いや、これはままごとだ。
「誰が買うのだろうな、この花は」
「
…
誰だろう。誰かはわからないけど、多分百円ショップに並ぶんだと思う」
「百円の造花は何に使われるのだろうな」
「
……
」
魚谷は答えなかったが、宿命はそれ以上問いかけを続けず、薔薇を作る手も休めなかった。量産された造花がこたつの天板の上に降り積もる。
宿命は白い薔薇ばかり作った。
「
…
サガ、やっぱり、私がやるよ」
「売り物にならないか」
「いや、」
「ならば作らせてくれ」
「
…
サガがこんなことをする必要はない」
「なぜだ」
「
…
だって、」
「だって?」
宿命が顔を上げる。その表情が、魚谷の前に現れたあの時と同じで、魚谷は息を呑んだ。
私は人を殺した。
「私は花も手向けなかったからな、彼には。その代わりのようで、楽しいよ」
「
…
彼って」
「私が殺した男だ」
「
…
造花では、手向けの花にはならない」
「不恰好な偽の花がお似合いだ、奴には」
「
……
」
「いや、私にか」
「
……
」
「
…
どうした、手が止まってい」「サガ」
魚谷の声は自分で思っていた以上に惨めだった。「もういい」
「
……
どうした?」
宿命は微笑む。
あのときと変わらぬ晴れ晴れとした、陰鬱な、声を上げて笑い出しそうな、泣き出しそうな、激昂しそうな、今にも消えそうな表情で微笑む。
「
……
ごめん」
「何を謝る」
その顔を綺麗だと思う。これはこの世に二つとない。いや、冥界や天国にだってない。
…
そうだ、私はこれを綺麗だと感じたのだ。ギリシャ彫刻の造形に対してではなく、頬に落ちる憂いの影ではなく、朝日に光る色素の薄い髪でもなく、自分はこの、狂った彼の顔を、綺麗だと思ったのだった。
…
そうだ。全部間違っていたのだ。
「サガ、」
「何だ」
「
…
大学に行こうと思っている」
「そうか」
「
…
今の生活を続けるのは難しいと思う」
「
…
そうだな」
「
……
」
「お前には苦労をかけた」
「
…
いや!」
握りしめた出来損ないの薔薇が崩壊する。全部間違っていたのだ。
いや、何が間違っているのだろう。
「
…
でも、何とかならないこともないと」
「どちらかひとつだけだよ、」
「サガ、」
「お前は早く私を見捨てなければならない」
「
…
サガ、」
「私は罪人だ」
「
……
」
「今までありがとう」
いや。
何が間違っているのだろうと魚谷は考えた。どうしてどちらも手に取れないのだろう。自分に力が足りないのだろうか。もし自分がもっと強かったら、宿命のことを本当に守っていたら、どうなっていただろう。守らねばならぬと思ったあの日から、ずっと彼を守っていたら、
…
いや。そうしていたところで、きっと何も変わらないのだった。宿命は誰かを殺しただろうし、きっと狂った。そして、最後の挨拶に来てくれた。
「
…
巻き込んでごめん」
それに、魚谷が囚われているのは、目の前の狂った彼だった。どちらも手に取るのは端から不可能だった。
「謝ることはない」
「
……
ごめん」
「本当に、ありがとう」
作りかけの造花から飛び出た針金が指先のささくれを刺す。その傷を、宿命の、労働には不釣り合いな美しい指が、そっと撫でた。
翌朝、宿命は姿を消していた。
「
……
、」
寒々とした部屋に向かって名前を呼ぼうとし、結局声にはできなかった息が白く吐き出された。薄いカーテンの隙間から漏れる朝日は、その白い塊だけを照らす。
「
……
」
彼の痕跡はひとかけらも残っていなかった。そもそも、彼ははじめから、ここには何も持ち込まなかったのだ。残ったのは不恰好な偽物の薔薇の山、たったそれだけだった。
魚谷はそのうちの一本をつまみ上げて、はみ出している接着剤を爪で押した。固まりかけた透明な樹脂に一本の跡が残る。宿命の作ったこの花は、とても売り物にはならなかった。やっぱり、間違っていたのだ。
…
いや、何が間違っているのだろう。
魚谷は窓を開ける。それから、考える。
のろのろと制服に着替えながら、弁当を詰めながら、自転車を漕ぎながら。授業を受けながら、酔客をたしなめながら、考える。どちらも手に取れないだろうかと考え続ける。
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