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残りの夜が来た
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星矢
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八木くんと蟹沢くんと魚谷くん/加美くんと三郎くん
年中組とロスサガ/番外編ミロカミュ 現代日本のパラレルにするなら名前を変えてもいいんじゃないかシリーズ
八木くんと蟹沢くん 初出・同人誌(個人)「八木くんと蟹沢くん コピー本版」2012
魚谷くん 初出・同人誌(合同)「八木くんと蟹沢くんと魚谷くん」2012
陣馬先輩と宿命 初出・同人誌(個人)「八木くんと蟹沢くんと魚谷くん再録」2016
加美くんと三郎くん 初出・無配ペーパー「加美くんと三郎くん」2013
八木くん→シュラ 蟹沢くん→デスマスク 魚谷くん(ととやくん)→アフロディーテ
陣馬先輩→アイオロス 二子玉川宿命→サガ 加美くん→カミュ 三郎くん→ミロ
出てないけどラダマンティスは村田万次郎(高校生)、カノンは二子玉川海音(万次郎のカテキョ)で、カノンがラダに「なだ万」とか適当なあだ名つけるラダカノを書くつもりで10年経った
ダイフクさんの漫画もめ〜っちゃよかった。自分のもお気に入り。名前考えるのが一番楽しかった
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陣馬先輩と宿命
背の高い男が二人、掲示板の前でとてつもなく頭の悪そうな話をしている。それはそれは目立つ光景だったが、極力そこに加わりたくなかった魚谷は、なるべく離れたところから掲示内容を確認しようとしていた。
新入生オリエンテーションの内容など、このご時世ウェブか何かで告知すればいいものを、わざわざ各学部分紙に印刷してわざわざ各学長に回してわざわざ各学長が判子を押してわざわざ事務員が各学部分掲示するなんて、国立大学法人には金が有り余っているとしか思えないし、皆近所に住んでいるとはいえわざわざ各学部の学生に見に来させるなんて、これが悪しき慣習でなければ何なのだと、魚谷は珍しくイライラしている。しかも、頭の悪そうな男が二人押し問答している。馬鹿か。馬鹿なんだろうな。見るからに馬鹿だ。
二人のうち背が低い(のか猫背なのか)、目付きの悪い方が、薄い唇を尖らせる。
「だから俺の代わりにちょっと行ってくれればいいんだけど」
すると、こちらも負けず劣らず目付きの悪い三白眼がぎろりと動き、相方を見下ろす。
「だから何故そんなことをしなければならないのか訊いているんだ」
この問答を聞くのが魚谷ですらすでに三度目だった。
「だ~から俺この日用事あんだって。お前法学部だろ。俺経済学部だろ。法学部と経済学部おんなじ日だろ? な? シラバスもらってくれればいいからさ? 分かった? ドゥユアンダスタン?」
「いや俺が悪かった。お前に訊ねてなどいない。嫌だ」
「だ~~らさ~~、そこをなんとかお願いって言ってんだろ八木ちゃん! ありがと! 好き!」
「だから」
「私が行こうか。」
「
……
」
「
……
」
邪魔だ。という気持ちが勝ってしまった。魚谷はこの後バイトに行かなければならなかったのだ。
仲がよろしいようで、二人は同時に振り向き、似たような顔でこちらを見た。会話に割って入られた驚愕と、聞いてました? みたいな照れが混ざり合っている。
こいつら本当に馬鹿なんじゃないのかと魚谷は思った。
「
…
マジ? 見知らぬ方」
「二千円で」
「高え」
「じゃあ行かない。どけ。見えない」
「千五百円」
「千五百円で俺が行く」
「はあ? 八木お前何なの? お前はタダで行けよ」
「お前こそ何なんだ!」
「邪魔だと言っているんだ」
舌打ちをすると同時に猫背の方が肩を組んできた。「千二百円」
「その三百円で何を守るんだ」
「プライド
…
」
「蟹沢、俺がお前のプライドを守ってやろう。千二百円で俺が行く」
「お前はタダだって言ってんだろ」
「っとに見えないんだよどけ馬鹿」
足蹴にすると蟹沢と呼ばれた猫背はギャッと悲鳴を上げた。
落札は千四百円、バイトにはギリギリ間に合った。それが魚谷と、三白眼八木と猫背の蟹沢との、どうでもいい出会いだ。
魚谷は大学と下宿のちょうど間にある居酒屋でアルバイトをしている。時給が良くてたくさんシフトを入れられて、かつ食事付きだったからだ。それ以外の福利厚生としては、時折、ボトルキープされたまま置き去りにされた、古い酒がもらえる。
やったこともない八木が「単価で言ったら家庭教師が一番良い」と知ったような口を叩き、「八木はロリコンでマザコンだから」と蟹沢がどうでもいい返しをし、やんややんやと予定調和的な言い合いになる二人を眺めながら、店からもらってきた酒を呑むのが、何故か前期の間、魚谷の日課となってしまっていた。馬鹿二人に揶揄されながらも、魚谷は未だに居酒屋バイトを続けている。
仕事は楽だ。居心地は悪くない。悪くはないが、苦手な人物がいる。
初めはただ目につくだけだと思っていた。彼は店からも同じアルバイトからも人望が厚く、客受けも良く、なにより全てのことに目を配らせていて、そのため、誰かに取り返しの付かないミスをさせるということがない。一体なぜこんなところでアルバイトに勤しんでいるのか不思議になるようなその人物と同じシフトの夜は、確かにたいそう働きやすかったが、魚谷はどうしてか彼を避けたかった。シフトさえ被らなければ会うことはないから、当たった日は少し運が悪かったとだけ思うようにしていた。
ところが、夏休みに突入してからは、かの人物とほぼ毎日顔を合わせるという事態に陥っていた。大半の学生アルバイトがこぞって休みをとるのでこれ幸いとシフトを入れまくっていたところ、その全てが彼と被ってしまっていたからだ。
今日で一週間目になる。
「おはよう魚谷。稼ぐなあ」
「おはようございます。先輩こそ」
俺は暇なんだよと笑う深い声に精神をひっかかれたときに、彼が苦手だと自覚した。
宿命以外の人物に何か感情を
――
プラスでもマイナスでも、ニュートラルな部分から外れた何らかの感情を抱くことがあるなんて、魚谷は考えたことがなかった。考えたことがなかったので、単に彼が苦手なのだ、と気づいても、その感情が何となくしっくりこなかった。
「
…
私も暇で。店も暇ですけどね」
「だれも来ないしな」
メインの客層が学生、でなければ教員の店は、夏休みになるとがくりと売上が落ちる。起こしたもののほとんど使われなかった炭の始末をしながら、広い背中が「さっさと片付けて今日は飯でも食いに行くか」と言うので、魚谷はぽかんとした。まかないありますけど。ありますよね?
あ、違った。そういうことじゃないのか。
断って家に帰ったところで、部屋には一人だ。いや、実際、一人のほうがいくらか気楽だったが、魚谷はこのしっくりこない感情をどこかに落としこみたかったので、「そうですね」とうなずいてしまった。
彼、陣馬先輩は、学年ではまだ二つしかかわらなかったが、魚谷よりも四つ年上だった。
「どおりで」
「どおりでってなんだ」
「老けてると思いました」
魚谷の憎まれ口に、陣馬先輩はハハハと笑った。低くて安心感のある笑い声だ。
安いチェーン店にいる。自分らの働いている店より大分ランクが落ちるので、冷えすぎたジョッキの中でビールが少し凍っている。サーバーに雑菌が繁殖しているのか、すこし生臭いそれを、陣馬先輩は躊躇なく流し込んだ。
「何してたんですか、二年。浪人ですか」
「ん? 休学」
「へえ。留学とか」
「いや、怪我を。最近やっと復帰できた」
「
…
へえ」
何かスポーツとかやってましたっけ、とか、そういうことを聞き返すべきだったのだろうが、魚谷は言葉を飲み込んだ。こちらが話を広げなくても勝手に広げてくださる気遣いのできる方だ。それが特に語りたがらないのだから、聞かなくともいいだろう。
案の定、陣馬先輩は「魚谷はまだ一年だろ。働き慣れてるな」と、話題をスライドさせた。
「そうですか」
「他の一年より手が掛からないって店長が褒めてる」
「店長というか陣馬先輩ですよね、面倒を見ているの」
「知らん間にそういうふうになってしまって」
「先輩は店長より貫禄がある」
先ほどからずっと食べ続けてるきゅうりの浅漬けが残り一切れになっている。食べているのは魚谷だけだったが、最後の一切れに手を出さずにいると、陣馬先輩がそれをつまみ、店員を呼び止めて「きゅうりの浅漬けくれますか」と追加注文をしてくれた。
「すみません」
「うまそうにくってるから。うまいな」
「
……
そうですか」
うまくはない。口を動かしていたかっただけだ。
ざわざわする胸の内を押し流したいがきゅうりはまだ来ない。しかたなく生臭いビールに口をつける。今日はそれほど暑くなかったからバイト中にも水を飲まなかったのだが、喉はふつうに乾いていたようで、アルコールがあっという間に身体中に行き渡っていくのを感じた。どちらかと言うとザルの魚谷は、こんなものでは酔えはしない。かといってシラフでこの会話を続けられもしない。やがてきゅうりを運んできた手に向かって間髪を入れず「生ビール」と告げると、自分のジョッキを飲み干した陣馬先輩が「二つ」と付け足した。
「今さらだけど飲ませて悪いな」
「飲めなかったら居酒屋でバイトしません」
「そういう店じゃないが」
「そういう店で働いてたんで」
「そうか。どおりで」
「どおりでってなんですか」
「慣れてると思った」
陣馬先輩は驚くふりもせず、ただ笑う。
髪の毛がふわっと逆立つような感覚を感じて、魚谷は、追加でやってきたうまくもないビールを煽る。「先輩」
「何だ」
このビール飲んだら帰っていいですか、と、魚谷は言えなかった。気を遣ったわけでも勇気が出なかったわけでもなく、プライドが先に立ったからだった。魚谷は、強い感情を、宿命に対して以外は持ちたくない。今後金輪際一切持ちたくない。
「
…
ビール、まっず」
「悪いな。
…
悪い。魚谷、」
魚谷は顔を上げた。陣馬先輩の声色がほんの少し変わっていた。
「聞きたいことがあるんだ」
クーラーがごおごおと音を立てて部屋の空気をかき混ぜる。氷のような冷風に髪の毛をかき混ぜられ、魚谷は少し身震いする。
「何でしょう」
「勘違いだったら忘れて欲しいんだが、魚谷、」
「はい」
「二子玉川宿命って知ってるか」
ジョッキを取り落としそうになった。「は」
「知ってるな。
…
もし嫌でなければあいつがどこにいるか教えてくれないか」
「
……
」
店内が明るすぎるせいで、陣馬先輩がこちらをまっすぐ見ているのが文字通り痛いほどわかってしまう。
視線を返せば絶対に睨みつける形になってしまうと思うが、目を逸らすのも癪だ。まつげの隙間から窃視する陣馬先輩は、いつもどおり穏やかな表情、を装ってはいたが、同時に、魚谷が何か言うまで解放しないというような圧力も感じた。
「
…
あいつ?」
「
…
ああ、悪い。
…
知り合いなんだ。
…
いや、知り合いというか」
歯切れの悪い口調がとてつもない違和感だ。他でもないあんたがそんな口調で話すなと、理不尽な怒りを頭の隅で感じる。
魚谷の苛立ちを汲みとったのか、陣馬先輩は白い歯を見せてふっと笑った。
「こんな頼みをしているのに濁してもしかたがないな。私はサガの恋人だったつもりなのだが、サガは姿を消してしまった。すぐ探しに行きたかったが、そのとき、
…
怪我をしてしまっていて」
――
私は人を殺した。
二年前、ボロアパートの前で聞いた、晴れやかな告白が蘇った。人を殺した。
頭の隅で、ジョッキを落としてしまえばよかった、そうすればしばらくこの話にならなかったのに、と、愚にもつかないことを後悔している自分がいた。そのくらい呆然としているのならば、思考回路自体止まってしまえばいいのにとも思ったが、登場人物の少なすぎる簡単なパズルは、すでに完成を待っている。
「
……
その怪我って」
「
……
」
陣馬先輩は無言のままだ。微笑んですらいる。怪我って、サガですか。刺されたんですか殴られたんですか落とされたんですか絞められたんですか
サガ。あなたは殺していない。殺せていなかったよ。
喜ぶべきことのはずが、魚谷の心を占めているのはほとんど絶望だった。もしくは空虚。
「私が弟の話をしているときだったかな。魚谷の話を聞いたことがあった。名前は聞かなかったけれど、よほど魚谷のことをかわいがっていたのだろうなと思ったよ。目に浮かぶようだったからな、今魚谷を見てピンとくるくらい。
…
サガはほとんど自分の話をしなかったけれど、そのときは少し、うれ」
「すみません、ビールください」
ことさら丁寧にジョッキを置いた。話を遮られた陣馬先輩はやっぱり穏やかな表情をしている。
「弟さんがいるんですね。きっとかわいがってるんでしょう、先輩」
「
…
ああ」
「それはサガも話したくなるでしょうね」
「
…
そうか」
話したくもなるだろう。ひとりぼっちの宿命は。
話してから、後悔したに違いない。魚谷は弟でもなんでもない。そのような存在には成り得なかった。そのような存在が、宿命には許されていなかった。それでも話したのは、対抗心からか、いや自尊心からか。何かを捻じ曲げてまで目の前で微笑んでいる人間に届きたかったか、それとも。
「本当にサガと恋人だったんですか」
「私はそう思っている」
「殺されかけても」
「
……
そう思っている」
まずいビールが進む。ちっとも酔えない自分が惨めだが、酔っ払ったふりをして、魚谷はハハハと笑った。
「
…
おかしいよな」
「おかしいです」
「
…
頼む魚谷、教えてくれ」
「ハハハ」
陣馬先輩が頭を下げている。
あなたのような人間が私なんかに頭を下げないでくれと思う。あなたのようにできた人間が、あのサガが、競争心や殺意を抱くほど、執着するような人間が。自尊心のための虚構の装飾に自分が選ばれたという、それだけで仄暗い喜びを感じている、私なんかに。
…
あんたは、サガの何も知らないくせに。模範生のサガが何に抑圧されていたか知らないくせに。あんたを殺したと言ったサガがどんなに晴れやかな表情をしていたか知らないくせに。気の違ったサガがどんなに美しかったか、どんなに残酷だったか、あの生活が私にとって何だったのか、何も、何も、何も知らないくせに。
魚谷は悲しくて仕方がなかった。
「
…
私も知りません」
「
……
そうか」
「
…
でも、去年までは、生きていました」
「っ
…
」
テーブルが揺れる。たったそれだけの情報で見開かれた目に、安堵の色が混ざっていく。
「
…
そうか。
……
サガ」
祈るように組んだ手の上に額を乗せた陣馬先輩は、そのまましばらく動かなかった。魚谷は馬鹿みたいにビールを煽り続けた。そうだ。私も知らない。
知らなくても宿命が好きだった。愛したいし愛せていると思っていた。自分ならば、宿命の思う世界を作ってやれると思っていた。
街路樹というには野趣溢れすぎているものが乱立している町なので、蝉の声が尋常でないレベルでうるさい。
暇な昼間は大学の図書館に通っている。第一義としてはそこにクーラーがあるからだったが、返済無しの奨学金を受け取る資格を維持するにはそれなりの努力も必要だ。借りていた本の入ったバックパックが、図書館のエントランス前の階段を登る魚谷の腰をトントンと叩く。
エントランスには新聞各紙が閲覧用スタンドに収まっている。入学以来数ヶ月、その前に人が立っているのを見たことがなかったが、魚谷と同じように暇を持て余したのか、今日は一つ人影が見える。
「
……
」
図書館に入りたいから近づかざるを得ないのだが、近づいてから後悔した。八木だった。休みに入ってから初めて見た。
重心を片足にかけて立ち、経済紙をはらはらとめくっていた八木は、立ち止まったこちらを見てちょっとぎょっとした顔をした。一つだけ救いがあるとすれば、蟹沢のいない八木は、蟹沢付きのときよりも若干常識人だということくらいか。
「
…
魚谷」
「いたのか、大学」
「お前こそ」
「私は別に帰る家がない」
八木ははっとした顔をし、それから気まずそうな表情を作った。ちなみにこれ、前言ったけどな。飲んでる時に。
覚えていないのだろう。八木は典型的な飲まれるタイプだ。
面倒なので特にフォローもせず、魚谷は肩をすくめるにとどめた。「じゃあまた」と今まさに発しようとしていた瞬間、八木が「どうしたんだ」などと声を掛けてきた。
「
……
は?」
驚きのあまり、踏み出しかけていたスニーカーのソールが、磨かれた床に擦れてキュッと鳴った。気まずそうな表情を作った八木がわざわざ突っ込んでくると思わなかったのだが、
「顔色が悪いぞ」
「
……
」
八木は、心配しているというよりはただ事実を述べているというような顔をしていた。多分彼は、魚谷の予測しているような胸中でそう言ったのではない。
それでやっと魚谷は、自分には、人の気持ちなんか、わかるはずがないのだと思った。
わかるはずがない。自分の気持ちがわからなかったのだから。
何かから突き放されたような気がして、くらくらする。
…
いや、突き放したのは自分ではなかったか。
宿命のことを、放り出したのは自分ではなかったか。どちらか一つだけだと言う彼に従ったつもりで、彼を捨ておいていたのは自分ではなかったか。残った一方の道を、ただ淡々と歩んでいけると思いこんで、それで一人前だというような気になっていたのは、自分ではなかったか。出て行ってしまった彼を追いかけないのが彼のためだと思って、そのまま放り出したのは自分ではなかったか。
陣馬先輩にサガを譲ったような気になっていたけれど、本当は、私は。
「
……
暑いんだ。私の地元は涼しいから」
「
…
そうか」
「悪いかな? 顔色」
「そう見える」
「そう」
魚谷は、強い感情を持つのが嫌だった。淡々と生きていきたかった。宿命と自分の気狂いじみた生活、繭のようなその思い出の中で繰り広げられているままごとを、一生眺め続けていたかった。それ以外は全部、ただの背景にしたかった。そんなこと、できるわけがないのに。
できるわけがない。魚谷は初めから宿命の繭の外で生きているからだ。その繭を愛しているからだ。
陣馬先輩のように、それを破っていけはしなかった。
だから本当は、私が、逃げたんだ。
「
……
じゃあ、」
めまいを無理やり抑えこんでなんとか歩みだそうとした魚谷を、再び八木の声が引き留めた。「蟹沢を待ってるんだが」
「
……
あそう」
「
…
お前もメシ食いに行くか」
「
……
」
魚谷はぼんやりと八木の顔を見た。八木の表情筋はやはりぴくりともしていない。
「
…
蟹沢、うるさいんだよな」
「そうだな。だが今日はたかれると思う。昨日が給料日だから」
「
…
あいつは何してるんだ」
「知らん」
「知らないのか」
「興味がない」
「給料日は知っているのにか」
「手帳にかいてあった」
「お前蟹沢のヒモか」
蝉がわんわん喚いている。外に出たら暑いだろう。蟹沢がいくら持っているのか知らないが、学生ばかりの町では大したものも食べられないだろう。
だが今日は、陣馬先輩が欠勤かもしれない。今日からずっと来ないかもしれない。一人で店を回すには、大したものでなくても、とりあえず、腹に詰め込んでおいたほうがいいかもしれない。
ので、
「
…
本返してくるから引き留めておいてく」
「あっ、とっとやちゃんじゃん」
「
……
」
むわっとした外気と共に、蟹沢のかすれ声がエントランスにこだました。「何二日酔い?」
「
…
安酒を飲んだから」
「どこで」
「魚民」
「字面似てんじゃん」
「だから何だ?」
「いやそんだけ」
「傷ついたからおごれ。お前給料日だったのだろう」
「は? 何で知ってんの?」
「ヒモがそう言っている」
「ヒモって誰だよ」
「俺だ」
意味のわからないドヤ顔で八木が言うので、魚谷はこいつら本当に馬鹿なんじゃないのかと心底思う。
自分がそのうちの一員であることに感謝する日なんか一生来なければいいのに、と、もう叶わない願いを腹の底に沈めると、胃がぐうと鳴った。
(終わり)
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