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残りの夜が来た
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星矢
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八木くんと蟹沢くんと魚谷くん/加美くんと三郎くん
年中組とロスサガ/番外編ミロカミュ 現代日本のパラレルにするなら名前を変えてもいいんじゃないかシリーズ
八木くんと蟹沢くん 初出・同人誌(個人)「八木くんと蟹沢くん コピー本版」2012
魚谷くん 初出・同人誌(合同)「八木くんと蟹沢くんと魚谷くん」2012
陣馬先輩と宿命 初出・同人誌(個人)「八木くんと蟹沢くんと魚谷くん再録」2016
加美くんと三郎くん 初出・無配ペーパー「加美くんと三郎くん」2013
八木くん→シュラ 蟹沢くん→デスマスク 魚谷くん(ととやくん)→アフロディーテ
陣馬先輩→アイオロス 二子玉川宿命→サガ 加美くん→カミュ 三郎くん→ミロ
出てないけどラダマンティスは村田万次郎(高校生)、カノンは二子玉川海音(万次郎のカテキョ)で、カノンがラダに「なだ万」とか適当なあだ名つけるラダカノを書くつもりで10年経った
ダイフクさんの漫画もめ〜っちゃよかった。自分のもお気に入り。名前考えるのが一番楽しかった
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八木くんと蟹沢くん
クラスメイトの大半が亀のような姿勢で授業を聞き流しているのを、自分も亀のような姿勢で眺めている。肌寒く湿気った六月の教室では受験モードの人間はまだ少なく、その数少ない人間はせっせと別の内職に励んでいて、教師の口から漏れる英文法は何の意味も成さずにぶくぶくと沈んでいく。
蟹沢は半袖のワイシャツに美学を見出すことができず未だに長袖を着ていたが、その折り曲げた袖口に、濡れた机から付着したと思われる茶色い染みを見つけてしまい、初めから希薄だったやる気を全て失ってしまった。粘度の高い空気に押しつぶされるように、徐々に姿勢を低くする。どうせ呼気が暑苦しくて眠れないことは分かっていたが、他にこの時間をやり過ごす方法も見つけられなかった。梅雨は苦手だ。
額を腕に押し付ける直前、八木をちらりと見る。
でかい図体のくせに席替えの際「目が悪い」と主張した八木は、窓際の真ん中に陣取っている。そのくせ真面目に授業を聞いているかといえばそういうわけでもなく、現に今も、他の生徒と同じように丸まった背中の向こうで、俯いた頭が不規則に上下していた。
「
……
」
無駄に大きくなった彼の背中を見た蟹沢は、自分のことを棚に上げ、姿勢が悪いなと思った。普段彼の背中は嫌味のようにぴんと伸びているから、八木もこの湿気に押しつぶされてしまっているのかもしれない。丸まった背中はうっすらと筋肉に覆われているが、その奥にある背骨や肩甲骨のぼんやりとした凹凸が、立っている時にはできない薄い影を作っている。
姿勢が悪い。陸上部のくせに。
…
いや。
彼の姿勢が悪いからといってこちらに不利益は一切ないのだった。無意味な難癖をつけてしまったと思いながら目を閉じた蟹沢は、
「でっ」
シャープペンシルの先で肩をつつかれ、結局再び跳ね起きた。
「
…
んだよ」
消えかけた意識を急に刺激され、思っていた以上に大きな動きでびくりとしてしまったことに苛立った蟹沢は、この苛立ちが相手に伝わればいいと思いながら自分をつついてきた隣の女子を見る。が、彼女は蟹沢の低い声も全く意に介さず、「ねえねえねえ」と顔を寄せた。「蟹沢ってさ、八木くんと幼馴染みなの?」
「
……
」
眠りを遮られてまで話しかけられた上にひとの話題か。蟹沢はより一層面倒な気分になる。
「だから何だってんだよ」
「マジなんだ?」
教師がちらりとこちらを見る。一瞬黙った彼女は口元に教科書を当て、それでも話を続けた。
「
…
いつから? いつから?」
「
…
ガキんとき」
「
……
あのさあ、八木くんって、
……
、」
彼女は、教師ではなく八木の方を気にしながら話し続けた。そっちを見るのかよと思うが、注意されることはないと高をくくっているのだろうし、蟹沢もそれは正解だと思う。グラマーの授業は生徒のみならず教師にも全くやる気がなく、あちらの声が湿気に勝てていないのだから、彼女の声が教卓まで届くはずがない。というより、蟹沢にも聞こえていないのだ。
だが、蟹沢はぼそぼそした声をそのままの音量で放置した。「
…
っていうかさあ、」
「
……
」
「ねえ、聞いてる?」
「聞いてなーい」
「はあ?」
「八木より俺の方がかっこいいだろー」
語尾にあくびの混じった蟹沢の言葉を聞いた彼女は、舌打ちでもせんばかりの顔で、それでも舌打ちはせずに「はいはい」と言った。
「蟹沢くんかっこいいちょうかっこいい」
「はあ? もっと心込めろよ」
「これ以上は無理」
「俺モテるよ?」
「いや、だからって心にも無いこと言えないし」
やっだー、ひどーい、どっちがひどいのよ、そりゃお前、どっちがって(チャイム)、
きりーつ。
どちらがひどいかといえば彼女だ。それは間違いない。が、ひどい目にあったはずの蟹沢は、悲しむどころか安堵しながら伸びをした。
彼女が何を聞きたかったにせよ、八木について蟹沢が語ることは特にない。八木と同級になってからの二ヶ月間のことならば彼女の方がずっと詳しいだろうし、小さい頃のことだって、彼女の望むような情報は一つもないだろう。
「俺のことなら教えてあげる」
「いらない。もー、蟹沢にはきかない」
「あら残念」
れーい。
一気に覚醒した教室中に、湿った床と椅子の足が擦れる音が響く。八木は、居眠りしていたように見えたのはお前の勘違いだとでも言うように、まっすぐ立っている。それを見ながら、「ホントは俺が気になるんだろ」と言うと、もう一度シャープペンシルが突き刺さった。
蟹沢と八木は幼馴染みの同級生だが、今やほとんど言葉を交わさない。
仲が悪いというわけではなく、そもそもそこに至るまでのコミュニケーションがない。自分たちが特殊なのではなく、おそらく幼馴染みとはそういうものだ。かつて毎日遊んだ相手は、年の近い隣人に過ぎない。
そもそも、八木にまつわる蟹沢の一番古い記憶すら、彼自身に関することではなかった。隣に越してきた女の人が特別美しく、幼いながらに目を奪われた蟹沢は、この人は若いから美しいのではなく、年をとっても美しいのだろうとまで勝手に考えた。会うと決まって病院帰りだという彼女に手をひかれた子供は、自分のほうが母親の手を引いているのだというような顔をしていた。蟹沢のことを睨むように見つめてきた、その目付きの悪い少年が八木だ。
越してきてからそれほど経たないうちに、母親はめったに姿を現さなくなった。母親とではなく、見かけない男の人と並んで帰ってきた日の八木は、死人のように青い顔をしていた。母親が入院したのだという。それでも彼は、何でもないというような表情を作っていた。蟹沢も何も話しかけなかった。
母親が入院してからの八木は、実質的に一人だった。病院帰りに一緒にいた男の人が彼の父親なのかもしれないが、仕事が忙しいのか、彼は休日もあまり家にいないようだった。家のことは雇われの家政婦がやっているらしかったが、彼女は夕方にはそそくさと帰っていく。
蟹沢は、日が暮れてから寝るまでの間の八木の家と、その中にいる八木のことを想像した。八木は、蟹沢と八木の母親が話していても一言も発さないくらい無口だったから、一人のときにしゃべったり歌ったりなど、決してしないに違いない。想像の中の彼は筆舌に尽くしがたいほど一人ぼっちである。
同情や憐憫というよりは、ただ単純に、それではつまらなかろうと思ったので、蟹沢は、自分のうちで夕飯を食べないかと持ち掛ける。だが八木はあっさりと首を振った。
「大丈夫だ」
「ふーん」
大丈夫だと言われて無理矢理家に引き込むこともない。ないのだが、蟹沢は少し考え、今度は、誰にも教えていなかった秘密基地の建設候補地に行くことを提案してみた。
「候補地?」
「これから作るんだよ」
「
……
」
八木は、嬉しそうな顔も鬱陶しそうな顔もしなかった。そういう顔をすることすら面倒臭がっていたのかもしれなかった。それはそうだ。二人は隣に住む者同士というだけで、特別仲がいいわけではなかった。それでも八木はついてきた。
候補地は、不法投棄された怪しげなゴミとエロ本が落ちていて、掘っ立て小屋も洞窟もなく、カブトムシすらいない、ただの雑木林だった。八木と蟹沢は、まずは集めた枝で基地を作ろうとしたが、それは台風で中断したきりになった。次に縁日で掬った金魚を放流する予定の池を作ろうとしたが、いつまで経ってもできあがらず、その前に金魚がいなくなった。夏の終わり頃にはカブトムシを養殖しようと幼虫を買い漁ったが、彼らはあえなく全滅した。
そういうことを思いつくのは蟹沢だったが、飽きずにしつこくやり続けるのは八木の方だった。そのくせ彼はある地点に到達すると急に仕事を放り出す。計画を思いついた端から飽きてしまう蟹沢と、計画の枝葉の部分を完成させると満足してしまうらしい八木のコンビでは、雑木林はいつまで経っても雑木林以上のものにはならない。
それでも蟹沢は、八木は特別無口なわけではないとか、馬鹿みたいに負けず嫌いであるとか、そういった性格が薄皮を剥ぐようにあらわになっていくのが面白く、ほとんど毎日彼を誘った。八木も暇つぶしにはなっていたのか、母親の見舞いが無い日には、黙っていてもそこに来るようになる。二人はそうやって大半の時間を過ごした。
体格に大差の無かった二人だが、小学校の終わり頃には、蟹沢は八木に見下ろされるようになっていた。とはいえ、肉が付きにくいのか、食べる量の割には骨っぽく、ひょろひょろした体格の八木は、決して大きくは見えなかった。八木の母親の具合が悪化し始めたのはその頃の、梅雨に入ったばかりの時期だったと思う。彼はしばらく雑木林を訪れず、蟹沢は一人、雨で湿った雑木林でぼんやりしていた。
あの美しい母親が病に冒されているところを想像してみるが、見たことのない像はうまく結べない。結局、脳内に投影されるのは、大分前に見た母親の美しい顔と、それに寄り添う、縦にだけ大きくなった八木のシルエットだった。とはいえ、八木が今どんな顔で彼女に相対しているのかまではやはり分からず、無理矢理映像にしてみようとすると、最後には普段の八木の顔ひとつが残る。そこまで自分で想像しておいて、蟹沢は勝手に悲しくなった。
何もできない蟹沢は、そうやって梅雨が過ぎていくのを傍観していたのだが、家に帰ったある日、ついに八木の母親の訃報を聞く。
八木が再び雑木林にやって来たのは、梅雨の肌寒さに夏の蒸し暑さが勝り始めたくらいの頃だった。立ち昇った湿気が日光に沸かされて、むっとした空気が雑木林を覆っている。
「
……
」
久しぶりに見た八木はしゃがみ込んで、雨水で膨らんだエロ本を棒きれでめくっていた。彼はうっすら汗をかいているようで、湿ったTシャツの背の中央に、何かが這っているような骨が浮き出ている。
「
……
」
蟹沢は黙ったまま彼の背を眺める。こちらに気づいていないわけではあるまいが、八木も何も言わない。
母親の最期はどうだったのか、蟹沢は聞けなかった。聞いてどうなることでもなかったし、八木とそういう話をするのが怖かった。そのくせ沈黙も不自然で、背筋がそわそわと落ち着かない。寒気すらした。せめて真夏だったら蝉の声でもしていただろうに、それで間が保っただろうに、雨も降らず風も吹かない雑木林では、八木がくっついたページを剥がすぺりぺりという音しかしない。
二人になっても手持ち無沙汰になってしまった蟹沢は、仕方なく、八木の脊椎を数えていた。腰から登り、シャツの襟首から這い出した骨まで数え上げる。三往復した。それでも八木は何も言わない。
沈黙に負けた蟹沢は、仕方なく「久しぶり」と言った。
八木は顔を上げずに「そうか?」と答える。
「そうでもねえか」
「
……
」
内容が脳に入っているとはとても思えない速度でページをめくりながら、八木はエロ本に没頭しているふりをしている。背骨の両脇で肩甲骨がぐるりと蠢く。
「
…
さみいなここ」
「寒くはない」
「寒いよ」
「情けない」
「何がだよ」
「
……
」
八木は再び口をつぐんでしまう。
黙るな、と蟹沢は思う。黙るな。黙っていたら押しつぶされてしまう。もう脊椎は数え終えてしまった。エロ本ももうすぐ終わってしまうではないか。
蟹沢は何かを提案しようとした。何年も放り出したままの秘密基地を作り直すとか、ただの穴になっている池を掘り直すとか、
……
?
下らない。ここには基地の材料なんかないし、埋め立てなければどれだけ掘ったところで池にはならない。気付いてからもう何年も経っている。全部今更だ。それに、あまりにも苦し紛れだった。蟹沢は八木とそんなことがしたいのではなかった。苦し紛れで時間を潰すことも、苦し紛れで言葉をひねり出すことも、違う。それなのに、蟹沢は苦し紛れの策しか思い浮かばないのだ。
「
……
」
「
……
」
蟹沢は、やりたいことや言いたいことを思い浮かべては消し、思い浮かべては消し、最後には、自分は多分八木を慰めてやりたいのかもしれないと思った。だが、泣きもしていない八木を慰めることはできなかった。
「お前、寂しいんだろ」
「
……
」
「なあ」
「なんで」
八木は潰れそうな声で言う。ぺり、ぺり、ぺり、
「そんなことを言う義理がある」
「
……
」
蟹沢はもう一度脊椎を数える。ぺり、ぺり、
……
、
……
、
もうページが無い。
八木は顔を上げ、背筋をぴんと伸ばしたが、こちらを向くことはしなかった。静かに上下する背中に脊椎の影はなく、それどころか蟹沢の一切を跳ね除けようとしているように見えた。
「
……
」
「
……
」
「まあ、そーだな」
蟹沢は八木に背を向ける。
それ以来、蟹沢は雑木林には行かなかった。しばらくして八木は引っ越した。近所らしかったが、その近辺にも赴かなかった。
そういうわけで、蟹沢と八木は幼馴染みだが、今やほとんど言葉を交わさない。喧嘩別れですらなく、ただ会わなくなった、ただ顔を見なくなった、ただ離れた。あれから互いに異なるコミュニティを作り上げてきた自分たちは、つるむ連中が異なり、会話のリズムが異なる。同じクラスになったからといって、それが再び交わることはきっともう無い。自分たちはもはや別の世界の人間だった。
期末テストが近いので部活は禁止になっている筈だったが、自主練は学校側が規制できるものではなく、校庭には最後の青春を謳歌しようとする三年生が少なからず散らばっていた。インターハイの地区予選かなにかが近いのかもしれない。
曇っているとはいえ気温はそこそこ高い。この蒸し暑いのによくやる、と思いながら、彼らのように部活をするわけではなく、かと言ってテスト勉強をするわけでもない蟹沢は、別の青春を謳歌している。具体的には、窓ガラスに寄りかかりながら、自分のことを好きだと言う女子を眺めている。
「
……
」
彼女は何かに追い立てられるような表情をしていて、それがあまりにも険しかったので、蟹沢は「教室で告白ってエロい」と言ってみた。場の空気を解してやろうというこちらの優しさに対して、信じられないというような顔をしてみせる彼女だが、優しさに気づいていようがいまいが、そういうつもりが無いとは言えない筈だった。
「
…
馬鹿じゃないの」
結局そう言いながら近寄ってくる体温に、蟹沢はうっすら興奮した。クラスの違うこの女の子のことを自分はよく知らなかったが、彼女も自分のことなど大して知らないだろう。お互い様だ。
廊下を歩く人影がいくつも見えたが、彼女が気にしていないのならば自分が気にしてやることはないだろうと思い、蟹沢は知らないふりをして汗ばんだ肌に手を這わせた。背骨をなぞると彼女は身震いする。
ほとんど無意識に脊椎の凹凸を数えはじめた蟹沢が、行く手を遮るブラのホックを外そうかどうか躊躇していると、ドアの開く音がした。
「
……
」
ぱっと身体を離した女の子は、ねっとりした熱気を漂わせたまま教室から出て行く。取り残された蟹沢はぼんやりとドアの方を見る。
「
……
」
邪魔をされたと苛立っているわけでも、名残惜しいと思っているわけでもなかったが、蟹沢は一気に気分を重くした。嫌な奴に見られた。
…
いや。
そう考えてから、誰に見られても一緒だと思い直す。
「
……
」
ドアを開けた八木は何も言わず、表情筋すら動かさずに、窓際の自分の机に大股で歩み寄った。
「
……
」
彼も自主練に勤しんでいた一人のようだった。汗ばんでいるというレベルではないTシャツは雑巾のように絞れそうで、短い黒髪から落ちた汗も床に点々と跡をつけていた。汗臭そうだと思ったが、八木から漂ってきたのは、汗ではなく水道水の塩素の匂いだった。頭から水浴びでもしたのかもしれない。
八木が何も言わないままなので、蟹沢も黙っていた。黙ったまま、彼が机の脇に引っ掛けたバッグに手を伸ばすのを眺める。引っ張り出したタオルで乱雑に汗を拭うのを眺める。
顔を埋めたタオルの合間から見える手は骨ばっていて、甲だけがうっすら日焼けしている。濡れたTシャツの下には、制服を着ているとき以上に筋肉が目立っている。やっぱりあのひょろひょろとは似ても似つかないなあとぼんやり思う。この分だと、脊椎の数だって違うのかもしれない。
…
違ったりして。
そんなことがあり得ないということは分かっていたが、思いついてしまうと確かめなければ気が済まなくなった。蟹沢は目を細めて彼の背骨を探した。探しながら、さっきなぞったばかりの背骨の感触を思い出す。あれとこれとは、きっと全然違うのだろう。それでも、指先から記憶を辿る。女の子の熱と、湿った雑木林と、目の前の八木とを順番になぞる。あれとこれとは違う。全然違う。
こいつはどんな奴なんだろう。
唐突にそう思ってから、蟹沢ははっとした。ぼんやりしているつもりは全く無かったが、汗を一通り拭った八木が顔を上げ、心底不快そうな顔でこちらを向いているのにしばらく気づいていなかった。呑んだ息を押し殺して平静を装ってみせるが、うまくいっているかどうかは知らない。
「
…
何だ」
「
…
いや、」
脊椎の数を知りたくて、
とは言わなかった。目の前の八木がかつての八木だったら言ったところでどうということもない気がしたが、それは改めて確かめるほうがいいような気もした。それで蟹沢は、代わりに
「お前、モテないだろ」
と言った。
「何?」
「空気読まないから」
「
……
」
八木は片眉を吊り上げてこちらを見ていたが、やがてフンと鼻を鳴らした。
「どっちがだ」
「お前だっつうの」
「教室でいちゃつくお前よりはマシだ」
「見てんじゃねえか!」
「自業自得だ」
「見てんなら気を使えって言ってんの」
「なんで、」
八木は背筋を伸ばした。
「そんなことをする義理がある」
当然だという口ぶりで言い捨て、タオルを首に掛けた八木はバッグを掴んだ。それから大股で教室を出ていく。
「
…
お前彼女いないだろ!」
蟹沢の声は閉まるドアに挟まれる。
窓ガラスに背中を押し付けたまま、蟹沢はずるずると腰を降ろした。あんな男に、彼女なんて絶対いるわけがない。隣の席の女は阿呆だ。大体昔から、
昔から、何だ?
…
いや、
蟹沢は首を振った。それはまた改めて、確かめなければならない。自分がニヤニヤ笑っていることには気づいていたが、その理由には気づかないふりをした。
蟹沢と八木は幼馴染みだが、今やほとんど言葉を交わさない。
…
交わさなかった。
豪雨が何日か続いた後、気温は冗談のように上昇した。蟹沢たちはクーラーのない教室で熱中症か試験かという試練に晒されていたが、その試練もようやく最終日を迎えた。
蜘蛛の子を散らすように飛び出した生徒らをよそに、特にやることも行く場所もない蟹沢は、教室でぼんやりしていた。そのうち採点のために締め出されるのだが、暑くて動く気になれないのだ。
彼らはいつ昼飯を食ったのか、校庭では既に部活動の声がする。それをぼんやり聞きながら、空腹が怠惰に勝るのを待っていると、
「蟹沢くん」
と呼びかけられる。この間背骨をなぞらせてもらった女の子だったので、蟹沢はのろのろと腰を上げた。
試験の終わった安堵感からなのか、それとももっと別の理由からなのか、女の子はこの間とは全然違う顔をしていた。あの追い立てられるような顔より今の顔の方がいいと思ったが、蟹沢はそれを口には出さず、代わりに「ごめん」と言った。
「
…
何が?」
「俺、多分付き合えない」
「
…
たぶん?」
女の子の顔はみるみるうちに曇ったが、それと同じくらいの速度で元に戻った。それからけろりと、
「
…
蟹沢くん、振らないって聞いてたのに」
と言う。
「そうなの?」
「そういう噂、ていうか、常識」
「どこの常識よ」
「女子の間では常識」
「
…
いやーわりー、俺可愛すぎる子だと勃たなくて」
「なにそれ」
「嘘」
「
…
なにそれ」
背中を思い切り叩かれる。「馬鹿じゃないの」
そうかもしれない。
廊下を走る足音を見送った蟹沢は、立ち上がったついでに窓から首を出し、校庭を眺めた。蟹沢は八木が何の種目の選手なのかすら知らなかったのだが、彼は探す間もなく見つかる。高飛びなんて目立つ競技をやっていたからだ。そりゃあ、隣の席の女も八木のことが気になるはずだ。
独断で勝手に納得していると、八木がふわりと浮き上がる。が、彼はバーと一緒に落ちた。
「あーあ」
半分落胆、半分ざまみろと思いながら、蟹沢は八木を眺め続けた。見回りに来た教師に追い出されるまでの間に、八木は四回飛び、二回失敗した。
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