【再録】老桜は眠る

2021年11月発行の楊普アンソロ『42 僕たちの恋模様』に掲載していただいた楊戩と普賢のお話です。
たくさんの楊普を集めたすばらしいご本でした。ありがとうございました。

あとしまつ後の教主楊戩と普賢の話。いつも誰かを助けているだろう普賢が、誰かに助けられる側になったらどうだろうと考えて書いたお話です。

「理由がなければ、いけないかな」


霧雨がやまない中、普賢は木に触れ、彼が起きるのを待った。しばらくしてから地鳴りのように地面がふるえ、彼が目を覚ましたのがわかった。
「おはようございます」
普賢が呼びかけると「お前たちの話は聞いていた」と彼は言った。
「お前がいつまでも帰ろうとしない理由もわかった。——おおよそ知ってはいた」
いつもより早い朝、さらさらとノイズのような霧雨に声を沈ませて、彼は言った。低く落ち着いた声音に、普賢はきゅっと唇を引き結ぶ。おそらく最期が近い。もう話す力はほとんど残っていない。それでも引き下がらなかった。
「僕は、あなたを連れていきたい」
幹に両手をつき、樹上を仰いで声をかける。
「残り五十年分。あなたのすべてのデータ化が完了すれば神界であなたを再現・再構築できる。あと三日——ううん、あと二日でいい。あなたの時間を僕にください」
「ほんとうにあきらめが悪いな」
低く笑う声が地を伝った。振動でこまかな雨が葉に落ちて、二人の頭上に降り注ぐ。
「移植すればすべては解決する。それでお前も満足だろう」
「それでは、あなたがいなくなるんだ」
「儂が儂であることは、さほど重要ではない。どこにあっても生き直せる。ここではないどこかで、儂ではない儂として生まれかわることができる」
はっと普賢は息をのんだ。
「もうとおい遠い昔、儂はただの妖怪であった。人と会うことなどめったになかったがそれでよかった。どうせ恐れられる、それならここにひそりと生きていたほうがよい。そう思って山に根を下ろしたのももうはるか昔だ。それでいいと思うておった。……お前と会うまでは」
時がとうに遅かったなと、笑う声は弱々しかった。
「もし儂ではないだれかとして別の場所で生きられるのであれば——今度は妖怪ではなく、ただの一本の木として人と交わることを恐れず、ただそこにある生きかたが選べるのであれば、それこそ本望である」
楊戩は両拳を握りしめる。仙人にならず、ただここに生き続けて朽ちることを望んだのは、孤高の古木としてだれとも交わらなかったのは
(怖かったからだ)
「僕と一緒に来てください、お願いします」
「ならぬ」
普賢の懇願を拒むかのように、桜は枝を揺らした。
「何千年と生きてきて、これほど長く儂に話しかけてくれたのはお前がはじめてだった。ずっと独りであったわが身を望んでくれたのも」
「これから何度だって話をしよう。だからあきらめないで」
「お前はなんのためにいる?」
雛を包み込む親鳥のようなやさしい、だが威厳を損なわぬ声で、彼は問いただす。
「これから神として幾百、幾千と永らえるのであろう。お前は消えぬのであろう。であれば、儂が儂であったことは、お前に刻まれていればそれでよい。それがどれほど悲しみをともなっても」
大きく大気が震えた。
「さあ、目に焼き付けろ」
木を中心にまるく振動が広がっていく。鳥たちが驚いて飛び立っていく。
木のわななきが大気を震わせる。葉が落ち、芽生え、蕾がうまれふくらみ、そして季節はずれの桜の花があわい朝の空いっぱいに開いていく。つぎつぎと、空を覆う勢いで咲き、そして吹雪のように散っていく。霧雨に青い葉と紅葉した葉と花弁がまじり、降り落ちていく。十年を一分に、百年を一秒に、静やかに、急速に朽ちていく。止まってしまっていた時間がかけあしで過ぎる。悲鳴もなにもかもを飲みこみながら、やがて

あかるい朝がやってきた。

霧雨はやんだ。遮るものをすべて失った枝の隙間から、湿気を含んだ晴れやかな青が見えた。重い重い静けさの中、普賢は降り積もった葉と花弁のなかに呆然とうずくまっていた。
「普賢師弟」
おそるおそる声をかけた楊戩に、普賢は言った。
……まだ間に合うかな」
「普賢師弟」
「もうすこし待って、」
「でも、もう彼は……
「もうすこし」
最後は声にならなかった。朽ちた木くずを握る拳が震えていた。
「もうすこし、待ってみましょうか」
音もなく空気を揺るがせる慟哭を、楊戩はただ黙って聞き続けた。