【再録】老桜は眠る

2021年11月発行の楊普アンソロ『42 僕たちの恋模様』に掲載していただいた楊戩と普賢のお話です。
たくさんの楊普を集めたすばらしいご本でした。ありがとうございました。

あとしまつ後の教主楊戩と普賢の話。いつも誰かを助けているだろう普賢が、誰かに助けられる側になったらどうだろうと考えて書いたお話です。

「理由がなければ、いけないかな」

足を止めて大きく息をついた。はるか眼前に連なる山々は険しく、麓は雲に覆い隠されている。薄緑の靄が切り立った崖を包み込み、まるでうつつではない景趣であった。急坂は容赦なく続き、息が落ち着く間もない。途中、方角を確認するためになんどか足を止めたが、そのたびに優秀な宝貝はその丸い目をくるりと主人に向ける。
「こっちで合っているんだね。ありがとう、哮天犬」
目指す先はまだ遠く、近道はない。一歩ずつ進むしかない。

人間界と仙人界とが厳密にわけ隔てられようとしていた。すべてが整うのはまだずっと先だろうが、それでもプロジェクトは地道に、粛々と進んでいた。協力者はみな優秀だったし、手探りとはいえそのビジョンは明確だった。できることを手分けして、すこしずつ世の中を築いていく、その中心として働けることに、教主として手ごたえさえ感じていた。張奎が訪ねてきたのはそんなときだった。
「普賢真人が帰ってこない」
かつて一戦をまじえた相手は、難しい顔で切り出した。
「いつからだい」
「もうかれこれ——半年以上になるかな」
「ええ?」
さすがに驚いて、楊戩は彼が座る真正面に腰を下ろした。
崑崙十二仙の一人として、普賢ももちろん、神界再編の一翼を担っていた。彼に課せられた役割は地上に残っている妖怪、妖怪仙人たちとの折衝。神界へ、あるいは一時的に蓬莱島へ移ることついて、その意味や重要性を説く、地道な任務だった。かねてから人間と妖怪との相互理解を理想に掲げていた彼であったので、だれもが適任であると考えたし、本人も「力になれるなら」と快く引き受けてくれた。
「最初は警戒したり疑ったりしていた人たちも、丁寧に対話を重ねればちゃんとわかってくれるんだ」
いちど様子を見に行った際、目を輝かせながら話してくれた。それがほんとうにうれしそうな様子だったので、彼に任せておけば大丈夫だと、そのとき楊戩は心から思ったし、今もそれは変わらない。だからこそ、帰ってこないという報告を聞き流すわけにはいかなかった。
「トラブルが起こった可能性は?」
「たぶん、そうじゃない」
張奎はため息をついた。
「本人から、すこし時間がかかりそうだと報告はあったんだ。詳しいことは言わなかったが、大丈夫というので呑気に構えていたんだけど、三日ほど前からまったく連絡がつかない。さすがにだれか行ったほうがいいと思うんだけど」
あえて説明しなかったのは、信用して任せてくれということかもしれないが、単にめんどうだからだろう。それほど深くない付き合いではあったが、説明を端折る癖があるのは覚えていた。
「あの人のことだし」という楊戩に、張奎は首を傾げる。
「僕は普賢真人についてよく知らないけれど、もしかして、あんまり人の話を聞かないタイプか?」
「ああ……うん。とってもね」
困惑している妖怪代表に、楊戩は苦笑する。
「わかった。僕が様子を見に行ってみるよ。それで、どんな妖怪だい?」
張奎はどこかホッとした面持ちで答えた。
「古い桜の木だよ」