えのうえ
2024-01-09 21:14:09
21579文字
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俎上の輪舞曲

ごった煮チャイマ。様子見のジャブ。そしてジャブ。
問題があったら消します。



 五

 親父の説得──謀反。
 と舌の上で転がしてみる。
 それらは体温によって薄皮が溶かされ、口内に苦味をもたらした。骨の髄まで沁みた年功序列の精神が己に罪悪の有無を問うているのだと公平は思った。
 ウー・ロンは、澄ました顔をして茶を啜っている。立てられた襟の陰で、喉仏が大きく上下した。頑固者とわかる眉とそれに反するように散らばった毛先。体格同様、女にしては大きく、男にしては小さい手を机上に置いて、時折リズムを刻んだ。タンタタンと鳴らす指先は、微かに曲がっている。
 面倒事を持ち込んだのは自分であるのに、なぜか他人事のようだった。トウという人物を説き伏せ、己の提示したお願いを公平がするりと呑んだ。それでこの難題が、己の手から綺麗さっぱり離れたのだとでも思っているのだろうか。
「自分、今どえらい顔しとんで。眉間の皺で大根おろせてまいそうや」とウー・ロンが笑う。
 タンタタン、タタン。
 再び指を弾き、何かを口走った。抑揚から中国語だろうと察する。公平が眉を顰めていると、ウー・ロンは花籠からメッセージカードを引き抜いた。そして机上に転がっていたボールペンを手に取り、カードの裏面へと何やら書き込んでいく。はねと払いが大胆な右下がりの文字。決して上手いとは言えないが、ボールペンの持ち方だけはそれっぽかった。
『笑一笑、少一少、恼一恼、老一老』
 書いた文字を指差しながら、もう一度発声した。
「ウチの爸爸バーバがよう言っとった。くよくよ顔は負けを呼ぶさかい、嘘でも笑うとけてな」
 ウー・ロンが立ち上がる。公平の視線も釣られて上向いた。
 別にくよくよしているわけではない、と公平は思った。締切の近い面倒事が重ねて舞い込んだために、思考がまとまらないだけだ。
 次に親父に顔を見せるのは、カレーぶっかけ事件に関する進捗報告のときで、その内容は兎馬と己の働きによる。良い報告ができれば、金のことも切り出しやすいだろう。しかし、ウー・ロンの言う若坊ぼんがそう多くの時間を与えてくれるとは限らない。もういっそのこと、金のことは事後報告にしてみるか? という考えさえ過った。もとより扱いあぐねていた金だ。現状の収入だけで十分であることも踏まえれば、別段の問題ないようにも思えた。
 勝手に冷蔵庫からお茶を取り出すウー・ロンを横目で眺めていると、公平の胸元でスマートフォンが震えた。
 兎馬からだった。メールに件名はなし。『送ります。』の五文字と添付ファイルが一つ。
 データをタップすると、画面いっぱいに薄暗い風景が広がった。中心に人が立っている。フードを被っているため、顔はよく見えない。何かを熱心に振りまわしている。腕の動きに合わせて、靴の蛍光線が柔らかく光った。
 始終を眺め、さすがは兎馬。あの粗い映像データをよくここまで整えたものだと感心する。
 更に一通届く。開いてみれば先程の動画を切り抜き拡大したもので、ややぼやけているが、初めて犯人の顔を視認できた。一体何者だ? 公平は顔を顰めた。
「あれ」
 耳元でウー・ロンの声がして、思わずびくついた。
 反射的に顔を向けるも、ウー・ロンは気にする風もなく、公平の携帯画面を覗きこんで「いや違うか?」「でもなァ」などと眉間に皺を寄せている。
「知り合いか」
「うーん、たぶん」
「多分ってなんだよ」
「いやだって、見たことある気がするってだけで確信は持てんのやもん」
「なら思い出せ。いつ、どこで見たのか。こいつは誰だ」
 立ち上がり、ウー・ロンを睨む。
……若坊ぼんとこの商売の話な。表向きはさっぱり宗教団体やねんけど、ホンマのところはちゃうねん。戸籍を売り買いするようなクソでなァ。犯罪者やろうが、不法入国者やろうが、連帯保証人になってしもうて泣きを見とるドアホやろうが、関係あらへん。金さえ払えば皆平等やっちゅうてな」
「こいつも金で平等を買った一人だってのか」
「せやから多分な。この顔、一回事務所で見た気ぃするねん。うーん、台帳見たらイッパツやねんけど」
「その台帳はどこにある」
「えー、めっちゃ積極的やん。公平クンてば、気になった子ォには絶対年賀状おくりたいタイプ?」
 息をするように人を茶化す奴だなと苛立った。不機嫌を隠す気にもならない。公平が黙って着席すると、ウー・ロンは「ごめんて」と一言謝り、公平の向かいへと腰を下ろした。
「これでもね、ちゃんと調子のりな自覚はあるから。昔からよう叱られてんよ、全然治らへんけど。……気ィはつける。やから、またやらかしたら言うて」
 公平はため息とともに首肯した。「もし良ければ、その台帳を見せてくれないか」
「ほかでもない公平クンの頼みやからなあー。うんて言うてあげたいけど……
「こいつが何者か。それだけでいいんだ」
 どうしても無理だと言うのなら五十億は諦めるしかないと付け加える。
 ウー・ロンが大きく首を捻り、俯き、そしてガバリと顔を上げた。
「それは、キョーハクととってもいい?」
……冷静な交渉のつもりだが」
「いや、キョーハクや。キョーハク。でも、ただキョーハクに屈したてのはいかんわな。うん」
 次の瞬間、お茶が己の顔をめがけて飛んできた。ウー・ロンが、コップの中身を公平に向かってぶち撒けたのだ。思わず瞼を閉じる。
 睫毛を滴る雫の先で、ウー・ロンが立ち上がったのが見えた。机がグンと押される。机の縁と椅子に挟まれ、立ち上がるのが遅れた。「何すんだ」驚きから、公平は小さく叫んだ。
 ウー・ロンは、公平の言葉を無視するように一歩、二歩と近づいてくる。右拳が、己の顔に向かって放たれた。リーチの長さと体幹の良さを活かした、素早い打撃だった。
 公平は、すんでのところでそれを躱した。ウー・ロンの襟を掴んで、力いっぱい引き寄せる。「おい」と睨みつけたが、躊躇うような素振りもなく公平の腹を蹴り上げてきた。
 ドタドタと数歩後ずさる。
 先程飲んだ茶が胃の中で大きく揺れ、気持ちが悪い。
 ちらと逸らした視線の先では、花籠が裏返り、白と青の美しい花びらを散らしていた。
 再びウー・ロンが勢いよく飛びかかってくる。公平はそれを受け止め、次に振り下ろされた腕を弾いた。そしてよたよたと流れたウー・ロンの左頬にフックを打つ。背後に回り、首を絞める。身を捩り抵抗するその足を蹴りおろし、膝をつかせた。うう、とウー・ロンの低い呻き声が、公平の鼓膜を微かに震わせる。

 抜け出そうと振り上げられた石頭が公平の鼻を直撃し、思わず腕の力が緩んでしまった。
 お互いに距離をとり、様子を見合っていた。
 じりじり足踏みをする。
 ドン、とどこからともなく鳴った音を合図に、ウー・ロンが殴りかかってきた。粗いその拳を回しとり、掌底で顎を叩く。距離はとらせない。袖と襟を掴んで足を払い、床へと叩きつけた。
 このまま絞め落としてやる、と目一杯力をこめた。ウー・ロンが苦しそうに己の腕を何度も叩いたが、気にかけたりするものか。
 頬を、衣服の中を、水滴が伝うのを感じた。
 ピーンポーン。チャイムが鳴ったのはその時だ。次いで、ノック音。微かに子どもの声も聞こえた。「あのぅ、大丈夫ですか」
 ぱちりとウー・ロンと目が合う。
 公平は、ゆっくり手を離して立ち上がった。机と花籠を元の位置にもどし、玄関に向かった。途中、ティッシュ箱をウー・ロンの方にほうった。「床を拭け」と無音で指し示す。
 玄関を開けた先に立っていたのは、公平のちょうど上階に住む親子だった。買い物帰りらしく、野菜と菓子パンの入ったビニール袋を提げていた。
「え、事件?」
「え?」
「ちぃ」と言われ、鼻からの出血に気づく。ワイシャツに付いた血痕は己のものか、ウー・ロンのものか。公平は、「あー、いや。すみません。ちょっと模様替えをしてたんですけど、家具を持ったまま転けちゃって」と笑みをつくった。口端がじんじんと痛い。
「ああ、そうだったんですか。こちらこそすみません。すごい音がしたから何事かと……
「だいじょーぶぅ?」
「ああ、大丈夫。ありがとう」
 きちんと冷やしてくださいね、と親子が去っていく。
 扉を閉め、振り返る。ウー・ロンは、公平の指示通り、床に溢れたお茶を拭いていた。
「ええ人らや。私らみたいなんとは絶対付き合うたらアカンねぇ」とウー・ロンが言った。伏せられたその顔には、きっと笑みが浮かんでいるに違いない。公平は思った。
 もう攻撃してきそうにないな。判断して、近づいた。
 しゃがみ、床に散らばった花弁を拾い上げる。
「日本のヤクザは強くて堪りませんでしたが、一生懸命抵抗しました。頑張りました」
 ウー・ロンの中性的な声が室内に響いた。
「できることは全部しました。相手の顔にパンチを当てもしました。けれども私なぞには勝てるはずもなく、泣く泣く相手の要求をのみました」
 旋毛ばかりがこちらを向いていて真意が読めない。突然何を言い出すのか。思わず、「は」と息が漏れた。
「て、いう筋書きでいこ。これやったらしゃあないからな」
 ウー・ロンがこちらを向いて、にいと笑った。両鼻にティッシュを詰め込んで、だらしのない顔だった。何がしゃあない・・・・・のか、一向に伝わってはこないが、ウー・ロンの中で一つ踏ん切りが付いたらしかった。
……お前、今すごい顔してんぞ」
 公平は言った。それしか返す言葉が思いつかなかったからだ。一連から読み取りきれない自分が駄目なのかとも思ったが、全ての説明を求めるには、お互い隠し事が多すぎた。
 ひとまず、問題解決に向けてほんの少しは前進できた。それで良いことにしよう。公平は、小さくため息をついた。
「あほ。お前とちゃうやろ」
 と、ウー・ロンがやはり締まりのない顔で笑う。


 六

「公平クン、車の鍵貸して」とウー・ロンが言った。
 台帳の保管場所に向かおうと話をしたところだった。「まさか、運転する気か?」公平は頭が痛くなった。ウー・ロンは他に類を見ない方向音痴である。そんな奴に案内を頼まなければならないだなんて、と絶望すら感じた。まして、ハンドルを握らせる? 絶対に嫌だ。
「逆にそうじゃなかったら何やねん」
「俺の車の保険は本人限定で契約してるから、他人にハンドルを握らせるわけにはいかないんだ」
「別に事故せんかったらええんちゃうの。私これでもゴールド免許やで」
「だめだ。俺が運転する」
 強情やな、とウー・ロンの呆れ声を背に受けながら、玄関へと向かった。
 顔を洗い、服も着替えた。若干腫れの目立つ頬はマスクで隠した。手の甲が赤くなっているし、ピリピリと痛みもあったが、これは時間が解決するだろう。公平は伸ばしかけた右手を引き、反対の手で扉を開けた。
 湿った気配が鼻をつく。地面にできた水溜りが凪いでいるところを見るに、雨は止んでいるようだった。
 振り返り、未だダイニングキッチンにいるウー・ロンに声をかけた。「行くぞ」
「どこに行ったらええか知らんくせに、よう言うわ」
「案内してくれるんだろ?」
「せやね。まあ私に任せとったら、チリでもパリでもどこでも連れてったりますよぅ」
「頼もしいな」
 ウー・ロンが、スリッパをかしゅかしゅと鳴らして歩いてくる。
 鼻に詰め込んだティッシュはもうない。口端に絆創膏を貼った以外は、血の斑点がついた黒い服も、柴犬の尻尾のように渦巻いたポニーテールも、そのままだ。上がり框に腰を下ろして、「イテテ」と呟きながら靴を履いた。

 アパートから徒歩三分程度のところに借りた駐車場へと並んで歩いた。最初に一度曲がったきり、あとは真っ直ぐ進むだけなので、ウー・ロンの悪癖が発揮されることはなかった。
 公平は運転席に、ウー・ロンは助手席に乗り込んだ。
 エンジンをかける。カーナビ画面に文字が浮かび上がってきた。
「住所は?」
「ナイス12ワンツー珈琲屋本店の近く」
「どこだよ」
 にやりと絆創膏を歪ませたウー・ロンがその瞳を、公平の顔、そしてカーナビ画面へと移らせた。そして迷いない手つきで目的地を入力していく。
「我らが向かうは、公平クンの古巣。──いざ、トーキョー」
 ナビを開始します、と電子音が告げた。
 結局また東京に戻るのかよ。公平はゆっくりアクセルを踏んだ。