シノハラ
2024-09-16 22:03:50
43860文字
Public 戦パ
 

最果てから少し前

謹慎期間中に弾丸帰省をするアベンチュリンとそれに着いていったレイシオがツガンニヤの砂漠で2つ約束をする話です。
もうちょい追加で修正してスパークの新刊にする予定


    4

 宇宙船の着陸した地点に戻ってきた頃には、ほとんど日が落ちかけていて長くくっきりとした影がアベンチュリンとレイシオの足下から伸びていた。すでに予兆は感じていたものの、宇宙船に入ってシャワーで汗と砂と塵を落として再び外に出た頃には随分と気温が下がっている。
……それは?」
 乾いた土地特有の気候を肌で感じていると、アベンチュリンががさがさと音を立てながら深い緑色の化繊でできた袋を持ち出してきた。思わず首を傾げると、妙にもったいぶった仕草で袋を持ち上げられる。
「テントだけど。せっかくだから外で寝ようかと思って」
「二人用か?」
「えっ、教授も外で寝るつもりかい?」
「スペースがあるなら付き合おう。寝袋もあればありがたいが」
 寝耳に水とでも言いたげな調子で声を裏返したアベンチュリンに申し出れば、想定外だとばかりにもう一つ声を上げられてしまった。一人になりたいのだとしたら申し訳ないが、日中と同じくやはりこの星でのレイシオの仕事は彼について回ることなのだ。
「予備はあるにはあるけど、そんな慣れないことまで付き合ってくれなくてもいいのに」
「こんな事研究をしていればいくらでもある。君には一度僕の研究範囲を一から説明した方が良さそうだな。帰り道で話してやろう」
「それ、帰りの日程で収まるかな」
 どうだろう、怪しいところだな。なんて適当に返せば、冗談かどうか判断を付けがたいとアベンチュリンが苦笑した。
 レイシオの返事は半分が本当で、もう半分は嘘っぱちである。研究テーマとその実態の話など終わらせようと思えば数分で片付けられるし、腰を据えて話すのであれば一月あっても足りないのは間違いない。
「今年何科目の授業してるんだっけ? 四十八?」
「五十二だ。さては学位数に引っ張られたな?」
 不毛な指折りの仕草をしてから上げられた少し実態に足りない数字を訂正すれば、アベンチュリンの視線が斜め上に泳いだ。学位、と呟いて初めて会う前に一通りさらったであろうレイシオのプロフィールを思い出しているらしい。
「学位は……ええと、八?」
「正解だ」
 もちろん学位を取得している範囲に対しての研究が多くなってしまうのが当然ではあるが、興味があれば畑違いのプロジェクトにも参加する。故にレイシオの研究成果の実態を知りたければ、論文のタイトルを確認するところから入るのが一番の近道だろう。
「本当に色んな分野に手を出してるよね」
「何か問題が?」
 そう尋ねてみたものの、カンパニーのアベンチュリンの視点からすれば大ありかもしれない。蝶々なんぞ追いかけていないでカンパニーの益になる研究に集中していてほしいだろうし、顧問としてももっと時間を割くべきだと主張されてもおかしくはない。そんな要求をされたところで、素直に受け入れてやるつもりはもちろん毛頭なかったが。
「いいや、なーんにも? むしろそうじゃなきゃ、こんなところまで付き合ってもらえなかったかもしれないなって思っただけだ」
「君は僕が学問上の好奇心でツガンニヤに来ていると?」
「どうだろう。だったらヤリーロⅥに行ってるとは言ってくれたけどさ」
 そう言うと、アベンチュリンは肩を竦めて判断を放棄したようだった。もっと正確に表現するなら、彼は答えを出したくなかったのだろう。
 仕事の付き合いから始まった関係である事を考えれば、度を越した誘いと応答であったことはレイシオも自覚はしている。随分前に成人を迎え、独り立ちしてしまった今となっては両親ともここまで連続して行動することはない。
 彼の最後の機会になるかも知れなかったから。砂まみれの星に興味があったから。理由を見繕おうとすればそれなりに見つかりそうだったが、どれも後付けでしかないのは確実だった。
 誘われて、予定を合わせられたから付いてきた。レイシオにとって一番大きな動機はそれ以上も以下でもなかったのだが、その事実こそが最も疑わしく聞こえてしまう。アベンチュリンだって信じてはくれないだろうし、レイシオだって今整理しようとして少々愕然としてしまっている。
 仕事の側面で深く関わっていることはお互いに異論はないだろう。一方で、そうではないときの自分達の関係をレイシオはしっかりと定義できていない。アベンチュリンもおそらく似たような状況なのではないかと思う。
 自身にとってアベンチュリンは何なのか。一体全体どんなラベリングをして彼を管理すれば、この旅の妥当性をレイシオに与えられるのだろうか。そんな疑問をレイシオは無理に答えを出す必要もないと脇に押しやってしまう。
 ありがとう、助かった。アベンチュリンがそう礼を述べたのはバネ式でほとんど自動で展開するテントの固定に手を貸して、簡易の焚き火台に固形燃料ともみ殻を固めた薪をセットし終わった時だった。設営への話かと思って頷いてから、もう少し前の話題に対してだったかもしれないと少しだけ思う。
 焚き火台に火を灯して、火を安定させてから鍋に水を張ってレトルトの袋を投入する。湯が沸いてパウチの中身が温まるまでの間暇を潰すためとでも言いたげに薪を突きながら、アベンチュリンが鼻歌交じりの歌を紡ぎはじめた。
 緩い発音の歌声がほどけて形になりきらない部分は、おそらくもう覚えていないのだろう。童謡の類ではないようだったのでそもそも大人が歌っていたのを聞いていただけで、忘れる以前の問題だった可能性もなくはない。
 惑星系すら越える伝播の力を持つ歌の性質を考えると、川岸に位置する首長国の土地を訪ねて問いかければ答えが返ってくるのかもしれない。それでも彼がそうしていないのであれば、アベンチュリンがこの歌の完成形を知る必要性を感じていないからなのだろう。
 それか、この歌がエヴィキン人の内に留まっていたものと知ってしまう可能性を避けているのか。もしくはもう、その事実を知ってしまっているなんてこともあるかもしれない。
 レイシオは共感覚ビーコンの機能を切って、翻訳がかかる前の音に意識を集中させた。宇宙で共通語として用いられる主立った言語のいくつかは習得しているものの、当然ながらその中にツガンニヤの言語は含まれていない。複数の人種が共有しているはずの響きを帯びるアベンチュリンの声は歌っていることもあってか、普段と少々違ってレイシオの耳に届いている。
 共感覚ビーコンで綺麗に翻訳ができているからには、彼の語る言語は氏族ごとでも差異が出ているはずの方言込みで体系立って記録されているはずである。首長国の土地で暮らす所謂ツガンニヤ人の使うものであればともかく、宇宙に出る人間が当然のように所有している道具の内の、エヴィキン人の言葉を訳する機能はもはや彼のためにしか使われていない。
 アベンチュリンが囁くように紡ぐ歌に、レイシオは再び耳を傾けた。今はもう彼しか喋らない言葉の癖ごとこの言語を覚えてもいいかもしれないと、レイシオはなんとはなしに考える。共感覚ビーコンが普及した今、言語習得の動機に話者の数は含まれない。
 かつては確かに存在した言葉の優位性など気にせず、自分達は学びたい言葉を好きに学ぶことができた。その利点に反する言語の習得傾向にレイシオがある理由は、口の動きと脳に入り込んでくる言葉の形の乖離を厭っているからに他ならない。これからも顔を合わせる相手には違いないので、そういう観点からも悪くない思いつきなのかもしれないと思いはした。
 けれど、とレイシオは彼の紡ぐ言葉が持つ発音の特徴のようなものを歌から見いだしながら考える。分からないということはそれだけで魅力的でもあるのだ。もうしばらくは、彼の言葉をただの音として認識しているのも悪くないのかもしれない。
 不意に歌が途切れて意思の籠もった音に変わったようだったので、レイシオは共感覚ビーコンの機能を有効にした。もちろん聞き取れていなかったが、多分そろそろいいかな、とかできたかな、辺りのニュアンスの言葉をアベンチュリンは使ったのだと思う。
「このお湯でお茶淹れてもいい?」
……好きにしろ」
 レイシオが飲むのは断固拒否するが、アベンチュリンが飲むと言うなら好きにさせても構わないだろう。そもそも先ほどまでビニールに入っていたパウチはさほど汚れてもいないはずである上、ぐらぐらと煮立った水自体が多少の細菌であれば死滅させてくれているはずだった。後はもう、個々人の衛生観念に左右されるものでしかない。
 彼が差し出して来たレトルトを受け取ってレイシオが食器に移しているうちに、アベンチュリンがティーバッグを鍋に放り込む。鍋の水の量を見る限り、結構な量を淹れるつもりらしい。レイシオは夜にカフェインを体内に入れてしまうと途端に眠れなくなる質なのだが、羨ましいことに彼にそういう感覚はないのかもしれない。その性質がアベンチュリン独特のものなのか、エヴィキン人全般の優位性なのかはもはや調べる術はなかろうが。
 いつもは少々塩辛いと感じていたレトルトがちょうど良く感じて、塩分補給が追いついていなかったと今更ながらに気がついた。思えば、塩分タブレットの補給タイミングを汗の感覚で掴んでいたところがあったが、すぐに乾いてしまうのだからいつもの感覚で補給していては不足だったのだ。
 砂と塵もあるが、この乾燥が厄介だと思う。長々と居着こうとすれば、近いうちに喉が悲鳴を上げそうに思えてならない。
 夕食を食べ終わる頃にはとっぷりと日が暮れていて、風通しのいい服ではもはや肌寒い。もう少しすれば空気に溜まっていた熱量が抜けきって、他の砂漠地帯と同等に十度以下にまで気温が下がるはずだった。一度宇宙船に戻って備え付けの非常用の衣服を取り出そうと思ったら、アベンチュリンは自分用の冬服を一着持ち込んでいたらしい。
「明確に計画していたなら先に打診しておくべきだろう」
「いやあ……正直君がここまで付き合ってくれるとは思いもしなくて」
 言い出しづらそうに告げながら居心地が悪そうに上着をごそごそ着込んでいるアベンチュリンに、では君の期待通りにと踵を返さなかったのはレイシオの百パーセントの善意である。ここがただの観光地かレイシオの用事で来ているところだったら、わざわざ気温の下がりに下がったテントで眠ろうとは思いもしなかっただろう。
 どうしてそこまでレイシオがアベンチュリンに気を回さなければならないのかと言われると答えに窮してしまうままだったが、何の因果か今彼の隣には自分しかいないのだ。他に頼るものがないのだと思うと、少々甘くなってしまうのかもしれない。過干渉だと言われたならば、否定しきれないとも感じてはいる。
 ベッドから枕を拝借しつつテントに入り込んで、アベンチュリンですら低く感じるだろう天井をレイシオは殊更気にしながら寝袋を伸ばす。朝早くに目覚めるだろうと早々に床に就くと、ごつごつとした地面の固さが寝袋とテント越しに伝わってきた。
 野外で眠るのはアベンチュリンに告げた通り初めての経験ではなかったが、慣れているという表現も正確ではない。幸い体を鍛えているため直接骨に響くなんてことはなかったが、アベンチュリンの体には少々きついようにも思える。
 と、そこまで考えて、彼だってジム通いをする人間だったと思い直した。彼が理想とする体型の問題もあり筋肉量は比較するまでもないはずだが、そもそもこういう環境に慣れているのはアベンチュリンの方ある。ひょっとしたら、案外レイシオの方こそ密かに案じられているのかもしれない。
「寝られそう?」
 その証拠に、ごろりと寝返りを打ってきたアベンチュリンがレイシオに小さく囁いてくる。エアーマットレスでも持ってこればよかったね、と続ける彼にも柔らかな床が必要だったのかについては疑問が残った。なるべく他の星の気配を持ち込みたがらなかった様子を見るに、この星の大地の硬さすら受け入れるつもりだったのではないかと思えてくる。
「存外昼間に疲れさせられたからな」
「ふふ、暑くて歩きづらかったんじゃないかい? ブーツの君を見るのなんて初めてだった」
 昼間のレイシオの惨状を思い出したのか、フィラメント電球を模した照明の弱い明かりの中でアベンチュリンが笑う。足回りが重たいのが嫌いだと思っていたと彼が指摘するように、レイシオは必要に迫られない限り革靴もブーツも履かない。閉塞感を好まないが故であるが、その一因に重さが含まれてはいるのだろう。
「君は寝られそうか」
……どうだろう。君ほど疲れていないから微妙なところかもしれない」
 レイシオの問いかけに混じる疲労感を察したのかアベンチュリンが苦笑して、再び寝返りを打って仰向けに戻った。少なくともその声には疲れも眠気も滲んではいない。
「まあ、帰りだって長いんだ。一日くらい眠らなくたってなんてことない。あとで取り戻せばいい」
 さほど重大事ではないとレイシオに言い聞かせるようにアベンチュリンが告げるのを聞きながら、眠りたくないという方が正確ではないのかとレイシオは考える。彼の二つの意味での社会的身分では二度とは生きて土を踏めないかもしれない故郷にいて、のんべんだらりと眠っているつもりにはなれないと言われればレイシオだって無理に寝かしつけようとは思えない。
 そうだな、と相槌を打って同意してやれば、アベンチュリンがおやすみなさいとやたら丁寧に挨拶してくる。いままではもっと短い音だっただろうにと思ってから、かつてこの星にいた頃の癖が出たのかもしれないなんて考える。それが事実なのかは彼に聞きでもしない限り分からないのだけれど。
 それからレイシオは瞼を閉じて、まだ何とか昼間の熱を留めていたらしい地面の温度を感じながらゆっくりと意識を手放した。レイシオが眠れたのは昼間の疲労が起因していたが、環境の悪さを思えば決して眠りは深くなかったのだろう。だから、次に目覚めたときツガンニヤはまだ夜のままだった。枕元に置いていたスマートフォンに表示されているシステム時間を見る限り、夜明けまではまだ数時間はあるらしい。
 硬くて冷たい床に強ばっていた体を緩めたくて寝返りを打つと、アベンチュリンがいたはずの場所がもぬけの殻になっているのに気がついた。寝袋ごとなくなっていて、真っ白な枕のみが残されている。どうやら催して宇宙船に戻ったなどといった状況ではないらしい。
 例えばここでアベンチュリンが行方知れずになったとしたら、レイシオの処遇はどうなるのだろう。なんて、夢想めいたことを考える。そもそも死刑囚であるはずの彼が許可もなくどこかに逃亡したり、自死の叶う状態で自由にされているはずがない。
 それはピノコニーに来るよりもずっと前から分かっていることだった。だからきっとレイシオが再び瞼を落としたとしても、朝には何事もなかったように彼はレイシオの隣にいるはずである。それでもレイシオは瞼を落としきれずにもぞりと起き上がってしまった。
 L字にファスナーが縫いつけられており全て外せばブランケットのようにも使える寝袋を肩から羽織って、レイシオはぴっちりと閉められているテントの出入り口を開けて外に出る。テント自体の温度も下がっていたはずだが、外の気温はそれよりも何段階も冷え込んでいた。
 鼻先に触れる空気の冷たさに寝袋を引き寄せながら、レイシオは周囲を見渡した。大きく丸い衛星の光があるからか意外と暗くは思わなかったが、星の光だけで人影を探すのは無謀に感じられる。躓かないようにスマートフォンのライトで足下を照らしつつ、周囲を見渡しながらひとまずテントの周りをぐるりと歩いた。
……レイシオ?」
 動かないし光も持っていなかったらしいアベンチュリンを見つけるよりも、彼が明かりを持って動き回るレイシオを見つける方がずっと早かろうとは思っていた。もちろん、気づいたアベンチュリンがレイシオに自らの居所を告げてくれるかは未知数だったが。
「そこか」
 幸い、アベンチュリンはレイシオに関わる気持ちでいてくれていたらしい。訝しげな呼びかけがあった方向にライトを向けると、ちょうどアベンチュリンの髪が光に反射してきらきらと光った。
「邪魔しても?」
「もちろん。大歓迎だ」
 暗闇に慣れた目ではライトの光量は厳しかったらしく、ネオンを思わせる虹彩が逃げるように瞼の裏に隠される。それ以上彼を照らすのは避けながらレイシオは彼の横まで歩みを進めて、許可を得てから隣に腰を下ろした。直接地面に体を付けると途端に冷気が這い上がってくるので、寝袋を尻の下に敷いて少しでもツガンニヤの大地に抵抗の意思を示す。
「空を?」
 ライトを落とせば自分の手先も怪しくなる空間ではあったが、彼が何をしているのかはなんとなく分かった。というより、砂と石と星空しかないこの空間で、できることなど限られている。
「ああ、綺麗に晴れてたから」
 アベンチュリンが綺麗と言った空を見上げると、大気圏の向こうの暗がりにちらちらと光る星々とツガンニヤに寄り添う衛星が見える。記憶が正しければこの星には他に二つ衛星があったはずだが、自分達がいる場所からは一つしか見えないらしい。
「ここにいた頃は自分があそこに行くことになるなんて、考えたこともなかった。そもそも、僕らの星にツガンニヤ連合首長国なんてものがある事も知らなかったし、もちろんとっくの昔にカンパニーがここに来ていたのだって分かってなかった」
 空に逃れる方法があるなんて、知らない大人達ももしかしたらいたかもしれない、とアベンチュリンは口にする。でなければ、空をただ美しいものとして見上げることなんてできるはずがなかったと。そんな憶測を呼び水にしてアベンチュリンは一つ二つと自身がまだツガンニヤにいた頃の記憶を取り出して、ゆっくりと形にしていった。
 父はアベンチュリンが母親の腹の中にいるうちに死んだ。稼ぎ頭の足りない一家は他の家族よりも貧しかったはずで、母親はずっとずっと苦労していたはずだった。その苦労の多くを母は子達に見せなかったので、その実情は想像するしかないとアベンチュリンは言う。
「きっと、想像されたくもないんだろうとは思うけど」
 それでも考えてしまうと少々申し訳なさそうに告げるアベンチュリンに、レイシオは彼の思考を邪魔しないように小さく相槌を打った。母親の願いもアベンチュリンの思いも、どちらも過剰に優先されて他方が軽んじられていいものではない。ではどう解決をするのかと問われれば考えあぐねてしまいかねない意見を、レイシオは誰にも伝えずに自身の心臓に溶かし込んでしまう。
 母親はアベンチュリンが本当に幼い頃に亡くなったのだという。詳細をアベンチュリンは語らなかったが、父の死も含め自然死の類ではなかったのだろう。病死はともかく、餓死の可能性は存外に低いように思えた。
 飢餓が来れば同じ砂の上に住まうカティカ人との衝突の可能性は飛躍的に高まる。互いの集団を守るための簒奪と防衛の果てに、餓えながらも別の要因で血肉を損ない死んでいった者をレイシオは思う。
 そんな具体的な血なまぐさい話はアベンチュリンは一つもしなかったし、レイシオも彼から聞きだそうとは思わなかった。彼が語ったのは母親と姉と、その二人が語っただろう父親の記憶だった。
 それ以外には何もなく、それでも幸福だったとばかりに振り返られる記憶をレイシオはただ静かに聞いていた。レイシオがまともに反応を示さないのすら気にならないのかこれ幸いと思っているのか、とにかくアベンチュリンは丁寧に祈りをまぶすように、ずっと封をして後生大事に閉じ込めていた記憶を風に晒していく。
 貧困と苦痛を丁寧に取り除いた思い出ですら両親の欠落の寂しさを拭いきることはできなかったが、それでも確かにアベンチュリンは日々に幸福を見いだしていたのは間違いなかった。
 彼の日々は苦悩の中にあってそれでもアベンチュリンは自身の家族と愛し合い、レイシオが幼い頃に感じたような感情も育んで生きてきたのだ。その日々から記憶以外の全てを根こそぎ奪われたアベンチュリンの地獄というものはずっと彼の内側に内包され続けていて、この先々彼の人生にどんな転機が訪れようと跡形もなく消えさるものではない。
 そういうものとの折り合いの付け方を、もしくは付けずとも立っていられる方法を、アベンチュリンはどこかで見つけてきたのだろうと思う。それがピノコニーでの出来事だったのか、はたまたもっと昔からそうなのか。あの日、レイシオが手渡したものが自身の独りよがり以上の意味を持つことはなかったのか。
 レイシオには一つも分からなかったが、レイシオは分からなくても構わなかった。隣に座っているこの男の事を何一つ分からなくても構わない。彼が伝えたくなったときに、教えてくれるだけで良いと思う。
「すまなかった」
「急に何だい?」
 一通り喋り尽くしたのかアベンチュリンが黙り込んだのを待って謝罪する、といつものよりほんの少し柔らかい調子だった声が転調してやや高く響いた。
「以前君のご両親を見当違いな理由で愚弄した」
……あああれ? 君はすぐに謝ってくれたじゃないか」
 ピノコニーでの一件は一件と表現するには情報量が多すぎたせいか、アベンチュリンはレイシオの放言を思い出すまでしばらく時間を要したらしい。いや見当違いじゃなかったら許すという話でもないけれど、とちくりと刺されてしまっても同意するしかない。
「でも、ありがとう。君が大事に思ってくれていて正直嬉しい。今し方君が聞いてくれた通り、僕にとって大事な人達のことだから」
 衛星の反射光一つでは隣にいる彼の表情の細かいところまで読み取ることは叶わなかったが、隣の男が目を細めているようにレイシオには思えた。おそらくきっと、今の彼はレイシオが見たこともない表情をしている。
 この男が子供だった頃、まだ家族の元で庇護されていた時代。彼がどんな名で呼ばれていたのか、レイシオは急に知りたくなってしまった。
 誰かと交流をしていく上で、名前など単なる個体識別の役割しかないと言い捨ててしまうこともできなくはない。けれど、アベンチュリンと呼ばれる人の、彼の名はそれ以上の意味を持つもののはずなのだ。レイシオがこの世界に生まれ落ちる前から両親が特別に用意してくれていた贈り物を、レイシオ自身が価値あるものと認識しているように。
「君がアベンチュリンの座を剥奪されることがあれば、僕は君をなんと呼べばいい?」
 アベンチュリンの心の動きを見逃すわけにはいかなくて、ポケットに入れていたスマートフォンの明かりを灯してからレイシオは問いかける。真っ白な明かりに下から照らされながらアベンチュリンは蛍光色の瞳をまん丸にして、それから唇を動かそうとしてうまい言葉が見つからなかったのか一度閉じた。
 それから一呼吸分の時間を使って閉じた目を開いて、誤解しないでほしいのだけれどと躊躇いがちな様子でアベンチュリンは告げる。もうこの時点でレイシオの要求が通らないのは確実で、ほんの少しだけ心臓がひんやりとした。
「そんなことが起きたとしても、君にとっての僕はアベンチュリンでありたい」
 実際にアベンチュリンが紡いだ内容はほとんどレイシオの想像した通りだったのだけれど、実際に聞いてしまえばどう返事をしていいか分からなくなってしまう。躱された訳ではない。真正面から受け止められて、考えをまとめた末に出された彼なりの真摯な答えであるのは疑いようがなかった。ぎゅっと縮み上がった精神に誘導されて彼に拒まれたと断じてしまいそうになる理性を押し留めてくれたのは、彼の眼差しに他ならない。
 アベンチュリンがきょとんとした表情を見せてすぐにくすくすと笑い出して、レイシオが彼の顔を見られるということはその逆も然りであると強く意識する。やや今更の気づきだと自身の愚鈍さに少々どころか大分馬鹿馬鹿しくなって、冷えたままだった思考がようやく緩むのを感じた。
「君って意外に分かりやすい人なんだね。演技はあんなに上手にできるのにさ」
 なんだか楽しそうにレイシオに指摘しながら、彼は自分の思うところを聞いてほしいと続けてきた。話を半端に話を聞いて、答えを早々に出すなんて学者の風上にも置けないだろう、なんてちょっとからかいを含みながらも彼はレイシオを窘めてくる。
「僕が『アベンチュリン』として振る舞っている点については言い訳するつもりはないよ。それでも、君と一緒にいるときは随分自然体でいられていると思っている。でも、多分それはただの子供だった僕でも、ご主人様の顔色を窺わないと生きられなかった奴隷の僕でもない。そんな僕に名前を付けるのなら、やっぱりアベンチュリンしかないと思わないかい? だからもし、役職がなくなったって君には僕を今まで通りに呼んでほしいんだ」
 穏やかに迷いなく、アベンチュリンはレイシオにそう告げた。アベンチュリンの歩んで来た人生はレイシオのように連続したものではなく、明確な断絶を複数回経て現在に至っている。そこに自己の連続性を見いだせなくなってしたとしても、なんら不思議はないのだろう。
 それが不健全なやり口だったとしても、結果として今の彼を守るものの一つであるはずなのだ。たとえその手法にレイシオが不満を抱いたところで、彼の主治医でもない自分が好き勝手に介入していい領域ではなかった。
 それに。ちりぢりに分断された彼の人生をまたいつか名を変えるかも知れない彼が振り返って、あのアベンチュリンでいた頃は案外悪くなかったと思ってくれるのであれば悪くないのかもしれない。
――分かった。約束しよう。アベンチュリン」
 自分の願いが当然聞き入れられると思っているのか、はたまたレイシオが受け入れずとも問題とは思わないのか行儀良くレイシオの答えを待っていたアベンチュリンにレイシオは告げる。彼からすれば百点満点に近いだろう回答に、アベンチュリンは今まで見た彼の笑顔とは少し違う笑みを口元に湛えた。それはかつて家族に満面の笑みを浮かべていた子が、大人になってから特別に見せるもののようにも思えてならない。
「ありがとう、レイシオ」
 うれしい。そう、アベンチュリンは故郷と呼ぶには広大すぎる星の夜風に自らの思いを吐露する。その声を前にしてしまっては、もう拒絶と捉えて精神を強ばらせるなんて自分勝手なこともできなくなってしまったと思う。満ち足りた彼の声音を聞けば、重ねて本名を聞くことがどれだけ野暮な事か理解できた。
 それでも、彼と関わり続ければひょんなところからその名を聞くこともあるのかもしれない。たとえば今夜幼い頃の思い出を語ったように、アベンチュリンが幼い頃の自分をレイシオに渡していいと思う瞬間が来るなんてことがあれば。もしかしたら。
 真っ暗な空間の向こうにある星空を眺めているうちに、アベンチュリンが夕食時に紡いでいた歌の欠片を思い出した。共感覚ビーコンにかけなかった音を思い起こしながら口ずさもうとして、二、三節のところで途切れてしまう。記憶力には無論自信があったものの、全く知らない曖昧な音を一度聞いただけで綺麗に再現する能力はレイシオは有してはいなかった。
 それでもレイシオの鼻歌未満のそれが何を形作ろうとしているのか、アベンチュリンは気づいてくれたらしい。レイシオが途切れさせた音の続きを引き継いで歌ってくれようとするので、レイシオは再び共感覚ビーコンの機能を落とす。
 分からないなりに音を追いかけているうちに、アベンチュリンもレイシオがレイシオの星の言葉を使っていないことに気がついたのだろう。次第に言葉を紡ぐ彼の声に乗る音の区別が付けやすくなり、歌としてはやや硬いものになる代わりにレイシオが追いかけやすくなった。
――――
 レイシオを導いていた音が一瞬止まって、おそらく感嘆を表すだろう声が漏れた。原始的な感情は言葉という名の未知のフィルター越しであっても読み取れる、数少ない伝達手段と言える。
 それからすぐに紡がれた歌声は記憶が正しければまだレイシオが聞いたことのない音節でできていた。歌っているうちにどうやら他の誰かが歌っていたパートを思い出せたらしい。
 忘れてしまっていたものの破片を取り戻せた喜びからか、アベンチュリンの発声はレイシオを気遣わなくなってしまっている。くるくると転調する軽やかな歌声を機械にかければ、レイシオにもその伸びやかな音が意味するところを把握できるはずだった。
 けれど、分からなくていいと思う。少なくとも今は、まだ良かった。そう思いながら、レイシオはアベンチュリンを見て、ようやくこの旅の意味を理解する。
 ツガンニヤに煌めきを伝える星々の下に一人のエヴィキン人がいる。他の惑星系に住まうレイシオとは遺伝子配列からして明確に異なるであろう、全くの別種の星の命。この星の、一つの人種の果て。アベンチュリンは数百の琥珀紀を経て積み重ねられた末に集約された最後の一雫だった。
 彼がそのエヴィキン人の過去を知らなくとも、十分に文化に触れられていなくとも。この男がこの星の一つの最果てなのだとその瞳が、奏でる喉が、彼の魂そのものが示している。
 このいきものの生を見届けずに、自分は学者を名乗れない。何かの終わりに共にあれず、何も残せない学者などにいったい何の価値があるというのだろう。
 結局のところレイシオという人間が学者であるというのなら、端から彼の旅に付き合わない理由など一つもないと認めるべきだったのだ。この動機を他人の悲劇を出汁にした強欲なものだと非難する者もきっといるだろう。私利私欲に満ちた独善主義以下のものだと指摘されてしまえば、レイシオはうまく自己弁護をできなかいかもしれない。
 それでもこの日々はそれだけではなかったと、アベンチュリンであれば認めてくれるのではないかと願いに似た思いを抱いてしまう。レイシオが彼との日々にただの利益関係以外のものを見いだしつつあるように、彼もそうであればいいと考えてしまう。
 何かを知りたいと願う気持ちの根源は一体どこにあるのだろうか。レイシオはエヴィキン人の生き残りである彼の生涯を知りたいと望みながらも、まるでその欲求を否定するような思いも抱いている。
 全てを暴き立てようとする習性はレイシオの性として確かに精神に宿っているのに、ただ傍にあることで得られるものだけで十分だと主張する己がいた。そうしなければ得られないものがあるのだと、確信しているような口ぶりをするそれが今のレイシオの行動指針を制限している。
 自己の性質に抗うように、自分達の間にある何かを証明する巡礼とでも言うようにレイシオは彼と歩幅に合わせてこれからも歩んでいくのだろう。そうしてアベンチュリンが許してくれた彼を集めて、彼どころかレイシオもいなくなる未来の片隅に最果ての少し前から見た景色を残すはずだ。きっとその道中には学者としての葛藤がいくらでも転がっているだろうが、すでに道のりは遙か遠い場所まで定められている。
 ツガンニヤは塵と砂が多いせいで、晴れていたとしても夜空が特別美しいというわけではないらしい。美しさで言うならば、明かりを落とした小さな宇宙船の窓から見た方が幾分も勝っていたはずである。
 それでもきっと、アベンチュリンもレイシオもこの星から見上げた空を忘れられずに生きていくはずだった。