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シノハラ
2024-09-16 22:03:50
43860文字
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戦パ
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最果てから少し前
謹慎期間中に弾丸帰省をするアベンチュリンとそれに着いていったレイシオがツガンニヤの砂漠で2つ約束をする話です。
もうちょい追加で修正してスパークの新刊にする予定
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今回の旅行の準備で一番腐心したのは精神安定系の頓服だった。経口のものと、もっと緊急時を想定した注射器型のもの。それと、更に念の為の緊急の全身麻酔。頼んで即日融通してもらえたのは、ポスピスとしての役目をしていたピノコニーの夢がその役割を継続できるかの一次調査にレイシオが手を貸した伝手があったからだろう。
レイシオはアベンチュリンから彼の故郷の話を聞いたことがなかった。ツガンニヤの黄砂の中のどの辺りにいたのかも、家族の構成もレイシオは知らない。
ただ、彼が家族を愛していることは知っていた。一つはサンデーからの尋問のただ中で、一つはそういう仕事だったとはいえ、彼の事情に踏み込み過ぎた揶揄をした迂闊なレイシオへの彼自身の叱責で。
彼は自己がいくら歪められたところで気にも留めないが、もうどこにもいない家族がそうなることは辛抱できないのだ。そこらの誰かよりよほど自発的に、彼は自身の家族を愛している。
その家族どころか、出自を同じくした生命体を全て失った星へ彼は帰ろうと言う。アベンチュリンが彼の母星にたどり着いた時に、彼の精神が一体どんな反応を示すかレイシオにはてんで分からなかった。
だから、できるだけの準備をした。精神面の薬剤と止血剤から縫合程度なら可能な環境から整えられる術式セット。いずれも役に立たないまま使用期限を迎えるべき物達だった。
ツガンニヤでの行動に備える以外はいつもの長距出張の準備をすればいいだけだったので、さしてあれこれ用意する必要はなかった。そもそも今が正に長期出張真っ最中なので、部屋に持ち込んだ物をそのまま宇宙船に放り込めば事が済むからである。そこに追加したのは夢の中で買い足した本と、宇宙船には備え付けられていない寝間着くらいだった。
おそらくアベンチュリンも似たような状況だろうと思ったが、衣服だけは事情が違うかもしれない。彼の服は一目で酷く繊細だと分かる作りのものばかりで、宇宙船に備え付けられている洗濯設備で洗うのは使い捨てにすると言っているのとほぼ同義になる。さすがにそんな物を持って行っても邪魔になるだけである。
彼も同じ判断をしたのか、宇宙船に乗り込む当日から地味というかだいぶん一般的な出で立ちをしていた。ステーションでの待ち合わせはどちらも遅刻こそしなかったが、彼の服装のせいでレイシオが少々彼に気づくのに遅れてしまった。大きなエレベーターから吐き出された一団に手を振る者がいるのは解っていたものの、服装から無意識に除外してイメージに合致する人物を他に探そうとしてしまったのだ。
「正直に言っていいかい? 思いの外傷ついてる」
「
……
悪かった」
「教授って僕のこと服で認識してたんだね
……
」
いやまあ派手なのから絞って行った方が見つけやすいのかもしれないけどさあ、とアベンチュリンが漏らす通りの探し方をレイシオはしていたわけである。となれば、量産品の緑一色だけのシャツを着ている男など、真っ先に除外されて当然だった。横で不満を漏らしている彼の声は耳に馴染むものだったが、視神経から入る情報と照らし合わせると今も微妙に違和感が生じてしまう。
「服装もアイデンティティの表現の一つで、それを含めて君とも言える」
言い訳染みた響きもある事実を告げれば、それはそうかもしれないけど、とアベンチュリンは承服できないと声を上げた。人を探すときは顔を見ろというのも分からなくはないし、結局見落としをしてしまったレイシオが悪いのではあるが。
なんだか色々と納得がいかないらしく長々とぶつぶつ言っているアベンチュリンを連れて、レイシオは個人の宇宙船の発着エリアに移動する。窓口で他人と話したのがよかったのか、再び二人になったときには彼の機嫌は普段とさして変わらなくなっていた。これから狭い空間で否が応でも二人きりになるのだから、双方の機嫌が安定しているには越したことはない。
ツガンニヤには一泊しか泊まる予定はないが、一泊二日なんて言葉は冗談でも使えなかった。お互い大きな仕事が片付いた上に、遠隔でも細々とした仕事が十分出来るレイシオとそもそも謹慎中で一切の仕事が出来ないアベンチュリン。そういう二人でもなければじゃあちょっと行ってみようか、とはならない場所にツガンニヤはある。
二人分の居住スペースがせせこましくも用意されている宇宙船に乗り込んで、まずは宇宙船のレンタル会社の技術者と設備の動作を確認した。急いで用意された関係で、寝室は二つに分けられなかったらしい。代わりに居間に当たるスペースがあるので、お互いの顔を見るのに飽きたら生活拠点にする部屋を分ければいいと納得することにする。
その後に燃料やアベンチュリンが手配した消耗品の類の過不足を念のため確かめて回った。主要な航路から外れた場所で燃料や食料不足に悩まされるのは避けたい。
規定通りたっぷり一時間はかけて船の説明を受けた後、管理局に提出済みの航路をインプットさせた。これでしばし俗世とはお別れと言いたかったが、インターネット回線さえあれば有象無象が潜む空間に一瞬でアクセスは可能なのでその手の情緒は欠如している。
代わり映えのしない狭い空間に長々と閉じ込められる状況を思えばそれが救いであると捉える人間は少なくないどころの話ではないのだろう。レイシオからすればそういう時にはそういう時の過ごし方があるので、彼らの渇望をそういうこともあるだろう程度にしか理解してやれないのだが。
離陸のための座席に縛り付けられていたのは予定通り三十分と少しだった。実際に振動するのは星の重力から解き放たれるまでの時間なので、残りは口を動かしていてもうっかり舌を噛むような羽目にはならない。
がたがたと喧しく振動する座席が収まってから、アベンチュリンはこの時間が苦手なのだと苦笑した。きっと風に乗るまでの鳥達もこんな不安を抱えているのだろう、と彼は目を伏せながら続ける。
「なら今も不安がった方がいい。空を行くものは必要に迫られて空に向かい結果として生き残っただけで、空は彼らの庭ではない」
「
……
君の言う通りだ。僕だってきっと、何にもなければこんなところに来ることもなかっただろうしね」
ちらりとアベンチュリンが視線を投げかけた先には、人間のまなこには無限としか映らない宇宙が小さな窓に切り取られていた。彼が想像している通り歴史の狭間に消え行きつつあるかの虐殺がなければ彼は絶望的な断絶の中で、乏しい資源と理不尽な暴力に喘ぎながらも砂漠から星空を見上げていただけに違いない。
どちらを選んでも苦痛と苦悩があり、そもアベンチュリンはそのどちらかを選ぶ権利もなかったが、空に舞い上がった生物もきっと似たようなものだったのだろう。追い立てられ、押しやられながら彼らは多くの生命を抱く大地から姿を隠す場所もなく、徒に体力を削る一方の空に舞い上がるしかなかった。
走って走って、そうあれなくなれば死ぬしかない。けれど、空を駆けなければその場で衰えて、時に食い千切られて死ぬしかなかった。そういう生き方を彼らは強いられている。
「初めて宇宙に出た時は本当に怖かったな。宇宙には空気がないっていうのは当時の僕も知っていて、そういうところに行かないといけないってだけで怖いものだろう?」
「ああ、僕も最初は緊張したな。宇宙船がどういう仕組みで人体を守るのか知識で分かっていても、体験してみない限りは想像しきれないくらいの子供だった」
恐ろしかったからあれやこれやと調べて自分を納得させたかったのに、調べれば調べる程に宇宙の過酷さを植え付けられてしまったのだ。そうなってしまえば、子供の頭ではそれから自分達を守るテクノロジーを受け入れられなくなってしまって、長い間両親の手を握っていたのを思い出す。レイシオでもそうだったのだから、自分が怖がって当然だったんだろうとアベンチュリンは納得したようだった。
「僕の場合客室なんて感じじゃなかったから、最初はもの凄く揺れるし気温はどんどん下がってずっと息が真っ白なままでさ。たまに軋む音が聞こえてきて潰れちゃうんじゃないかって思ったりね」
さすがにそんなことがあったら運んでいる奴隷は全滅で、商売として成立していないのは今なら分かるからそんな心配は必要なかった。今であればそう分かるけれど、多分この感じだとそういう問題でもないかもしれないとアベンチュリンが得心したふうに頷いた。
「知識を知っていることと、その知識を血肉にできていることは全くの別問題だ。付け焼き刃ではなく、自らのものとして運用できて初めてそれらは僕らの盾となり刃にもなり得る」
うん、と相槌を打ったアベンチュリンは他人にどうこう言われずとも理解できているようだったので、レイシオはそれ以上何も言わなかった。二人が次の話題を見つける前に安全装置の解除アナウンスが流れ、肩と胴を固定していた装置が外れる。
よいしょ、なんて小さな掛け声と共にアベンチュリンが先んじて立ち上がって、重力装置の具合を確かめる。宇宙の無重力を楽しむために敢えて装置を切る輩もいると聞いたことがあるが、リモートの授業中にぷかぷか浮いているいる訳にもいかない。それに重力装置を解除する場合は持ち込み可能なものが著しく制限されるので、もの好きでもない限り無重力設定なんて選ばないはずだ。
アベンチュリンが固定していた鞄からスマートフォンを取り出したと思うと、レイシオの鞄から小さい通知音が聞こえて来た。カンパニーの指示というより、アベンチュリンの目付役を兼ねている感もあるジェイドから定期連絡を求められて共有のトークルームが設けられていたので、おそらくそこに無事に離陸した旨を報告したのだろう。
かくして、アベンチュリンとレイシオの移動行程ばかりの旅路は幕を開けたわけである。
アベンチュリンはレイシオとは違い、暇つぶしの道具をスマートフォンに集約したらしい。ちょこちょこと画面を操作する彼の手元を覗き込むと、共通の知り合いであるナナシビトの子供に勧められたらしいゲームの画面が表示されている。
その子曰く、ソシャゲは金食い虫で時間泥棒。前者はアベンチュリンの問題にはならないだろうけれど、集中してやればすぐにクリアできる買い切りゲームの方が良いとの事だったらしい。
レイシオはその類のゲームに興じたことがなかったが、そういう話は大学の学生からいくらでも聞こえてくる。助言も正しければその助言に従ったアベンチュリンも正しい選択をしたのだろう。
一方でレイシオは本を大量に持ち込んでいた。もちろんタブレットでも読めるようにしているが、できることならレイシオは紙で読みたい派の人間なのだ。時代錯誤であるのは承知しながらも紙で読むことによる利点を尊ぶ読書家はそれなりにいるため、幸いなことに大衆文芸から学術書に至るまで規模を縮小しながらもまだ滅ばず出版され続けている。
その本の山を見たとき、アベンチュリンは目をまん丸にして全部読むつもりなのかとレイシオに尋ねてきた。
「もちろん。重たい思いをして旅に持ち込んで消化できずに帰るアホは珍しくもないが、僕はそうするつもりはない」
「実はピノコニーでも大分暇してて宇宙船では君に構ってもらおうかなと思っていたんだけど、このままじゃ二の舞かも」
「ゲームはどうした? 君はもう少し娯楽の楽しみ方を学んだ方がいい」
彼の遊びというとカジノと買い物くらいしか聞いたことがない。彼の故郷の生活水準とカンパニーに転がり込むまでの経緯、それにカンパニーでの仕事ぶりを思えば遊び方を学ぶ暇などどこにもなかったのだろう。商談に必要な知識と教養としての物語だけを義務として詰め込んで生きていたのであれば、突然放り出されてどうしていいか分からなくなっても不思議な話ではない。
「今の僕ってもしかして怒られてるのかな」
「いいや、僕にはそのつもりはない。ちょうどその機会に君が巡り会っているだけの話だ。まず、僕が今読んでいる本の話をしてやろう」
一センテンスも理解できなかったらどうしよう、なんてアベンチュリンが予防線を張るのを聞きながら、レイシオはすでに半分ほど読んでいた本の中身をざっくりと話す。暇をしていたという彼の言葉に嘘はないのか、要約されて大分無機質になった概要をアベンチュリンは真面目くさって聞いていた。
「不思議と全部分かった」
「分からないならこの旅行を中断して、脳外科と混沌医師のところに連れて行く必要があるだろうな」
「そうだね。でもまさか君が大衆小説を読んでるとは思わなくて。純文学の類でもないだろう?」
ちょっと失礼とばかりに手にしている本を持ち上げられ、アベンチュリンが確かめるようにタイトルを唱える。少し考え込むように唸った後に部下が読んでいたような気がすると言い出したので、本屋大賞で去年大賞を取った作品だと教えてやれば彼は得心したようだった。
「面白い?」
「今のところは」
じゃあそれを読んでみようかなと言い出したアベンチュリンを尻目に、レイシオは宇宙船に備え付けられていたテレビを点けた。それから動画配信のアプリを起動して小説原作の映画を一つ選び出す。
「まずは君の好みの傾向を手っ取り早く探ろう」
「メディアミックスもちゃんと追ってるの?」
「品質と場合による」
目を通していると言えれば良かったが、監督や脚本、実際の映画の評判やその時の気分で見たり見なかったりというのが実情だった。ひとまず選んだ作品は実際にレイシオが見たものの中でも出来がいいものだったので、趣向さえ合えば悪い物でもないはずである。
素直に映画を再生し始めた彼の横で読書を続け、一本見終わった頃にアベンチュリンから感想を聞き出す。彼の感想を元にまた映画を選んで、食事や彼が本来持ち込んだ方の娯楽を挟みつつも、つつがなく一日目を使い潰した。
二日目にも映画を見るつもりだったらしい彼に付き合って、あれやこれやと選びながらレイシオは体感で言えば夕刻からの授業用の資料を確認していた。レイシオがテレビを前にいたく憤慨してしまったのは、アベンチュリンの好む作品傾向としては合うものの見逃してそのままだった作品を再生させた時だった。
どうやら映画館に足を運ばなかった自分の嗅覚は正しかったらしい。見るも無惨にズタズタにされて良点を抉り取られた物語を小耳にも挟んでいられなくて、再生を止めるように主張したところせっかくだからこれを通して見てから本を読みたいなどとアベンチュリンは宣った。良くも悪くも思い入れのない作品だからこそできる蛮行だろうと、今までさして思い入れもなかった作品だったくせにそんなことを思いながらもレイシオは寝室に引っ込んだ。
ベッドを椅子代わりにするしかない室内で普段より荒くベッドに座り込んでから、スマートフォンを見れば授業の事前問い合わせが入っているのに気がついた。その質問に答えるうちに授業時間間際になってしまってアベンチュリンをほったらかしてレイシオは授業を開始する。再生している作品の原作ではあり得ないはずの発砲と爆発の音が一度扉の向こうから聞こえたが、単一指向性マイクのおかげでレイシオが多少いらだつ以上の影響はなかった。
つつがなく授業を終わらせて少々の質疑応答に応じてから部屋を出ると、アベンチュリンが静まった室内でスマートフォンを操作していた。おそらく宣言通りに映画の原作と言って良いのかも悩ましい本を読み始めているのだろう。
「授業お疲れ様」
彼の横にどさりと腰を下ろすと、アベンチュリンに労われる。爆発音が聞こえて来たところからして自明ではあったが、やはり部屋の防音はほとんどないものと考えた方が良いらしい。
「さっきの映画は全部忘れた方がいい」
「そうしたら比べられないじゃないか、って言いたいけどちょっと比較しきれるか不安になってきたな。もしかしてこれ、映画だと妹が一人増えてる?」
「知るか」
知りたくもないが、レイシオが離脱した後に何やら色々とあったらしい。溜め息を吐きながら早々に提出されている授業の小レポートに目を通し始めると、アベンチュリンは小説に集中するつもりになったようだった。
それから彼は寝る直前までずっと本を読んでいて、結構な集中力があるのだと今更ながらに気がついた。そういう気力体力がなければ、高級幹部に上り詰めるための知識や教養を身につけられないと言えばそうなのだろう。
ベッドに入る直前になってまだ途中だけどと前置きして、そりゃあレイシオが怒るわけだとアベンチュリンは苦笑した。その言葉にはレイシオが抱いたような憤りは見つけられなかったが、情報に触れる順番が理由なのかそもそも改変が気にならない質なのかは判断できない。そもそも、彼自身が周囲からの実態とは異なった見方をされる事をさほど気にしていないところと結びつけて考え始めそうになったレイシオは無理矢理思考を切って、早々に寝入ってしまうことにした。
それからアベンチュリンは小説を読破した後に映画を見つつも例のナナシビトが勧めた中規模のゲームをクリアし、レイシオが持ち込んだ小説の中から一冊選んで紙を捲り切ったらしい。何かしらのメディアに触れている間彼は静かだったので、レイシオが別室を使わずにリモートの授業をするなんてこともあった。
滞りなく授業を終わらせて通信の接続を切ると、アベンチュリンが静かにレイシオの話を聞いていたらしいことに気がついた。こちらの横顔を見ていた眼差しをそのまま受けながら、レイシオは微かに首を傾ける。
「何か質問でも? というより授業の内容は理解できたか訊く方が先だな」
「哲学なんだろうなってくらいしか。物理学とか工学の方がまだちょっとは分かるなんて思いもしなかったな」
「そういう感想を抱く生徒は少なくない。哲学とは思考で、思考は知識よりもよほど身近なものだと考えるからだ。しかし、僕らが感覚として捉えているそれらを理論立てて整理し、言語化することは自然現象を説明するよりもよほど厄介だ。故に、哲学はまず言葉の定義を理解する段階を経る必要がある。こればかりは共感覚ビーコンに頼るわけにもいかないな」
「なるほど、自己啓発本はそこを随分とかみ砕いていてくれているわけだ」
そんなものを読んでいるのかと口にこそしなかったものの、気持ちは十二分に伝わってしまっていたらしい。ビジネス書なんて大概そんなものだと苦笑されて、いったいどんなものを読まされたのかと根掘り葉掘り尋ねたくなってしまう。
「君が修めているのなら、入門だけでも押さえておくのも良いかな」
「僕は哲学を教える上でまず生徒に生きることを意識させる必要があると年長の教授に助言を受けたし、院生の頃に受けた授業でそんな話を聞いたこともある。実際、行方知れずになった生徒もそれなりにいる。その数は他の学部と比較しても多かった」
結局居所を掴めたのかも分からない学友と呼べた人を思い起こしながら言葉を切ると、レイシオはアベンチュリンに視線を投げかけた。ぱちりと合わさった視線がアベンチュリンが瞬いた関係で遮られる。
「哲学はそういう学問だが、君の考えが変わらないならいくつか入門書を紹介しよう」
「それは考え直した方が良いって言われてるって取った方が良い?」
アベンチュリンの問いかけにレイシオは答えなかった。その沈黙を彼は自明のものだと捉えたようだったが、実際のところはレイシオが答えに迷ったに過ぎない。哲学を慰めにして生きていける者がいる一方で、哲学があるからこそ身を持ち崩す者も確かにこの世には存在するのだ。
その手の人間は元々そういう素質があり、哲学に関わらずともそうなった可能性はもちろんあるだろう。個人の再現不可能な結末においてのもしもなんて意味はないと考える向きも当然あるが、たった一人の末路が書き留められることが後の誰かの道標にもなることだってある。
そういう情報を掻き集めた結果、レイシオはアベンチュリンにこの学問を勧めることも拒否することもできなかった。彼の中には学問の形こそしていないが、生きる指標にするための哲学がすでに宿っている。そこに普遍的になるように努めたものを乗せて、凶と出るか吉と出るかは五分五分のようにも思う。目の前ですでに興味を失う事にしているように見える彼がそれを聞けば、結構分の良い賭けだと言ってきそうなのが余計に慎重になってしまう所以でもあった。
それからアベンチュリンは珍しく夕食の後に真っ白なアイスクリームを食べて、早々に床についてしまった。こういう生活をしているとやっぱり眠りが浅くなるからか、かえって眠くなってしまっていけないというのはアベンチュリンの言である。とはいえ、それはレイシオも同意するところだった。
多少の負荷をかける道具はあるにはあるが、ジムのように充実しているわけでもなければもちろん走り回れるような空間もない。レイシオだって筋力の低下を防ぐようにあれこれやってはいるものの、疲労度は普段よりもずっと低レベルになっている自覚はあった。
だから、レイシオも普段よりかいくらか眠りが浅くなっていたらしい。ピノコニーからツガンニヤに移動するまでの間にじわじわと昼夜の調節をしているはずの室内はまだ常夜灯しか点いていない、そんな時間帯だった。
しばらくもしないうちにもぞりとアベンチュリンが身じろぎをしたせいで、もっと鋭い音で目を醒ましたのだと気がつく。おそらく、彼が悪夢から目覚める瞬間の音だった。
「アベンチュリン」
「
……
ごめん、起こしちゃったね」
顔を彼の方に傾けて呼びかけると、暗闇の中で彼が天井を見上げているらしい姿がおぼろげながらに見える。その視線がレイシオに向けられないまま、声だけは平静を取り繕うとするように静かに響いた。その声音がほんの少しだけ強ばってい聞こえるのは、おそらくレイシオの思い込みではないのだろう。
「どうしてほしい」
何か続けようとしていたアベンチュリンの吸気に重ねるように、レイシオはアベンチュリンに尋ねた。ぴたりと彼の息が止まって、しばらく肺に溜め込んでいたはずの息が吐き出される様子はない。
見逃してほしい。
そう、いい加減苦しくないのかと思う頃合いになってからアベンチュリンはレイシオに乞う。ともすれば掻き消えてしまいそうな薄明かりの下、宇宙船の中で微かに響く空調のモーターにかき消されそうな微かな願いはそれでもレイシオの耳に届いた。
レイシオは分かったと告げることも、仕草で肯定を示すこともしなかった。ただ沈黙を守りながら瞼を落とすと、溜め息のようなアベンチュリンの深い息が夜を定義するための暗闇に吐き出される。それをきっかけにして、彼の呼吸が安定するのが分かった。後はもう、沈黙しか残らない。
今宵彼を苛んだそれが虚無の浸食によるものなのか、元より定期的に見ているものなのかはレイシオには判断が付かなかった。ホテルの予約状況に支障がない限りは基本的に出張時の宿も別室なので、そもそも彼が寝ているところに居合わせたことがレイシオにはほとんどなかった。だからといってそれを理由に虚無によるものだと断じてしまうのも、彼の来歴を思えば早計であろう。
とはいえ、アベンチュリンはレイシオに直接的な支援を求めなかったのだから、今更どちらが原因だったかなどレイシオが特定しても致し方がない話なのだ。少なくともアベンチュリンは自身の悪夢でレイシオが必要以上に気を揉んだり、問題解決の一端になるような行動をしたりすることを望んでいないらしい。それを彼からの拒絶と捉えるつもりは毛頭なかったが、彼自身が拒絶したように感じていやしないか少々気になってしまう。
元々浅い眠りだったからか、しばらくしても眠気が思考を捉えようとする予兆はなかった。意識的に瞼を落としていた間に聞こえてきたのは、アベンチュリンが寝返りを打つ音くらいだったように思う。
彼の願いを受け入れておきながらそうするのは無作法ではあったが、好奇心が不意を突いて瞼をふわりと持ち上げる。果たして、視界の先にあったのは彼のまなこであった。まるで呼吸のついでとでも言いたげな仕草でレイシオがするりと瞼を落とすまでの間、彼は少しもレイシオから視線を外そうとはしなかった。
ちりぢりに乱れる心があると知っていて、それでもただ傍で平然と過ごす人がいること。自分がどんな状況にあったとしても、良くも悪くも軸をぶらさずに歩んでいける人がすぐ傍にいること。
そういう存在がもたらす安堵感があることをレイシオも知らない訳ではない。アベンチュリンはおそらく、レイシオにそういう役割を求めているのだ。医者にさせることではないがと不満を漏らす自分がいるのも確かだが、そもそも彼の主治医でもなんでもない。
であればレイシオは明日いつも通り一日の内で一番ぼんやりとした頭で挨拶をして、インスタントのコーヒーと少々味付けのくどいレトルトの朝食を共に食べてやればいいのだろう。そういう代わり映えしない日々が彼の平穏に繋がるのであれば、レイシオは全然構わなかった。
アベンチュリンが結局いつレイシオから視線を外して眠ろうとしたのかを、レイシオは知らないままだった。ただ、じわじわと部屋の光量が強まっていって、便宜上の朝を知らせるアラームが鳴り響いた頃にはいつもと変わらぬ寝起きの様子だったので夜明け前には眠れていたのだろう。
目が覚めてから話したことは後から振り返ってもろくに思い出せないような、些細でくだらないものばかりだったように記憶している。翌日も、その次の日もそうだった。
そんな時間をお互いに長引かせようとして、二人していつまでも席に座ったまま過ごしていたように思う。ほんの少し変化したルーチンを続けているうちは、アベンチュリンは少なくともレイシオを起こしてしまうほどの夢を見なかったらしかった。
ほとんど変わらない平凡で退屈な日々を過ごすうちに、入力された航路を忠実になぞった宇宙船は予定通りにツガンニヤに到着した。離陸で緊張するなら着陸が平気なはずがないよね、というのはアベンチュリンの言である。発着用のベルトを締めて席に着いているアベンチュリンの指先がぎゅっと肘置きを掴んでいるのを眺めながら、自分も慣れるまではそうしていたのを思い出した。
腹の中身が置き去りにされるような浮遊感は幼い頃に初めて乗ったジェットコースターの感覚を大分緩めた感覚に似ている。ちなみに幼い頃のレイシオは意気揚々と乗り込んだジェットスターに二度と乗ろうとはしなかった。つまりそういうことである。
着陸時の大きな衝撃が収まってから、安全装置が外れる音にアベンチュリンが大仰な安堵の息を吐いた。それからすぐに出る前に着替えないと、とレイシオに告げてくる。彼の言う通り、自分達が着ている春秋用のルームウェアで砂漠に出るなんて自殺行為としか思えない。
レイシオが用意していた服はざっくりとした生地で編まれた長袖のシャツと同じく風通しの良いズボンと、それに小石を入れないための足首の上辺りまでを保護するブーツだった。比較的暑くて乾燥した地域ではよく着られる服装だったが、砂とあちこちに転がる石を考慮して足周りの装備がいつもより大分重い。蒸れるだろう足に今から嫌気が差しつつもつばの広い帽子を手に振り返ると、アベンチュリンはすでに着替えを終わらせていたようだった。
「
……
正気か?」
「正気も何も、ここにいたときの僕ってこういう格好だったけど」
一応の長袖のシャツと、膝下までしかないズボン。極めつけは尖った石の感覚が伝わってきそうな薄っぺらいサンダル。そんな出で立ちできょとんとされても困るのだが、そう言われてしまうと否定もしづらい。
岩石砂漠の環境にその格好が適切かはともかくとして、アベンチュリンはここにいる間そんな格好しかしていなかったのだ。ここでずっと暮らすと言うのならもっと楽な格好をした方が良いと助言もできただろうが、彼が郷愁がためにここに来たのならばアベンチュリンが選んだ服装が正解なのだと思う。
「日焼け止めくらい塗っておけ」
「はあい」
なんだか甘ったれて響く返事を聞きながら、自分の分を取った後の日焼け止めを彼に投げ渡してやる。顔に耳、首筋に手の甲から手首。露出してしまいがちな部分にしっかりと塗り込みながら、日焼けは疲労に繋がるのだと説明してアベンチュリンに真剣に使うよう促した。
どうやら初耳の知識だったらしくへえ、と声を上げながらも予想通り甘い塗り方をする彼から結局日焼け止めを奪い取って、レイシオは新しく手のひらにクリームを取り出す。
「使ったことがないのか?」
「あんまり。日差しが強いところに行くときは使うけど、朝に塗っておしまいかな」
ベタベタと額や頬にクリームを塗られながら口を動かすアベンチュリンの話を聞きながら、思わず彼の肌の様子を窺ってしまう。真っ白な肌にはそばかすもシミの予兆も見られず、若者特有の張りを保っており紫外線のダメージはレイシオには分からなかった。
ツガンニヤはどこもかしこも岩石砂漠で、当然ながら日差しもきつい土地と記録されている。であればメラニン色素が多い傾向になりそうなものだが、アベンチュリンはそうではない。レイシオと同じくメラニン色素が少なくフェオメラニン優位であるのは間違いなく、上手く日焼けができずに肌に強いダメージが残るはずだが彼の肌にはその形跡は認められなかった。
もしかしたら全く別の方法で、エヴィキン人の体は紫外線に対処しているのかもしれない。だとしたらレイシオの気遣いは全くの無駄になる可能性が極めて高いが乗りかかった舟だと耳の辺りにすり込めば、擽ったかったらしくアベンチュリンが小さく笑った。
「手のひら膝下の片足ならこれくらいだな。サンダルだから足も忘れないように」
「僕、今まで全然ちゃんと塗れてなかったかも」
「だろうな」
アベンチュリンの手の甲から手首までを塗ってやってから、手のひらの上に適量のクリームを出してやる。おそらく、何も考えずに使っていればこの半分も使わない者が大半だろう。
べたべただと言いながらもアベンチュリンが両足に日焼け止めをすり込んでから、水と塩分、それから携帯食をメインにした鞄を手にようやく宇宙船の外に出る運びとなった。もちろん、レイシオの鞄には追加の応急セットの中に頓服の類が紛れ込ませてある。
ツガンニヤ。特筆するべき特産品も風土病の類もなく、無闇に傷を作らない限りは帰還後の隔離期間も存在しない。黄砂の中で流浪した二つの氏族はもう誰もいなくなって、住んでいるのは数少ない川岸に集う連合国の国民と無欲な研究者がいくらか、それにカンパニーが一応の権利を保つために派遣されている社員が極小。完全な砂漠地帯には砂と岩と厳しい環境に適応して、虐殺されることもなかった野生動物が残るばかりだ。
「
……
やっぱり緊張する」
搭乗口の前に立ち、アベンチュリンが一つ大きく深呼吸をしてからレイシオを見て苦笑した。背負える鞄をわざわざ手で掴んでいるのは、おそらく手の反応を小さくしたかったからだろう。
「気が変わったなら帰っても構わない」
「いや、大丈夫。せっかくここまで来たんだから」
このままでは心残りになってしまう。そう、アベンチュリンは小さく、確かに口にした。こんな機会でもない限り、アベンチュリンが再びこの星を訪れることなんて早々なかっただろう。きっとピアポントに戻って受ける懲罰会議の結果に関わらず、今この瞬間に諦めたことが後悔になってしまうことはレイシオにも理解できた。
ここに来ようとアベンチュリンが考えた時点で、もう彼は後に引けなくなってしまっているのだろう。そうして彼が進むと選択するのであれば、レイシオは見届けてやるしかできない。
アベンチュリンが彼しか知らない解除キーを打ち込んでから、レイシオにも入力を求めてくる。彼の一つ一つ確かめるような重いタップを思い出しながら、レイシオはいつも通りの指の運びでパスワードを入力した。
認証音が鳴り、気圧の調整を行ってから扉のノブの上が緑色に点灯する。意を決したようにドアノブにアベンチュリンが指をかけると、ゆっくりとやたら大仰に宇宙船の扉が開いた。
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