井見
2023-12-29 22:06:05
33915文字
Public 真Ⅲ二次
 

【再録】明くる日のベルスーズ

縦書きリーダー用です。
2022年の終わりに発行した真Ⅲマニクロ同人誌の再録です。

夢のつづきを


 放課後の空気が、僕は好きだった。
 グラウンドから、運動部たちのかけ声が聞こえてくる。
 どこかの空き教室から、吹奏楽部のまばらな演奏が響いてくる。
 どれも近いのに遠い。この学校にはまだたくさんの人がいるはずなのに、まるで時間の流れから切り離されて、一人きりになったような気分になる。
「なー、掃除なんてほっといて、さっさと帰ろうぜ」
 実際は一人きりではなく、二人きりだ。勇は不満げに椅子を揺らしながら僕に語りかける。ちなみにそこは僕の席だった。
「先に帰っていていいよ」
「それだとオレの方が悪者みたいだろ」
「なら手伝ってくれ」
「そこまでお人好しにはなれないねえ」
 僕は箒を握りしめたまま、はあ、と少し大袈裟にため息を吐いてみせる。何度も繰り返した記憶のあるやりとりだ。勇は掃除をする僕を眺めるのに飽きた後、トイレに行ったり、先生へ質問という名の接触を試みたりして、暇をつぶしに行く。今は先生がいないから、購買におやつでも買いに行くだろうか。
 しかし今日の勇はそうではないらしい。
 ため息したいのはこっちだっての、と勇は続ける。
「ほんと、なんで毎度毎度引き受けちゃうかなー。ぜったい便利道具かなんかだと思われてるぜ、オマエ」
 こればかりはぐうの音も出ない。
 僕に掃除を頼んできた女子の母親は、病気になんて罹っていない。別の子に、今朝の母親の小言がウザかった、と話をしていたのを知っている。
 頼み事を引き受ける面倒より、頼み事を断る面倒の方が厄介だと思う。だから僕は、いつも首を縦に振る。僕がやれば全て丸く収まるのなら、それでいいと思っていた。
 でも今日は少し違う。
 やってあげても構わないというより、やりたいと思った。
 掃除を代わってほしいだなんて、いつぶりに聞いた言葉だろう。
「そうだ、お人好しついでに貸してくれよ、数学のノート。
 今日気づいたらずっと寝ててさぁ、一文字も書いてねえの。号令の記憶すら無いよ」
「ああ……後ろからでもわかったよ」
「マジ、当てられなくてよかったわー、出席番号に感謝だね」
 勇はそう言いながら、すでに帰り支度を済ませておいた僕の鞄を漁り出した。確かに数学のノートはそこに入っている。拒否する理由も無いので、好きにさせておく。
 数学の先生はいつも日付と同じ出席番号の人から、番号順に一人ずつ当てる。今日は二日だった。僕が思うに、出席番号がそう早くない勇は、きっと自分は当てられないと踏んだのだろう。だからうっかり眠ってしまったというより、計画的に寝たに違いない。そのあと僕にでもノートを見せてもらおうというところまで、多分計算通りだ。それもまた、いつものことだった。
 ゴミの溜まったちりとりを手に取り、ゴミ箱に中身を捨てる。その隙に勇の様子を窺うと、彼は緑色のノートを取り出していた。
 勇の所望する数学のノートは青色だ。緑色は現代文だったか。表紙に科目名を書いてあるはずだし、それに気づかなくても、開けば数学でないことはすぐにわかる。
 それでもそのまま、勇はぱらぱらとページをめくる。
「すげえ、ちゃんと現代文のノート取ってるヤツっているんだ。さすがだわ。
 でもさぁ、いっつも思うんだけど、現代文のテストってやる意味あんのかね? 勉強する必要感じないんだよなー」
 返答を求めているような、いないような、辺りに放られた呟き。
 まるで勇に同意を示すかのように、校庭からぴったりのタイミングで歓声が上がった。誰かが点を入れたりしたのだろう。僕の喉は詰まって、何の返事もできなかったから、ちょうど良かった。
「あ、ここ寝てやんの。字がやべえことになってる。
 さしものオマエでも寝こけるんだな。ちょっと安心したわ」
 ぱらり。
 勇は頬杖をつきながらくすりと笑って、ページを進める。
 
 なに一つ代わり映えしない、なんてことのない光景だ。

 薄いカーテン越しに差し込む西日が、ちらちらとまぶしくて。
 少し開けられた窓から吹き込む風は、勇の髪を小さく揺らしていて。
 たったそれだけの景色。
 ──‬ああ、だめだ、と思った。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 またか、とも。

 ありえないものを見ている。
 僕の頭が必死でそう叫び始める。
 ありえなくない。目の前にあるじゃないか。
 反論しても、体は納得しない。その場に縫いとめられたみたいに、少しも動けない。
 おかしい。
 おかしくない。
 おかしいのか?
 今更だろ。

 ‪紙のすれる音が、思考を弾いた。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 勇は飽きてきたのか、ぱらりぱらりと規則的なリズムを刻み始める。ちらりと僕に目を向けると、小馬鹿にするみたいに、諦めるみたいに、軽く微笑んだ。
「手が止まってるぞー。サボるならサボって、もう帰ろうぜ。
 別にいいだろ。誰もやらないんだから、オマエがやらなくたって」
 オレを待たせてる方が大事だろー、と冗談めいて続ける。
 その声が、言葉が、あまりに穏やかで、なげやりで、気怠くて、優しくて、
 僕はもっと、
 わからなくなって。

 ‪──‬‬視界がぐるりとまわった。‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 ゆらぐ肉体が机にぶつかる。倒れないようにどうにか座りこんで、僕は必死で口を抑える。体の中から熱い液体が迫り上がってくる。
「お、おい、どうしたんだよ」
 慌てたような勇の声。きっと駆け寄ってくる。
 まずい。僕は目を伏せて、ゆっくり深呼吸をした。
……ちょっと、めまいがしただけだから」
 心配いらない。ほんとうに。だからこっちに来なくていいんだ。来ないでくれ。なんて口にできるはずがないし、そんな余裕も無かった。
「なんだよ、寝不足か?
 あーわかった、また変な本の一気読みでもしたんだろ」
 呆れたような物言いで、しかしやっぱり僕のそばにまで来た勇の気配は動かなかった。
 もう一呼吸してから、喉元にまで迫った胃液を飲み込んで、僕は少しずつ目を開く。
 目の前には、差し出された手。
「ほら。
 ったくもー、ちゃんと寝とけよ。オマエまで授業中に寝落ちたら、オレは誰にノート見せてもらえばいいんだよ」
 軽口に包まれた心配を感じて、またわからなくなる。景色はぱちぱちと瞬いて、ぐにゃりと体の感覚が回転する。
 また込み上げてきそうな体液を感じながらも、僕はあえて彼の手を取った。
 一種の賭けだった。願いでもあった。
 でも、それは失敗だったらしい。
 勇が僕をぐっと引っ張りあげる。

 勇の手はいつもつめたい。いつだったかそれを指摘したら、おまえがいつも体温高すぎるんだろ、なんて言われた。
 そんなことを、急に思い出す。

 あの時の勇の手は、やはりつめたかったのだろうか。
 痛々しく黒ずんだ指先。
 傷一つ無いまっさらな人間の手。
 ああ。
 わからなくなる。

  *
 
 川を見ると安心する。水がゆっくりと流れて、透明な気持ちになる。
 柵に体を預けながら、家にも帰らずにずっとそうしていた。日はすっかり暮れて、もう月が眩しい。その光を拒むように目を閉じる。すると音がよく聞こえた。車の排気音、買い物帰りの誰かの話し声、泣き喚く子どものぐずり声。
 そしてずっともっと近くから、機械の震える音がした。
 ポケットを探る。携帯に着信があった。勇からだった。
 携帯を開く。画面が月明かりより眩しくて、僕は目を思わず細めた。ずらりと並ぶメールの着信欄から、最新のものを選んだ。
『生きてるかー? いや死んでても困るんだけど。
 帰ってきてから思い出したんだけど、ノート借りるの忘れてたわ。明日貸してくれ。休みだったら見舞い行ってやるからな。俺にはおまえのノートが必要なんだ。
 まあ、とりあえず今日は寝ろよな。また徹夜したら千晶にチクるぞ』
 また明日、の四文字で文面は終わった。
 携帯をポケットにしまう。読んでいる間、なぜか止まっていた息を吐くと、喉がひりひりと痛んだ。
 あのあと、僕の手のひらは胃液で濡れた。きもちわるいくらい熱かった。手から溢れた分は僕のジャケットが受け止めたので、幸い教室に被害は無い。手と服を洗いさえすれば、全て元通りだ。そういう問題じゃないだろと勇は言うだろうけれど、倒れなかっただけマシだろう。
 こうしたことは何度かあった。夢の中で夢を見ていると気づくみたいに、僕の体は時折悲鳴をあげる。込み上げる吐き気を飲み込んで、また日常へと戻る。でも本当に吐いてしまったのは、今日が初めてだった。
 なぜだろう?
 考えると、また目眩がする。
 人間が一人もいないショッピングモールも、車が一台も無い高速道路も、街と街を隔てる一面の砂も、この世界には無い。それが、そう、気持ち悪い。そんな風に思う自分が、どこかにいる。
 だから川を見ていた。川はあの世界、ボルテクス界にもあったし、この世界にもある。
 二つは繋がっているのだと、自分に言い聞かせることができる。

 ああでも、気づいてしまいそうだ。
 ボルテクス界の光は沈まない。
 だから川の暗い水面に、人工の明かりがきらめいているだなんて、ありえない光景だ。
 あれは向かいのアパートの明かり。
 あれは僕の隣に立っている街灯の明かり。
 そして僕のいる場所には、ぼんやりと、青い光がゆらめている。
 
 そう、青い。
 
 ‪──信号の色?‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 僕と同じ高さになんて、信号はない。
 視線を動かすことができない。
 水面に映っているのは、僕の顔だ。
 波の中で、二本の青い線が、分岐しながら光っている。
 自分の頬に触れようとして、まず先にその手が視界に入った。
 
 人の手では作り出せない、黒い刻印。それが骨をなぞるように伸びている。
 飽きるほどに見た青い、悪魔の光とともに。
 
……なん、で……
 こんなにも自分の身体は眩しかっただろうか。
 あの時とは違って、きちんと服を着ている。しかしあらわになった手の甲、手のひら、そして顔から、今も光が漏れ出ているように見える。
 わからない。
 擦っても消えない。当然だ。それなのに僕は手の甲を擦る。頬を擦る。
 
 そして自然に、僕の手は首の後ろに回った。
 この体がもしも悪魔の体なら、そこにあるはずだ。
 確かめたくて、確かめたくなくて、僕の手は恐る恐る進んでいく。
 
「‪‪──あら? こんなところで何してるの?」‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬‬
 凛と響く女性の声に、僕の意識は飛び跳ねた。
 誰の声なのか理解する前に、僕は声の方を見る。遅れて、千晶の声だった、と気づいた。
 彼女は帰る途中なのか、制服姿のまま、優雅な足取りで近づいてきた。
「ひどい顔ね、真っ青じゃない。こんなところでシャツ一枚で立ち惚けて、何してたの?」
 心底呆れた、と言わんばかりの声色で、千晶は僕を睨めつける。そこにはありえないものを見た恐怖や嫌悪は無かった。
「そんなにひどい顔、してるかな」
「してるわよ。まったく、夜は冷えるのに上着も着ないで、考えられない」
 ようやく自分の手を見れば、悪魔の模様はいつの間にか消えていた。
 何だったのだろう。幻覚、疲労、あるいは真実。首の後ろに触れてみたが、人間の皮膚に覆われていた。ともかくわかるのは、千晶の目には、僕は人間の姿に見えている、ということだけだった。
「千晶こそ、もう遅いだろ。塾とか行ってたっけ」
 それとなく話を逸らすことを試みる。僕は表情が乏しいとよく言われるが、今はそれがありがたい。千晶の追及からうまく逃れられる自信が無かった。
「行ってないわよ、あんなに煩いとこ。
 今日は先生たちに色々質問してたの。そしたら思ったより遅くなっちゃった。
 でも良かった。迎えに来てもらうほどじゃないけど、やっぱり一人で歩くのってちょっと不気味だもの。この辺り、もっと明るくしてほしいわ」
 行きましょ、と千晶は歩き始めたので、僕も隣につける。いつの間にか一緒に帰ることは決定しているらしい。
 最近になって千晶の口から発せられるのは、成績、テスト、進路の話題ばかりだ。これからどう生きるのかに関わる大事なことなのだから、君はもっとしっかり考えるべき。どんな話題からも、なぜかそんな言葉に収束する。そうだな、と僕は今日も相槌を打つ。勇がいれば、それよりさぁ、と最近できた店の話題などに流れていくだろうが、今日はその助け舟は無い。
……今日ってこんなに寒くなる予報だったかしら」
 千晶は持論の合間にそう言って、しっかりと着込んだ制服のジャケットを整え直した。いつ見てもリボンは曲がっていないから、僕は素直にすごいな、と思う。
 左肩には鞄がかけられ、指先はいつもの通り整えられていた。今日は学校だったから、指輪はしていない。
 人間の手。右手。
 ぐらりと揺れる視界。
 いつまで経っても学ばない。こうなるとわかっているのに、どうしても僕は目で追ってしまう。大きく息を吸って、その息で声を出す。
「千晶」
「なに?」
 僕を見上げる千晶は、いつもと同じ表情だ。
 千晶は、気が強そうとよく言われている。確かにその面はある。でもあの子と仲良くできるのすごいね、なんて陰口めいたことを言われたこともあった。そうだろうか、と僕は思う。
 僕が口を開こうとした瞬間、千晶が視界から消えた。
「きゃっ」
 千晶の体がぐらりと揺れる。僕を見上げていたせいで、足元の何かに躓いたのかもしれない。僕は咄嗟に千晶の腕を引っ張るが、華麗に救出とはいかなかった。千晶の体を支えた後、代わりに僕が転ぶ。咄嗟についた手が、道路にがり、と擦れた。痛みがじんわりと広がる。
「あーあ……大丈夫?」
「ごめん……
 差し出された手を取りながら、よろめきながら立ち上がった。情けない姿だ。今日はもう体力が無いのだろう。
「君が謝ることじゃないでしょ。むしろありがとう。
 だからどういたしましてって言いなさい」
「どういたしまして」
「はい」
 千晶はポケットから白く綺麗なハンカチを出すと、先ほど地面に擦った僕の手をとり、手のひらを優しく拭った。
「あら……なんだ、泥が付いてただけみたいね。良かった」
 拭いてもらった手のひらにはもう何もついていなかった。傷跡一つない。ハンカチにも、千晶の言う通り泥しかついていない。
 痛みは残っていた。独特な、擦りむいた時の鈍い痛みの感触。でも傷はどこにもない。何事も無かったかのように、僕の手のひらはそのままだ。
 やっぱり、と僕は思った。僕の体は、少し変だ。曖昧だ。
 さっき見た悪魔の光は、見間違いではないのかもしれない。
 でも、本当にただ、擦りむいていなかったのかもしれない。
 何もない手のひらを、僕は見つめる。
「どこかぶつけた?」
 千晶の声が、僕を呼び戻した。
「いや」
「そう? ならさっさと帰りましょ。これ以上遅くなったら怒られちゃう。
 怒られそうになったら、一緒に言い訳してくれる?」
 僕は両手をズボンのポケットに突っ込んで、今は頷く。
「わかった」
 千晶はふふ、と少し微笑んで、半歩先を歩いていく。


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