わからん
2024-08-12 10:45:16
43237文字
Public 五夏
 

【五夏】所詮は紙切れ一枚

元軍事用アンドロイド五×修理技師夏のSF風味五夏



4.

 
「私のおさがりだからちょっと短いかな。着心地は大丈夫か」
「アンドロイドに快不快は存在しない」悟がニットの裾を引っ張りながら答えた。「時と場所と場合にふさわしい服装なら何でも。傑、そろそろ出ないと遅刻する」
「ああ。行こう」
 診療所を閉める頃には陽が傾きかけていたので、外には既に夜の帳が下りていた。道路も夏油と悟の二人しか歩いていなかったが、駅前は対照的に賑やかで、職場や学校から帰ってきた人々でごった返している。電車に乗り、数駅先で降りると、さらに多くの人間で混んでいる。華金だからねえと夏油は低い声で呟きながら、器用に人の波の合間を縫って進んでいく。悟も次第に要領を得て夏油の隣に並んだ。
「すごい人の数だ」
「金曜日の夜だからみんな遊びに出てるんだよ。明日は休日だしね」
 十分ほど歩いて目的地に着いた。チェーン店の小洒落た飲み屋である。夏油が戸を引いてすぐ、店の奥から聞き慣れた声が二人を呼んだ。
「夏油先生に助手さん。こっちです、こっち」
 チェーン店の小洒落た飲み屋で、店内に入ると揚げ物の匂いがした。部屋の奥で灰原が夏油を呼びながら手を振っている。彼の隣で腕を組んでいるのは七海だ。普段は制服やスーツ姿で見慣れているせいか、彼らが私服姿であるのを見ると、夏油はむず痒いような、奇妙な違和感を覚えた。悟が手を振り返し、二人で灰原たちの元へ近付いていく。
「こんばんは。助手さん、手を振り返してくれたのはどうしてですか?」
「灰原さんは傑と僕の注意を引くために手を振りました。気付いた合図を返すべきだと判断し、灰原さんの真似をしました」
「わあすごい、話し方も滑らかだ。夏油先生、助手さんの口調を変えることは可能ですか? 敬語で話しかけられると僕たちなんだかかしこまっちゃって」
「どうしてこっちも入っているんだ」
「変えられますよ。悟、二人にも私と同じように話してみて」
「わかった」
「夏油先生……夏油さんも、たぶん年上ですよね! もっとフランクな感じで来てもらって大丈夫ですよ! 自分も頑張る……ます」
「できてないじゃないですか、じゃあ私は呼び捨てから始めようかな。灰原と七海、今日は呼んでくれてありがとう」
「とんでもないです。お二人も来ていただきありがとうございます」七海が軽く会釈をした。
「今日はよろしくお願いします。夏油」灰原の両目が宙を泳いだ。「……さん」
「無理しなくていいからね」
「灰原は敬語で話すほうが楽そうに見える」と悟が追い打ちをかけて七海を見た。「呼んでくれてありがとう。七海も」
「灰原がほとんど仕切ってくれたので私は何も」七海は答えて卓上のメニュー表を指差した。「お二人とも、飲み物は何にしますか」

「素朴な疑問だけど、きみは飲食が可能なのか」
「できない」夏油の問いに悟は答え、アルコールが入った手元のグラスを見下ろした。「僕たちアンドロイドは電力で動くから。ただ、少量なら内部に格納できるスペースがある。こういう場所で人間と一緒に食事をするためだね」
「へえー、今時のアンドロイドにはそんな機能があるんですねー。溜め込んだご飯の排泄はどうするんですか?」
 七海が灰原の脇腹を肘でつついた。「灰原。食事中だ」
「消化器が無いから腹から取り出して捨てる」対する悟も平然と答えた。「人間みたいに尿道や肛門からの排泄はしない。傑、あとでペースト状に処理するからご飯はトイレに流してもいい? それとも生ごみ?」
「いいかい悟、今この場所でそういう話題は……」夏油は引きつった笑いを浮かべたものの、諦めたように項垂れた。「……いいや、後でね。すみません、食事前にこんな話をして」
「気にしないでください。人間だって食物の排泄はトイレでしますから!」
「こいつのせいです。無神経なやつですみません」
 七海が灰原を指差しながら言った。当の彼は店員を捕まえ、飲み物の注文をしているところだった。数分と待たずに四人分の飲み物が運ばれてくる。
 灰原がグラスを掲げた。「乾杯しましょう。七海との再会と夏油さんとの出会い、助手さんの初めてのお出かけを記念して」
 各々がグラスを掲げ、かちりと音を立てながら縁同士をぶつけ合った。食事が運ばれ、グラスを空けながら、互いの仕事を中心に会話が進んでいく。
「灰原も七海と同じで、C・マキナ社で働いていたんだよね」
「はい。マキナの開発部でアンドロイドのプログラミングをやってました」夏油に聞かれた灰原が唐揚げを摘みながら答えた。「と言っても新卒だったので簡単な部分しか携わらせてもらえませんでしたけど。基本的なコマンドと、ちょっとだけ倫理コードの開発も手伝ってましたね」
「なるほど。それで悟のシステムにも入れたのか」
「夏油先生こそ、診療所を開く前は何をしていたんですか?」
 夏油は曖昧な笑みを浮かべながら自身の手首を撫でた。左の手首は腕時計、右はリストバンドでそれぞれ覆っている。
……アンドロイドの製作に関わっていたんだ」
 七海と灰原が驚きの声を上げた。
「それは初耳です」
「どこの会社にいたんですか?」
「会社というよりは、その……中央で」
 灰原と七海は互いの顔を見合わせている。夏油の言葉の意味が分からなかったようだ。やがて七海がああと声を上げた。
「まさか、軍の工場ですか」
「まあ、そんなところです。人型から動物型まで、あらゆるタイプの製作に関わっていた。並行して修理にも携わっていたから、工場を辞めてすぐに今の仕事をやろうと思ったんだ」
「聞いたことがなかった」
「そりゃあきみには言っていなかったから」夏油はあっけらかんと五条の追及をかわしグラスを傾けた。「軍の元関係者だって言ったらきみの不要な記憶を蘇らせてしまうかもって心配だったんだ。けどもういいかなって」
「なんで」
「その程度で倫理コードは発動するものじゃないからね」
 夏油はアルコールを飲み干すと灰原と七海に視線を移した。
「二人の話ももっと聞きたいな。灰原こそ、どうして会社を辞めて配達業者のドライバーに?」
 途端に灰原が目を泳がせた。
……ええっと、倫理コードの必要性を巡って会社と対立したんです……
「倫理コードの必要性?」
「はい……
 灰原は肩を竦め、夏油の問いに低いトーンで同意した。「最初は賛成派でしたけど、上司からの指示を聞いているうちに、人工知能の発達を阻害するだけのプログラムなんじゃないかって思うようになって」
「それで部長に直談判しに行って干されたんですよ、灰原は」
 七海がだし巻き卵を摘みながら口を挟んだ。からかう響きを持った彼の言葉に、灰原の顔がいくらか明るくなる。
「今だから客観的に思えますけど、入って数年の新人がやる行動じゃないです。そりゃあ干されますよ。で、居づらくなって辞めました」
「倫理コードが人工知能の発達を邪魔するというのは?」
 悟が横合いから聞いた。「僕の立場からすると理解が難しい。アンドロイドが人間に対して反倫理的、反社会的な行動を起こさないための安全装置だ」
「うーん。自分としても説明が難しいんですけど、悪いことを思いつくって、それほど悪いことじゃないと思うんです。単にこれは駄目だって怒られるよりも、なぜ駄目なのかを考えて突き詰めたほうが、より深い学びを得られる機会になるじゃないですか。あれも駄目、それも駄目って倫理コードに邪魔されてばかりでは学習に深みが出ない。人工知能の学習としてはあまり良くないかなーというか……
「それはアンドロイドじゃなくて、人間に対しての教育法じゃないの」
「まさにそこなんです助手さん。自分は、人間と同じように育ったアンドロイドがどうなるのか知りたいんです」やっぱり大学院に進んだほうが良かったのかなあ、とぼやいた灰原は七海を見た。「でもそうしたら七海と会えなかったかもしれないよね」
「人間と同じ? アンドロイドと人間は根本的に違う。実践する意義はあるのか」
「悟。言い過ぎだ」
「意義はありますよ。だって誰も試したことがないでしょ?」
 灰原はあっけらかんと答えて焼き鳥を口に咥えた。「……倫理コードはアンドロイドから学習の機会を奪っている。アンドロイドは人間よりも賢くなっていけるはずなのに、みんなはそれを推進するどことか、自分たちの意のままにコントロールしようとしているんです。どうして制御しようとするんだろう」
「人間より賢くなるのが怖いからだろう」七海が答えた。「アンドロイドは人間の手足として開発された。アンドロイドを道具として見ているのが人間の大半だから、役割を超えた知識を持つ必要が無いと思っている」
「うーん、もったいない。アンドロイドはもっと色んなことができるはず。試してみる価値は大いにあると思うのに」
 灰原は再び項垂れたが、そういえばとテーブルから身を乗り出した。
「助手さんはひと月前に倫理ロックで倒れましたよね。その後調子はどうですか」
 悟は灰原の目を見つめ返した。「普通だ」
「普通とは?」
「ボディに異常が出るわけでもないし、あれから倫理ロックで倒れてもいない」
「助手さんを再起動するとき、原因となった思考プロセスは削除しなかったんです。システムからの警告とかもありませんでした?」
「それを知って灰原に何か関係があるのか」
「悟」
 咎める夏油の声は低く鋭かった。悟は卓上のオレンジジュースを掴み、少量だけ内側へ流し込んだ。
 灰原は目蓋を閉じ、腕を組んで唸っている。
……んー、自分は助手さんのシステムに無断侵入した身なので、システムの安全性を確認する責任はあると思いますよ。何も無ければそれで良いですけど」
「わかった。システム上のエラーは今のところ検知していない。そもそも再起動以来、記録映像を覗かないようにこっちでロックをかけているし」
「わあ、やっぱり学習しているんですね。倫理ロックがかかった理由」
「灰原」
 今度は灰原の隣に座っている七海が話を遮った。「その話は避けろと言ったはずだ。下手に刺激して彼がまた倒れたらどうする」
「大丈夫だよ。その時のために今日は自分のパソコン持ってきてるし」
 七海は厚揚げを箸で持ち上げたまま固まっていた。絶句していたのだろう。悟は意味深に瞬きを繰り返した。
「灰原はアンドロイド並みに用意周到だ」
「ふふん、そうでしょう。そういえばさっき倫理コードの話に興味を持たれてましたか?」
 視界の隅で夏油と七海がそっと目配せを交わしていた。その意図は悟と、それに話に熱中していた灰原には分かりかねたが、それは互いの心中に抱えた気苦労を労わる眼差しだった。
「ああ。たぶん、削除されたはずの記憶を見たから——
 突然誰かに殴られたように頭を左右に振った悟を見て、夏油が咄嗟に彼の肩を掴んだ。倫理コードの警告が現れたのだという。心配ないと悟は頷き、夏油の手を肩から離した。
……そう推測できる映像を見た」
「倫理ロックの原因ですね」灰原の口ぶりは確信を得ていた。「そしてその映像は助手さんの覚えに無い記録映像だった」
「削除されたはずのデータが新しく流れ込むなんてあり得ない」
 悟の発言に、三人の視線は夏油に集められた。この中で灰原と並び、アンドロイドの仕組みに詳しい人物であるはずだ。しかし彼は首を振って否定した。
「悟と同じく聞いたことが無いね。第一、アンドロイドの記憶媒体はコア——人間と同じく頭部に存在する。脳と同じだ、システムをいじって一度削除されたなら取り戻せない。システムの奥底に封印したのなら話は別だけど……これで合っているよね、七海」
「ええ……しかし、この方は特殊でしょう。封印は有り得ません。発狂寸前のコアを修復するのは時間がかかったと工場の人間も言っていましたし、その時に記録は完全に抹消したと……。加えて胴体を丸ごと取り換えていますし」
「胸から下が切断されててコアは発狂寸前だった。妥当な判断だ」
 悟が同意したが、いやいやそんなと灰原が首を振る。
「胴体を丸ごと取り換えるなんて、おそらく前例の無い処置ですよ。何が起きてもおかしくない——削除されたはずの記憶を、ふとした瞬間やスリープモード中に見たり」
 彼が何を指したいのかすぐ分かった。
「『夢』の話か」
 灰原が頷いた。「僕が考えるに、助手さんの『夢』の正体は、記録の削除とボディ交換の手術によるエラーです」
 そこで盆を両手に持った店員が現れ、注文の品を置いていった。灰原が間食した焼き鳥のおかわり、つくね、串カツと肉料理が並ぶ。各々が食事を取り分けるまで話は一旦中断された。
「それにしても灰原と悟の気が合うなんて意外だったな」と夏油が言った。「性格が真逆のように思っていたから」
「気が合う? 僕がそういうふうに人間と話しているだけだ」
「自分が助手さんを質問攻めにしてるだけですもんね」
「そういう受け流し方が手慣れてるんですよ」と七海が呟いた。
 串カツを手に持った悟が灰原を見る。
「僕が見る『夢』の正体がエラーだって?」
「はい。まあ、言葉の綾みたいなものですけど」灰原の取り皿にはこの四人の誰よりも肉が載っている。それを摘みながら灰原は続けた。「別に工場の人たちの技量を疑っているという意味ではなくて、エラー以外に言いようがありませんよね。戦場から救出されて発狂要因の記録を削除、別個体のボディを助手さんに移植——繋ぎ合わせた後に、助手さんが『夢』を見るようになった。因果関係の否定はできません」
「否定も肯定もできない」
「どうでしょう。それこそ予期せぬエラーじゃありませんか?」
「エラーを起こすシステムそのものはコアにしか存在しない」
「そうですね。では、切り口を変えましょうか助手さん。そもそもコアとは何ですか?」
 七海が店員を呼び止めて追加のビールを注文した。七海に促された夏油が何を頼むかメニュー表を見ている。悟と灰原は無言でじっと見つめ合い、飲み物など聞ける様子ではない。
……コアとは、何か」
「そうです。アンドロイドにおけるコアが何か、説明できますか」
「コアは人間でいう脳味噌に当たる。五感によって得た情報を処理し記録、並行してボディの運動を行う」
「僕も同じ考えです。コアと脳味噌は絶対的な指示系統のための器官ですね。そして指示を受ける器が手足といった部位、あるいは内部の臓器。アンドロイドの場合は——
「臓器は無い。外的な部位だけだ」
「部位の内部には何が詰め込まれていますか?」
「コード、配線、その他細かなパーツ。体を動かすために必要なもの」
「換言すればアンドロイドにとっての循環器官とも言えますね。コードは血管、細かいパーツは細胞。数や大きさは異なれど、コアの命令を受けて内部で動く。広義で言えば人間の臓器も同じようなものじゃありませんか」
 悟は数秒沈黙し、頷いた。
「こじつけが強い気がするけど、言える。中身が肉か機械かだけで区別するだけなら、人間の脳とアンドロイドのコアの定義について違いはほとんど無い」
「僕が言いたいのはそういうことです。ところで、今の助手さんに起きている現象は、人間の体でも似たような事例が報告されているんですよ。……体のどこかを交換した手術後、見に覚えのない記憶を見る」
 店員が来た。七海と夏油の空のジョッキがなみなみとビールが注がれたそれに替えられる。二人も悟と灰原の話に耳を傾けており、店員に対する態度もどこか上の空だ。悟の目がネットを検索して淡い光を発した。
「臓器記憶」
「はい。臓器を移植された受容者が、臓器提供者の記憶を見ることがある……かもしれない現象です。原因はわかっていません。自分では無い臓器を受け入れたことによって『自分』が『自分』である確信——自己同一性やアイデンティティのことですね——が揺らぐからとか、『誰か』の臓器を受け入れなくてはならない心理的・肉体的なストレスに対する本能的な防衛反応とか、色々な説があります」
「僕の『夢』と臓器記憶は同じだって言いたいの」
「厳密に言えば少し違いますけどね。助手さんの場合は仮にボディの交換がなくても発生していたかもしれません。助手さんが見ているのは自分のものと思しき記憶、一方で臓器記憶は他者の記憶を見る現象です。でも定義は似ていると思います。……脳に限らず、体にこそ記憶は宿る。助手さんが見た記憶はコアではなく、目や耳を含む頭そのものに残されていた記憶なんじゃないですか?」
……コアの記憶は削除されているけれど、僕が見ているのはコアじゃなくて部位に残された記憶だって?」
「まあ、そうですね」
「理解できない」悟は僅かに身を乗り出して言い返した。「それに、本当に提供者の記憶を見ているのか、単に人間の空想なのか、人間は直接会って確かめられる」
「それが残念ながら無いんですよ。臓器提供者と受容者で直接的な接触を持つことは原則禁止されています。もちろん、接触の禁止には本人だけでなく家族も含まれますから、受容者が変な記憶を見たといったところで、提供者の記憶かどうかは誰も確かめられない。あるいは単に、さっき言ったような自己同一性の揺らぎとか、自己防衛の反応で脳が勝手に見せているだけの映像かもしれないし」
「気のせいってこと?」
「はい。だから僕は助手さんが見る『夢』をエラーと表現しました。その上で臓器記憶の可能性を主張します。先ほどの思考実験で証明したように人間とアンドロイドの体には内部にも構造的な類似性はある。ゆえに人間の体で起きてアンドロイドで起きないなんて保証は無い。そして、人間の体で解明されていない現象なら、アンドロイドの体に起きたところで原因は分からない」
 灰原はそう言うと自分のジョッキを取り寄せ、中身を傾けた。
「これが僕の考察というか、意見です。粗だらけですけど」
……コアに宿るはずの情報が部位に宿る原因は、結局分からない」
「はい。臓器記憶の謎が解明されていたなら多少は助けになったかもしれませんが、現段階では考えるだけ無駄だと僕は思います。そういうものだろう、と言うしか」
「興味深かった。灰原」
「そう言ってもらえて嬉しいです。お二人に何か意見はありませんか?」
 灰原が次に見たのは七海と夏油だった。夏油は微笑み、何も無いと言うように首を振った。
「私は灰原ほどシステムに詳しくないからね」
 対して七海は違ったようで頷いた。「論点からずれているかもしれませんが、自己同一性の話を聞いていて、沼男の話を思い出しました」
「ああ、スワンプマン」
「はい」
 七海は夏油に同意しながら眼鏡のリムを押し上げると、箸を皿の上に置いた。灰原が首を傾げる。
「七海、沼男とかスワンプマンって?」
「ある哲学者による思考実験だ。……一人の男が外に出て沼の近くを歩いていたとき、突然雷が落ちてきて死んでしまいました」
「思考実験とはいえとんでもない話だな」悟が口を挟んだ。「人間が一生のうちで落雷に当たる確率は——
「まあ、思考実験ですから」と七海は悟の話を遮って続ける。「男が死んだとき、近くの沼にも偶然雷が落ちました。するとこの落雷によるエネルギーが、沼の底に溜まっていた泥と奇妙な化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同じ姿の『何か』を生み出してしまった」
 七海の視線が悟に向けられる。
「『何か』は生前の男と全く同じ体、脳、思想、性格を持っていました。沼から生まれた『何か』、つまりスワンプマンは沼を後にすると男の家に帰り、そして男と全く同じ生活を続けました。この場合、スワンプマンは元の男と同一人物だと言えますか」
「言えない」悟は即答した。「男が死んだという事実がある。それは覆せない」
「そうですね。ですが、同時に生まれた沼男は細胞のひとつひとつに至るまで、元の男と全く同じ肉体です。男の死骸は果たして本当に男の死骸ですか。どちらが本当の肉体と言えますか」
「元の男は意識が断絶しているから死んでいる」
「沼男の意識は元の男をコピーしたものなので肉体と同様に同一のものです」
……なら、沼男と死んだ男は同一人物なのか」
「いいえ、沼の近くに元の男の死体がありますからね。その事実は取り消せないでしょう」
「回路がショートしそうだ」
「まあまあ、思考実験には正解が無いから。似たような事例にテセウスの船があるね」
 夏油が七海の話を引き継いで言った。
「作られた時からのパーツがすべて取り替えられた場合、果たして同じ船と呼べるのか、ってやつ。テセウスの船とスワンプマンで扱われている問題はほとんど同じだと思う。何をもってして『私』を『私』と呼べるのか? 悟、きみは本来持っていたボディを壊され、新しいボディに取り替えられた。首から上は交換していないからオリジナルだ。だが首から下は全くの別物、誰かのボディだったものだね。きみは以前のきみから変わっていないと言えるかな」
「言える。自己を認識するコアは変わっていないから」
「そうだね。だが百パーセントとは言えないんじゃないか? 新しいボディに適応するためにコアは以前からの在り方を変えるかもしれないね。例えば、きみは新しいボディになって筋力が大幅に低下している。体の動かし方、それによる思考パターンの変化はあっただろう」
……あった」
「そう。きみは新しいボディに適応するために変化した。昔の在り方とは同じじゃない」
「けど『僕』は『僕』を認識している」
「そうだ。だがその認識も、スワンプマンの思考実験を前にすると揺らいでしまう」
「コアが焼き切れそう」
 言うや否や、悟の頭が落ちて目の前の取り皿の上に突っ伏した。がちゃんと派手な音が立つ。三人が驚き、立ち上がりかけるも、彼はすぐに顔を上げた。顔や前髪についた料理が剥がれ落ちて皿の上に落ちる。頰が焼き鳥のたれで汚れていた。夏油がおしぼりを押し当てる。
「大丈夫か悟、倫理ロックか」
「倫理ロックではなかった」拭われるままにされている悟が言う。「思考パターンが混乱し始めたからリセットしただけ。僕は何者?」
「きみは悟だよ。元軍事用アンドロイド、今は私の助手」
「スワンプマンの話が助手さんには刺激が強すぎました?」
……すみません」
「七海は悪くないよ。話を広げたのは私だし」
「ああ。七海と傑は悪くない。久しぶりに良い刺激になった」
「そもそもこんな飲みの場でどうしてこんなに難しい話をしてるんですかね僕たち」
「うーん、灰原が言い出した気がするね」
「追加でビールを注文しますけど、他に飲みたい方はいますか」
 七海の言葉で場の空気が一気に緩んだようだった。頰を拭っていた夏油の手が悟から離れていく。悟の瞳は淡く輝き、なおも複雑な演算を繰り返していた。

「今日は楽しかったです! また飲みに行きましょう」
「私も楽しかったよ。ありがとう」
「次会うとしたら……まあ、夏油さんの場合はプライベートよりも仕事ですね」
「七海も今日はありがとう。そうだね、来週も部品の納品があったはずだし。よろしく頼むよ」
「それじゃ。助手さんも配達で伺ったときにまた!」
「ああ。明日か明後日に」
 同じ方向だという七海と灰原とは駅前で別れ、夏油たちは帰りの電車に乗った。無言だった。最寄りで降り、住宅街に差し掛かったところで悟がふと足を止めた。数歩先で振り返った夏油の位置からは、街頭に照らされた逆光で悟の顔は見えない。
「どうした」
「思考プロセスの構築で人間に勝てなかった」答えた悟の声色は機械らしく平坦だった。「思考実験——哲学——は人間の賜物だ」
……そうかもね。哲学は人類の歴史において最も早く起こされた学問だ。歴史が深いから私でも理解できない部分が沢山あるよ。結論が出ないテーマがほとんどだから、二元論が前提のきみたちには奇怪に聞こえたかな」
「逆だ。興味が湧いた。僕は哲学を学んでみたい」
「こんど本でも買ってみようか。私も調べてみる」
「うん」
 話は終わったはずだが歩き出す気配は無い。人工の光を背負い、暗闇の中で悟の両眼が青く輝いていた。
「まだ重要な問題を語っていない」
「問題?」
「機械に心は存在するのか」
 遠くで電車の動き出す音が聞こえる。音が遠ざかってから、悟は再び口を開いた。
「臓器記憶も、スワンプマンも、テセウスの船も、思考する者が生物であることが前提だ。用意された前提を主観的に捉え、考え得る可能性をいくつも導き出す」
……何の話だ? きみはできていたじゃないか」
「自己同一性。アイデンティティ。『自分』が『自分』である確信を持つには、心の存在が必要不可欠だと僕は考えている」
「きみには思考するためのコアがある」
「コアは思考するだけだ。ゼロか一か、正か偽かを判定することしかできない。思考実験で人間と同じ思考をなぞることはできても、問いそのものを生み出すことは不可能だ。人間と機械の違いはそれだ、傑。人間は迷うことができる。僕たちはできない」
 悟は言葉を区切り、次の言葉を探したようだった。
「創造は感情があってこそだ。機械に心は生まれない。どうして僕は『夢』を見る?」
 そして彼は口を閉じた。瞬きをしない瞳は真っ直ぐに夏油を見つめていたが、瞳孔が震えているように夏油の目には映った。答えの出ない問いに彼は直面しているのだ。そのために彼は答えを求めているのだ、と夏油は理解する。
……きみは哲学に興味があるんじゃない。心に興味があるのか」
「そうとも言えるかもしれない。心があるから哲学が生まれたんだ」
「きみに心は芽生えないと思うか?」
「人間とアンドロイドを区別する絶対的な要素だ」
 悟の返答は半ば、夏油が予想していた通りだった。アンドロイド、即ち機械に心は無い。機械に感情論を求めるな。世間の常識だ。だが。夏油は疑問を持っている。だが、しかし、本当にそうだろうか? 私には、機械と人間を隔てる決定的な要素など、その体を構成するものだけであるように思えてならない。
「きみたちの本質は学習だが、それは私たち人間も同じだ。生まれた瞬間から新たな情報に触れて取り込み、解釈する。その解釈の過程が個々で異なるから、人間に性格が生まれると私は考えている。きみたちだって処理の過程に個体差は生じるはずだ、それほどに精密なプログラムが組まれているだろう。学習を繰り返せば、きみたちにも独自の思考回路が生まれるんじゃないのか」
 悟の返答に数秒の間があった。
「それが心? 人間と僕たちの違いが与えられるデータの種類とそれらを処理する過程だけだって、傑は言いたいの」
「そうだ」言い切ってから夏油は思い出したように付け足した。「もちろん、肉と機械……体の根本的な違いは越えられない壁だけど」
 悟の答えはさらに数秒遅延する。
「感情もデータの集積によるものだと?」
「ああ」
「機械と臓器の働きにおいて本質的な相違は無い、と」
「脳の話かな。そうだね、極論だけど。灰原だって同じことを言っていたじゃないか」
「『夢』は——
 口を開いたまま言葉が途切れる。彼は混乱していた。その頭が一度、大きくがっくりと落ちると、再び上げられた。今日、灰原たちと飲んでいる最中にも目にした。思考パターンをリセットしたのだ。
「『夢』は僕が心を獲得し始めている証拠だって、傑は言いたいの?」
……。そうだ」
「どうして灰原や七海の前で言わなかったの」
「自分でも馬鹿げていると思うから。無謀な試みだ、アンドロイドに人間と同じ心を芽生えさせるなんて」
 言外に含まれた意図を悟は正しく読み取った。
「傑は僕で実験するつもりか」
「そう捉えられても仕方ないね」夏油もまた慎重に言葉を選びながら答えた。「『夢』の話を聞いて漠然と考えていたことだけれど、今日の話ではっきりと興味を持った。きみたち機械にも心か、あるいはそれに近い何かが芽生えるのか」
「なぜ?」
「私の仕事の後継者が必要だからだ。人間の心を理解できている者にしか、きっと任せられない」
 彼の青い瞳は今や夏油を射貫くように見つめていた。瞳の奥にはめ込まれた高性能のレンズは、視界に入る物体とのピントを調整するために絶えず収縮し、淡い光を放っている。光は彼の眼窩内で拡散し、プリズムとなって細かな煌めきを放つさまは、まるで宝石のようだった。
「どうして僕なの。後継者に心が必要なら、人間を雇ったほうが効率が良い」
「それは……
 夏油が黙り込んだままでいると、悟は右手を掲げて自身の手首を指差した。
「それは手首の傷と関係があるの」
 悟の発言に夏油がたじろいだ。腕時計とリストバンドで隠している夏油の両手首へ、悟は視線を走らせる。
「菜々子から聞いて調べたんだ。傑の手首に残っている傷あとは自傷行為によるものだ。ひどい抑うつ状態に陥った人間が、刃物で自身の手首などを傷付ける」
「菜々子が……。きみには関係ないだろ」
「関係ある。傑の後継者にはアンドロイドより人間のほうが適役だ。どうして僕を引き取るなんて非効率的なことをしたの。僕を納得させて」
 夏油は俯いた。眉間には深いしわが入り、両の拳はきつく握りしめられて震えていた。しばらく黙り込んだあと、夏油は何も答えずに背を向け、歩き出してしまう。悟が大股で近付き隣に並ぶと、微かな声が聞こえてきた。
「私は人間が嫌いだ」彼はそう切り出した。「幼い頃から機械だけが好きだった。彼らは私が頑張って組み立てるほど、私の思い通りに動いて発言してくれる。親や友だちは私の干渉が届かない他人だ。私のルールに沿って行動しないし、いつもイレギュラーばかりを押し付けてくる。それがどうしても気持ち悪くて、ずっと機械に向き合ってばかりだった」
「ああ。人間の思考はイレギュラーだらけだ」
 悟の相槌に夏油は曖昧に頷いた。
「将来は機械を作る仕事に就職して、機械に囲まれながら一生を過ごそうと思っていた。軍のアンドロイド工場に就いたのもそうした動機からだ。呪霊と戦うアンドロイドたちを自分の手で作り出し、人間たちを守ってやるんだって、人間嫌いに対する後ろめたさもあったのかもしれないね。工場に就職できてそれはもう幸せだった。機械たちに囲まれて一生を過ごす夢がとうとう叶ったんだって思ったよ。……戦争の現実を知るまでは」
 診療所が見えてきた。石段を上り、玄関の前に着いたが、夏油は鞄から鍵を取りださずに立ち止まった。
「きみも多少は覚えているだろうが、軍事用アンドロイドは使い捨ての駒に過ぎない。数を武器に襲い掛かり、いくら壊されようが後ろには何万体もの新たな機体が工場に控えている。故障したアンドロイドは直ちに回収されて工場へ運ばれてくるが、スクラップ場に運ばれて新たなアンドロイドの部品になるか、古いパーツと取り換え、まともに動けない体で戦場に出されて呪霊の囮にされる。
 地獄だった。勝利を信じて作ったアンドロイドたちが、歩き始めて数瞬後にはただの鉄屑と化している。根本的な修理が必要なはずなのに、間に合わせのパーツを力ずくではめて戦場へ送り出すことしかできない。再び戦場へ繰り出した彼らも、少ししたらぼろぼろに破壊されて工場へ送り返されてくるんだ。そしたら、また……
 呼吸が震える。夏油の左手が、リストバンド越しに右手首を強く握りしめた。彼は全身の力をふっと抜き、両手を体の両脇にだらりと垂らした。
「耐えられなかった。私は逃げたんだ。そして診療所を開いた。アンドロイドを壊すためではなく、直すために、私の持っている知識を使いたかった」
「じゃあ、僕を引き取ったのは」
「壊されるためのアンドロイドを作った私なりの贖罪でもある。だけど本当は、人間と接することがたまらなく苦痛なんだ。アンドロイドを生み出し、壊しているのは呪霊どもじゃない。そうするべきと決めた私たち人間じゃないか。もちろん、人類が呪霊と戦えなかった事情はわかってる。それでも私は、私自身も含めた人間を絶対に許せない。一緒に仕事をするなんてもってのほかだ」
「灰原や七海とは話せてた」
 夏油は顔を上げた。苦悶に歪み、唇は激情を堪えるように震えていた。
「彼らは善い人たちだ。私の診療所に来てくれる人たちも優しいよ。きみが倫理ロックで倒れた時みたいに、時々は酷い人間もいるけれど、アンドロイドを大切にしてくれる人間もいるんだ。そうとは理解しているのにやっぱり人間が憎い。軍にいたやつら、工場で働いていた奴らは全員死んでしまえと思っている。私も含めてだ。けれど善い人間もいるし、人間がいなければアンドロイドは生み出せない。何より私は、私にはまだ、何よりこの手で救えるアンドロイドがいるんだって、信じたい……
 両手で顔を覆って俯いた夏油を見下ろし、悟は何度も目を瞬かせた。唇を開いて閉じることを繰り返し、瞳は何かを調べているのか、無数の文字列が表面を流れていく。最後に一度瞬きをしたとき、悟の目から文字列は消え失せた。
……傑が考えていることは、僕たちにはわからない。壊れるまで戦い続けるのが最優先コマンドとして与えられていた。僕たちは壊れることを前提に生み出されたものだ。だから、アンドロイドを救いたいという傑の考え方はただの偽善、人間側のエゴだ」
 でも、と悟は続けた。
「偽善は必ずしも悪じゃない。灰原は人工知能の発達が人間により良い結果をもたらすと信じている。七海はアンドロイドと人間を繋ぐ仕事の第一人者だ——人間がいなければアンドロイドは存在できないから。傑は、僕たちアンドロイドが、与えられた役割を遂行できる手助けをしているんだよね。傑と、今日話した二人は、僕たちの存在意義を尊重してくれている。人間の考えは理解できないけど、それだけは、わかる」
 悟は再び数度の瞬きを挟んだ。生理的な現象が発生しないアンドロイドにとって、その行為は意図的な意味を孕んでいたはずだった。
「いいよ」
 黙り込んだままでいると悟は一歩足を踏み出し、夏油の顔を覗き込もうと腰を屈めた。
「機械が心、ないしは心と似た何かを獲得できるのか。データの収集には興味がある。データの収集は僕たちの本質だ。だから傑に協力する」
……きみは、軽蔑しないのか。人間であるのに人間を嫌う、私が」
「軽蔑? それは人間だけが持つ曖昧な思考回路だ。僕は人間じゃない。アンドロイドが判別するのは事実だけ」悟は体を傾けながら答えた。「僕は傑の実験に付き合うよ。僕は心を獲得する。傑も僕が心を得ることを望んでいる」
 夏油が手を下ろした。鼻をすすり、自嘲気味な笑みを口の端に浮かべた。
「きみは私が何を言ったのか理解していないね」
 悟は頷いた。「当然だ。人間の考えは複雑で色々な利権が絡んでいる。工場の話は九割以上理解できていない」
「薄情なやつだな」
「心を獲得すれば大方は解決する」悟は答えて右手を差し出した。「傑、鍵を貸して。人間が外に長居して体を冷やすのは良くない」
 夏油は鞄から診療所の鍵を取り出し、悟に手渡した。悟は彼の手のひらから鍵を取りかけ、夏油の右手ごと掴んで上下に振った。
「改めて関係を新たにするときは握手をするものだって、調べた」
 驚く夏油にそう言い、悟はなおも手を振り続けている。
……握手はそんなに激しく振るものじゃないよ」
 夏油の口元に笑みが戻る。彼と悟の手の間で鍵が擦れ合い、涼し気な音を立てた。夏油は悟の手を握り返し、優しく上下に振り返した。