わからん
2024-08-12 10:45:16
43237文字
Public 五夏
 

【五夏】所詮は紙切れ一枚

元軍事用アンドロイド五×修理技師夏のSF風味五夏



2.

 
 思い出した。戦闘のさなかに、爆発と、それに伴う建物の崩壊に巻き込まれたのだ。
 呪具はどこだ。自分はそれからどうなった?
 ……予備動力起動。頭のノイズが酷いものの分析完了、状況を把握。無数の警告、アラート音は一旦スルーして、停止していた回路に電子命令を叩き込む。荒治療と人間の言葉では言うんだったか。結果的にうまく動けば過程なんてどうでもいい。機械のくせに雑だと散々言われたっけ。誰に? 復旧処理は成功した。再起動。ノイズ混じりの電脳が徐々に収まり、靄のかかっていた思考が晴れていく。
 復旧完了。
 視界に飛び込んできたのは目が眩むほどの青だった。
 雲一つ無い青空だ。自分の体は大の字で瓦礫の上に寝転がっている。視界の隅には爆発によって粉々に砕けた建物の残骸、見ているそばからコンクリートの欠片がぽろぽろと崩れていく。遠くでがらがらと派手に崩れる音の残響。それを除けば無音、穏やかな光景だ。人工衛星からキャッチした敵性反応も無し。戦闘はとうに終わっていた。
 部隊は既に本部へ帰還してしまったのだろうか? 起き上がろうとしたが手足が動かない。辛うじて動いた首を持ち上げて見ると、胴体と右腕が瓦礫に埋もれてしまっていた。幸先が悪い。無事な左腕を持ち上げ、腰の上の瓦礫を押して退けようとした途端、ばきばきと体の下で音が鳴った。嫌な予感がする。
 やっとの思いで瓦礫を横にどけた。
 下から現れた体はアーマーごと潰れ、胸の下で切断されていた。
 断面図から覗く色とりどりのコードが小さな火花を散らしている。しくじった——無意識下に弾き出された結論は瞬く間に別の結論へ繋がる。
 この体は終わりだ。
 全体の損壊率が八割を超えると自動で発信される救難ビーコンはもはや無意味だろう。戦闘を終えたこの地域に救援部隊が来る可能性は極めて低かった。それに、壊れた機体を探して回収するより、新たな機体を生産したほうが戦力の補充には手っ取り早い。万が一奇跡が起きて救助されたとしても、この損傷具合は九十九・九パーセント修復不可能だ。血液が通う人間の肉体ならとうに死んでいたように、この破損具合で意識を保っているのは我ながら驚異的な維持力だった。
 意識の外に置いていた無数のエラーに目を向けると内容は全て同じ、体の損傷を訴えるものだった。これら計算外の予期せぬ警告がコアを埋め尽くせば、コアは正常な演算を阻害され、狂い、やがて自滅の道を選んで速やかに崩壊するだろう。
 ブラックアウト。それが、電子の脳を与えられて生み出された機械たちの、末路だ。
 大きく息を吸い、吐き出すと——それも人間の真似事に過ぎない行為だったが——目を閉じた。意識の底から赤い文字が浮き上がり、溢れ返って思考パターンを瞬く間に埋め尽くしていく。
 ウィルスのように群れて演算を破壊し、荒唐無稽な数字へと書き換えていくエラー。耳元でうるさく鳴り響く電子音も、コアの制御を失い痙攣しだす体も、今となってはどうでもよかった。壊れるならば早く壊れてしまえばいい。自分は用済みだ、代わりはいくらでもいる。誰もいないところで誰にも知られずひっそりと壊れる、戦いのために作られた機械には相応しい結末だ……
 だが悲しいかな、戦闘用アンドロイドしての本能が状況からの逃避を、目を閉じることを許さなかった。切断から免れた上半身を激しく震えさせながらも、この目は開かれて空を見ていた。
 群青。
 果ての無い蒼穹。その彼方。
 昔、誰かからどこかで聞いた。あの青の遥か先までのぼっていけば、この惑星を抜け出し、新たな空間に辿り着けるらしい。そこは数式で定義することのできない現象が数えきれないほど存在する、無限の領域だ。数式で動く自分には到底考えられないような場所だった。
 計算を完全に止めた時——コアが壊れた瞬間、この仮初の意識はどこに行くのだろう。空の彼方? 無限の領域? ただしそれは人間の話だ、所詮は生物の紛い物でしかない自分は? どこにも行けない? そうだ。機械に死は無い。このまま黒と無の世界に落ちて、塵と朽ちて消えていくだけ——
 いかれかけたコアが今際の際に何を考えたかったのか、終ぞ理解することはできなかった。
 一面に青い空が見えていた。その隅で何者かの影が動いたように見えたが、確かめるすべは失われていた。
 暗転。
 黒。無。……
 
「こんにちはー」
 階下の玄関口から男の声が響き渡り、悟はスリープモードを解除して目を開いた。
「宅配でーす。Y運輸でーす」
 悟は周囲を見回した。屋外でも、瓦礫が散乱する場所でもない。夏油が運営する診療所の二階にある、五番に与えられた個室だ。部屋に置かれたベッドは使わず床の上に膝を抱えて座り、この体の原動力である電気を補充していたのだった。
 時刻は朝の九時前を指している。悟は背後のコンセントを手探りで探し当て、プラグを抜いてうなじに格納した。
 ピンポン、と階下で呼び鈴が鳴らされる。
「宅配でーす。こんにちはー。どなたかいませんかー?」
……タクハイ……
 コアが自動でネットにアクセスし、求めていた情報を探り当てる。宅配。荷物などを一軒一軒配達すること。近年ではそれを専門に行う業者のことも指す。男が言っていたY運輸もそのひとつで、業界を代表する大企業だ。
 来客はいつもなら夏油が対応しているのだが声が聞こえなかった。出かけているのかもしれない。
 悟は自室を後にし、一階へ下りて玄関の扉を開けた。
「どうもー、お久しぶりで……あれっ」
 玄関に立っていたのは夏油や悟よりひと回り分小柄な——男性としては平均的な身長であある——黒髪の青年だった。両手に段ボール箱を持ち、制服と思われる緑色の衣服とキャップを身に着けていた。髪と同じく黒い瞳は丸く見開かれ、悟を凝視している。
「こんにちは。ご用件をどうぞ」
「あっ、失礼しました!」青年は弾かれたように飛び上がり、被っていたキャップを外して会釈をした。「Y運輸のセールスドライバーをしている灰原です。夏油先生あての荷物があってお届けに来たのですが、ご不在ですか?」
「不在です。荷物なら僕が預かります」
「夏油先生のご親族で?」
「親族ではなく……」確か、夏油は自分のことをどう表していたか。「助手です」
「へえーあなたが噂の助手さんですか! じゃあ、荷物お願いしても良いですか? こちらにサインをお願いします」
「サイン?」
「助手さんの名字とか」
 悟のコアは束の間回転を止めた。名字は血縁関係を示すために人間が持つものだ。アンドロイドには与えられない。
「持っていません」
「持っていない……ああーそうだった、失礼しました。でしたら夏油先生の名字で大丈夫です。夏に油で」
 差し出されたペンを手に取り、右手を動かそうとした悟は、右肩から軋むような異音を聞いた。左手に持ち替えて夏油と書き込む。
「どうぞ」
「わあ、綺麗な字ですねえ。頂戴します」
 サインを終えた伝票と荷物を交換し、灰原は再び頭を下げた。
「これからも荷物のお届けにたびたび来ると思います。そのときはよろしくお願いします、先生の助手さん」
「よろしくお願いします」
 キャップを被り、背を向けた灰原があっと声を上げて手を挙げた。
「夏油先生。お久しぶりです」
 ちょうど道路の角を曲がって夏油が姿を現した。彼は顔を上げ、玄関に灰原と悟の姿を認めると早足で近付いてきた。
「どうも。久しぶりです」
「ご無沙汰してました! 助手さん届いたんですね」
「ええ、まあ」
「ご本人から言われなければアンドロイドだと気付けませんでした! どちらで買われたんです?」
「ええと——
「あっ、待ってください、当てます。うーん、あの精巧なつくりはCクラルス・マキナ社の最新機種?」
「まあ、そんなところです」
「へえーいいですね! 良い機種ですよー性能は保障します、とっくに業界から足を洗った身なので説得力はゼロですけど!」
「あはは」
「それじゃ、自分はこれで」
 別れの挨拶を言うや否や、青年は石段を颯爽と駆け下りていく。道路の反対側には半自動運転の小型トラックが停まっていた。郊外の道路は狭い上に入り組んでおり、マニュアル操作が必要な場所も多いのだ。青年もとい灰原はトラックの運転席にひらりと飛び乗ると、エンジンを飛ばしてあっという間に走り去っていった。
「留守番ありがとう。おかげで良い気分転換になった」
「彼はいつも来る人?」
「宅配業者だよ。ちょっと声が大きくて押しが強いけど、元気で明るい子だろう」答えた夏油が悟の手から箱を取り上げた。
「どこに行っていたの」
「散歩。近所をぶらぶらしてただけ」
「いいね。朝の散歩は人間の脳を活性化させるのに効果的だ」
 悟は束の間黙り込み、再び口を開いた。
「傑。記録を抹消されたはずのアンドロイドが、自力でデータを復旧させたって話、聞いたことある?」
 片手で箱、片手で入口の扉を支えた夏油が悟を見上げて首を傾げた。
「抹消されたら復旧なんて不可能だ。そんな話は聞いたことがないな」
「だよな。俺もそう」
「何か気になることでも?」
 悟、夏油の順番に扉を通り、夏油が後ろ手に鍵を閉めた。彼が悟の隣を通り抜けて先に歩き出す。夏油の背中を見つめながら悟は続きを口にした。
「さっきまで充電のためにスリープモードになっていたんだけど。その間に、呪霊と戦っていたときの記録映像を見た」
「どんな映像を見たんだ?」
「おそらくボディが壊れたときの映像だ。瓦礫に体が押し潰されていて……
「その記憶は削除されたんだよね」
「僕のコアが発狂する直前の映像だ。削除されないはずが無い」
 夏油も同意するように頷いた。
「スリープモードは一時的に全機能を制限し、エネルギーの消費を抑えるモードだろう。そして、解除すればきみというシステムが完全に立ち上がる」
「ああ」
「多少強引な解釈だが、スリープモードは人間の体で言えば睡眠に近い状態でもある。睡眠中、覚醒へ至るまでに流れた覚えの無い映像……まるで夢みたいだな」
 夏油は廊下を途中で曲がり、階段を上る。悟も後を追った。
「人間が見る夢は、一般的に、脳が記憶の整理を行っている時の映像だとされているが」
「機械が夢を見るなんてあり得ない」
「同意見だよ。情報の記録を司る部位は人間もアンドロイドも同じ、頭だ」夏油が片手で荷物を支え、自身の頭を指差した。「人間なら脳、アンドロイドならコア。脳やコアのみが取り込んだ情報を保持し、編集するはず。人間の脳は解明されていない仕組みも多いが、きみたちアンドロイドを設計したのは人間だ。ブラックボックスなんてあり得ない、消したのなら完全に抹消されたはずだ。だから万が一にも、抹消から逃れたデータなんて……
「あえて残した?」
「どうだろう」とすかさず否定される。「生憎とシステムメンテナンスは専門外だが、コアの発狂に繋がる記録をあえて残すメリットがあるとは思えないね」
「僕も同じ意見だ」
「ああ。ヒューマンエラーならまだしも……
「ボディの次はコアの修理か。傑」
 夏油は首を振った。
「今のところは経過観察かな」
「それは医者としての助言? それとも研究者としての興味?」
「痛いところをつくね……両方かな。削除されたはずのデータを自力で復旧した……あるいは人間側が削除せずに封印したって可能性も僅かながらあるね。その理由を知りたい。きみはその記録が、自分にとって有害なものだと認識している。いざとなれば自力で削除できるだろう。そんな事態に陥るまで、あるいは原因を解明するまでは、今の状態でいたい。あるいはリスクを考慮して削除するかい?」
 問われた悟のコアはすぐに結論を弾き出した。夏油に賛成だ。状況を把握したい。さらなるデータの収集が必要だ。
「僕もデータを収集したい」
「そうだね、いざとなったら記録は消去しよう。コアに深刻なエラーを起こすほどの事態にはならないだろう」二階の廊下で夏油は立ち止まった。「荷物を置いてくるね。悪いが先に一階に行っててくれ。きみの体を分解しよう」
 
 悟が夏油の元に来て一週間が経過した。
 彼が仕事に馴染むのは早かった。が、先にボディが悲鳴を上げた。
 昨日、修理中の大型犬アンドロイドに悟が蹴られてしまう事件があった。アンドロイドは持ち主がスリープモードに設定していたが、誤ってタイマー式にしており——本来は所有者の睡眠時間に合わせるための機能だ——突然覚醒し見知らぬ場所に興奮した犬が、後ろ足で悟の右肩を蹴り飛ばしたのである。夏油と二人がかりで犬を押さえ、再びスリープモードに落として事なきを得たのだが、診療所を閉めて夜になると悟の右肩が動きにくくなった。そこで翌日、つまり今日の午前中は急遽診療所を閉め、彼のボディを点検することになったのである。
 診察室兼処置室は、診療所において最も広い空間である。悟にとっては軍の中にあった修理室や手術室を彷彿させた。受付室は工房を思わせる木製の部屋だが、ここは真逆のつくりをしている。無機質な灰色の空間、冷たい澄んだ空気、鉄と油のにおい。中央には人型用のベッドや動物型用の台が並べて置かれている。部屋の隅にはパソコンとデスク、そして壁を囲むように無数のパーツと工具が揃えられていた。
 悟が上半身の服を脱いでベッドの上に横たわると、工具を手にした夏油が彼を見下ろした。
「スリープモードには?」
「しなくていい。状況をモニタリングする」
「わかった。何かあったら教えてくれ」
 首を正面に戻した悟の上に屈み込み、夏油は左肩の分解に取り掛かった。
 アンドロイドの分解には高度な技術が必要とされる。ボディは数百もの部品に分かれ、どれかひとつでも欠ければ動作に支障を来すからだ。構造が最も複雑なのは人型、中でも戦闘に特化した軍事用アンドロイドだが、一般社会に普及している汎用型アンドロイドも充分に複雑な構造をしており、いずれにせよ分解には国家資格が必要である。
 また、資格が必要なのは人型に限った話ではない。動物型もその種類によって専用の資格が求められる。夏油のように人型と動物型、それも全般的な種類のアンドロイドを一纏めに取り扱う診療所は、個人や公の施設を探しても極めて珍しいだろう。
 資格の取得には施設での研修、もしくは研修相当と認められる修理補助などの実務経験が必要であるはずだ。しかし悟の推測では、夏油の年齢は低く見積もっても二十代後半である。技術者としては相当に若く、一体どのような経験をしてきたのか……
「何?」
「モニタリングしてる」
 思考を切り上げて答える。分解中であるから、ほんの少しの振動もボディに与えないよう、口を開かずに喉奥のスピーカーを鳴らした。夏油が作業の手を止めないまま眉をひそめる。
「私の顔ばかり見ていては何も記録できないよ」
「質問があるんだけど」
「いいよ」
「傑はどこでアンドロイドの分解を学習したの」
……いずれ、ね」屈んだので悟の視界から夏油が消えた。「もう少ししたら教えるよ。今はまだ言いたくない」
「理由を知りたい」
「初対面やそれに近い相手には個人的な事柄を教えたくないね」
「なるほど。人間なら当然の心理だ」
 悟の数少ない記録に残されている軍の修理室では常に騒音が鳴り響いていた。担当によっては、部品やパーツを半ば強引にねじ取るような分解を行っていた記録もある。対して夏油の作業は静かで、かつ正確だった。螺子が外れ、部品が外れ、部位が外れる。手袋をはめた夏油の指先が内部のパーツを撫でた。
「これはひどい。見事にへこんでいるよ」
「修復は?」
「無理だ、交換しかないな。見てみるかい」
 肩から微かな振動が伝わり、目の前に部品が差し出された。関節を動かすために必要なパーツである。一目で修復不可能だとわかるほどに、内側に大きくへこんでしまっていた。
「以前のボディならここまで酷くならなかった」と、悟は口を開いて言った。
「そうだろうね。汎用型の素材は量産性を重視してランクダウンされているから仕方ない」夏油はパーツを悟の隣に置くと作業台から離れ、壁際の棚を漁っている。「それにしても、まさか犬に蹴られたくらいでこうなるなんてね。最近のアンドロイドはどうなっているんだ」
「同感だ」
「部品が見つからないな。すぐに手配するから少し待っていてくれ」
 そう言い、傑は部屋を出て行った。
 
 チャイムの鳴った音でスリープモードから起こされた。待合室から傑と男の話し声が聞こえ、声は徐々に近付いてくる。悟が上体を起こすと同時にドアが開かれ、夏油と一緒に見知らぬ男が部屋に入ってきた。
 傑と同じくらいの背丈を持つ、スーツ姿の男性である。金髪を後ろに撫でつけ、ゴーグルのような特徴的な眼鏡越しに鋭い眼光を放つ瞳は、悟の目よりも薄い青色をしている。この国に住む民族にしては珍しい色合いだ。彼は両手に段ボールを抱えており、蓋の隙間から大小様々なパーツが覗いていた。
「夏油さんの依頼で肩のパーツを見に来ました」
 彼は悟に近付き、段ボールを床の上に置く。
「私がいつもパーツを仕入れてる会社の担当さん」部屋の入口に立っていた傑が補足する。「七海さん、驚かせてすみませんね。彼がさっき電話で話したアンドロイドです」
 立ち上がった七海は手に小さなカードを持っている。
「C・マキナ社の七海です」
 差し出されたカードを片手で受け取り、表と裏を確かめた。名刺だ。所属先、連絡先に加え、非常に律儀な性格とコアの記録媒体が七海の情報を更新する。悟は名刺を体の隣に置き、空洞と化した右肩を七海に向けた。
「拝見します」
 覗いてすぐに七海は段ボールの中から数個の部品を出し、名刺の隣に並べ始めた。
「形はおおよそこの辺りでしょう。これは他メーカーとも互換性がありますが、耐久性に不安があります。こちらは形が合わないので周辺のパーツもいくつか取り換える必要がありますが、そのぶん頑丈です」
「悟はどれがいい?」七海の隣で部品を眺めていた傑が言う。
「耐久性ならこっち。価格ならこっち」
「じゃあ耐久性を取ります。また犬に蹴られないとも限らないからね」
「承知しました。部品代はいつも通り請求書払いで」
「よろしくお願いします」
……つかぬことを聞きますが、彼の首から上はオリジナルですか」
「はい。軍のパーツですから、異常は無いと思います」
 束の間、七海と目が合った。目の下の濃い隈と白目の充血に気付く。唇も乾燥しているようだ。日々の活動に擦り切れ、疲れ切った人間の顔だった。彼の顔を観察し、悟は二三度目を瞬かせた。
「ナナミさん」
 名前を呼ぶとアイスブルーが微かに見開かれ、逸らされる。
「部品の手配、ありがとうございました」
「いいえ。……では、私はこれで」
 段ボールを持ち上げ、彼は部屋を後にした。
「さて、作業を再開しようか」悟を見た夏油が首を傾げた。「どうかしたかい」
「疲れてそうだった」
 誰のことを指しているかすぐに分かったらしい。夏油が笑い声を上げた。
「彼は社内でも売上トップらしいからね。誰よりも働いているからそりゃあ疲れるよ。働きすぎで心配ではあるけれど、顧客の一人でしかない私が言うのも変だろうし」
「軍では人体の一部を機械化する技術の実験もしていたよ」
「へえ。興味はあるけど、実現したら皆が寝ずに働きそうだ。それは果たして人間の理想郷と言えるのかな」夏油は工具を持ち直して言った。「じゃあ部品を交換するよ。問題は無いと思うけど、異常があったら教えてくれ」
 
 元通り動くようになった右肩を回しながら、悟は玄関のプレートを「OPEN」に返した。肩の調子は良い。何人かの患者を遠し、夏油の補助をしながら、その日の業務も滞りなく終えられるように思われた。
 診察室から怒鳴り声が聞こえてきたのは、まさに今日最後の患者を通した直後だった。すぐに診察室へ向かうと人間の男が夏油に詰め寄っている。
「どういう事だ。金は出してるんだから、黙って直せばいいんだよ」
「ですから、何度も申し上げているように不可です」興奮している男に対し、夏油は冷静に言い返している。「あの子にはあなたから暴力を振るわれた痕跡があります。修理は承れませんし、我々修理技師は警察に通報する義務があります」
 作業台に視線を走らせると、悟自身も先ほど見かけた旧型の——人工皮膚や髪の移植がされずにパーツが丸出しである機体を指す——アンドロイドがスリープモードで静かに横たわっていた。腹部や太腿が大きくへこんでおり、修理してほしいのだと、所有者の男が診療所まで連れてきたのである。それが事故ではなく故意だと指摘された彼は激昂しており、そのまま夏油の胸倉を掴みかねない勢いだった。
「暴力なんて振るっていない! あれは転んだり、物にぶつかってできた傷だ」
「転んだり、何かに衝突したときのへこみはあれよりも更に凹凸が目立ちます。あんなに丸くできるのは肘や拳で思いきり殴ったり、爪先で蹴ったりしたときだけなんですよ」
 夏油の声は悟が今まで聞いたこともないほどに険しく、冷たかった。
「修理技師なら一目で判別できます。それに……見えます? お腹のへこんだ痕に、あなたの拳の形がはっきり残っていますよ」
 男がはっと息を呑み、作業台を振り返った。みるみるうちに彼の顔が真っ赤に染まっていく。
「てめえ……!」
 鈍い音が響いた。夏油が片頬を押さえて呻く。彼の手のひらの下で、男に殴られた頬が赤く腫れ始めていた。
 再び振り上げられた拳を見た途端、悟は二人の元へ駆け出していた。大股で二歩。右手を硬く握りしめて振り抜く。拳は男のこめかみに直撃し、攻撃を喰らった彼は横方向に吹き飛んで倒れた。
 違和感を覚えて見下ろすと右の拳がへこんでしまっている。脆い。昔のボディならこんなに弱くなかった。だが、こんなに貧弱なボディでも、まだ自分は戦える。
 悟は彼の元へ近付き、胸倉を掴み上げて再び右腕を振り上げた。
「悟! やめろ!」
 却下。コアが答える。提案の受容不可。五番は対象を攻撃する。右腕を振り下ろせば対象のこめかみを中心に頭が潰れ、速やかに絶命するだろう。攻撃……
 瞬間、コアの脇を鋭い痛みが走った。
 同時に視界の隅に警告が映る——「警告。倫理コードに抵触のおそれ」。
「悟、腕を下げるんだ。彼を殺すな」
 受容不可。否、却下。却下の却下。彼は殺すべき、殺さないべき。彼は敵だ、では呪霊か、呪霊ではない、だが敵、僕の敵。
 ——狂ったか五番。貴様の敵は呪霊だ。
 どうでもいい。こいつは敵だ。僕を害した、彼を害した。こいつは僕、いいや俺の——
「エラーコードE99」
 嵐のような混乱状態に陥ったコアとは裏腹に、口から滑り出た声はすべての意に反して空っぽだった。
「倫理コードにより全機能のロックがかかりました」
 瞳がぐるりと裏返る感覚。
 夏油がこちらへ駆け寄ってくるのが、暗くなっていく視界の隅に見えていた。
「ロックの解除には本部の管理部署へご連絡下さい」
さらに遠くで人の声————五番——
「あのさ、五番。きみは……
 これはどこの、誰の記憶だったのか?
「悟! どうした、何が」
 全身から力が抜けて床の上に崩れ落ちる。
 暗転。