mishiadd
2024-07-13 19:54:23
14966文字
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潮騒

若旦那ED。儀の最中に利腕を失ってしまい、儀を離脱するかたちで若旦那についていくことにした伊織殿とセイバー。


四、

浜辺に寄せては返す、潮騒の音が聞こえる。
遥かなるあの湊の、あの夜の音。寄せては返し、すべてを攫って連れて行く、あの白く高い波の音。
すべてを覆い隠して――声が聞こえる――呼んでいる

あの声が、呼んでいる。







かつての湊町は、なにもない浜辺と化していた。
湊としての機能はここから少し離れた別の海岸に移転して久しく、海風に晒された廃村は瞬く間に侵食され風化した。
あとには、焼き物の破片がぽつりぽつりと落ちている、白い浜辺が広がるだけだった。

「意外と何もなかったな」

明らかにほっとした口調でセイバーがそう零し、すぐに慌てて「なんでもない」と言葉を打ち消す。
一歩一歩歩くたびに、砂浜の柔らかな砂につま先が沈む。点々と、伊織とセイバーの二人分の足跡が浜辺に続いていく。

「ああ。――そうだな」

伊織が足を止める。水平線の、遥か彼方を見遣る。空と海との境界線。沈みゆく夕陽の中で、その境目が徐々に曖昧になっていく。

「そうだな……

潮騒が響く。足元に寄せては返す波が、時折気まぐれに伸びてきては伊織の足元の砂を攫い、さあっと退いていく。
潮風に吹かれて伊織の癖毛がふわふわと揺れる。その横顔にセイバーが何かを言いかけて、そして口を噤む。






旅籠に戻ると、例によって若旦那は帳簿に向かって何かを書きつけている最中だった。すっかり日が落ちて暗くなった中で、ぼんやりとした行燈の灯りに神々しいような横顔が照らされている。
伊織とセイバーの足音に気が付くと顔をあげ、「戻ったか」とだけ短く言った。

部屋の窓からはつい先ほどまで居たあの砂浜が一望できる。浜辺に寄せて返す潮騒の音が部屋の中にも響いている。目を閉じるとまるでまだ砂浜にいるようだった。

「どうであった」
「何もなかったよ」

セイバーが何かを言う前に伊織が短く言った。「イオリ」と気遣わしげにセイバーが伊織を見遣るが、伊織の端正な横顔にはいつも通りなんの感情も浮かんでいなかった。
「そうか」とだけ若旦那が言い、ぱたんと帳簿を閉じる。「そんなものであろうよ」と、ただ事実を告げるだけのような口調で言った。

そろそろ休もう、という話になり、セイバー、伊織、若旦那の順に敷布団を三枚並べて敷き、伊織と若旦那の布団の間に衝立をたてる。
若旦那の枕元に置かれている行燈の灯りで衝立の向こう側の壁に若旦那が布団に横たわるまでの影がぼんやりと映っていたが、やがてそれも灯りがふっと吹き消されると共に掻き消える。――部屋が、闇の中に沈む。

布団の上で仰向けになったセイバーの目が暗闇に慣れてくると、やがて窓から差し込んでくる青白い月明かりの中にぼんやりと天井の梁などが見えた。ざああん、ざああん、と寄せては返す潮騒の音が、遠くに、近くに響いている。目を動かすと、窓から星空が覗いていた。ますます浜辺にいるようだと思う。

夜の浜辺。――寄せては返す潮騒の響く、真っ黒な海――

――……

小さな、声が聞こえた気がした。隣で寝ている筈の伊織を見遣る。暗闇に慣れた目は、その端正な横顔の輪郭をすぐに捉えた。――わずかな月明かりに照らされてちらちらと光る、遥かなる深海のような色をした瞳も。

「イオリ? ――起きているのか?」
――声が」
「声?」

伊織は、セイバーを見ない。ただ、遠い何かを掴もうとするかのように、重い瞼を見開いて天井を見つめている。

「声が、聞こえたような」
「声? 声、は、確かに聞こえたが」
「セイバー、おまえも聞いたのだな」

左腕で体を支え、おもむろに伊織が身を起こす。毛布代わりに体に掛けていた着物を羽織る。立ち上がり、袴も股引も穿かず、着流し姿のまま、伊織が部屋から出て行こうとする。

……イオリ? どこへ行く?」

身を起こしたセイバーが喉の引き攣るような声で尋ねる。障子に手を掛けたまま伊織が振り返る。暗くて、セイバーにはその表情がよく見えなかった。ただ、海のように濡れた瞳が、ちらちらと月光を反射しているのだけが見える。

「声が、聞こえただろう。行かなければ」
「イオリ、待ってくれ。落ち着いてほしい」
「呼んでいる。――あの声。おまえも聞いたんだろう? 俺は、行かなければ」
「イオリ、イオリ、待ってほしい。ああそうだ、そうだよ、確かに私も聞いた。でもな、イオリ」
「呼んでいる」
「イオリ!」

どうあっても宥められないのだと悟ったセイバーが叫ぶ。その制止の声は伊織に届くことはなく、障子を開け放った伊織が部屋から出ていく。

「イオリ! ――イオリ!」

叫び続けるセイバーの声に重なって、伊織が廊下を駆ける音が響く。やがて、その音も潮騒に掻き消される。
セイバーが両手で頭を抱える。――そうだ、確かに声を聞いた。セイバーも、伊織の言う声を聞いたのだ。――でもそれは。

「あれは、きみ自身の声だったじゃないか、イオリ」

セイバーには、伊織を止められない。止められた試しがない。聞き分けのいいふりをして、押しに弱いふりをして、いつも――結局、彼は駆け抜けていってしまう。捕まえようと、抱き留めようと伸ばしたセイバーの指先をすり抜けていってしまう。セイバーの手はいつだって伊織には届かない。セイバーはただ、その背中を見送るほかない。
そう、セイバーが叫ぶことすら諦めようとしたときだった。

――騒々しいぞ雑種」

ひどく不機嫌な声が響く。行燈に灯りがともり、橙色に照らされる中でゆらりと影が立ち上がる。

……ワカダンナ」
「海か」

伊織の行方も尋ねず、状況を改めることもない。まるですべてを見透かしたかのような真紅の瞳で、ただセイバーを一瞥する。

「確かに貴様とは相性が悪いだろうがな。――よもやまた、目の前でみすみす海に奪われることを許すとは。救えんな」
「!」

セイバーの夕陽の色をした瞳が怒りに燃える。あまりの侮辱に全身から覇気が発せられ――すぐに収束する。
そういえば、そんなことを伊織本人に約束したのだったと、思い出す。もう二度とあんな後悔はしたくないと。二度とあんな思いをしないために、お互いに悔いの残らない行動をするのだと

セイバーが若旦那をねめつける。ふ、と鼻で笑った。まるで伊織と出逢ったばかりの頃のような、好戦的で挑発的な表情だった。

「きみは、あれだな。口が悪い。――だがまあ、いいことを言う」
「誰に向かって口を利いておるのだ雑種ごときが。まあよい、わかったらさっさと向かうぞ。――まったく、つくづく手のかかる道化だ」

頭を掻きながら部屋を出ようとする若旦那の背中に、「ワカダンナ」とセイバーが改めて声をかける。「なんだ」と面倒そうに振り向いた華美な顔に、満面の笑みを浮かべて言った。

「きみはやっぱりいいやつだな、ワカダンナ。――あのとき、きみと征くことを決めてよかった」

フン、と鼻で笑い、再び前を向く。セイバーがそのあとに続いた。その足取りには、もはや少しの諦念もなかった。