mishiadd
2024-07-13 19:54:23
14966文字
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潮騒

若旦那ED。儀の最中に利腕を失ってしまい、儀を離脱するかたちで若旦那についていくことにした伊織殿とセイバー。


二、

若旦那の気の向くままに全国行脚を続け、ときには悪代官と悪徳越後屋を懲らしめたりしながら、京を抜けて摂津国まで通りかかる。そこで、いつもの若旦那の突発的な気まぐれが発動した。

「世界を征する旅路において、有馬温泉なる名湯に立ち寄らずしてなんとする」

古来より名湯として名を馳せ、江戸でも最高位の温泉として名高い有馬温泉である。蒐集家としてありとあらゆる『最上級』を追い求める若旦那にとって――もっとも、なんの『最上級』であるかの基準はまちまちであるようだが――そう言われてしまえば素通りするわけにはいかない、のはその通りである。
伊織とセイバーとて、温泉に立ち寄れる、と聞いて異を唱えるつもりも謂れも毛頭ない。先を歩く若旦那の背後でお互いに顔を見合わせ、軽く拳を突き合わせて喜んだ。







豪奢な大旅籠に宿をとり、二階のもっとも眺めのよい部屋に通される。伊織とセイバーで三人分の荷解きをする中、若旦那が悠々と窓辺に腰を降ろして外の風景を見下ろす。
眼下の渓谷を流れる河が激しい水音を立て、向かいの切り立った崖のさらに奥には山々が広がっている。湯治場を兼ねているというこの旅籠の敷地は広く、湯場もいくつもあるとのことだった。それらをひとつひとつ巡るだけで楽しめそうだった。

「イオリ、一緒に露天風呂に行こう」

セイバーがそう声をかけてから、はたと思い至る。――少しだけ眉根を寄せて、付け加えた。

「きみが――そうしたければ、の話だが」

伊織がセイバーを見る。ふ、と柔らかく微笑んだ。

「気遣い、痛み入る。……こうなってから何度か湯屋には行っているし、気にしていないよ」
……そうか」

目に見えてほっとした様子で呟き、セイバーが若旦那を見る。「さすがに当世では『旅館のあの空間』はまだ存在しておらぬか……」とぶちぶち零している彼に、「きみも来るか」と声をかけた。

「ほう、この我の玉体を直接その目に拝謁したいと。当然の欲求であるな。我は寛大ゆえ、臣下の願いは極力聞き届けよう。――と、言いたいところだが」

セイバーが何度か口を挟もうとしたのをすべて無視し、若旦那が言った。

「この旅籠の主人とこれから商談があるのでな。貴様らだけで行くがよい」
「商談?」
「部屋に飾る壺の伝手が欲しいとのことでな。大阪の商人と繋いでやるのだ」
「いつの間にそんな話を……

セイバーが呆れかえる。
伊織はと言えば、若旦那が『蔵』を所有しており、そこには無尽蔵の財が納められていることも知っているが、また一方で若旦那がこの諸国漫遊にかかる費用をその蔵からは一切捻出していないことを知っていた。こうして地道に行く先々で商いをし、莫大な富を産み出してはこうして最高級の旅籠に宿をとり、そこで更に商売をして実入りを増やしている。
――なんというか、恐らくは労働が趣味なのだろう。伊織自身は知らない単語だが、『ワーカホリック』という言葉の概念に近いものを脳裏に思い浮かべた。

「稽古ばかりしていないでちゃんと稼いできなさい!」と義妹にどやしつけられていた自分を顧みる。ううん、と左手で頭を掻いた。

「セイバー。……若旦那の邪魔にならないうちに、露天風呂へ急ごう」
「なんだイオリ、その言い方。――まあよい。なんだかイオリはワカダンナには弱いからな」

言いながら、セイバーが手拭いなどを抱えて部屋を出る。慌てて伊織も後を追う。
部屋を出る前に振り向くと、若旦那は手元の帳簿に何かを書きつけているところだった。静かに紙面に集中しているらしい横顔に軽く会釈をし、今度こそ部屋を出る。







都合のよいことに、露天風呂には先客は誰もいなかった。そもそも、価格帯も高く身分による利用制限もあるため若旦那御一行の他に宿泊客がいるのかもやや怪しいものであったので、こんなものなのかもしれない。
セイバーがさっと衣服をその場で脱ぎ散らかしてさっさと湯の方へと駆け出していってしまう。「こら走るな」と声をかけながら、セイバーが落としていった服を拾い上げて土埃を払い、きちんと畳んで棚に置く。
それから、自分の着物に手をかけ――ある筈のひっかかりもなくいとも簡単に右肩から落ちてしまう袖を見る。それからは、淡々と股引をゆるめてすべて脱ぎさった。
きちんと畳んで、セイバーの衣服の隣に置いた。

湯の方まで行ってみると、川辺に湧き出している源泉を岩で囲った簡易的な露天風呂だった。川から引いてきた水で湯を割っているようで、左手を浸すとやや熱いくらいで湯加減もちょうどいい。
かけ湯をして湯に浸かると、反対側の縁で川の流れを眺めていたセイバーが泳いで近寄ってきた。既に頬が上気しており、随分温まっているようだった。
「イオリ!」とはしゃぐセイバーに、伊織が窘めるように言った。

「きちんとかけ湯をしたのか? いきなり湯に飛び込んだら体に悪いぞ」
「したとも! それに私はその程度のことでは――ああ、影響を受けるのか」
「受肉しているからな」
「そうだった、そうだった。……あー、案ずるな、カケユはした」

本当かなあ、と思いつつ、それ以上の詮索はやめておく。
セイバーと並んで湯に浸かり、伊織も川の方へと目を遣る。向こう岸にそびえる崖の岩肌から細い滝が何本か流れ落ちているのを見つける。飛沫をあげる清流から冷たい風がこちら一帯まで吹き込み、のぼせるのを防いでくれるようだった。

……イオリ」

川の水音に掻き消えそうなほど細い声で、セイバーが呼ぶ。見下ろすと、伊織の右肩あたりをもの悲しげな目で見ていた。――ふ、と伊織が苦笑する。

「気にしているのは俺ではなく、むしろおまえの方だったな。一緒に風呂に入るべきではなかったのかもしれん」
「莫迦を言うな。私は――私はそんな立場にない。きみが気にしていないというのなら、私も気にしない」
「なら、それで頼む」
「おう」

言って、セイバーが黙る。だがややあって、ぽつりと言った。

「イオリ。……もしかしたらこんなことは言うべきでないのかもしれないのだが、川音だと思って聞き流してくれるか」
「うん」
「私は――きみの剣にかける情念が、ずっと恐ろしかったよ」

ざあざあと流れる水音が、まるで潮騒のように聞こえる。

「きみはきっと、いつかそれで身を滅ぼしてしまうのだと思った。いや……破滅――とは、違うな。
きっと、きみはその情念のまま皆を置いてきぼりにして、誰よりも真っ先に駆け抜けていって――そして、そらに帰ってしまうのだと。月に、渡ってしまうのだと」
「はは、まるで輝夜姫だな」

あまりにも自分には似つかわしくないと思えた情緒的な例えに、伊織が混ぜっ返す。すると、予想に反してセイバーが真摯な瞳のまま頷いた。

「そうだよ。――この地上の誰もきみを引き留められないのなら、そうだ」
――……
「だから」

水音が――潮騒の音が、大きくなる。

「きみがここに居続けてくれるためには――きみ自身のがもがれるほかに道はないのだろうと、そう思っていた」

セイバーが湯に濡れた手を伸ばす。そっと伊織の右肩に触れ、指先を滑らせる。いまだ縫い痕の目立つ断面の縁をなぞる。
傷口に頬を寄せて、慈しむように、惜しむようにそっと唇を寄せた。セイバー自身は知らない筈の、まるで西方の聖女が祝福を与えるようだった。

「こんなことを願ったことは一度たりともなかったよ。月に焦がれて飛び立つことばかりを夢見たきみが、そんなことを望む筈がない。
きみの望まぬ人生を強要して、ただ私が安心したいからってきみを地上に縫い付けるなんて。――だから、これはいけないことだ。いけないことなんだと思う。
きみに、こんなことを言うべきでないことはわかっている。けど」

セイバーが伊織の右肩に頭を乗せた。そのまま、体重をかけてもたれかかる。

「この生を選んでくれて、ありがとう。――もがれた翅を追わないでいてくれて、ありがとう。――ここに居てくれて、ありがとう」

伊織も、セイバーの頭の上に頬を寄せた。そっと顎を乗せると、セイバーが更に身を寄せるのを感じる。
湯は温かく、風は冷たかった。水音は、さらに大きく響く。――潮騒の音が響く。寄せては返す、遥かなる、あの湊の――