mishiadd
2024-07-13 19:54:23
14966文字
Public
 

潮騒

若旦那ED。儀の最中に利腕を失ってしまい、儀を離脱するかたちで若旦那についていくことにした伊織殿とセイバー。


三、

儀の最中、伊織はセイバーにねだられて鰻の蒲焼を何度か買ったことがある。
大した金額でもなかったし、手軽ですぐ満腹になるので、夕餉までの間セイバーに与えておくにはちょうどよかった。三本購入してセイバーに手渡すと、「ん」と当然の顔をして一本返された。勿論きみも食うだろう、と信じて疑わない顔をしていたので、そのまま口にした。

ふかふかと柔らかい肉に、濃厚で芳醇な醤油だれがよく染みている。噛んだそばから脂と共に旨味が染み出して、鼻から抜ける山椒のぴりりとした刺激で後味がよい。

ふむ、と伊織が感心していると、もう一本目を平らげて二本目に齧りついているセイバーと目が合う。にっと笑って、「美味いな!」と言われたので、「そうだな」と心から同意した。
実際、ここの店の蒲焼は美味いのだと思った。であるならば、贔屓にしようとも。
――仕入れた鰻の質が高いのか、たれの味付けが上手いのか。こんなに美味い蒲焼はいまだかつて食べたことがなかった






右腕を失い、ようやく歩き回れるようになって間もなくの頃、そういえば、と思い立ってあの鰻の蒲焼屋に行ってみた。
セイバーにも何か食わせてやらねばと思っていたし――あの蒲焼は伊織自身、味を気に入っていた。自分自身のためにも、なんらかの気分転換になるのではないかと期待した。

「イオリが自分から何か食いたいというのは珍しいな」
「妙だったか」
「いいや。喜ばしいことだ。きっとカヤも喜ぶ」

そう話しながら目的の蒲焼屋まで辿り着く。しばらく顔を見せなかった得意客に「おや」と店主が嬉しそうな顔をした後、伊織の右腕に気付いてぎくりとする。しかし詮索すまいと決めたのか、「三本ね」と何事もなかったかのように調理を開始した。
伊織が左手で蒲焼三本を受け取り、そのままセイバーに差し出す。セイバーが二本だけ受け取る。「まいどあり」と店主の声を背後に聞きながら、ふたりで歩き出す。

久しぶりの蒲焼だ。あのふわふわとした肉と、目の覚めるような芳醇な醤油だれの香り、山椒の辛さ。それらを想像しながら、一口齧る。



――味が、しなかった。



ぐにぐにとした食感に、水増ししてぼやけたような無味乾燥なタレの味。風味に欠けた、ただ舌に痛みだけが残る辛み。
驚いて蒲焼をまじまじと見る。屋台を振り向くが、店主は既に次の客の相手をしていた。「セイバー、」と思わず声をかける。今日の鰻は、なんだか変じゃないか? 今日の鰻は、はずれたか。
伊織が何か言う前に、セイバーが無邪気に笑った。

「うむ、やはり美味いな! あの店の鰻は美味い!」

「やっぱり今日もあの店にしてよかったな」とセイバーが頷いている。伊織が言葉を失う。――であるならば。――で、あるならば。



思い返してみれば、なんのことはなかった。どうして気付かなかったのだろう。

あの蒲焼屋の鰻が美味いのではなかった。儀が始まってからというもの、セイバーにねだられるままいつもの屋台で買う飯も、町人にお裾分けで貰うおかずも。
ただ夢のような虚ろな命をあと一日繋ぐためだけに口にしていた、まるで砂を噛むようだった自分で作った食事さえも
――どれも、ちゃんと味がした。ちゃんと食べ物の味がしたのだ。ただそれだけの話だった。だから、あの蒲焼屋が特別に美味しかったわけではない。――だから、あの蒲焼屋の味が落ちたわけではきっとない。

儀から離脱した今、すべてが元に戻った。だからこの蒲焼も、儀が始まる前の味に戻った。――伊織が元に戻った

なんのことはない。――ただ、それだけの話。

ただ、それだけ。







有馬の大旅籠に数日間滞在し、若旦那とも共に湯に浸かったりなどしながら――自らの肉体美については実演を交えながら散々講釈を垂れられたりなどしたが、他に宿泊客がおらず本当に助かった――温泉を充分満喫し、そろそろ次の目的地を決めようか、ということになった。

「元々貴様はこのあたりの出身ではなかったか」

何かを見透かしたような目で、若旦那が伊織に尋ねる。「ああ、そういえば」と初めて気が付いたように伊織が頷いた。

「師匠にはそう聞いている。俺自身には地理の記憶はまったくないのだが、確か――ここから少し南へ行ったあたりの海岸沿いの」

湊町――そう告げるのになぜか声が喉に引っかかり、言葉にできないまま伊織は口を噤む。セイバーも、目線を落としたまま特に何を付け加えるでもなかった。

「そうか」と若旦那が自分の顎を撫でた後、「では、次はそのあたりに向かうとする」と端的に言った。
「行くのか」と伊織が意外そうに片眉をあげ、「行くのか!?」とセイバーが慄いたような声で問う。

「もうとっくに廃村になっている筈だと聞いている。立ち寄って何か面白いものがあるわけでもないと思うが」
「そ、そうだとも! なにも、そんなところにわざわざ立ち寄る必要など――

素朴な疑問を口にする伊織の横で、だん、とセイバーが身を乗り出して猛反対する。それらを横目で見て、若旦那が静かに言った。

「わざわざ避けて通る方がおかしかろう。――世界を征する旅路だ、逃げることを許した覚えはない」

あ、とセイバーが口を閉じる。きょと、とらしくもなく大きな瞳を彷徨わせるセイバーに、伊織が「セイバー?」と声をかける。
「決まりだな」と若旦那が言った。

「朝餉ののちに発つ。――では、朝餉とするか」






粛々と部屋まで運ばれてきた膳の上には、魚の焼き物などの他に松茸と昆布の佃煮の小鉢が添えられていた。
いつもよりはやや大人しく食事をするセイバーの隣で、伊織が佃煮に箸をつける。少しすくって口に運ぶ。少量をとり、米に乗せて一口分をすくいあげ、口に運ぶ。
黙々と食べ続ける伊織に、セイバーが「イオリ?」と声をかけた。

「? なんだ、セイバー」
「それ」

セイバーが指さす。伊織が膳の上を見下ろす。魚や新香が半分以上残っている中で、気付けば佃煮の小鉢がほとんど空になっていた。

「もしかして、気に入ったのか? それ」
「うん?」

どうだろう、と思う。
――あの鰻の蒲焼のような衝撃も、感慨もない。ただ、なんとなく食べ続けてしまっている。――少なくとも、じゃりじゃりと味気のない何かを食んでいるのとは違った。

美味しいのか、イオリ」
――……

質問に答えられない。回答を知らない。あの儀の日々で感じたものとは違うことだけは確かだ。それでも。
――もしかしたらこれも、『美味しい』ということなのかもしれない、と思う。

凪いだ日々の、――凪いだ、優しい味
凪いだなりの、『美味しい』、味。

「イオリ。ええと、その……は、半分なら、やってもいい。小鉢の半分なら」
「やめよみみっちい。――主人! この佃煮を土産に貰うぞ! 用意せよ!」

はあい、と女中の声が廊下で聞こえる。
「ワカダンナ、きみはいいやつなのだな!」とセイバーが感嘆する横で、伊織が最後の松茸を箸で拾い上げて米に乗せた。箸で口に運ぶ。

米の温かさを、舌の上に感じた。