mishiadd
2024-07-13 19:54:23
14966文字
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潮騒

若旦那ED。儀の最中に利腕を失ってしまい、儀を離脱するかたちで若旦那についていくことにした伊織殿とセイバー。

噎せ返るような潮の香り。――屍山血河の生臭さをもすべて覆い隠して押し流す、あの湊の、あの夜の香り。







一、

視ていた結末とはやや違っていたが、まあ大筋は大差あるまいと考えて、若旦那はそれでよしとした。

そもそもが純然たる慈悲から言い出したことである。――この在り方ではどうにもつらいだろうから、であれば、自分の影響下に置いてやり、方々を連れて回ればそれなりに気が紛れて本人はいくらか呼吸が楽になるだろう、と。いってみれば、鎮痛剤を与えてやるようなものである。
常であれば気に入った道化に対してこのような堕落をみすみす与えるようなことは決してしない英霊である。どれだけ本人が生きづらく苦しかろうと、己が生を全うしてこそ道化であると考える。が、ルーラーという筐が多少なりとも思考回路に影響しているのか、此度の彼は慈悲深い。ついつい、手を差し伸べてしまった。

とはいえ、彼が見込んだ道化である。再三誘っているにも関わらず頑なに辞退するので――口では「この我の誘いを断るとは身の程知らずの痴れ者めが」と罵りつつ、内心では満足げに頷いたりなどしていた。――それが、事態が一変する。



他陣営との接触の折、伊織が右腕に大きな傷を受けた。



夜半になっても出血が止まらず、それどころか肘から先が満足に動かなくなっていたので医者に診せたところ、切り落とす他ないと言われた。
その頃には伊織の意識はなくただ高熱に魘されるばかりで、身内として呼ばれたカヤの承諾をもって処置を施すこととなった。
数日後、ようやく熱が退いて目を覚ました伊織は、二の腕の途中からが消失している自分の右腕の残骸と、「兄ちゃん、ごめん」と布団に突っ伏して泣きながら謝るカヤの姿を目にすることとなった。

宮本伊織は、盈月の儀を降りざるを得なくなった。

とはいえ、自分の命は健在で、サーヴァントもまだ現界している。
少なくとも、生き残った陣営のうちのいずれかが盈月を手にするまでは、セイバーは問題なくここに居続けるだろう。――そう、伊織が思った矢先のことだった。言い出したのはセイバーだった。

「ワカダンナについていってみないか」

きっとそれは――セイバーの、人間らしい、優しい心遣いの発露だった。
ある日突然、なんの前触れもなく、思っていたのとはまったく異なるかたちで、剣の道を断たれた。――なにか、代わりのものが必要だった。

しかし同時に、きっと若旦那についていくということは、セイバーにとってもあるひとつの覚悟を強いていた。

「セイバー。若旦那についていくということは、恐らくおまえは受肉するということだ。……おまえは、それでいいのか」
「ああ。――むしろ、助かる。少なくとも、私はきみの行く先を、見届けることができる」

その失われた腕とともに、剣ではない生を見つけるまで――少なくとも、今すぐに退去するわけにはいかない。であれば、むしろ好都合だった。

そこで、ふたりは巴比倫弐屋の門を叩き――長らく拒み続けてきた若旦那への仕官を受け入れたのである。







そうと決まってしまうと若旦那の行動は迅速だった。
一晩も経たぬうちに巴比倫弐屋を閉めてしまい、土地を売り払って旅費の足しにしてしまう。
「たわけが、素寒貧に自腹で旅支度を整えさせる我ではないわ」と伊織とセイバーの身支度を一式買い揃え、早々に浅草を旅立った。
カヤに別れを告げ損ねてしまったが、今生の別れというわけでもないし、最初に落ち着いた先で手紙でも出そう――と、駕籠に乗って先を行く若旦那の後ろを歩きながら、伊織とセイバーが頷きあう。







まずは関八州。それから京へ。ゆくゆくは日ノ本を出ることすら視野に入れ――それこそ、はるか西方の『うるく』なる地までふたりを連れて行こう、と若旦那が意気揚々と告げた。

「世界を征する旅路であるからには、もっともよい国であったウルクを見ずしてなんとする」
「『もっともよい国』?」

若旦那にしてはひどく曖昧な表現に、「ほう、」とセイバーが興味深げに訊き返す。

「それは、もっとも美しい国、ということか」
「無論、美しくもあった」

含みのある答えに、様子を窺っていた伊織も問答に参加する。

「では、もっとも価値ある国、ということか?」
「価値もあった」

頷きはするが、当は得ていないらしい。
セイバーと伊織が顔を見合わせる。「統治がよかったということか」、「豊かであったということか」と思いつく限りの形容詞を並べ立てたが、思ったような反応を得られない。
やがて、しびれを切らしたセイバーが「結局一体なんなのだ!」と急かすと、ふっと若旦那が含み笑いを漏らす。華美に切れ上がった目尻がわずかにゆるみ――遥か遠くを見るような、ひどく優しい顔に見えた。

「もっともよく生きた国だ。あれは、とてもよかった。――よいものであった」

何と答えていいかわからず、伊織とセイバーが再び顔を見合わせる。すると、すぐにいつもの鷹揚さに厳しさをにじませた目つきに戻った若旦那が、あっけらかんとして言った。

「まあ、どこかでは貴様らが直接目にすることもあろうよ。当世ではもはや石くれが残っているだけであろうが、それでも貴様らの足りぬ見聞にとっては見ないよりはマシであろう」

そこまで聞いたセイバーがぴんと来たようで、ししし、と意地の悪い笑い声をあげて言った。

「ああきみ、さては我らに自慢したいのだな? その『うるく』とやらを」

「なんだきみ、随分可愛らしいところがあるじゃないか」と大口を開けて笑うセイバーを「あとが怖くなるようなことを言うな、セイバー!」と慌てて伊織が諌める。ちら、と横目で若旦那を見遣ると、伊織の予想に反して――若旦那は、ふ、とかすかに笑うだけだった。肘をついた手の甲に頬をのせ、言った。

「かもしれぬ」

「ん、」とセイバーが笑いを引っ込める。「お、」と伊織もやや身を引いた。――それから、伊織が淡く柔らかい笑みを浮かべて言った。

「では、楽しみにするとしよう」

「ん」と若旦那が満足げに頷く。「フフフ」とセイバーが忍び笑いを漏らしたが、そこにはもはや少しの悪意も含まれてはいなかった。