【失笑の歌と蒼い月】終章B

一ページ目必読
※Ibパロ




────コツ。

そうやって落ち着きを取り戻しつつあったカンジだが、突然の靴音に再び動揺して振り返る。そこには立ち尽くすソウゲツの姿があった。気配は微塵も無かったというのに、手を伸ばせば届く距離にいた。その瞳は驚愕に塗れ、カンジだけを見つめている。

驚いたカンジが言葉を告げる、その一瞬前。


「そんなに自分を愛せないのか?」


ポツリ。呟きを雫のように溢して、カンジに手を伸ばす。思わず一歩後ずさり、カンジはソウゲツから逃れようとする。否、逃れようとしてしまう。それほどまでに、ソウゲツの目はギラついている。


「それなら、オレは」


カンジが一歩離れる度、ソウゲツが一歩近付いてくる。感情の伴わない空っぽの声に、じわりじわりと執着が滲む。カンジは何も言えないどころか、呼吸すら意識しなければ止まりそうな緊張感に拳を握る。


「今度こそ、オマエを愛させてみせる」


直感的に確信した。
彼は最初から、正気でなかったのだ。

意識するよりも先に、カンジは彼に背を向け駆け出す。彼に、ソウゲツに捕まってはならない。檻に入れられたが最後、正しい意味で永遠をこの場所で過ごすことになるだろう。

とにかく彼から距離を取ろうと、目的地も無く走る。後ろから追いかけてくる気配は無い。しかし追ってきていないわけがない。非人間であろう彼の気配を、カンジには察知できないだけ。


無意識に“覚えていた”のか、それともただの偶然か。カンジはカラッポのショーケースがある部屋とは反対方向に駆け、別の部屋への扉を認識する。

ドアノブを回し、乱暴に開く。電灯の点いている中を確認する間もなくそのまま走れば、大きな作業机に道を阻まれる。迂回するのも致命的な今、カンジは躊躇なくそれを飛び越える。そうして次に認識したのは、また別の部屋への道。そこに扉は無い、そこに光は無い。

グシャッ!

背後で何か、大きな物が潰れる音がする。ソウゲツが最短距離で追ってきている。それを確認する暇など、今のカンジにあるわけもない。薄暗い部屋に飛び込めば、そこは────黒い壁があるだけの、行き止まりである。

絶望に蝕まれるカンジだったが、瞬き一つして再認識する。黒いそれは、壁ではない。壁一面を覆うほど巨大な、一枚の絵画である。あまりにも乱雑かつ入念に黒で塗りたくられた絵画は、この場所とは違う雰囲気を放っている。裏側から裏側、即ち表側への道。
そうだ、そうだった。あの英雄に手を手を引かれ通ったのは、一方通行のこの《奈落》だ。再びここへ身を投げれば、自分はアチラの世界に出られる。今後こそ、本当の自由を得られる。


「ヒロを置いて行くのか?」


絵画に触れる一瞬前に、声が響いた。敵意や狂気は微塵も感じない、純粋無垢な疑問の言葉。片手で絵画に触れたまま振り向けば、離れた位置で立つソウゲツがいる。逆光で影になったその表情は、全く伺えない。


「な、にを」

「オマエが〈英雄譚〉を傷付けなかったおかげで、ヒロはまだ生きている。まだ人間に戻れる。それを捨てて、オマエは幸せになれるのか?」


友人であり恩人の名を出され、カンジは動揺する。ジワジワと、彼はカンジを声だけで蝕む。物理的なイバラよりも異質な言葉の鎖が、ソウゲツから這い寄って黄色に絡む。ゆるやかに縛ろうと、ソウゲツがまた一つ息を吸う。


「オマエが居れば、オレは幸福だ。ヒロが戻れば、オマエの未練も消える。そうだろう? オマエの憧れた世界は、ヒロが教えたモノだから」


ギシギシと、心が複数に割れ始める。自分は鳥籠で飼われたくない、けれどそれは友人を犠牲にしてまで得たいものなのか? 断じて違う。自分は何かの上で幸福にはなりたくない。
自分が我慢すればいや、元々我慢していたのはヒロとソウゲツだ。元に戻るだけ。正しく自身の半身が告げた通り、『あるべき姿に帰り、元の場所に戻るだけ』なのだろう。それでヒロは、彼は、人間は元に戻れる。


「オマエが戻ってくれるなら、ヒロを人間に戻す」


そんなたった一つの言の葉で、カンジの思考は答えを出す。絵画に触れていた手が、ソウゲツに向かって伸ばされた。