はるの
2022-08-08 23:31:37
54278文字
Public X-MEN
 

騒がしい海と愉快な寄り道

全年齢|cherik|2022.6.8|スカウト旅行中のエリックと、海とチャールズと5人のミュータントの話。



5. 世界中の人とつながる男


 セバスチャン・ショウに対抗するチームの人数は、せめて1桁に収める必要がある。集団戦闘に慣れている人材がいないため、あまり多くても統率が取れないからだ。
 つまり、潮時というやつだった。仲間は十分に集まっている。次のステップは戦闘訓練と、具体的な作戦の立案になるだろう。
 チャールズもそれは分かっているようで、今回の寄り道の目的は、「せっかくだし、最後だから」というふわついたものだった。エリックはもちろん却下しなかったし、確かに、せっかくで、最後だ。必要にして十分である。
 地図を見ることはしなかった。その場のノリと勘を頼りに、大西洋側へ迂回する。自然に富んだ景色が車窓に映りはじめてしばらくすると、行く先に海が見えてきた。どこに寄り道するんだ、というエリックの問いかけに、人差し指で自分の唇をむにむにと押したあと、夏らしいことひとつもしなかったし、やっぱりビーチかな? とチャールズが適当なことを言ったおかげだ。
「海~! って感じだね、エリック!」
 なだらかな砂浜を見やって身を乗り出し、非常にファジーな感想を述べる大学教授はちょっとない。素直にあきれた顔をすると、彼はきらっきらした表情のまま、今度はエリックのほうに身を乗り出してきた。
「浜辺行こう、浜辺。なんなら君は泳いでいい」
「夏はもう終わったぞ」
「僕が終わりと言うまでが夏だ」
「泳ぎたいならお前ひとりで泳いでこい。フリスビーくらいは投げてやる」
 大きなゴールデンレトリバーが波打ち際で飼い主に駆け寄っているのを横目にそう言うと、チャールズは思いっきり顔をしかめて体を戻す。
「フリスビーだけじゃ満足しないワン」
「おい笑かすな、人を轢いたらお前のせいだぞ」
「好きなだけ笑うといいよ。僕は海を満喫するからな。このチャンスは逃さない」
 むっととがった唇が底なしにおかしくて、エリックは真剣に爆笑した。どうにかこうにか、歩行者に注意して、駐車場はないかと車を進める。
 最後だなんて身構えないで、またふたりで来ればいい。
 その言葉は、何故か喉に引っかかって出てこなかった。



 青が濃い海だった。透き通る、というほど透き通ってはいないし、波も高い。けれど、レジャーで訪れる海水浴場、と聞いて想像するのと、だいたい相違ない海だった。よく晴れた空は風もさわやかで、さんさんとした太陽はあたりを照らし尽くしている。
 喜色満面で砂浜に降り立ったチャールズは、含み笑いをすると自分のこめかみに指を当てた。
 怪訝に思って彼を見るが、チャールズは上目遣いで『内緒』のジェスチャーをするだけである。そのうち、近くでサーフボードを抱えていた女性と、犬を連れて遊んでいた男性が、だんだんと波に押されるように離れていく。エリックが顔をしかめる頃には、近場にいた人物すべてが、不自然でない距離感で、少し遠くへ追いやられていた。
 その海に、チャールズはぱっと両手を広げる。
「さあ、僕らの海だ!」
「ひどい独占欲だな」
「みんなには内緒だよ」
 こういう、他人を押しのけて奪うような能力の使い方は、チャールズこそ忌避しているはずだった。けれど彼は、いたずらっぽい笑みを見せるだけで、そのまま浜を降りていってしまう。その楽しそうな足取りに、エリックは考えることをやめた。そもそも自分は、自分の力で押しのけて奪うことにためらいはない。
 チャールズが楽しく笑っているのなら、それでよかった。
「うわっ、すっごい砂入った。こんなに入ることある?」
「せめてサンダルくらいは調達するべきだったな」
「気取った靴で来てるの、絶対僕らだけだよ。断言する」
 うれしそうにそう言って、彼は豪快に靴を脱ぐ。傾ければさらさらと砂がこぼれ落ちてきて、チャールズは面白い顔をした。靴を振って砂を落とすと、今度は靴下を脱いで素足になる。
「小石を踏んだら痛いだろうな」
「足の裏まで皮が薄そうだな、お前は」
「面の皮は厚いくせに?」
「自分で気づいたのか、偉いぞ」
「エリックの足の指の間をカニがぎっちぎちに挟みますように」
「嫌な願掛けはやめろ」
 靴の中に丸めた靴下を入れ込んで、波にさらわれない程度の場所に置くと、浮かれた教授は見事に駆け出した。ばしゃんと豪快に波を踏めば、派手に水しぶきが飛び散って、彼のトラウザーズをまだらにする。そんな様子を眺めながら、エリックも同じように靴を並べた。砂が足の指の間を埋める感覚がおかしくて、もぞもぞとむやみに動かしてしまう。
 さてどうしようか、と思っていると、裾をまくり上げて子供みたいにばしゃばしゃやっていたチャールズが、勢いよく顔を上げた。
 そして、ものすごく、ものすごく、ものすごくうれしそうに、両手を差し伸べてくれるものだから、もはやエリックの行動は決まったようなものだ。
 軽く笑って歩いていけば、ぐいと腕を引かれて波を踏んだ。日差しにきらめいて穏やかに見えた海水は、けれど触れればはっきりと冷たい。
「すごく海を満喫してる気がする。僕の人生のうち、一番の満喫レベルだよ」
「浅瀬で突っ立ってるだけなのに? 学生時代に遊ばなかったのか」
「僕はねエリック、16歳で大学に入ったんだ。もちろん、海で遊んだ記憶がないわけじゃないけど」
「つまり、つまらなかった?」
「それなりに楽しかったさ」
「俺は、海で遊んだ記憶なんてない」
「これからは、そんなことを言って澄ましてられなくなるね、ざまあみろだ」
 チャールズは、ズボンが濡れても構わなかった。柔らかく目を細めて、紅潮した頬を丸めると、ざばざばと膝あたりまで浸かってしまう。
 エリックは、胸を張るように背を伸ばした。
 くるぶしあたりをすすいでいく渚は、波が高いせいかずいぶんとせわしない。青にも緑にも見える波間から、白く沸き立っては砂浜に壊れていく運動は果てしなく、飽きもせずに繰り返された。全身に浴びるような潮騒は、絶え間ないのにうるさすぎず、弱くない潮風は、肌の熱を奪い去って心地よい。確かに、はじめての感覚だった。こんなふうに海を感じるのは。
 チャールズはかがみ込むと、袖をまくって片手を海に突っ込んだ。そうして、真剣な表情で、海の底に目を凝らしている。そのうち顔が海面に近づきすぎて、次の波に頬を打たれた。わっとびっくりした彼は、慌てて立ち上がってよろける。風にもつれた髪の先を濡らして、その手からも雫がこぼれて、きらりと陽光が反射した。思わずといったふうに、自分のドジをおかしく笑って、エリックの親友は、いつもより赤い唇をぺろりと舐める。
 これからの人生で、海で遊んだ記憶を尋ねられたとき、真っ先に思い出すのはこの風景なのか。
 そう思うと、なんだかとてつもない気持ちだった。ほとんど呆然としてしまって、エリックはぼうっと目の前の男を見つめる。
「しょっっっぱい」
「何を見つけたんだ」
「カニかな、と思ったけど違ったかも」
「けしかけようとするのはやめろ」
 呆然としていても、これくらいの戯言なら返すことができた。
 べ、と舌を出すチャールズに、わざとらしく眉を寄せるのも、もう慣れたものだ。
 そうできるほど、この男はもう、こんなにも近い。



 突っ立ったままのエリックをつまらなく思ったのだろう、チャールズはにこりと含みのある笑みを見せた。
 ざば、と更に深みへ足を向けた彼に、エリックは顔をしかめる。足の甲を浸している自分と、膝上まで浸かったチャールズとの距離は、じわじわと開いていく。
「チャールズ」
「エリックもこっちに来なよ」
「帰りどうする気だ。まあ濡らしても俺の車じゃないからいいんだが」
「モイラが聞いたら怒るぞ」
「聞かれてないから言ったんだ」
「ふふ。ねえ、エリック」
「行かない。お前が戻ってこい」
「ねえエリック。エリック、エリック~」
「俺には大人の分別というものがあるんだ」
「ふーん? まあ、いいよ。だって、僕が呼ぶのをやめなかったら、君は結局来てくれるだろ?」
「お前から来いと言っている」
「譲らないな……。でもエリックは、本当はすごくやさしいから、僕がどうしても、どうしてもこっちに来てほしいって言ったら」
「チャールズ」
 ふらふらと波に揺られておぼつかない様子の彼に、エリックはぴしゃりと言い放った。まるでこちらを試すような言葉も、彼が浮かべている偽悪的な笑みも、ひどく気に入らなかったからだ。1歩も動かないまま、ほとんど仁王立ちで、青の中に惑う男をはっきりと見据えると、ふいにチャールズは真顔になった。
 まるで透き通るような、何の欲もない表情。
 次の瞬間、彼は何かを言おうとして――、同時に、大きな波にバランスを崩したかと思うと、ばしゃんとひっくり返ってしまった。
「チャールズ!」
 あまりの出来事に、エリックは一気に血圧を上げる。待っていられたのは2秒だった。3秒目には大きく足を開いて、ざばざばと海に入っていく。すぐに顔を出してもいいものなのに、チャールズの姿は海の中でいびつに揺らいだままだった。エリックはとっさに手のひらを向ける。腕時計の感覚を拾って引き上げれば、ざば、と腕が海を割った。何も考えず、駆け寄ってその腕を掴む。
 こんな浅瀬で溺れることはない、と考える余裕すらなかった。ただ彼を、彼がそのまま溶けていってしまいそうな海から、引き上げることだけを考えていた。
 だから、掴んだ腕を逆に掴まれて引っ張られても、その勢いで自分まで頭から海の中に転げ落ちても、鼻がつんとして口にしょっぱさを感じても、ほとんど抱き起こされるような形で海面から顔を出しても、仕掛けてきたチャールズが、腕を掴んだままの至近距離で、目いっぱい笑っていても、エリックには何が起こったのか分からなかった。
「あはっ、エリック――、引っかかってくれてありがとう。さすがにここまで身を挺してリアクションがなかったら、いよいよ拗ねてアトランティスに帰るところだった」
 膝立ちの状態で、胸まで海に浸かったまま、チャールズはそう言って愉快に笑う。びっしょりと濡れた髪は、毛束をこめかみに貼りつかせていて、したたる海水が頬からとろとろと首筋をたどっていた。見つめるまなざしも海に濡れていて、目じりは少し赤くなっている。エリックは無意識に、自分の口の中のしょっぱさを、ぞろりと舌でなぞった。
 細かなしずくをまつげに乗せたチャールズは、うれしそうに口元をほころばせて、そっとこちらの前髪を額から指で払う。
「エリック」
 舌の動きまで甘やかに、まるで溜息のように、名前を呼ばれて。
 その瞬間、爆発的な激情がエリックの全身を貫いた。絡まっていたチャールズの腕を振り払って立ち上がり、大股でざばざばと浜へ向かう。かつてない心境だった。もしくは、今まで我慢して我慢して我慢してきたものを、決壊させてしまったようだった。ほとんど憤怒でできていて、けれど確実にそれ以上の何かだった。手あたり次第、世界中、すべてのものをぶち壊して回りたい。そうして最後に自分も壊して、たとえばあのはじまりの日のような土砂降りの真ん中で、うんと傷ついた彼の柔らかい腕に抱かれて葬られてしまいたい。
 エリック、と慌てたように追いかけてくる気配に、エリックは大きく息を吸った。周囲に誰がいようと構わなかった。
「お前は人を思いどおりに動かすためならどんなこともするのか!」
 渚を抜けて靴を拾い、そのままずかずか歩いていく。一瞬、動きを止めたチャールズは、何も言わずに追いかけてきた。このまま車に戻るわけにもいかないので、とりあえず砂地を進んでいく。
「そうだな、お前は人が溺れないためなら、平気で人の頭に入って勝手に記憶を覗くんだった。人を驚かせるためなら平気で頭に入って体を好きに動かすし、ハイと言わせたいときはハイと言わせ、忘れさせたいことは忘れさせる。それをためらわないやつだった!」
 言いながら、エリックはこれでもかと眉を寄せた。言いたいことはそんなことではない気もするが、ほかに言えることがない。自分が何に苛立っているのか分からないのも苛立つが、とにかく、チャールズの思いどおりになることすべてが嫌だった。
 彼の思いどおりに、自分が、甘く、やさしくなってしまうことが――
「お前は、他人を思いどおりにする。それがどんなに残酷なことか、お前はちっとも分かってない」
 ふいに腑に落ちて、エリックはもう、ほとんど泣き出してしまいたくなった。
 ゆっくりと歩みを止めれば、背後の気配も同じように立ち止まる。おそるおそる、窺うように抑え込まれた雰囲気を肩越しに感じて、エリックは手のひらで目元を覆った。
 チャールズが望むように振る舞うのが恐ろしいのではない。
 チャールズが望むように振る舞いたいと思う自分が恐ろしいのだ。
……エリック。僕はテレパスだから」
 息をのむような沈黙を破って、背後から聞こえてきたのは、やたらきっぱりとした声だった。
「君が僕の思いどおりに動いているのか、僕は分からない。そう、確かにね、僕にはちっとも分からない」
 顔を上げて振り返れば、ずぶ濡れのチャールズはにこりと笑う。邪気のない、人好きのする、彼の武装した表情だった。
「僕のコントロールは〝ちゃんと〟完璧で、僕の周りの人たちは〝ちゃんと〟僕に好意的で、君は〝ちゃんと〟君自身の意思でここにいる、と理由なく無邪気に信じることだけが、僕にできる唯一のことだ」
 冷たくはなく、けれど温かくもなく、事実だけを述べるようにそう言って、チャールズはこちらの背中をぽんと叩く。
「だまして悪かったよ、エリック。ちょっとおふざけが過ぎたね。僕はときどきレイブンに、おおらかすぎて無神経まである、と叱られることがある。向こうのサーフショップに寄ってみよう、着替えさせてくれるかもしれないし」
 そのまま歩いていく彼の落ちた肩を少し見つめてから、エリックも歩き出した。



 ずぶ濡れの客が訪れるのは珍しいことではないのか、サーフショップの店員にさほど驚いた様子はなかった。ただ、砂まみれの靴は二度見したし、財布からびしょびしょの紙幣を出したときはものすごく嫌そうな顔をした。無理もないが、仕方もない。
 困り顔で謝り倒したチャールズは、こういうとき、あまり遠慮しなかった。必要以上に重ねた紙幣でもって彼女を懐柔すると、売り物のタオルを首尾よく手に入れる。店に迷惑がかからない程度に体を拭いてから、今度は更衣室を借りて着替えた。場所柄、アパレル商品は、Tシャツとハーフパンツが主である。ビーチサンダルを履いて更衣室を出ると、そういう格好も似合うよエリック、と茶化すような笑みを投げてきたチャールズも、まったく見慣れない格好をしていた。濡れた服は購入したビニルバッグに突っ込み、ぶら下げて店を出る。
 吹きつける海風は、濡れたままの髪を落ち着きなく乱した。汗臭いような、潮臭いようなにおいがして、エリックはとある漁港で嗅いだ海のにおいを思い出す。そのとき、チャールズが言ったことも。
 隣で歩くチャールズは、まっすぐ車に向かっているようだった。もう帰るつもりなのだろう。そう考えながら、濡れ髪のかかった丸い耳を見つめる。
 自分の発言は、彼が気分を害すのに十分なものだった。身勝手な八つ当たりだが、言葉を撤回したくもない。彼への好意を理由に自分が変異してしまうのが恐ろしいのは本心で、自分にも相手にも、釘を刺しておきたかった。だとしたら、彼の行動は至極真っ当なものだ。自分が激高したように、チャールズも激高していいくらいである。
 けれど、彼に言われるまで、きちんと考えたことはなかった。はっきりと目に見える形で発現しない能力と、彼のことを。
 この小づくりな頭の中にある現実と、強大な力をふるう割に、小さな肩をした彼のことを。
 こいつはひとりなんだな、とエリックは思う。
 君はひとりじゃない、なんて言うくせに。
 世界中の誰ともつながるくせに、世界中の誰よりひとりなんだろう。
 誰よりも人が好きなのに、彼が本当の意味で自由になれるのは、きっと誰もいない世界なのだ。
 ふいにエリックは、遠い遠い沖合の、深く澄んだ青に包まれて、はかなく揺れる小さなボートを夢想した。そこにただひっそりと横たわり、穏やかに目を閉じて眠るチャールズがいるとする。
 目を開けた彼は身を起こして、輝く青を視界に入れる。そのとき、彼は落胆するだろうか。それとも、きれいに微笑むのだろうか。
 乗ってきた車までたどり着くと、チャールズは素直に助手席へ回った。彼は気を散らすことが多く、あまり運転には向いていない。きっと周りに注意を向けると、自然と心の声も聞いてしまうからだろう。そう、彼が言ったわけではないが。単純に、反射神経が鈍いだけかもしれない。
 ビニルバッグと靴は座席の後ろに放り込んで、エリックはどさっと座り込んだ。ほとんど同時に似たような音を立てて、チャールズも座り込む。
 そして、ふたりは力いっぱいドアを閉めた。
 車内には熱がこもっていたけれど、あの漁港でしたように、ドアを全開にしておかなければならないほどではない。どんなに移ろいを渋っても、いつまでも夏の日にはいられない。
 エリックは、チャールズがときどきするように、自分の唇を舐めてみた。そうしたらちょっと、なんだか笑えてくるような、泣きたくもなるような、言葉にできない感情に押しつぶされる。だってそうだろう、ほんの小1時間前まで、ふたりして浮かれた調子で、これが最後だからと言い訳してはしゃいで、本当に普通の、仲の良い友人同士みたいだった。きっと何事もなければ、そのまま帰って、何もかも終わっていたに違いないのだ。
 きっと何事もなければ、チャールズのわがままも、孤独も、濡れた髪も、今ここにはなかった。
「チャールズ。俺はお前の言いなりにはならない」
「言いなりになってほしいなんて思ってない」
 フロントガラスを見つめながらはっきりと言うと、同じだけはっきりとした返答がある。隣を見れば、彼は同時にこちらを向いた。
 自分が自分らしくあろうとすれば、いやおうなしにぶつかることになるだろう。こいつの甘さとやさしさは、まるで毒のようでもある。
 ――けれど、それでも。
「お前の考え方にはときどきぞっとすることがあるし」
「分かってるよ」
「俺は絶対に、考えなしにほいほいついて行くようなことはしない」
「分かったよ! もう、何なんだ、喧嘩を売っているのか?!」
 強い言葉を続ければ、静かな口調だったチャールズは、あっけなく声を荒げる。
 それがまるで無防備で、エリックはわずかに口角を上げた。
 彼のわがままも、孤独も、濡れた髪も。
 どうにかして、いつまでも見ていられないだろうか。どうにかして。
「売っている。だから、買ってくれ」
「あのねえ」
「お前だけに買ってほしい」
「は――
「お前だけだ、チャールズ」
 ゆっくりと、大切なものをなぞるように唇を動かすと、チャールズは口を開けたままフリーズする。
 見開かれた双眸はほとんど焦点が合っていないように見えて、彼がその優秀な頭の中で、何かを一生懸命考えていることは窺えた。
 うまく伝わらなかっただろうか。エリックはそう思って首を傾げ、少し考えてから補足する。
「お前のように生きたくないが、お前なしでも生きたくない」
 チャールズはほとんど息をしていなかったし、陽を透かす虹彩は相変わらず美しくて、見ていて飽きなかったし、そこにただ自分だけを映して、自分の言葉でいっぱいいっぱいになっている姿は大変気分がよかったので、エリックはもう黙ることにした。
――君って」
 やがて、チャールズは意図せずぽろりとこぼしてしまったように、そっと息を吐く。
 そのときの、彼のなんともいえない笑みは、ほとんど見事にエリックの胸に焼きついた。
 うれしさや、さみしさや、あきらめや、いとしさや、そんなこの世すべての感情を放り込んでごちゃごちゃに混ぜたような、この世でただひとつの笑みだった。



 おなかがすいた、とさえずりはじめたチャールズのおかげで、エリックは軽食店への寄り道を余儀なくされた。のんびりとしたスピードで車を走らせながら、道沿いに看板を探していると、助手席の男は元気に大きなあくびをする。いい気なもんだなと鼻白んでいると、彼は勝手にラジオをいじりはじめた。眠気覚ましとでも言わんばかりに、つまみをひねって陽気なナンバーを探し当てる。
 馬鹿みたいに派手で大げさなプリントのTシャツを着て、わずかに頭を上下させている口元はゆるんでいて、座席でこすれた後ろ髪はくしゃくしゃになっていて、そんなチャールズは、なんていうか本当に新鮮だった。
 あまり気を散らせると、運転を代われと強硬に主張できなくなるので、エリックは努めて前方に注意する。そのうち、彼からも観察するような視線を感じたが、リアクションは取らなかった。自分だってきっと、同じくらいの新鮮味を彼に与えていることだろう。
「エリックってさ」
「なんだ」
 弾むようなロックに交じって、ぼんやりとした声が転がる。特に真剣な色合いもなく、何の気なしに、ちょっと思いついたみたいに繰り出されるチャールズの話に応えるのは、いつだって楽しいことだった。
「僕のことどう思ってる?」
「奇妙な男だな」
………
………
……え、それだけ? もっとこう、あることない? こう、大親友だよ、的な」
「お前のそういう、いけずうずうしいところは嫌いじゃない」
「えぇ……、だって僕ら、喧嘩はするけど、結構うまくやってるじゃないか」
「俺たちは友だちだよな、と相互に確認しなければ自信が持てないタイプか?」
「いや、そこはまあ、テレパスで読めばいいことだし」
「いけずうずうしいな……
「そんな僕が好きなんだろう、悪趣味だぞ」
「チャールズ」
「なんだよ」
「ああ――、いや、ただ、そうか。この名前ももう、すっかりお前のものだな。俺にとってチャールズは、ダーウィンでも、ドッドソンでもない。きっと死ぬまでエグゼビアだ」
……それは、僕のことをどう思ってるかの答え?」
「少ないと言うから真面目に考えてやったんだろうが、不満か」
「いや、不満っていうか……、はじめてだよ、こんな愛の告白は」
「英語が通じていないのか? 愛を告白したつもりはない」
「いや割とすっごいこと言ってるよエリック、英語が通じなくなったかと思った」
 軽食を提供してくれそうな店を発見して、やや混雑している駐車場に車を入れる。ドライブスルーができればよかったが、そういうシステムはなさそうだった。テイクアウトでさっさとずらかろう、と考えながらパーキングに入れて、エンジンを切る。そしてほぼ同時に、チャールズが奇声を発した。
 何事だ、と彼を見れば、しょぼくれた顔で自分の腕を見下ろしている。正確には、彼のつけている腕時計を。
「ヴァ……、止まってる……
「見てやろうか」
 時計の構造には詳しくないが、明らかに水没させたせいだろう。部品が生きているか確認しようと時計に向かって手をかざすと、チャールズは慌てたようにもう片方の手で文字盤を覆って、わき腹あたりに隠してしまった。むっとした顔をすれば、彼もむっとした顔を返してくる。
「人の親切を」
「時計だぞ、時計。そんなに安くもない時計」
「お前……、まさか、金持ち御用達の馬鹿高いやつを」
「そんなに高くもないよ! まあ、でも、自業自得だ」
 そう言うと、チャールズはそっと腕を戻して、蓋にしていた手をどけた。
 少し掲げて見つめてから、彼はにやりと得意げに笑って、あざとい上目遣いを向けてくる。
「あの時間で止めておくよ。そうしたら僕は、この時計を見るたびに、君のことばかり思い出すんだろうな」
 そんな浮かれた声音を残して、チャールズは勢いよく車を出ていってしまった。
 エリックは深々と溜息をついて、キーを抜き取る。



 チャールズに対して思うことは、その場その場でさまざまだ。
 とてつもなく生きづらそうなこの男を守らなければならない、と思ったそばから、厳しめにはたいてもいいんじゃないかと思うときがあるし、まるで不安げな背中を見せていると思えば、誰よりもふてぶてしく無神経であったりする。くるくると変わる表層は、もちろん、彼のコントロール下にあるものが大半だろう。彼は子供のような動作をすることもあるが、決して何も知らないわけではない。
 けれど、そのうちのほんの少しだけは、無自覚な素の表情がまぎれているようにも思うのだ。彼の本質の正体は、波間に見え隠れする何かのように、ちらちらしていて落ち着かない。
 いつか本当に我慢ならなくなって、飛び込んでしまうかもしれないな。そんなふうにエリックは思う。飛び込んで、手を伸ばして掴んでみたら、ただのゴミかもしれないし、そのまま溺れてしまうかもしれないけれど。
 ――まあ、溺死するならしたときだ。そもそも彼がいなければ、自分はあの夜の海でそうなっていたはずだった。
 エリックはどちらかというと、思いきりがいいたちである。あっさりとそう片づけて、店のレジカウンターから持ち帰り用の袋を受け取った。店員の軽い笑顔とともに、ほかほかとしたサンドイッチの重みを感じながら、これをあれこれ言って選んだ張本人を視界に入れる。
 待っている間を暇に思ったのか、チャールズは邪魔にならない程度に店内をうろついていた。そして今は、窓際の席の端で、ときどきこめかみに触れながら、楽しく女性と語らっている。いけずうずうしさを褒めるんじゃなかったな、とエリックはちょっと後悔した。いや、かけらも褒めたつもりはなかったが。
 頭を抱えたい気分を持て余しつつ、エリックは壁に貼られている鏡に自分を映した。自然乾燥に任せた髪はほつれぎみだが、さっとまとめれば如才ない。振り向けば、何かを得意げに講釈しているチャールズのくせっ毛が目に入って、思わず吹き出すように笑ってしまった。毛先を遊ばせるどころじゃなくなっている後頭部に、彼は気づいていないらしい。
「チャールズ」
「あ、エリック」
 歩み寄って呼びかければ、楽しそうな表情のまま、チャールズは顔を上げた。窓際の明るい日差しのおかげで、こちらを見つめる澄んだ虹彩は、ほとんど輝く海のようだ。
 自分が死にゆくものと言い、彼が生まれるものと言った、あの海。
……あの」
 じっと見つめていると、小さな声が遮ってくる。困ったような女性を見やって、エリックは目じりをゆるめて微笑んだ。控えめに、けれど誘うように。わざとだという自覚はある。女性はぼうっとこちらを見つめたあと、チャールズからエリックに向き直った。そして、チャールズと話していた話題をダシに、どこから来たのかと尋ねられる。
 エリックが口元を押さえて笑うと、チャールズは押さえていたこめかみを指で引きつらせて目をとがらせた。
「どうしたチャールズ。こめかみが痛むのか?」
「ああっ、もう! 世の中ほんと間違ってる」
「それを正しにきた、マイフレンド」
「今日はもう帰るだけじゃないか。寄り道してこその人生だろう、そんなんじゃ見つかる楽しみも見つからないぞ」
「もう見つけたからいい。帰るぞ」
 ぽかんとした様子の女性に肩をすくめて踵を返すと、背後からごめんねと女性に謝るチャールズの柔らかい声が聞こえてくる。構わず歩いて店を出れば、小走りで寄ってきたチャールズに肩と肩をぶつけられた。少し高さが違うので、彼はぴょんと跳んだ形だ。
「見つけたからいい、ってなに」
 むっと唇に力を入れているチャールズは、わざとらしく上半身を曲げて、こちらを覗き込むようにした。エリックは澄ました顔で、まっすぐに歩いていく。
「お前が俺の寄り道だ」
「うーん、この。君ねえ、そういう実直さはある意味凶器だって、あ、その顔。なんだその顔! 分かってやってるな……、なんてやつだ。それとも皮肉のつもりかな? ようし、受けて立つぞ」
「俺はお前ほどひねくれちゃいない」
「言ってくれるね、マイフレンド」
 ともあれ、ノーパンでうろついた挙句ナンパをするなといさめれば、チャールズは景気よく吹き出した。