はるの
2022-08-08 23:31:37
54278文字
Public X-MEN
 

騒がしい海と愉快な寄り道

全年齢|cherik|2022.6.8|スカウト旅行中のエリックと、海とチャールズと5人のミュータントの話。



2. 触れたものを戻す青年


 どうもエンジンのかかり悪いぞ、という状態に見て見ぬふりをして、しばらく。
 とうとうガススタンドで15分ほど試行錯誤する羽目になったので、一度車を修理に出そう、ということになった。
 あ、それじゃあ、と目を輝かせたチャールズは、助手席から颯爽と地図を開いてみせる。
「この町に寄り道しよう」
「見えない。どこだ」
「ここ」
「遠くないか……、生き延びるか微妙だな」
「死に絶えたら、エリックが持っていく係ね」
「エンジン音もなくタイヤも回っていない車が国道を滑っていくことになるが?」
「内燃機関をわしわしっと動かせない?」
「無茶苦茶言うよな、ときどき、お前はほんと」
「かっこいいエンジン音が聞こえるような気にさせるのは僕の係でいいから」
 無邪気に地図を掲げてくるチャールズのフェイルセーフ案に渋い顔をすると、彼は楽しくて仕方ないという表情になった。
 基本的にエリックは、チャールズにこんな顔をされてしまえば、黙る以外にできることがほとんどなくなってしまう。なんとなく、やつはそれも分かってやっているようなので、非常に腹立たしい限りだった。チャールズは、どんな困難も乗り越えられると信じている。そんな楽天的でよく今まで生きてこられたなと思うのだが、そもそも育ってきた環境が違いすぎるのだ。ごくまれに、そのことに心底驚いて、強烈にいたたまれなくなることがある。
 幸運にも、ふたりは不穏な音を立てる車をまともに運転した状態で、その町にたどり着いた。



 交差点で信号待ちをしている間、こめかみに指を当てて目を閉じているチャールズを見ていた。しばらくすると、彼はちらりと片目だけをこちらに寄こして、生意気そうな笑みを浮かべてくる。
「観覧料を取ろうかな、儲かりそうだ」
「その指を置くのは、集中するためか?」
 信号が変わるのに気づいて、車を出した。チャールズは慣性に任せて、どさっと背もたれに倒れ込む。
「この先の通りを右。あのへんの倉庫街の、少し手前のほう。隣にカーディーラーの店があって、やたら車が並んでる」
「行けば分かるか」
「分かる」
 エリックはチャールズの言うとおりに車を走らせた。倉庫の向こうからは、少しマットな色合いの海が見えてくる。地図上だと、この地区の海岸はほとんど直線でできていた。見るからに埋立地で、用途は主に工場だった。
「エリックだって、手を使うじゃないか」
 一瞬、何の話か分からなくて助手席を向く。チャールズは何でもない表情で、つまらなさそうに車窓を眺めていた。
「集中するためだ」
「分かりやすくするためだよ」
「なに?」
 今ひとつつながらない会話に眉を寄せているうちに、ぴかぴかで値札つきの車が何台も見えてくる。その向こうに自動車修理工場を見つけて、エリックはハンドルを回した。小さな町工場のおもむきだが、中には大型のジャッキがしつらえられていて、作業服の青年が缶コーヒー片手に休憩している。
「ここに指を置いていると、みんなは僕がテレパスを使っていると考える。それってつまり、僕が指を置いていなければ、テレパスを使っていないと思い込んでくれるんだ。本当はそんなことないのにね」
 こちらに気づいた青年が飛び出してきて、中の駐車場まで誘導してくれた。エリックは正直それどころではなかったが、作業服の掛け声に合わせてギアをバックに入れる。
 後ろを確認するついでに、チャールズの座るシートに片腕をかけた。思わず数秒、そのまま彼の横顔を見つめていると、こちらを向いた彼は鼻先でにやりと笑う。
「君から巻き上げる観覧料で生活ができそう」
「お前の力は恐ろしいと思うが、お前自身を恐ろしいとは思わない」
 なかなかバックしてこない車をきょとんと待っている青年に手を振って、エリックは指示どおりに車庫入れを行った。ストップの言葉に停車してエンジンを切り、もう直さない限りかかることはないだろうと思いながらキーを抜く。エリックはそのまま外へ出ようとして、ドアを半分開けたまま振り返った。
 チャールズが顔をくしゃくしゃにしかめて、仏頂面のような何かを作ったまま、微動だにしなかったからだ。
「おい、ついたぞ」
「君は、なんていうか……、何? この……、何?」
「何がだ。迷惑だから早く出ろ」
「こういう君のそういうあれは本当にすごくそう」
「指示語が多い。チャールズ、お前がここに来たがったんだろう」
「はいはい、分かったよ。まったく、手のかかる坊やだな」
「自己紹介か?」
「そうやって好きに言ってればいいよ」
 チャールズはごちゃごちゃ言いながら虫を払うように両腕を振ると、勢いよくドアから飛び出した。手がかかるなと思いながら、エリックは軽く溜息をつく。こんな面倒なことに対してかけらも悪感情が生まれないのは、もはや神秘と呼んで差し支えないようにも思えた。
 近寄ってきた作業服の青年に、チャールズは快活な挨拶を投げる。それからふたりの視線を受けて、エリックはキーを差し出した。車の状態を伝えるのはもっぱらチャールズで、青年はふむふむと熱心に話を聞いている。見た目だけなら、ただの人間のようだった。
「点検しますので、2時間くらいもらえますか」
「いいとも。よろしく頼むよ」
「はい。あ、この通りのあっちのほうに喫茶店があるので、よかったら行ってみてください」
「ありがとう。けれど少し、ここで君と話してもいいかな」
――えっと、俺と?」
「そう。君ならものの数分で、あの車を昨日の状態に戻せるだろうけど、あいにくとあいつは昨日も調子が悪かった。たぶん、時間はかかるから、作業の片手間に少しだけ。どうかな?」
 チャールズは小さな肩をぴょこんと動かすと、にっこりとかわいらしい笑い方をする。
 そんな、技術と鍛錬によって培われたのだろう『人好きのする態度』になかば感心していると、整備士の彼はぽかんと口を開けて、それしかできなくなったように立ち尽くした。



 チャールズはおもむろにこめかみに指を押し当てる。すると青年はびくんと体を揺らして、忘我の淵から帰還した。きょろきょろしながら怯える様子は小動物のようで、いったいテレパスで何をしてるんだか、とエリックは腕を組む。
――というわけ」
「テ、テ、テレパス……?」
「うん。あとは、そうだな。僕も自動車の修理ができるよ」
 唐突にそう言って、チャールズは空いているほうの手を自分たちの車にかざした。それがバンパーのへこみ――先日チャールズがやらかしたやつ――に向けられていることに気づき、エリックは眉を持ち上げながら少し体をずらす。
 すると、まばたきの間にへこみがなくなって、青年は目を丸めて驚いた。
「直った!」
「ところが、僕に直せるのは見た目だけだ」
 チャールズがそう言うやいなや、再び視覚野は無残な現実を映し出す。ぱっと両手を広げて肩をすくめる彼は、ものすごく楽しそうだった。
「あの、ここもついでに直しますよ」
 青年は再度驚いて、それからおそるおそるそんなふうに申し出てくれる。このあとの展開が分かって、エリックは溜息をついた。チャールズはあざとい笑みを作ると、近寄ってきてこちらの肩にぽんと手を置く。
「ありがとう、君の申し出に感謝する。けれど、これを直すのは彼の役目だ」
「お前が心から反省するように、という俺の気配りを無駄にする気か」
「気配りだって? 陰湿なんだよ君は。僕はもう十分に反省した」
「そうであってくれと心から祈る。もうコンクリに突っ込むのはなしだぞ」
 エリックはそう言って、バンパーに手をかざした。滑らかになるよう調整して、ぽこぽこと金属を整形していく。したくてやったわけじゃない、とチャールズはぶつくさ言いはじめたが、整備士の男は再三驚いて、ぽっかんと大口を開けてしまった。
「す、す、すごい。直っ……、え? 直ってます?」
「うちのテレパスが混乱させてすまない。今度はちゃんと直っている」
「なんでエリックが謝るんだよ、腹立つな」
「ものの形を変えられる……?」
「いや。俺は金属を操れる」
「天職……!!!」
……いや、まあ、整備士ならそうかもしれんが」
 ややふわついたテンションで意気込まれて、エリックは少しだけ身を引く。ちなみに少しで済んだのは、普段から華々しいテンションの男がいつも隣にいるおかげだ。ちっともありがたくない慣れが自分の中で育っていることにちょっぴり遠い目をしていると、青年は心配そうな顔を向けてきた。
「あ、すみません。あまりにすごくて……、疲れてないですか? 大丈夫?」
「疲れる?」
「え、疲れませんか? 力を使うと」
「疲れる……、か? 能力をひりだそうと自分を追い込んでいるときは、確かに疲れるが」
「ストイックも度を超すとマゾヒズムだぞエリック」
「お前の多い一言を集めて売れたら俺も億万長者になれるだろうな」
「あーあ、素直にぎゃふんと言ってくれる素敵な友だちはいないかなあ~!」
「そんなのは友だちじゃないだろう」
「え、すごいデレが来た……、聞いた? 今の?」
「デレじゃない」
 すっかり油断していたせいか、うっかりふたりで脱線して、自分たちのろくでもない会話にくすくすと笑う青年の声で我に返る。チャールズも同じようにはっとすると、とほほと言わんばかりにごまかすような笑い方をして、やさしく青年と目を合わせた。
「確かに、僕も疲れるよ。あまりにたくさんのことをやろうとすると」
「それなら、やっぱりすごいんだと思います。おふたりとも」
 青年はそう言うと、ざっとあたりを見渡して、空の缶コーヒーを持ってくる。そしてそれを両手で包んで、10秒、20秒、30秒――、1分すぎたくらいだろうか、急にぺこっと音がした。見れば、開いていたはずの飲み口が、ぴたりと新品のようにふさがっている。
「これくらいの大きさなら、ましなんですけど。でも、ちょっと息は切れます」
 にこりと笑って掲げてみせる整備士から、エリックは缶を浮かせて取り上げた。重みがあり、振ればぱしゃぱしゃと音がする。飲み干されて捨てられていた缶コーヒーは、まるっきり買ったばかりの状態に戻っていた。すごいな、と素直に思う。
「触って念じると、触ったものが昨日の状態に戻る。それが、俺の能力です。ものが大きすぎると、ちょっと無理ですけど」
 そう説明した青年の笑みは、眉尻が下がっていて、なんだか困っているように見えた。



「やっぱりちょっと、スカウトはできないだろ?」
「まあ、そうだな。時間もかかるようだし、使い方が難しい」
「CIAは欲しがるだろうけどね。破損したデータとか戻しちゃうだろうし」
 結局、ふたりが話していたら青年の仕事もなかなか進まないようだったので、約束どおりに時間をつぶすことにした。勧められたカフェへ行く前に寄り道をしよう、と言い出したのはもちろんチャールズで、ひと気のない倉庫街をふたり並んでぶらついている。
 雨の気配はないが、曇り空だった。強い風と相まって、寒くはないが暑くもない。海沿いの道は広く取られていて、欄干がまっすぐ続いていた。チャールズは顔にかかる髪をときおりすいて、穏やかに笑みを浮かべている。
「そういえば、エリックは海のにおいが嫌いだったな」
「嫌いじゃない。好きでもないが」
「それってほとんど嫌いってことじゃない? 君、そんなに嫌いなのに、身ひとつで飛び込んで、落とされてもめげなかったんだ」
「飛び込んだ?」
「僕たちが出会ったとき」
 そう言われて、エリックの脳裏にあのときがフラッシュバックする。全身にかかる水圧の重さと、いかりの重さ。口の中のからさ。塩と死体が混ざったような海のにおい。烈火の憤怒と、苛烈な焦燥と、突然のチャールズ・エグゼビア。
「お前は好きなのか」
「何を?」
「海を。お前も身ひとつで飛び込んだ」
「どうだろう。好きかどうかなんて考えたことない。僕が好きでも嫌いでも、海はそこにあるものだし」
 けれど彼は、死んだにおいがすると言ったエリックに対して、これは生まれるにおいだと言ったのだ。そのまなざしは悪意ではなく好意そのもので、彼はいつでもそうだった。彼はいつでも、たまたまそこにあったものでも、よいものとして捉えるのだ。それが海でも、ゴミでも、エリックでも、彼はあるものをよしとする。
「でも、君と見る海は好きだよ」
 チャールズは思いついたような顔をしてから、意地悪そうに唇を弧にすると、自信満々にそんなことを言ってきた。彼は冗談を言うのが好きだし、それでエリックが困ることはもっと好きである。
「そりゃうれしいね、ダーリン」
 うんざりした口調でそう返せば、チャールズは声を上げて笑った。このまま彼を抱えて、自分もろとも海に飛び込んでみたら、こいつはどんな反応をするだろう。エリックはそう思った。



 とりとめのない話をしながらほっつき歩いているだけで、あっという間に時間は過ぎた。得られたものといえば、遺伝と化学に関する雑学と、小さな頃のレイブンがものすごくかわいかったエピソードと、チャールズ産のくだらない冗談がてんこ盛り、あとは歩き回って喋り疲れたあとにカフェで飲むレモンスカッシュは意外とうまいという豆知識くらいである。つまり、十分だった。
 整備工場に戻ると、青年は接客をしていた。ぴかぴかに磨かれた車を受け取って、客の男はほがらかに礼を述べる。整備士はぎこちない笑みで謙遜し、おじけづいたように身を引いた。客は少しだけ不思議そうな表情をしたが、そのまま運転席に滑り込んで、景気のいいエンジン音と共に走り去っていく。青年がそれを追いかけて、ふらふらと表まで出てきたところで、こちらと鉢合わせる形になった。
 あっと声を上げて驚いた青年は、なんだかちょっと泣きそうな表情で唇を食むと、ごまかすように笑って出迎えてくれる。
 そのまま工場へ戻っていく作業服の背中を追いかけながら、エリックは車が去った先を一瞥した。
「どうした」
「あ、いえ、なんでも……
「脅されでもしたか? 力を使っているところを見られた? あの車を引き戻したほうがいいか?」
「えっ!」
「エリック、1歩がでかい。ごめんね、この人はなんていうか、ちょっとアグレッシブ過保護なところがあって」
「妙な造語をするな。身に覚えがあるからだ。お前だってそうだろう」
「あ、あの、いえ、ほんとに、なんでも……、なんでも、ないです」
――よし、引き戻す」
「うわああ待ってください待って待って!」
 去った客の雰囲気は好青年のようだったが、脅して料金を踏み倒すくらいやったのかもしれない。あまりに挙動不審な整備士にそう考え、エリックは道の先に手のひらを向けた。けれどすぐさま、慌てた青年に飛びかかられて、一生懸命腕を戻されてしまう。
 どうすべきか迷って、チャールズと目を合わせた。彼はちょっと笑って肩をすくめると、青年の腕を取ってまっすぐ工場へ戻っていく。
「問答無用の好意はときどき暴力だよね」
「えっと、あの……
「君が話したいなら聞くし、話したくないならそれでいい。けれど残念ながら、僕はすでに知るところだ、ごめんね」
――えっ」
 ほのぼのと、とても気軽に、チャールズはそう言って、自分のこめかみに触れた。
 一瞬、何を言われたのか分からない、という表情になった青年は、その意味を悟った途端に体を震わせ、チャールズの腕からぱっと離れる。
「怖いよね、ごめんね。だって僕はテレパスだ。怖くて当然」
「チャールズ」
 その怯えた姿を、もはや慈しむように微笑んで見ている彼の言い方があんまりで、エリックは口を挟んだ。鋭く呼び止めれば、チャールズの視線はこちらを向く。
「でも、僕らはただの旅行者で、一瞬の幻みたいな存在だ。君がどんなことを言ったって、それが何かにはならないよ」
 エリックを見つめたまま、彼は強い口調でそう言った。そうしてから、チャールズは青年に向き直る。
 つられるように自分も目を向ければ、整備士は固まった顔のままふたりの様子を窺って、そのうち表情をゆがめると、両腕でそれを覆ってしまった。



 青年が最も恐れていたのは、自分自身のことだった。
 彼にはとても仲の良い友人がいて、お互いのことをなんでも話すような間柄だった。青年は能力のことも打ち明けていて、それでも友人は彼のありのままを認めてくれていたらしい。すごくいいやつで、とにかくいいやつなんだ、と語る青年は本当にうれしそうで、どこか誇らしそうにも見えた。
 青年は、そんな友人のことが好きだった、と告白した。ロマンティックな意味で、と補足して。
 けれど、彼はそれをひた隠しにした。成就したところで、警察に見つかれば逮捕されて金を巻き上げられる羽目になるし、そういったことに友人を巻き込みたくなかった、と青年は語った。ときどきとんでもなくやるせなかったけど、それが一番いいと思ってた、と言って、ぼんやりと虚空を眺めていた。
 ある日、青年は、その友人に告白された。もちろん、ロマンティックな意味でだ。
 エリックは、よかったじゃないか、と素直に思った。確かに、法には触れるかもしれないが、どう考えても法のほうが間違えているのだ。秘めた関係は強いられるだろうが、ひとりではなくふたりなのだ。それは、何にも勝るものだろう。けれど彼は、ちっとも幸せそうではなく、ほとんどやけくその表情だった。彼は想い人に告白された途端、あらゆることがものすごく怖くなって、今まさに恋人になりかけている男の腕をぎゅっと握って、こう願ったという。
 ――なかったことにしてほしい。全部もとに戻ってほしい。昨日までの何もなかった状態に。
 彼の友人は、彼の「1日前の状態に戻す」能力を知っていたので、それはもう抵抗した。対して彼も、意地でも能力を発揮した。激情に揺さぶられながら混乱した状態で、彼はそのままぶっ倒れ、起きたときにはひとりだったという。
 そして彼の友人は、彼のことをすっかり忘れてしまっていた。
 何故かは分からないけど、と青年は自嘲気味に微笑んで、表通りに目をやった。人ひとり、自分勝手な臆病で、捻じ曲げようとした罰だと思う。
 その友人というのが、先ほどさわやかに去っていった客の男だった。
 青年は、1年点検のときだけ会えるんだ、と言って、うれしそうに笑ってみせた。



 工業地帯の灰色の海を横目に走る。整備されたエンジンはご機嫌で、曇天をものともせず軽快な音を立てていた。
 チャールズは一連の話を聞き終えると、彼の腕にやさしく触れてから、既定の料金だけをきっちり払ってあっさりと別れを告げた。表まで出てきて手を振ってくれる青年を振り返ることすらせず、ただまっすぐと前を見つめている。エリックは窓を開けて腕を出し、一度だけひらりと動かした。すぐに戻して窓を上げると、助手席の男は鼻で笑うような音を出す。
 こういうとき、エリックはチャールズのことが分からなくなる。不機嫌なのか、傷ついているのか、どうとも思っていないのか、本当は楽しんでいるのか、だとしたらどういう思考でそのような感情に至ったのか、まるで見当がつかないのだ。
 普段の彼なら、あの整備士の境遇に心底同情しそうなものなのに。エリックはそう思いながら、ハンドルを回して幹線道路に出る。
「彼の能力は、エントロピーの操作だね」
 しばらくそのまま無言で走っていると、ふいにチャールズはそう言った。ちらと横目で見れば、彼は相変わらず無表情で、じっとフロントガラスを見据えている。
「エントロピー」
「君が磁力を操るように、彼は状態量と情報量を操る。おそらく、彼が自覚するほど疲労するのは、自身の能力を『1日戻す』ものだと思い込んでいるせいだろう。うまくコントロールすれば、1分だけ戻すことも、10年分戻すこともできるはずだ。もしかしたら、10年分進めることだってできるかもしれない」
……もしかして、ものすごい能力じゃないか」
「もしかしなくても、ものすごい能力だよ。彼こそがマクスウェルの悪魔だ。彼の気力と体力にもし際限がなかったら、彼の一存で宇宙も終焉する」
……危険では?」
「危険だね」
「何故、スカウトリストに入れなかった。コントロール方法を編み出して教えれば、十分戦力になるだろう。勧誘しないとしても、危険性は教えるべきだ。自分が何をしているのか、自分で分かっていないのなら」
「だからだよ。だから、そっとしておくんだ。『1日戻す』ものと思い込んだまま、うまくコントロールできずにすぐに疲れてしまうまま、そのままでいたほうがずっと安全だ。誰にとっても、彼にとっても」
 それはひどく傲慢で、安易な考え方ではないか。エリックは眉をひそめて、発言者を盗み見る。日の落ちはじめた曇り空は、彼の肌をより青白く見せていて、虹彩の澄んだ青さは、より純度を高くしていた。海風に吹かれて歩きながら、プランクトンの多い海はにごって見えるんだよ、つまり澄んだ海は生き物が少ないと言える、と楽しそうに講釈していたチャールズを思い出す。ほんのさっきの出来事なのに、まるで別人のようだった。
 なんとか視線を引っぺがして、進行方向に注意する。ライトをつけたタイミングで、チャールズは座席を少し倒すと、窓側を向いて寝転んだ。今すぐ車を路肩に停めて、彼の肩を強く掴んで、こちらを向けと引き倒せたら、少しはスカッとするだろうか。言いたいことがあるなら言えと詰問して、彼が泣きながら本音をこぼしてくれたら、もしかしたら安心できるのかもしれない。
「エリックは、僕を恐れるべきだよ」
 ぽつりと、真面目な声が落ちる。ほとんど聞こえないくらいの小さな声だった。
 チャールズのとがった肩を見やってから、その言葉の意味を考える。いつだって分かるようでいて分からない、この男のことを。
「なんであいつは力を使ったんだろうな。好きなやつに好きだと言われたのなら、そのまま付き合えばいいだろう」
 試しに、そんな本音を言ってみた。するとチャールズは外を向いたまま、馬鹿にしたように笑ってみせる。
「君は繊細な男だけど、同時に強硬的でもあるよね。ときどきびっくりするよ、そのバランス感覚」
「手に入れたいものを『選ぶ』なんて、贅沢もののすることだ」
「それは、君が強いからそう言えるんだ」
「俺は手に入れたいたったひとつすら奪われた。それを強さだと言うのなら、そうなんだろう」
 静かに返答しながら、自分の発言につられて過去を連想して、エリックはふいに動揺した。毎日、毎日、憎悪を募らせるように、自罰するように、母のことと屈辱を、ずっとずっと思い返していたのに、最近は思い出さない日がある。そんなことに気づいたからだ。そして唐突に、手に入れたいものを『選ぶ』心境を理解した。舌の根も乾かないうちに、と舌打ちしたい気分になるが、エリックは冷静にハンドルを握り直す。
 ――なかったことにしてほしい、チャールズが連れてきたこの穏やかな日々の、何もかもを。
 そうでなければ、何にもならなかったコインを握らされた、あの日の自分があまりにも浮かばれないじゃないか。
「それは強さじゃないよ。ごめん、エリック」
 腿にぬくもりを感じて見下ろすと、チャールズの片手があった。顔を上げれば彼はこちらを向いていて、まるで懺悔するように、悲しげな笑みをたたえている。
 もうそれだけで、過去の戒めが吹き飛びそうになって、エリックはすぐに前を向いた。
「確かに、俺はお前を恐れるべきかもしれないな」
 そうでなければ、きっとそのうち、思い出すのは彼のことと、彼が連れてきた楽しいことだけになってしまう。
 エリックがそう言うと、チャールズは手を引っ込めた。