はるの
2022-08-08 23:31:37
54278文字
Public X-MEN
 

騒がしい海と愉快な寄り道

全年齢|cherik|2022.6.8|スカウト旅行中のエリックと、海とチャールズと5人のミュータントの話。



3. 突然アップルパイと婦人


 順調に仲間も増えてきて、おおむね順風満帆だった。今日は朝からいいことづくしだ、と上機嫌のチャールズからハンドルを奪ったのは、だいたいこういうときの彼は運転が危なっかしくなると学習しているからだ。ぶーぶーと文句を言う彼を問答無用で助手席に押し込み、エリックは安心して車を走らせていた。
 寄り道をしよう、と言い出したチャールズの提案に乗って、ぐるりと半島をめぐっている。すっかり夜のとばりを下ろした高台の向こうに明かりはなく、そこには海が広がっているはずだった。少し先には灯台も見えるが、さすがに潮の香りはしない。ここから嗅ぎ分けられるのは、動物系の能力者くらいだろう。
 観光地が近いのか、飲食店やホテルがぽつぽつと見受けられる。チャールズが案内したのは、その中でも古ぼけたみてくれの、ひっそりとした小さな飲み屋だった。パブにしては小さいが、バーにしてはものが食えて、カフェにしては酒が飲める、そんな店。1台停められるかどうかのスペースに、スクーターが置いてあるせいで、駐車はほとんど道にはみ出すようになってしまった。目をつむって外へ出れば、昨日降った雨のせいか、ジャケットがないと少し寒いくらいである。それでも、チャールズはほとんど歌いださんばかりの軽やかな足取りで、うきうきとOPENの下げ札に目を止めた。そして思考時間1秒、彼はぶしつけにそれを裏返すと、ついに鼻歌を歌いだしながら玄関を開ける。ふたり、いいかな、という柔らかい声を聞きながら、エリックはCLOSEの下げ札を一瞥した。
 楽しい気分になっているときのチャールズは、しばしば二度見するような大胆さを発揮することがある。それはここ最近での印象なので、彼がこの旅に慣れて素を出しはじめたか、自分の悪い影響を受けたかのどちらかだろう。ご機嫌だな、と素直に思いながら、エリックはそのまま店内に踏み込んだ。
 いらっしゃい、と迎えてくれるのは、バーカウンター向こうのご婦人である。店主と思われ、彼女は気にせずたばこを吸っていた。汚れたエプロンをつけて、そっけなく立っているのは、やるべきことがないからだろう。カウンター席は4つ、テーブル席は2つ。たったそれだけのうち、テーブルに座っている男女は並べた皿をほとんど平らげていて、ビールも半分以下に減っていた。
 チャールズは遠慮なく、カウンターのど真ん中に座る。必然的に、エリックもど真ん中だ。
「遠慮というものがない」
「しばらく見てないね、絶滅したのかも。僕はビールで!」
 店主に視線で尋ねられ、エリックはピースサインを作った。店主がうなずくのを見ていると、まるで視界に割って入るように、ブルネットの青い目が身を乗り出してくる。そして物珍しそうに自分もピースを作ると、おもむろに指先を合わせてきた。
「エリック、ピースサインなんて知ってたんだ」
「どういう意味だ」
「友だちとピースしてスナップ写真とか撮ったことなさそうって意味」
「そりゃ、そんな暇なかったからな」
「あ、怒った? じゃあ僕と撮ろう。コダクロームで、こんなふうに。ピース」
 お前は俺の経歴を知っているはずだろう、と眉を寄せて硬い声を上げても、チャールズはまるでへこたれなかった。しなだれるように体重をかけて肩を組んできたかと思うと、もう片方の手で、架空のカメラを虚空に構える。肩先を見下ろせば、律義にピースサインをしていて、エリックはちょっと笑ってしまった。
 そんなことをしているうちにビールが届いて、ついでに店主から微笑ましそうな目で見られてしまう。チャールズの容姿が若く見えるせいか、ときどき学生に間違われることがあるのだ。
「乾杯しよう、乾杯」
「どうぞ」
「面倒そうだな。いいだろ別に。僕らの新しい友人たちと、親切で美しいモイラと、僕のかわいい妹と、この素晴らしい旅のみちゆきに」
「それから、隣にいる傍若無人で浮かれた男に」
「それから、隣にいる頑固で偏屈で強情な男に」
「俺はずいぶんと譲歩してる。お前が思うよりずっとだ」
「君、ときどき絶対、僕に運転をさせてくれないじゃないか」
「今からお前の自損回数を思い出とともに数えようか?」
「君は本当に本当に嫌なやつだ」
 にゅっと赤い唇を突き出してみせるチャールズに笑って、エリックは構わずグラスを合わせた。ガチン、という優雅とは真逆の音を立てて、間髪入れずに喉を潤す。そうでもしなければ永遠に、取るに足らない馬鹿話を続けてしまいそうだった。チャールズは頭の回転が速いし、そもそもおしゃべりが大好きだ。投げればすぐさま返ってくる言葉は、リズミカルで気持ちよかった。
「よーし、ごはんを食べよう。おなかがすいた。チーズかな、焼きチーズが食べたい。なんとピリ辛ソーセージつき」
「好きに頼め。俺はつまむ」
「ちゃんと君が食べたいものを頼みなよ、エリック。それって楽してるってことだぞ。ちゃんと自分が好きなものを考えて、今のシチュエーションに合った食べ物を吟味するのは、手間のかかる仕事のひとつだ」
「じゃあ、お前の好きなものが食いたい」
……あのさあ。もし僕が君に恋する女の子だったら、君のその投げやりさで今まさに死んだところだよ」
「はかない命だったな。ビールおかわり」
「僕だって、君の好きなものが食べたい」
「そう言われても、特にない。考えたこともない」
「じゃあ今から考えよう! 焼きチーズなんてどうだい?」
「それはお前が食いたいやつだろうが」
 ほがらかに姑息なチャールズの物言いに、エリックは声を上げて笑った。つられるようにして、チャールズも吹き出して肩を震わせる。
 なんとなく楽しい気分なのは、隣にいる傍若無人で浮かれた男が楽しそうだからだ。エリックは仕方なく、そんな自分を認めてから、真面目でいることを諦めた。酒も入っているし、仕事は順調だし、今夜は付き合ってやってもいいだろう。チャールズがふさぎ込めば世界中で雨が降っているように感じるし、チャールズが笑っていれば世界中が晴れ渡っているように感じるのは、もはや珍しいことではなくなっていた。



 注文したいくつかの皿を受け取っている間に、テーブル席にいた男女は去っていった。正真正銘、ふたりと店主のみになると、チャールズの話題は新しい仲間たちのことに移る。店主の手前、ミュータント能力に触れることはなかったが、彼はごくうれしそうに、彼らのことを褒めに褒めた。
「厳しい自然環境が、生物に起きる突然変異を選別し、進化に方向性を与える」
 アーマンドの話をしている最中、チャールズはおごそかにそう講義して、持っていたフォークで空中をかき回した。
「彼を見ていると、実にこの言葉を思い出すね。生き延びることができたものが進化の切符を手にする」
「俺たちは、厳しい環境でなければ生まれなかった? 確かに、それはうなずける」
「君が自分を追い込みがちなのと、これとはまったく別の話だからね? 種のレベルにおいては、すべての生き物に対して環境は厳しいものだ。あらゆる個体はあらゆる方法で死に至る可能性を持つ」
「死を回避するすべを探して、俺たちはさまよっているわけか」
「いや、この場合の生き延びるというのは、『遺伝子が次世代に継がれる』という意味だ。種の存続という意味でなら、個体ひとつが死にやすくても、それはあまり関係ない。個体ひとつが子を成さなくても、同じくまったく関係ない。種として絶滅を回避する戦略を立てられていれば、それが強さだ」
「ネアンデルタールもホモサピエンスも、区別しないような言い方だな」
「分類学なら明確な区分があるけど、進化の過程でいえば大きな流れのひとつじゃない?」
「一緒にされたくない。俺たちは、俺たちだ」
「すぐそういうことを言う。僕らだって、多様な遺伝子のプールでたゆたうささやかな個体のひとつだよ。僕はこの旅で、さまざまな能力を持った人を見るたびに、本当に感動するんだ。生き物の根源的なもの、生存戦略を模索する大胆なアプローチ」
「優秀な遺伝子を残そうとする?」
「残念ながら僕らだって、生き延びなかったら淘汰だよ。エリック、この世に優秀な遺伝子なんてない。どんな性質を持つ遺伝子がどんなふうに生き残るかは、誰にも分からないことなんだ。だから、どんな些細な能力でも、使えなさそうな機能でも、いろんなパターンを持っていることが大切だ。役に立つかどうかなんてナンセンス。僕は、人とは少し違って生まれた僕らに、生き延びてほしいと思う。この多様性を抱えたまま、自由に。そうしてまた進化の木に新しい枝ができて、新しい花が咲く。それってとっても素敵なことだ」
 チャールズの表情は、まるで夢見るようだった。アルコールで上気した頬を丸めて、ほわほわとした様子で語る内容は、多少学術的ではあったが、彼からすればこの程度はマシュマロみたいなものだろう。
 自分の力を苦痛と怒りによって発展させてきたエリックにとって、強いものが勝つというのは世界のルールそのものだった。弱肉強食。けれど、チャールズの視界は、それよりうんと広大だ。すべてのものは死に絶えるし、すべてのものが生き延びる可能性を秘めている。この広さは学者ならではのものなのか、彼がチャールズだからなのかは分からないが、エリックは純粋に、彼の言葉を新鮮に思った。
 自分とはまったく違うけれど、違うからこそ得がたいものだ。
「俺たちのようなやつら全員に、自由に生きてほしいというのは賛成だ」
「意外とエリックは面倒見がいいんだよね」
「それは自分が面倒を見てもらっているという自覚から来る言葉か?」
「明後日にはまた新しい仲間に会えるね、エリック!」
「話題の切り替えが強引すぎる」
「僕がちょっといい話をしてるのに、君がまぜっかえすからだろ。それに、楽しみなのは本当だ。ビーグル号で南半球を旅したいつかのチャールズだって、きっと同じ気持ちだった」
「チャールズ?」
「チャールズ・ダーウィン」
 得意げにそう言うと、エグゼビアのほうのチャールズは、フォークでソーセージを突き刺した。もごもごと咀嚼しながら、ビールを呷る。
 エリックは納得して、自分もビールを呷った。こまごまとしたつまみのような夕食だったが、気取らずボリュームのある食事は満足できる内容だ。自分の好きなものばかり頼んだチャールズも、満足しているようだった。あまり飲むと運転に支障が出るな、と考えていたのは途中までで、今はもう、来るときに見えていたホテルまで歩くしかないと判断している。
「お前の話は面白いよ」
「嫌味がうまくていらっしゃる」
「いや、素直に。お前の頭の中には、俺が考えたこともないようなものばかり詰まっている」
 グラスを置いて、チャールズのほうを向きながら頬杖をついた。なんだかしみじみとした気分になって、きょとんとしている年若い生物学の教授を眺める。血色の良い肌と、きらきらした双眸。獲れたてみたいに活きがいいな、と思うとおかしくて、エリックはそのままにやにやと笑ってしまった。こんな遺伝子を有しているなら、もう種としては大勝利なんじゃないか? 酔った頭でそんなことを考える。
 チャールズは無意味にフォークを咥えると、食い散らかされた皿の数々に視線を送り、そっとフォークを置いてから、両手で口元を覆って肘をついた。目を閉じてそのまま黙ってしまったチャールズの赤い耳を見つめていると、彼はおもむろに片足を動かして、こちらの足にぶつけてくる。まったく痛くはなかったが、エリックはすぐさまやり返した。
 しばらく、カウンターの下でどたばたやっていると、そのうちチャールズは吹き出して笑う。
「子供みたい!」
「大人ではなさそうだ、見た目にも」
「うるさいな、人を見た目でどうこう言うのは大変に失礼なことだ」
「お前の照れるタイミングはよく分からんな」
「分からなくていい。あと照れてない」
「照れそのものだった」
「よ~し、君はどんなことに羞恥を感じて取り乱して顔真っ赤にしちゃうのか、探っちゃうぞ~」
「絶対にやめろ」
 こめかみに当てようとしていた彼の手を取って下ろさせると、チャールズはぴくんと揺らした指をきゅっと丸め込んだ。



 それから彼は唐突に、アップルパイが食べたい、と宣言した。
 突然だな、と面食らいながらも、メニューを確認する。見たところ、甘いものはアイスクリームだけだった。
「そんなものはない」
「あるよ。ある。僕はどうしても、どうしてもアップルパイが食べたい」
 謎の力強さで断言して、チャールズはじっとカウンターの向こうを見つめる。
 見つめられた店主は、シンクに寄りかかって休憩したポーズのまま、やや瞠目してそんな酔っぱらいを見返した。
 チャールズは酒に酔うとおおらかになるが、第三者に理不尽な要求をふっかけるようなことは絶対にしない。それは彼が酔っている状態でも、完全に自制していることの証左だ。もちろん、身内には甘えて無茶を言うこともあるが、ちょっと立ち寄っただけの飲み屋の店主に、メニューにないスイーツを要求してだだをこねるなど、ほとんど異常事態だった。
 そういえば今回の寄り道について、目的を聞いていなかったな、とエリックは正面に向き直る。彼の寄り道要求にすっかり慣れてしまっていて、どうせ却下はしないからと、最近は詳しく聞くこともしていなかった。
「シナモンの効いたアップルパイ……
……あんたの連れは、相当酔ってるようだね」
 口元をすぼめてみじめに訴えるチャールズの視線を振り払って、店主はこちらに話を振ってくる。あきれた笑みを作って肩をすくめれば、店主は小さく溜息をついた。
「アップルパイでいいのかい?」
 諦めたようにシンクから離れると、彼女は棚から皿を取り出す。チャールズは飛び上がらんばかりに背筋を伸ばして、うれしそうに何度も何度もうなずいた。
「言い値で買うよ!」
「といっても、アップルパイしか出せないんだけど」
 そう言って、彼女はカウンターに皿を置き、その上でぱちんと指を鳴らす。
 次の瞬間には、皿の上に、小ぶりな長方形のアップルパイが鎮座していた。
「うわあ、すごい!」
 チャールズはそんなふうに歓声を上げて、いそいそと皿を手元に寄せる。けれどエリックは、正直に二度見したし、呆然と店主の顔を眺めてしまった。彼女は先ほどのエリックをまねたように肩をすくめると、再びシンクにもたれかかってたばこに火をつける。
「あんたらの話を聞いてたら、なんとなくね。あたしのこれも、ちょっとした遺伝子の組み換えミスで、なんにもおかしいことなんかないように思えてきたから」
「違うよマスター。ミスじゃない。優秀な遺伝子がないのと同じように、劣等な遺伝子もこの世にはない」
 早速アップルパイをフォークで切り分けて、チャールズは口に入れた。もごもごと頬を動かしながら、幸せそうにゆったりと微笑む。
 その切り崩されたパイと、換気扇に向かってふうと紫煙を吐く店主を見比べて、エリックはひとくちビールを飲んだ。
……ものを、どこかから、出現させる?」
「言っただろう、アップルパイしか出せない」
「アップルパイだけ……?」
「レモンパイでもミートパイでもだめだし、りんごのコンポートなんかも無理。でも、何故かアップルパイだけ、望んだ分だけ現れる」
「アップルパイだけ……
「すっごくクールな才能だ。最高だよ。どこから現れるのかな、虚無かな?」
「それは、あまり考えないことにしてる。けど、何もないところから何かは生まれないだろう? だから、どっかから盗んでるんじゃないかとあたしは思ってる」
「何もないところから何かが生まれたら、それは宇宙誕生の解明だよ。じゃあ、このパイを食べようとしていた、地球上のどこかの誰かが、僕の食欲のせいで困ってる?」
「そんなうまそうに食べるんじゃあ、あんたに食べられたほうが本望だろうよ」
 どこからともなくアップルパイを出すミュータント。
 そこまで考えて、エリックはさすがに目を覆った。いくら多様性を誇るとはいえ、あまりに自由がすぎるだろう。
「それにしても、あんた驚かないんだね。疑いもなくすぐ食っちまうし」
「驚いたよ。こんなのはじめてだ。でも、何も疑う理由はないよ。とっても素敵だし、僕はすごくいいやつだからね。心の広い聖人だから、おいしいアップルパイをくれる人を疑ったりはしないんだ」
 なんとか心の整理をしていると、隣の酔っぱらいがいけしゃあしゃあとでかい口を叩きはじめたので、エリックは瞬時に落ち着いた。手を下ろしてチャールズを見れば、彼は残り3分の1くらいを、一気に口に詰め込んでしまう。もごもごとやりながら、彼はちらっとこちらを見やって、得意げに口角を上げてきた。頬袋のせいでまったく決まらないどや顔である。
 エリックは果てしない溜息をついて、虚空を見つめた。
「世界は広いな……
「あんたの聖人、こんななりでよく今まで無事に生きてこられたね」
「本当にそう思う」
「あんたも、驚かないんだね」
「いや、十分驚いた。どういう突然変異が起こったら、アップルパイ限定のデリバリー能力が発現するんだ……?」
「そういうことじゃなくて。なんていうか、あんたも十分、広い世界の一員だと思うよ」
「俺はチャールズほどアレじゃない。こいつはなんというか、ものすごくはなはだしい。俺にその才能はない」
「んぐっ――、はなはだしいってなんだ、はなはだしいって!」
 こちらの言葉を聞いた途端、チャールズは猛然と顎を動かしてアップルパイを飲み込むと、きっぱりと抗議してきた。口に物を入れたまま喋らない行儀のよさに片眉を上げながら、エリックは気にせずビールに口をつける。再び無遠慮に足をぶつけてきた彼は、まったくもう、などとぶつぶつ言いながら、丁寧にフォークを置いた。
「それに、アップルパイを作り出す能力だって、生き延びるのに有効な形質になるかもしれない」
「それはさすがに……、そんな状況あるか?」
「おっと。その問いは意味をなさないぞエリック。自然界は無限の可能性でできてるんだ」
「ふうん。なら、お前の傍若無人で浮かれた遺伝子が活躍する可能性もあるわけか? 大変なことだな」
「そうそう、君の頑固で偏屈で強情な遺伝子ですら活躍する可能性もあるわけだ。口惜しい限りだね」
「あんたら、喧嘩するならよそでやりな」
 またろくでもない言い合いになってきたところで、タイミングよく店主からストップが入る。怒られたふたりは揶揄するように目を合わせ、同時に吹き出して笑い声を上げた。



「見て見てエリック、エリックのまね! うおお……! 世界中のメタルよ俺にひざまずけ……!」
「俺はそんなアホなことは言わない」
 店を出て、酔っぱらいのふたりで並んで車を見つめながら、運転するのはなしだよな、と話し合った。結果、エリックの予想どおり、すぐ先の明かりが見えているホテルまで歩くことにしたのだが、つまりそれは、車をどうにかする、ということである。
 夜中の車道を歩く人影は見当たらず、ときおり車が通りすぎるだけだった。手のひらを軽くかざして、犬を散歩させるように、少し浮かせた車を連れ出せば、チャールズははしゃいだ声を上げてちょろつきまわった。こっちのほうが犬に近いなと思いつつ、ほかの車が近づけば路肩に下ろしてやり過ごし、のんびりとゆるやかな下り坂を歩いていく。
 街灯の間隔が遠いため、夜の中でチャールズがどんな表情をしているのかは分からなかった。けれど、踊るような足取りで先行した彼が、仰々しいポーズで車に両手を掲げていることは分かって、エリックはあきれた声を出す。
「ミズクラゲ、知ってる? ミズクラゲ。彼らの傘に花みたいな模様があるんだけど、あの花弁は彼らの胃なんだ。普段は4つ。けれどときどき、突然変異で5つの胃を持つ個体が生まれる」
「その5つの個体がほかのクラゲより生き延びやすいと、そのうちミズクラゲは5枚の花弁を持つようになる」
「そう! 優秀! エリック優秀! A+あげちゃう」
「お前のゼミは慌ただしそうだな」
「ああでも、4枚もいて、5枚もいる、そんな環境がいいよね。3枚もいて、6枚もいたら完璧だ」
「淘汰はどこいった、淘汰は」
「それはもう自然に任せるしかないよ。僕の希望ってだけ。いっぱいいたほうが楽しいじゃない?」
「それだけ闘争が生まれそうだけどな」
「ねえ、マガキの産卵数を知ってる? 億だよ。そして現在、この海が牡蠣でいっぱいになっていないことを鑑みると、そのほとんどは捕食されちゃうんだ。より多くの卵を生み出した遺伝子が、より生き延びてきた結果だよ。増やしてみて、だめで、じゃあもっと増やしてみて、そんなふうに頑張る彼らは、ものすごくけなげでいとおしい」
「そしてうまい」
「この捕食者め」
「それから焼きチーズもうまかった」
「君の好物にしてくれ。そしたら君が食べようとするたび、僕もありつける」
「この捕食者め」
 ホテルマンが出てきてしまう前に、車はそっと駐車場に置いた。ツインが空いていることにほっとして、1室取って部屋へ向かう。
 ほとんど脳みそを通していない、くだらない話をしながら。ときどきぶつかって笑い合って、もつれるようにドアを抜けて、エリックが荷物を投げ出している間に、チャールズは窓側のベッドに自分自身を投げ出してしまった。同じことをしてしまいたい気持ちに誘惑されながら、あーだのうーだの言っている酔っぱらいの背中をはたく。
「シャワー」
「指を鳴らすだけで体がきれいになる能力に目覚めたい……
「ものすごく局所的な生存戦略だな。じゃあ先に使うぞ」
「あ、待った。それって僕が後に使って出てきたら、君はお先にすやすやしてるってこと? 許しがたい。先に入る」
「心の広い聖人の言葉とは思えんな。やりたい放題か」
「寝そうだからチェスしよう、チェス。エリックそこに広げて、言葉で言って」
「やりたい放題か」
 こちらの話はまったく聞かず、チャールズは颯爽とバスルームに引っ込んでしまった。なんだかんだで承諾する自分も自分だなと思いつつ、荷物から折り畳みのチェス盤を取り出す。彼に指示されたとおり、ふたつのベッドに挟まれたサイドチェストにそれを広げると、エリックはこつこつと駒を並べた。甲斐甲斐しくて笑ってしまう。
「e4!」
 並べ終えたくらいで、バスルームからそんな声が飛んできた。今のチャールズはやりたい放題にしたい気分のようだ。くっくと喉を鳴らしながら、エリックは白のポーンを言われたとおりに動かした。
「e5」
「ナイトをf3」
 ドアは開けっ放しにしているのか、よく声が響く割にシャワーの音もうるさい。エリックは立ち上がってミニバーを開け、グラスを用意してウィスキーを注いだ。もちろん、ひとり分だ。どうせ彼と入れ替わったら、残りはやつに飲み干されることになるだろう。
「おーいエリック、聞こえないぞ」
「アップルパイじゃなくて、メタルを操る才能でよかった」
「まだ引きずってるの。いいじゃないか、アップルパイ」
 しみじみと琥珀の熱さを味わいながら言葉を投げると、途端にチャールズは吹き出して笑った。あのにやにや顔が目に浮かぶようで、エリックもつられて笑う。
「腹の足しにしかならん」
「大事だよ、腹の足しは。君がメタルじゃなくてアップルパイを操る男でも、僕は俄然連れて歩きたいね」
「俺をティータイムのおやつ代わりにするな。ナイトをc6」
「君の作るアップルパイとか、すごく素朴でおいしそうだし。ビショップをc4」
「妙な期待をするのもやめろ。アップルパイは自力でひりだせ」
「そしたら毎日アップルパイだ。いいかげん飽きるかな?」
「訓練してミートパイも作れるようになることだな。ビショップをc5」
「あはは、待って、c5? えーっとポーンは出したっけ」
「まだ序盤だぞ酔っぱらい」
 案の定、あっという間に盤面はめちゃくちゃになった。そのうち出てきたチャールズは、軒並み駒を奪われて変な布陣で構えている白のありさまに笑い倒すと、よし反撃だと言ってエリックをバスルームに追い立てた。エリックもエリックで、まったく盤面を覚えないまま引っぺがされてしまったため、ただひたすら蹂躙されるだけになってしまう。俺のクイーンはどこ行った、と訊けば、君のクイーンは僕が食ってやった、などとこましゃくれた声が返ってくる始末だ。悪食め、じゃあg8のルークを……、どこが空いてるか分からん、よさそうなところへ。よさそうなところって君ね、じゃあ僕のナイトの斜めふたつ前ね。いや待て、お前ナイトは全部取られただろう。馬の名産地が近くにあって、買ったんだよ、いい毛並みしてる。大富豪か? よくご存じで。そんなことを言っている間に、エリックも身づくろいを済ませる。
 部屋に戻ってベッドサイドを覗き込めば、盤面のめちゃくちゃ具合は最高潮だった。自分が取ったはずの駒は全部戻っているし、ポーンも変な位置にいる。半分減らしたミニボトルは見事空になっていて、チャールズは得意満面だった。風呂上がりなのとアルコールとで赤くなっている額を指で押せば、彼はそのままばたんとベッドにひっくり返ってくれる。
「今日は引き分け。寝るぞ」
「明日しゃきっとできるかなあ、これ」
「スカウトは明後日だ、大丈夫だろ」
「つまり明日は望みがないってことだな」
 ベッドサイドの明かりをつけるチャールズを確認して、エリックは部屋を消灯した。淡い暖色の光を頼りにベッドへ入り、ランプに手を伸ばした彼と目を合わせる。チャールズは満ち足りたように微笑んでいて、それはぱちんと暗がりに沈んでいった。彼がベッドにもぐりこむ衣擦れの音を聞きながら、今日はいい夢が見れそうだ、なんて浮かれたことを考える。
「今日は楽しかったなあ……
 夢見心地の柔らかい声に、エリックはひそかに笑って目を閉じた。チャールズはきっと、さっきのランプが映したような、幸せな顔をしているのだろう。そう思うだけで、勝手に口角が上がってしまう。
「ミュータント、というものが何なのか、僕はちっとも分かってないんだなって思うよ。それを、ちゃんと分かりたいし……、たくさんの彼らと出会いたい。生き延びてほしいなあ、僕はミュータントが好きだ」
「生き延びさせればいいだろう」
 素直にそう言うと、チャールズはしばらく息をひそめた。
 不思議に思って耳を澄ませていると、そのうち彼はもぞもぞと落ち着きない音を立てる。シーツにくるまった酔っぱらいが芋虫みたいになっているところを想像して、エリックはまた笑った。
「虐げられている者がいれば、救えばいい。海を牡蠣でいっぱいにしなくても、俺たちで守ってやればいい。お前はどんなミュータントともつながることができるし、俺は虐げているものをぶん殴ることができる」
……いや、君の作業分担おかしくない? 殴っちゃだめだよ」
「これからもこうやって探して、好きなだけ会えばいい。CIAなんかいなくても、俺たちならそうできる」
――君は、嫌じゃないの」
「何故? 俺だって、ミュータントが好きだ。それに、今日は楽しかった」
 チャールズは、また静まり返ってしまう。
 いいかげん寝たかもしれないと思って、エリックも呼吸を深くした。やや恥ずかしいことを言った自覚はあるので、このまま眠ってしまったほうが、自分としても都合がいい。つまり、そんなことを考えるくらいには、まだチャールズと馬鹿な話を続けていたかった。寝る間も惜しんで、明日のことも忘れて、夢中でおしゃべりしていたい。そんな、サマーキャンプに参加した子供みたいな自分の心境に、あきれるのが半分、くすぐったさも半分だ。まあ、自分はサマーキャンプなど参加したことはなかったが。
 エリックは、自分の少年時代と密接に絡まっている、クラウス・シュミットのことを思い出した。
「ごめんね、エリック」
 その瞬間、チャールズの小さな声が耳に届く。ぱちりと目を開けると、そこにあるのは無遠慮な無影灯ではなかった。穏やかな夜に包まれた天井と、温かい人の気配。
「君は、お母さんのことを思って、真面目にショウを追っているのに。ごめんね。僕は、今していることが楽しくて、楽しくて、ちっとも終わってほしくない」
 告解するようなささやきに、エリックは命を奪われたような心地がした。
 胸に杭を穿たれて、石櫃に投げ出されたような心境だった。
 ――今していることが、楽しくて、ちっとも終わってほしくない。
「ごめんね、エリック。僕は薄情だ」
 それを言うなら、俺だって薄情だ。エリックはその言葉を、ちぎれそうな胸の奥に押し込んだ。



 翌朝、チャールズは記憶をすべて飛ばしていた。
「君と部屋に入ったところあたりまではかろうじて。追いウィスキーがだめだった気がする」
 うんうんと唸りながら眉間を押さえてそう言って、彼は転げるようにベッドから立ち上がる。そして勢いよく、目の前の大きなカーテンを全開した。
 一気に差し込む白い光に目がくらむ。
「うわーっ、オーシャンビューだよエリック! 結構いい部屋だったんだね」
 途端に彼はそんなはしゃいだ声を上げると、得意げに振り返った。窓の外の美しさがすべて自分の業績であるかのように、自信満々に輝く笑顔だ。
 けれど、晴れ渡った蒼穹よりも、きらめく青い海よりも、鮮烈なのはチャールズだった。やさしくまたたく、澄んだ青。
「泥酔した割に元気だな……
「若さだよエリック、若さだ」
 まぶしさに手をかざせば、チャールズはふざけたことを言う。これが忘れた振りなのだとしたら、完璧すぎる振る舞いだった。