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はるの
2022-08-08 23:31:37
54278文字
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騒がしい海と愉快な寄り道
全年齢|cherik|2022.6.8|スカウト旅行中のエリックと、海とチャールズと5人のミュータントの話。
1
2
3
4
5
4. 決して認識できない少女
寄り道、というよりは、もう少し目的を持った訪問である。
高級住宅の並ぶ界隈をゆっくりとめぐりながら、エリックはときおり助手席の様子を窺った。こめかみに手を当ててじっとしているチャールズは、難しい表情で押し黙っている。仕方なく、適当に前進すると、思いつきで角を折れた。よく整えられた街路樹が並ぶ歩道を、小さな犬を複数連れた女性が歩いている。つばの広い帽子が作る影は木漏れ日以上に有能で、天気の良さを体現していた。大人も子供もちらほらと見受けられるが、街はゴミもなく清潔だ。
「だめだ。何も分からない」
投げ出すような声に振り返ると、チャールズは文字どおりお手上げ状態だった。
「ごく普通の街だよ。おしゃれに着飾って、この世に悪いことなんてひとつもないと思っている、平和な」
「含みがあるな。金持ちは嫌いか?」
「僕は僕が大好きだ」
上げていた両手を自分の両頬に押し当ててから、彼は茶化したような作り笑いをした。エリックは鼻で笑って左右を確認し、見つけていたパーキングに車を回す。
「奇遇だな、俺もお前が大好きだ」
「うっ、うわーっ。ねえ君、そうやって人のこと口説くの? 恥ずかしい」
思いつきでからかえば、チャールズは含んでいたものすべてをほっぽり出して、アホみたいな顔をした。途端にやんやとこちらを冷やかすことに夢中になる彼の、ほんのりと赤く染まった頬のてっぺんにエリックは笑う。所定の位置に難なく停車して、バイザーからサングラスを引き抜くと外に出た。
「実際のところ、どうなの? 好きになった子にアプローチする君とか、ちょっと想像つかないな」
「お前は口やかましく褒めたたえてウザがられそうだな」
「
……
そんなことはない」
「こんなに分かりやすい嘘あるか? びっくりする」
「エリックだって、自分勝手な振る舞いしてうんざりされるだろ。あなたは私のことなんか愛していないのね、とか何十回だって言われてそうじゃないか」
「それを言いそうなやつとは遊んでない」
「ひ、ひどぉーい! エリック、ひどぉーい!」
「お前とは違って、それでもいいってやつが自然とアプローチしてくれるんだよ。お前とは違って」
「2回も言った
……
、ひどい
……
、僕だって
……
、僕だって若くして大学教授だぞ
……
、それにとっても美男子だし
……
」
「自分で言ったぞこいつ」
「なんだい。僕は美男子だろう?」
「喋らなきゃな」
「うるさいなあ。君だって見た目はすっごく美男子だけど、中身はすっごく面倒で、喋るとすっごく厄介で」
「だから、俺は喋ってるお前のほうが好きだ」
「
……
こいつ、ストイックななりして相当遊んでやがる
……
」
「言葉が悪いぞ、大学教授」
ティアドロップの大きなサングラスをかけているチャールズの表情はよく分からないが、唇はとがっていて大変素直だった。パーキングを出て適当に歩いているが、見る限り何の変哲もない高級住宅街だ。店舗が並ぶ大きな道を逸れれば、人通りの少ない閑静な街並みが続く。それぞれの持つ庭が広いせいで、公園がずっと続いているようにも見えた。
セレブロが空白行を作ったのが、このあたりである。
それを見つけてきたハンクは、なんで打ち出されたときに気づかなかったんだろう、としきりに首を傾げていた。確かに、彼が差し出してきた印刷紙には空白の行が存在していて、僕も見たはずなのに、とチャールズも不思議顔を浮かべる始末だ。これは何かあるなと全員が察した結果、ハンクはセレブロのエラーチェックを、自分たちは現地視察をすることにした。
ミュータントの所在地を片っ端から打ち出すあの機械は、チャールズが認識したものを順に記録している。つまり、隣り合うもの同士は基本的に近所の距離にあった。前後の座標を頼りにやってきたのが、この街である。
「セレブロの不具合じゃなければ、僕はその彼だか彼女だかをちゃんと見たはずなんだよな」
「記録しようとして改行はした、というやつか?」
「そう。だとしたら、該当のミュータントは、タイピングが動き出すほんの一瞬の隙に、僕から情報を抜いたか、セレブロから情報を抜いたかしたことになる。こんな遠隔で、僕のテレパスを通してね」
ハンクからは、十分な警告をもらっていた。レイブンも、チャールズの能力を上回るテレパスかもしれないと聞いて、不安そうな表情だった。隣を見れば、彼らの心配の種である男は、のほほんと歩いている。
エリックは改めて、周囲の警戒を強めた。ろくでもないおしゃべりをしていても、不審な動きにはすぐさま対処できる自信がある。意識さえしていれば、どこで車が動いていて、どこで銃器が構えられていて、どこでターゲットの腕時計やカフスが動いているのか、手に取るように分かるからだ。
「君のMC1R遺伝子変異は素敵だ、と褒めることのどこが悪いんだ。赤毛がきれいだよ、だけじゃあ、何がどうきれいか伝わらないだろ
……
」
気を引き締めたエリックの耳に、そんな拗ねたような小声が聞こえてきて、思わず全力で脱力してしまった。あまつさえ吹き出してしまうと、隣の男はばしんとこちらの腕をはたいてくる。
「ここは笑うところじゃない」
「大丈夫だ、説明されてもわけが分からん」
「エリック、君のMC1R遺伝子変異は素敵だよ」
「びっくりするほどときめかない」
「胸を焦がせよ! この僕に!」
「これ以上? もう十分だろ、ダーリン」
「ねえ君、ほんっとうに、そんなふうに人を口説くの? 引かれなかった? ものすごく胡散臭いよ」
「安心しろ。こんな馬鹿なことは、相応の馬鹿にしか言わない」
「おおっと。口説いてたと思ったら喧嘩を売られたぞ。アグレッシブな性癖だな」
「チャールズ、俺がこんなことを言うのもお前だけだ」
「ちょ、かっこよくサングラス外さないで、決め顔やめて。君が一番の馬鹿だよ!」
腹を抱えて笑い転げる勢いになったチャールズに満足したエリックは、ふと、サングラスを戻す手を止めた。
彼の肩越しに、澄ました顔の少女が見える。彼女はそのまますれ違ったが、エリックは慌ててその小さな肩を押しとどめた。
びく、と震えて、大きな目をこちらに向ける少女を見下ろす。こんな10歳くらいの少女にとって、こんな見知らぬ成人男性から体を掴まれるのは、確かに恐怖体験だろう。自分でもぶしつけすぎたなと思っている。
けれど、最大限に警戒していたエリックのすぐそばに、こいつは突然現れたのだ。
少なくとも、自分にはそう見えた。気配も何もあったものではなかった。
「エリック」
怯えているというよりは、観察するように見上げてくる少女の顔を、エリックは厳しく見据える。するとチャールズは、やさしくこちらの腕に触れて、なだめるように名前を呼んだ。振り向けば、サングラスを外した得意げな顔が、明るくにこりと訴えてくる。エリックはひとつ呼吸を置いて、無意識に背中にかばっていた彼と、少女の肩を解放した。
「やあ、これはすごいね。なるほど、僕らが探していたのは君のことだったのか」
そんなことを言いながら、チャールズは少女の前にひざまずく。適度な距離を取ってやさしく微笑む彼を、少女はまっすぐにじっと見つめた。やはり、観察しているようだ。もしかしたらテレパスなのかもしれない。
「僕はね、君のような不思議な力を持つ人たちを探すことができるんだ。でも、君のことについては、君がいることは分かっても、君のことは分からなかった。だから、こうして会いにきたんだ」
「
……
なんのために?」
「うーん、まあ、目的はないよ。ただ、僕らと同じ仲間に会いたかっただけさ」
「仲間?」
きょとんとして、少女は首を傾げる。観察するようなまなざしから一転、ただ無防備にさらされた双眸に、エリックは真面目に感心した。
チャールズは、こういうところがある。あっという間に見知らぬ人の警戒を解いて、ちょっと彼の話だったら聞いてもいいかなと思わせる能力だ。それは彼の
――
散々に茶化したが
――
柔和な顔立ちのせいかもしれないし、ほがらかな話し方のせいかもしれないし、本当はこっそりテレパスで操作しているせいかもしれない。そして、たとえテレパスで強制されたのだとしても、付き合いが長くなればなるほど、まあそれでも出会わないよりはよかったな、などと思わせてくれるのだ。つくづくとんだ男である。
ずいぶんと昔に思える、けれどそんなに前ではない、彼との出会いに思いを馳せているうちに、チャールズは立ち上がって口元にこぶしを当てた。それから、少女が提げているポシェットを見やって、にんまりとした笑みを作る。それは彼がいいことを思いついたときにする顔で、たいていの場合、エリックにとってはろくでもないことだった。とっさに静止の声を上げようとするのと同時に、チャールズはこめかみに指を押し当て、気取ったしぐさで指を鳴らす。
「えっ!」
戸惑ったように口を開いたのは、少女のほうが先だった。見れば、少女の服装が水色のワンピースに変わっていて、白いエプロンドレスを重ねている。真ん丸なその目は、自身ではなくこちらを向いていて、エリックは盛大にしかめっ面を作った。自分が今、彼女からどういうふうに見えているのか、ものすごく確認したくない。
「えっ! アリスだ!」
すぐさま、少女は自分の服装にも気づいて、慌てたように体をひねった。ひらりと揺れるスカートの裾まで完璧で、こいつはもしかして物理演算までしてこのふざけた幻覚を見せているのか、とエリックは途方に暮れる。腹をくくって隣を見れば、チェシャ猫みたいな笑みを浮かべたチャールズが、値札つきのこじゃれたシルクハットをかぶっていた。
「こんなふうに、僕も人の意識に対して、ちょっとした干渉ができる。君と同じだよ」
「すごい。楽しい」
「お気に召したならなによりだ。やあエリック、赤毛のうさ耳がよく似合うね」
「お前は言葉どおりにいかれた帽子屋だよ」
「おや。気に入らないならハートの女王にしてあげようか?」
「やめろ」
「アブラカタブラ!」
「俺はやめろと言ったよな?!」
目の端で突如ひらりと舞い踊ったものを見て、エリックは遠慮なく怒号を上げる。まったく反省の色が見えない謝罪をしながら、へらへらと笑うチャールズにつられて、少女も楽しそうに笑い声を上げた。
少女の脇で揺れる『不思議の国のアリス』をモチーフにデザインされたポシェットを睨みつけていると、隣のマッドプロフェッサーは派手に吹き出してくれやがった。エリックは問答無用で隣を小突き、彼を置いて少女と並ぶ。ちょっとひどいよエリック、とまったくそうは思っていないだろう浮かれ顔で彼がふらつくと、少女は面白そうに振り返って、チャールズのために歩く速度を落としてくれた。そのやさしさに図に乗った男は、すこぶる楽しそうに、ほとんどスキップした足取りで、エリックの隣に舞い戻ってくる。シンプルに腹立たしいことこの上ない。
少女の行き先は、丘の上の公園だった。街並みを見下ろす景色は開けていて、遠くには海が見える。いくらか人は行き交っているが、近くのバラ園は季節外れで、片隅に置かれたベンチなど誰も気にしていなかった。
「みんな、私のことを忘れちゃうの」
ベンチから足をぶら下げて、大切そうにポシェットを腿の上に置いた少女は、ぽつりとそう告白する。うん、とチャールズはうなずいて、やさしく少女に寄り添った。
「私から少し離れるだけで、みんな私が見えなくなるの。これって、どういうことなの?」
「うーん。ちょっと、試してみようか。エリック、ゆっくり離れてみて」
少女の言い分を不可解に思ったエリックは、素直に立ち上がってベンチを離れた。振り返ったままゆっくりと歩き、少女とチャールズがいることを確認する。離れると、見えなくなる。ということは、やはり先ほどのチャールズのように、テレパスで見えなくさせているのだろうか、無意識に?
振り返ると、チャールズはぼんやりと座ったままで、まるで動く気配がなかった。エリックは眉を寄せて、親切に立ち止まってやる。
「おいチャールズ、行くぞ」
「
――
行くって、どこへ」
「どこって、空白行の原因を探すんだろう。休憩は終わりだ」
「なるほど。これは
……
、厄介だね」
チャールズは顔をしかめて困り果てた表情をすると、隣の子供に何かを話しかけた。今はそんなことをしている場合じゃないだろうと、エリックは彼に歩を向ける。チャールズの自由な振る舞いは、ときどき奔放すぎて無遠慮まであるのだ。たとえばそう、自分に三月うさぎの耳を生やしたり、赤いハートがモチーフのスカートを着せたり
――
。
そこまで考えて、エリックも顔をしかめた。それから改めてベンチを見れば、ミュータントの少女とチャールズが仲良く並んで座っている。
「
……
何か、おかしい」
「おかえりエリック。さっきの位置からこちらを見ると、どんな感じだった?」
「お前と
――
、この子が座って
……
、いた? 座っていた、はずなんだが」
確かに、チャールズは誰かと座っていた、と思う。その誰かとはもちろん、この少女のことだ。けれど、本当にそうだったかと言われると、途端に自信がなくなってしまう。心得たようにチャールズはうなずくと、立ち上がって場所をゆずってきた。
「交代」
事態の深刻さを察してだろう、彼の言葉は決然としている。素直に腰を下ろせば、チャールズはそのまま、後ろ歩きでゆっくりと離れていった。自分とは違う方向だったが、同じくらいの距離まで離れると、彼はきょとんとした表情になって立ち止まる。
「あー、エリック」
「なんだ」
「僕は、何か大切なものを見落としているような
……
」
「この子か?」
「その子? その子はいいんだけど、何か他の
……
」
「お前がいることは分かるのに、お前が誰かをみんな見失うのか」
「そう。お父さんは部屋から出ると、私がいることなんか忘れちゃうの」
そんな少女のひっそりとしたさみしさに触れて、エリックは思わず彼女の背中に自分の手を触れさせた。ぽんぽんと励ますようにやさしく叩いて、突っ立ったまま考え込んでいるチャールズに目を向ける。
「チャールズ、戻ってこい」
「あれ、僕はなんで突っ立ってるんだ?」
声をかければぱちくりとまばたいて、まるっきり無防備な表情になった。そしてのんびりとこちらに歩き出した途端、驚愕に目を見開いて、ぴたりと足を止める。彼はまっすぐ少女を見つめていて、彼女のことを思い出したようだった。足早に戻ってきたチャールズは、彼女を挟んでベンチに腰かける。
「生活には、困ってない?」
「お父さんの近くにいれば、ごはんは食べられるから。買い物にくっついていけば、ちゃんと服とか買ってくれるし」
「そっか
……
」
チャールズは少女の顔を見つめたまま、再び考え込んでしまった。困ってはいなさそうだが、ずいぶんと不便な暮らしだ。母親の話が出てこないことを考えると、このプレティーンの少女が背負っている苦労は想像以上だろう。かといって、今すぐ彼女の生活を保障できるような手段もない。何か手はないかと考えて、エリックはチャールズを見やった。きっと彼も、そのことについて考えているだろうから。
視線を感じたのか、チャールズは顔を上げて、小さく笑みを浮かべてきた。
「すごく勝手なことを考えているね、僕たちは」
「僕たち?」
「読んだわけじゃないよ、ただ、君もそうかと思って」
そう言うと、彼は少女に向き直って目を合わせる。
「君には、自分を他人に認識させない能力がある。これは常に発動していて、考えられるのは3パターンだ。ひとつ目は、君が能力を使って広範囲に影響を与えながら、自分の半径3mだけは除外しているパターン。ふたつ目は、君自身の体に自分を隠ぺいする性質が備わっていて、君がテレパスのようなもので近場の影響だけを相殺しているパターン。みっつ目は、それ以外の想像もつかない現象。そして、少なくとも君は、自動的に作用するこの能力を、自分でコントロールできていない」
「コントロール? できるの?」
そんなこと考えたこともなかった、と言わんばかりに瞠目する少女に、チャールズは明るくウインクした。
「できるさ。僕だって、最初はいろいろなことが見聞きできすぎて困ったものだよ。けれど、少しずつ慣れていった。僕が思うに、おそらく君の能力は、君自身が反情報の性質を帯びているものだと思う。エリック?」
「能力は見た目で分かるものではないが、そうだな。お前の言うひとつ目のパターンなら、体に負荷がかかりすぎるだろう」
ぱっとこちらに名前だけで振られて、エリックはうなずいた。自分にミュータントを感知する能力はないが、この年齢で大規模な力を行使するのは難しいだろう。だとしたら、アクティブな能力というより、パッシブな能力と考えたほうが理にかなっている。
ふたりをそれぞれに見つめた少女は、ぎゅっとポシェットを握って体を縮こまらせた。
「私の体のせいで
……
?」
「僕らの仲間にはね、肌が青色だったり、足の骨格が違ったり、そんなふうに体が少し他と違う人たちもいる。何もおかしなことじゃない、きっと君はたまたま、そういう体を持って生まれたんだ」
「じゃあ、私、治らないんだ。私
……
」
「治す必要はない。そもそも、それは病気じゃない」
しょぼくれる少女の言い分に、エリックはすかさず反論する。
「どこも悪いところはない。お前は、お前のままでいい」
こちらを見上げてくる不安そうな双眸を、真正面から強く見据えた。何も戸惑うことはない。そう伝わるようにじっと見つめていると、その隣にひょっこりとチャールズが顔を出してくる。
「エリック。彼女を心配しているのは分かるけど、ちょっと言葉が強いよ」
「間違ったことを言ったか?」
「違わないけど。それでこの子の暮らし向きが便利になるかといったら別の話だろう?」
チャールズはそう言うと、やさしいまなざしで少女を見つめた。彼女は彼を見上げて、ぱちりと興味深そうにまばたく。
「なによりもありがたいのは、君のその能力を、君自身が相殺できるということだ。そうじゃなければ、こうして君と話すことすら、僕らにはできなかったはずだからね。つまり、この相殺する力を、君が掴んで、操って、思いどおりにすることができれば」
「私も、普通に暮らせるようになる? 友だちもできる?」
「できるとも! できるよ、君はひとりじゃない。それにほら、君と僕はもう友だちだ」
「エリックも?」
唐突にそんなことを言って、少女はこちらを見上げてきた。面食らってまばたきをすると、視界の隅でチャールズがにやにや顔になるのが分かる。エリックはものすごく渋い顔つきになってしまったが、少女に罪はないので心からうなずいた。
「お前さえよければ」
「ヒューヒュー」
「お前とはそろそろ縁を切ろうかと思う」
「心にもないことを」
楽しそうにはやし立てるほうの友人には辛らつに告げるが、チャールズはどこ吹く風だ。反論できなくて押し黙ると、彼につられるようにして、少女も小さく笑みをこぼす。
「だから、頑張ってみて。できればこのまま、君を手助けしたいところだけど、僕らは今、ちょっと難しい仕事をしていてね」
「チャールズは、近くに住んでいないの?」
「ごめんね。ああでも、いつでも連絡は待ってるよ。えっと、僕の連絡先は、ああもう、早めに名刺を作ればよかったな!」
わたわたとポケットを探りはじめたチャールズを見かねたのか、少女は自分のポシェットを開けた。中から出てきたのは、同じ『アリス』のメモ帳である。彼女はそれを1枚破ると、ペンと一緒にチャールズへ差し出した。
「ありがとう。気が利くね」
「ちょっと困ることがあると、メモ帳がときどき便利だから」
「生活の知恵だ。じゃあ、僕の勤め先の大学を書いておくね。ああでも、大学もどうなるか分からないな
……
、実家の住所も書いておこう。で、これらがチャールズ・エグゼビア、と」
彼はしゃがみ込んでベンチを机代わりにすると、颯爽と文字を書きつける。その手元を覗き込む少女につられて、エリックも背を伸ばすと、にっこりとしたチャールズの顔がまっすぐこちらを見上げてきた。
「エリックのことも書きたいけど、住所不定無職だからなあ
……
」
「うれしそうに言うことか」
「君の本職はR18めいてるし。迷惑だから本当にやめてほしい」
「俺のことはいいだろう。こいつの能力はどちらかというとお前向きだ。教えるのもお前のほうが本職だろうが」
「仕方ない。エリックのことは名前だけ書いておくね。エリック・レーンシャー、と」
「チャールズの家に行けば、エリックに会える?」
「うーん、どうだろ。どうなの? エリック」
「どうなの、じゃないだろ。どうなったらお前の実家に俺が常駐するような状況が生まれるんだ」
「ほら、未来は分からないじゃない? もしかしたら僕は将来、君を扶養してるかもしれないし」
「縁組する前から破局騒動を起こしたいか? おい、このアホが言うことは真に受けるなよ、お前は困ったらチャールズに連絡すればいい」
「そしたら僕はちゃんとこの義理の息子に連絡するよ、安心して」
「何ひとつ安心できなくてびっくりする」
うんざりとした声を上げれば、チャールズは軽く笑って、書き終えたメモ帳を折りたたんだ。しゃがみ込んだ格好のまま、彼はそっとそれを差し出す。楽しそうに笑っていた少女は、ふっと真顔になると、大切そうに紙を受け取った。
「
――
ありがとう」
「僕らは今、いろんな場所を点々としているから、すぐには返事できないかもしれないけど。いつでも連絡してほしい。ほんとはこちらから連絡を取るべきなんだけどね、きっと君と離れると、僕らにはそれができなくなるから」
「私のことが分からなくても、連絡したら返事をくれる?」
「こいつはなんか変だなと思ったら、止めても頭から突っ込んでいくタイプだ。たとえお前が要らんと思っても、50倍にして返事をくれるぞ」
「なるほど。君の僕に対する見解については、あとでじっくりと話を聞くべきだな、と僕は今思っているよ」
「ほらな」
「ふふ、ありがとう」
少女は受け取ったときと同じだけ大切そうに、チャールズのメモをポシェットにしまい込む。それから自分もメモ帳を開くと、少し書きにくそうにペンを走らせた。
短い文章を書き終わると破り取って、笑顔でチャールズに差し出してくる。
「これは?」
「お礼。チャールズがどうやって私を見つけたのかは分からないけど、あとで同じようにまた見つけたとき、ここまで走ってこなくてもいいように」
「ああ
……
、なるほど。けれど、君の名前を書いてくれれば」
受け取ったチャールズはその文章を読んでから、不思議そうに少女を見上げた。彼女はぴょんとベンチから降りると、後ろに手を組みながらきょとんと首を傾げる。
「私について書いたものは、みんな取るに足らないものになっちゃうの。きっとそこに私の名前を書けば、チャールズはその紙が何のことか分からなくなって、きっとそのうち捨てちゃうから」
「
……
待って、じゃあ、君の出生届は? 君の社会的な証明は今どうなって
――
、君は本当に、ちゃんとお父さんと暮らしているのか?」
立ち上がってそう言うチャールズの焦った表情に、エリックも思わず立ち上がった。
少女はにっこりと笑うだけだ。エリックはさすがに呼び止めようとして、チャールズはこめかみに指を触れさせようとする。
瞬間、少女はひらりと駆け出した。
「さよなら、私のお友だち!」
そんな明るい言葉だけが、耳に残って消えていく。
ふと気づくと、チャールズはやたらファンシーな紙切れを持って突っ立っていた。当てもない寄り道とはいえ、何か変なものを拾ったんじゃないだろうな、とエリックは眉を寄せる。
そして、何かが変だと思った。自分が今まで何をしていたのかを思い出そうとすると、強い不安感に襲われる。
チャールズも呆然としている様子で、ゆっくりとこちらを向いてきた。
「今の、女の子は
……
」
「女の子?」
唐突な発言に、エリックはそのまま言葉を返す。チャールズは顔をしかめると、こめかみに指を当てた。
「女の子だよ! 何かすごく困ってて
……
」
「またナンパに失敗した話か?」
「またって言うな。違うよ、真面目な話
……
、あっ、ほら、この文字は女の子っぽい」
「文字?」
持っていることに今気づいた、というようなしぐさをしたチャールズは、こめかみから手を離して紙切れを差し出してくる。『不思議の国のアリス』だろうか、ティーセットのイラストが添えられたその小さなメモを、ふたりで一緒に覗き込んだ。
――
ありがとう。もう大丈夫。私を探さなくても大丈夫です。
――
いつか、またね。
――
いかれ帽子屋さんと、三月うさぎさん(ときどきハートの女王さま)へ
――
どこにもいないアリスより。
「
……
暗号か?」
エリックは素直に首をひねる。チャールズも難しい表情だった。
「アリス
……
、では、なかったよね。確か、名前はアリスじゃない」
「アリスじゃない
……
」
「そう、女の子が、アリスじゃない女の子がいたはず!」
世紀の大発見をしたように、チャールズは晴ればれと宣言する。その姿を見ていると、エリックの脳裏にもなんとなく、引っかかるものが感じられた。
「ああ
……
、そうだ。セレブロの空白行を探して、確かに、俺たちは会った」
「だろ?! 大丈夫ってなんだろう。会ったけど、それを僕らは忘れてる
……
?」
「そういう能力だった。アリスは
……
、いや、アリスじゃない。どんな顔だったかまったく思い出せない。これが能力か。いかれ帽子屋と三月うさぎの意味が分からんが」
「僕らのことじゃない? ときどきハートの女王さまの意味も分からないけど」
「なんとなくだが、それはお前が余計なことをした結果な気がする」
「君ってとっても悲観的だよね
……
、可哀想に
……
」
「お前にその気の毒そうな顔をする資格はないと思う。分からんが、絶対にだ」
「まあ、とにかく、問題は解決した
……
、のかな?」
「何の問題だ?」
「分からないよ
……
、問題があったのかすら」
「そもそもアリスも、アリスじゃないことしか思い出せない」
「え、アリス? 誰の話? 君の彼女?」
「いやだから、さっきの少女だろうが」
「さっきの少女
……
?」
「
……
チャールズ、お前が持っている紙を見ろ」
「
……
セレブロの空白行か!」
「これは、厄介だな
……
」
「うん、だめだ。たぶん僕ら、早々にその女の子のこと忘れちゃう。この紙はセレブロの情報と一緒に置いておこう。忘れそうだけど! これって本当に大丈夫なのかな、こんな調子で、僕らはこの子のためになったのか?」
「それは問題ないだろう。誰か分からんが、大丈夫と書いている」
「気を遣ったのかもしれないよ」
「そうだとしても、少なくとも、こいつはお前と会ったんだろう。それなら、何も憂慮する必要はない。きっとお前はできる限りのことをしているし、それは絶対にこいつのためになっている」
「
……
厚い信頼をどうも」
「おい、変なところで照れるのはやめろ。いつもの無根拠な自信満々はどこ行った」
「失礼だな。根拠は大ありだよ、僕はこの歳で大学教授だし、なんたって美男子だ」
「そりゃよかったな。何故かものすごくデジャヴを感じる」
くだらない言い合いをしながら、自然と帰路を歩き出す。なんだか取るに足らない理由で、こんな公園まで散策に来たような気がしていた。さっさと帰って、益のある行動をすべきだろう。時間は待ってくれないのだ。
ほんのすぐそばで少女の笑うような声がして振り返ると、小さな赤いバラが花壇の先で揺れていた。
CIAの研究所まで、さほど遠くはない。片手がふさがっているチャールズをスムーズに助手席へ収納して、エリックは車を走らせた。今日の夕焼けはことさらに鮮やかで、空気の色までピンク色に見える。
髪の先まで暖色に染まったチャールズは、片手でくるくるとメモ帳の切れ端をいじっていた。手帳に挟んだらそのまま存在を忘れそう、という彼の予想に、エリックも同意したからだ。
「『鏡の国のアリス』に、ものに名前のない森が出てくるんだけど」
ぽつりとつぶやかれたそんな言葉に、隣の男を一瞥する。彼は深く座席に腰かけて体を楽にしていて、掲げた紙切れを無表情でじっと見つめていた。
「その森に入るとね、名辞という名辞が吹き飛ぶんだ。小鹿は自分が小鹿であることを忘れて、アリスは自分が人間であることを忘れる。ふたりは仲良く森を抜けるんだけど、すると小鹿は自分が小鹿であることを思い出して、人間の女の子に怯えて逃げていっちゃうんだ」
「ふうん」
「君のその気のない返事が好きだよ」
「そりゃどうも、ダーリン」
「君、ダーリンって言っておけばいいと思ってるだろ」
柔らかくくすぐるような口調になったチャールズに、エリックも低い声でひそかに笑う。続いた彼の溜息は、少し湿っぽいままだったけれど、すぐにも乾きそうな軽さは持っていた。
「僕が人間の女の子だったせいで、逃げられちゃったのかなあ
……
」
「お前が人間の女の子だったとは初耳だ」
「僕の話を聞いてたかい? 比喩すら通じないのは問題だな」
「答えの出ないことを勘ぐって、うろうろ考え込むのも問題だ」
「僕は繊細なんだよ。傷つきやすいんだから、たんとやさしく扱ってくれ」
「ふうん」
「君のその気のない返事、大嫌い」
「そりゃどうも、ハニー」
「工夫してきただと」
「どうあれ、もう夢か幻みたいな出来事だ。それこそアリスみたいにな。『またね』の言葉を信じろよ、チャールズ」
助手席のお人よしがこちらの返答に吹き出したのを確認して、エリックはそうまとめる。大丈夫と言わしめた誰かをちゃんと助けられたのか、およそ判別できないせいで、きっと心配なのだろう。そして、どんなに憂慮する必要はないと諭しても、彼はそれに納得しない。エリックには明瞭に分かることが、チャールズにはときどき分からないのだ。
信号が変わるに合わせて減速し、ゆっくりと停車する。
「アリスの話は、アリスの夢じゃない。目をきらめかせたお気に入りの小さな女の子に、いつまでも自分の話を夢中で聞いていてほしかった、チャールズの夢だよ」
「チャールズ?」
「チャールズ・ドッドソン。またの名をルイス・キャロル」
「なるほど。そいつ本人のことは知らんが、そいつの著作とうちのテレパスは、確かにあべこべさがいい勝負してる」
「君が僕のことをどう思ってるのか、ちょっと膝を突き合わせて議論したくなってきた」
「そのままの意味だ」
「大人にならないものなんかないのにね。終わらないものなんかないのに、いつまでも夢を見てるんだ。小さなアリスと過ごした、『あの完璧な夏の日』のことを」
エンジン音だけが途切れることなく続いている車内で、チャールズは紙切れを掲げていた腕をぱたんと腿に落とした。そのまま彼は、フロントガラスの向こう側の、遥か先に視線を渡す。口元はわずかに微笑んでいて、静かで、穏やかなまなざしだった。朱と混ざった青の双眸は、謎めいて透けるライラックのようだ。まるで遠い理想郷を眺めるように、あってほしかったなかったものを慈しむように、彼はふわりとまつげを揺らす。
「チャールズ」
思わず、そう呼びかけた。ぱっとこちらを向いた彼は、いつもどおりの笑みになる。
「でも、ありがとう、エリック」
「何がだ」
「いろんなこと。
――
それと、緑だよ」
指差しで言い添えられたので、エリックは正面を向いてアクセルを踏んだ。
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