はるの
2022-08-08 23:23:50
37604文字
Public スタートレック
 

夜のこどもたち

全年齢|AOS spirk|2022.4.3|STIDのあと、病室で過ごすジムとお見舞いに来るスポックと彼らの家族と悲しいの話。朝だけがあればいい(https://privatter.me/page/65a92eff6c63c )と同じ世界線です。



「今日はスポック来んかもなあ……
「そう言ってた?」
「退勤時間超えてびったびたに予定入ってたからな」
 夕食時にやってきたマッコイは、持ち込んだ中華のテイクアウトボックスに顔をうずめながら、そんなふうにスポック情報をリークしてくれた。ときどき、彼はこんなふうにして、一緒に食事を取ってくれる。
 ちなみにカークは現在も、仕事用のパッドを遠ざけられていた。つまり、逐一スポックのスケジュールを確認したり、気軽に「今日は来る?」なんてメッセージを送ることができない状態である。リーク情報を流してくれるくらいなら、手短にパッドを渡してくれれば円満解決なのに、マッコイは現時点でもそうは思っていないようだった。
 手元にあるのは相変わらず、ペアレンタルコントロールのされた、おもちゃのタブレットひとつだけだ。
 マッコイが帰ったあと、面会時間ぎりぎりまで、カークは静かに待っていた。昼間はあんなに進みの遅い時計は、あともう少し待ってほしいときに限って、やたらと爆速で進んでいく。そしてとうとう、面会時間がオーバーした時点で、カークは後ろ向きに倒れ込んだ。
 70%ほどに明るさの落とされた、白いシーリングライトを見つめる。
 カークが目覚めてから、スポックが来ない日は初めてだった。
 ごろん、ごろん、としばらく無為に寝返りを打ったのち、体を起こしてタブレットを手に取る。
 画面をアクティブにしてスケッチブックを開くと、最後に開いていたページが現れた。最近は、すぐにこのページが開くようになってしまっている。
 しばらく、スポックのきれいなヴァルカン文字を眺めてから、カークはペンを取り出した。ツールをいろいろ選んで苦心しながら、下手くそなスポックの似顔絵の、長すぎる耳を短くする。修正のあとが目立つ仕上がりにはなったが、おそらく適正な形にはなっただろう。ちょっとだけ満足して、ひとりでにこにこしてしまう。これならスポックも文句は言わないはずだ。
 そのうち消灯時間が来て、明かりが自動で落とされる。
 薄暗がりの夜の中で、カークは静かに横たわった。
 タブレットのバックライトで顔を照らし、お気に入りのページは眺めたまま。
 まるっきり眠る気が起きなくて、カークはそれを見つめ続けた。



 そうして、しばらく経った頃だった。
 す、とかすかにドアの開く音がして、カークはびくりと顔を上げる。夜中に高官の個室を訪れる者はいないので、体が勝手に警戒した。戸口で覗き込むように頭を傾けたシルエットに向かって、とっさにタブレットの明かりを向ける。
 暗がりに浮かび上がったのは、スポックの驚き顔だった。
「スポック」
 カークも驚いて、驚いた声を上げる。スポックは目を見開いたまま、こちらを見て、それからタブレットのほうを見た。
 自分がどのページを開いていたかを思い出して、慌ててディスプレイを自分の胸に押し当てる。
「起きていたのですか」
 代わりに枕元の明かりをつけると、淡い暖色の光がぱっと広がった。
 スポックはそれをまぶしそうに見つめてから、静かに歩いてきてベッドサイドで立ち止まる。
「見てのとおり。君こそ、どうしてこんな時間に?」
「本日はまだご挨拶に伺っておりませんでしたので」
「うん。そうじゃなくて。面会時間どころか消灯時間もぶっちぎってんだけど? どうやって入ってきたんだよ、何か特例? 今夜はボーンズも家に帰ってるはずだろ」
 ぴしりと直立したヴァルカン人は、しれっとした表情で後ろに手を組んだ。そんな様子を目の当たりにしながら、カークはだんだんと血のめぐりが良くなるような感じを覚える。
 ああ、スポックだ、という実感が追いついたところで、勝手に口元がほころんだ。
 なんだか分かんないけどスポックがいる。1日会えないと思っていただけに、カークの気持ちはほとんどはしゃぐようだった。思わずにやにやしてしまって、落ち着きなく体を揺らす。
 スポックは静かに、そんなキャプテンの様子を観察すると、小さく首を傾げて薄く口を開いた。
「耳が短くなりました。適正です」
 一瞬、何を言われたのか分からず硬直して――、先ほど明かり代わりにしたタブレットと、丹精込めて修正したスポックの似顔絵のことを思い出す。
 胸に押し当てていたディスプレイを、カークはそっと腿に伏せた。固まった笑顔のまま、ごまかすようにスポックを見上げる。
 たぶん、赤面したからだろう、スポックは心外そうに小さく片眉を動かした。
 そのしぐさを見て、あ、大丈夫だこれ、とカークは安堵する。スポックの名残を抱きしめながら眠れぬ夜を過ごすということが、どういうことなのかまでは伝わっていないらしい。ほっとしたような、ちょっと物足りないような、そんな乱れた気持ちを持て余しながら、カークは溜息をついて寝転がった。そのままベッドのリクライニングを操作して、話しやすい角度に調整する。
「で? 話を逸らそうとしても無駄だぞスポック、なんでこんな夜中にここにいるんだ」
 動かしている間に心を落ち着けて、再びスポックを見やった。
 彼はやや気まずげに口を引き結ぶと、視線を落として逡巡する。単なる煽り文句で言ったつもりだったのに、スポックはどうも『話を逸らしたい』ようだった。らしくない態度に驚いて、カークはぴたりとリクライニングを止める。
 やがて彼は、むぐむぐと唇を動かしながら、叱られるのを待つ子供のようなまなざしをこちらに向けた。
――少し、その、ハッキングで」
「ハッキングぅ?!」
「ジム。声が大きいです」
 そして寄こされたまさかの答えに、カークは思わず身を乗り出してしまう。途端にスポックは鋭く注意してきたけれど、まったくそれどころではなかった。
 口をぱくぱくさせながら、居心地の悪そうなスポックを呆然と見上げていると、彼はまた唇をむぐむぐさせた。
「もちろん、あなたが以前行ったような、第三者の手を借りるようなことはしていませんし、データを改ざんした痕跡も検知できないよう工夫しています。それに、今回使用したセキュリティホールは、後ほど私のほうから正式に改善提案を上げる予定で」
「いや待って待って。そんな提案上げたら『なんでスポック中佐が医療センターのセキュリティプログラムを?』ってなるだろ」
「長期入院中のキャプテンが安全に守られているか、私はセキュリティチェックを実施しました」
「うん?! えっと、それは事実じゃなくて、そういうふうに言い訳するってことだよな? いや、ストップ、答えなくていい。そうしておこう、心臓に悪いから」
「動悸がしますか?」
「いや生理的にじゃなくて心情的に。いやでも今すごくどきどきしてるから、そうとも言える? 待ってくれ、スポック、えっと、つまり……
「はい」
……君、こっそり黙って入ってきちゃったのか?」
……本日は、まだあなたにご挨拶をしていませんでした」
「えーそれ、そんなふてくされた顔で言う?」
「私はいたって平静です。そして、あなたは寝ているものと考えていました。少しだけあなたの無事を確かめてから、誰にも気づかれずに去る予定だったのです」
 やや早口でそうまくしたてるスポックは、どう控えめに見ても平静ではなかった。規則違反をしてまで面会に固執するのは非論理的だし、今は1日でどうかなるような体調でもない。彼の発言は、つまるところ、単なる我を通したわがままだ。子供がだだをこねるように、ただ自分に会いに来た。カークはなかば愕然と、そんな自分の副長を見つめた。
 どことなく開き直ったような据わり方をしていた双眸は、そのうちぱちりとまばたいて、ひたむきで真摯で一途で強い、まっすぐな視線に変わる。
 ふっと、カークは笑みを浮かべた。ほとんど仕方なく、ほとんどの嬉しさを隠して。こんなスポックに自分ができることは、実際ほとんど存在しない。
「ばれなきゃなかったってことか? 君もずいぶんと悪い男になったもんだな」
「お忘れかもしれませんが、ニビル作戦に私は賛同しました、キャプテン」
「はは、そうだった。でもだいたいは俺のせいだろ? 君が悪いことをするのはさ」
 軽く肩をすくめてそんなふうに茶化すと、スポックは不思議そうに小首を傾げる。
 そして少し考え、ごく当たり前のことのようにこう言った。
「それであなたが生きるのであれば、私の人生には必要なことです」
………
「それに、ドクターは不問ですか? であれば、私も不問にされるべきです。何故、私ばかりがあなたのせいだと、あなたの負担になるのですか。それは不公平というものです」
「何に怒ってるんだよ、もう」
 今夜は血圧の管理が大変だな、とカークはぼんやり懸念する。人生レベルで生存を求められて素直に言葉を失っていると、スポックは突然マッコイを引き合いに出してぷりぷりし始めた。真顔だが。
 カークはもう脱力してしまって、小さく笑い声を上げてしまった。



「まだいる?」
「長居をすれば、あなたの睡眠を阻害します」
「いてよ。昼寝したから大丈夫。それに、まだ今日の業務報告聞いてない」
 そんなやり取りの末に、再びスポックをベッドの縁に座らせることに成功すると、カークはすっかり満足した。日付は超えていないだろうが、十分に夜中である。暗がりの中、ささやかな明かりだけで話していると、まるで寝物語でも始まるみたいだった。
 タブレットは枕元に伏せて、カークはうきうきと寝転がる。シーツをかき集めて胎児みたいに丸まれば、スポックは体ごとこちらを向いた。
「業務報告、ですか」
……なんかあった?」
 いつもいつでも滑らかに伝えられる仕事の話が、やや不自然なリズムを刻む。その躊躇を聞いて、カークは少し心配になった。じっと見上げれば、やはりその双眸はしり込みしているように見える。
 そのまま逸らさずにいると、やがてスポックは薄く口を開いた。
「本日、冷凍された優性人類の一派を、衛星まで運びました」
……スポックが?」
「いえ。管理は司令部です。ですが、私は立ち合いを強く望み、許可されました」
「それで、今日は遅かったのか。宇宙まで?」
「地上からの出発を見送ったのみです。彼らが厳重に管理され、完全にすべてがこの地から離れることを、私は確認したかった」
「そっか」
 スポックの硬い声音に、理由を悟ってカークはゆるく微笑む。
 結局、あの72人と1人は、アイスキャンディにされたまま、宇宙の倉庫へ収納されるらしい。カーンも冷凍されたことはマッコイから聞いていたが、まあ妥当な線だろう、とカークは思った。解凍すれば暴れ出すし、勝手に生命維持を止めるのも人道に反する。艦隊も扱いに困って、文字どおりのプロジェクト凍結としたのだろう。『いずれ人間に戻すために』と考えている士官はいるかもしれないが、『いずれ兵器として使うために』なんてことを考えている士官は、もういないと思いたかった。
 自分のクルーを皆殺しにしようとしたやつを思い出すとき、カークは同時に、自分のクルーを皆殺しにされたと思い込んでいたやつを思い出す。そいつはクリストファー・パイクを殺したやつで、だからこそ、この手で爆殺したかったやつだ。
 ピンと親指ではじいたコインを想像する。それは空中でくるくると回り、位置エネルギーを失って落ちていく。
 彼の言葉は、常に戦略的で、敵を操作する道具として取り扱われていた。それでも、彼が拘禁室で、「私のクルーは私の家族だ」と言って泣いたことだけは、きっと本当だったんじゃないかとカークは思っている。自分がそう思うこと自体、誘導されたものなのかもしれないけれど、それでも。
 もしも、エンタープライズのクルーを人質に取られたら、自分だって、きっとなんでもしてしまうのだ。
 実際、自分は彼らのためなら、どんな悪事も見逃そうとした。マーカス提督を見逃せば、確実に殺人と戦争が起こると分かっていて、クルーの命を優先した。何故なら、俺のクルーは俺の家族だからだ。自分の命より、誰かの命より、うんと大事で、大事で、大事で、それ以外にない。
「あいつも本当は、クルーを守りたかっただけなんだよな」
 カークはある種の期待を持って、そんなことを言ってみた。緊張感をはらんだ無表情のスポックは、ぎゅっと眉間に皺を寄せると、厳しい口調でたしなめてくる。
「その言葉を肯定すれば、利他主義であれば何をしても許される、という結論になります。あの男は常に、彼ら以外の存在に対して侵略的な行動しかしておらず、それは彼らの人命のためであろうと許されることではありません。我々は、お互いの思想を伝えるツールを持っています。戦争によってではなく、対話によって、お互いの違いを認め、落としどころを模索するべきです」
――うん。君は、いつも正しいな」
……ジム」
「君はいつも正しいんだなって思うと、俺は安心するよ」
 期待どおりの言葉を聞いて、カークはうっとりと目を細めた。とろりと笑みを浮かべれば、スポックは少し怪訝そうな顔になる。
 けれど、何も難しいことじゃない。結局のところ、カーンと自分との違いはこれなのだ、とカークは思った。最後の最後に、ラインを越えてしまったのがカーンで、踏みとどまったのがカークである。そして、どうして踏みとどまることができたのか、自分でよく分かっているつもりだった。
「なあ、スポック。俺はさ。やっぱり、自分の大事なものを何より優先したくなるよ。他の誰かを踏み台にしたって、君たちのことを助けたくなるよ。『復讐』はあきらめても、君たちを救うためなら、クリンゴンに魚雷をぶち込むかもしれない」
 だとしても、最後の最後に、自分を踏みとどめてくれるのは、きっとこの副長なのだ。実例としてそうだったし、なにより、カークはそうであってほしかった。スポックに、そういう存在でいてほしかった。――いつまでも。
 どこまで自分の気持ちを正直に話したものか、考え考え、口を閉じる。スポックはこちらの言葉に顎を引くと、改まったように背筋を伸ばした。その自省的なまなざしに、カークも自嘲めいた微笑みを浮かべる。
「だって、やっと手に入れた家族なんだ。大事なんだよ、君たちが」
「ジム、それは――
「でも、どうやったら君たちを、一番うまく、上手に、大事にできるのか、俺にはまだ分からない。もしかしたら俺なんかには、一生分からないのかもしれない。でも……、それでも、大事にしたい。君たちを、大事にしたいよ」
 少しだけ動揺したようなスポックの言葉を視線で留めて、じっと彼を見続けた。静謐な色をたたえる虹彩は、少し揺れるような様子を見せる。カークは一瞬、ためらってから、そっと腕を伸ばした。こちらを向いているスポックの腿にそっと触れると、彼は素直に指先を見下ろしてくる。
「だから、いつかきっと、また間違える。けど、俺がどうしようもなく決定的に間違えたとしても、君がいると思うと安心するんだ。スポック、君がいてくれるなら大丈夫だって。ちゃんと大事なものを、大事にできるって」
「私が……
 顔を上げたスポックは、迷子のような目をしていた。カークはその髪をかき混ぜてやりたい衝動に駆られながら、伸ばしていた手を引っ込める。
「俺が間違えたら、君は止めてくれる。そうだろ? いつものルーティンだ」
……あなたは、素直に聞き入れる船長ではありません」
「でも君は、素直に矛先を収める副長でもない」
「私が……、間違えれば? 私も間違いを犯します。ジム、私は……、大事なもののためにそれ以外を踏み台にする、ということを、私がしかねないことは、すでに証明されています」
「その詳細を俺は猛烈に聞きたいんだけど。そうだなあ……、でも、君が間違えるようなことは、さすがに間違いだって気づくんじゃないかな、俺が」
「あなたが?」
「君の不得意なことは、だいたい俺の得意なことだから」
 にこりと笑ってやれば、スポックは思案深い表情になった。



 言いたいことを言い終わったカークは、もうこの話題は終わりとばかりに身を起こす。マッコイが見たら文句を言いそうなほど手荒くシーツを剥ぎ取ると、もぞもぞと両足を動かしてスポックの隣に投げ出した。ややぎょっとしたような彼には構わず、のろのろとベッドサイドに座り込むと、ぴったりと体の側面がくっつく。ほっと息をついた、数秒後、スポックは我に返ったように身を引いて、カーク用のスペースを作った。
「ベッドから出るなど」
「出ちゃいない。ギリギリ。オンライン」
「屁理屈というものでは……。すみません、長居しすぎました」
「おい逃げんな。今日という今日は、俺が眠ってた間にあったことを」
「事実はすべてお伝えしています」
「俺は結論じゃなくて過程が知りたいの! 君が事故報告も殉職報告もしたのは知ってるよ、けどそのときに何があったかを」
「でしたら、私が今日、あなたに尋ねたかったことを先にさせてください」
 ずい、と詰め寄れば、スポックはその分、身を反らして離れるものだから、カークはいたずら心に躍起になる。限界まで追い詰められたスポックは、両手でこちらの両肩を掴むと、やや強引に元の場所まで戻しにかかった。
 そしてそんなことを言い出すので、カークはきょとんとしてしまう。
「尋ねたいこと?」
「あなたの『家族』へのこだわりは、自身の家族がうまくいかなかったことに対する補償でしょうか?」
……びっくりした。それはちょっと、あまりにデリカシーが行方不明じゃないか?」
 言われたことにも驚いて、思いっきり真顔になってしまった。ヴァルカン人はときどき、こういうところがあるから気が抜けない。おそらく、カークのことを思って質問したのだろうが、それによってカーク自身をぶっ刺していることには気づいていない様子である。情緒に伸びしろがあるなあ、と思わず天井を見上げた。
「不快でしたか」
「うん、ちょっと」
「すみません、あなたを不快にしたいのではありません」
「なら、どういうつもりで?」
 むっと口を尖らせながら、警戒して隣を見やると、スポックはややうろたえたように、もぞもぞと自分の両手をこすり合わせる。もうそれだけですっかり許してしまえそうなのは、たぶんこれからの悪い癖になりそうだな、なんて思いながら、カークは不満顔を維持し続けた。
 やがてスポックは、生真面目な無表情をこちらに向けてくる。
「あなたが、悲しいと言ったので。私は『家族』のことを考えてみました。あなたにとっての、『家族』のことを」
 それは、ウィノナ・カークが訪れた日のことだろう。カークはそう考えて、あの日の悲しみを思い起こした。
 そして、私も悲しいと言ったスポックの顔を、今の彼に重ね合わせる。同じだけ、情感の強い瞳だった。
「あなたのことを、理解したい。ジム」
「スポック」
「あなたは、お兄さんを探したいと思いますか?」
 スポックにそう言われて、脳裏にぼんやりと少年の影が映る。自分より色の濃い金髪で、やせぎすの、小さな少年だ。けれどもう、どんな顔だったか仔細には思い出せない。声も、うすぼんやりとしか分からない。少し見上げる視線から、彼が台所で卵を割っている様子や、憤る彼の背に庇われている場面が、断片的な画像としてまなうらをめぐり、スポックの真面目な顔に戻ってくる。
 どう、答えるのが正しいだろう。カークはそう思って、素直に困った顔をした。やっぱりどうしても、こういうことを他人と話すのは苦手である。できれば茶化して笑い話にしてしまいたいし、あんまりシリアスに考え込んでほしくない。
 ごまかすように微笑むと、スポックはきゅっと唇を噛んだ。それがなんだか傷ついているように見えて、カークは内心で慌てる。傷ついてほしいわけじゃない。
「思わない、かな」
 思わず、口をついて出た答えに、スポックは神妙な表情を崩さなかった。
「会いたくありませんか」
「まさか、探したのか?」
 スポックの言い草に、とっさに身を硬くしてしまう。優秀な彼がそうしようと思えば、きっと不可能ではないだろう。一瞬で冷や汗をひっかぶったような心境になったが、スポックは静かにいいえと否定した。
「あなたが望めばそうします」
「望まない。やめてくれ」
「それは、何故?」
 おとなしそうにしているが、決して追及の手はゆるめない。そんなスポックを前に、カークは自身の唇を舐めた。水の1杯でも欲しいところだなと思いながら、じっとこちらを見つめる視線をそっと見返す。
 彼は、理解したいのだ。
 そう思うと、なんだかもう白旗をあげるしかないような気がしてきた。きっと、『家族』を大事にしたいと自分が言ったから。彼は、ジム・カークが大事にしたいものを、正しく理解しようとしている。この願いを尊重し、補佐するために、それが何かを知りたいのだ。
 はあ、と溜息をついて肩を落とす。子供みたいに足をぶらぶらさせると、はだしの指が暗がりに浮かんで、本当にあの頃みたいだった。
「兄貴が家を出てったのは、まだティーンも前半の頃だ。頭はよかったけど、まだほんの子供だった。なーんも知らない、世間慣れしてない、理不尽には義憤で立ち向かって、弟にはときどき甘い顔もする、そういう無鉄砲ないいやつだった。想像してみろよ、そんなやつが、治安の悪いド田舎から、身ひとつヒッチハイクで飛び出したんだ。絶対ろくな目に遭ってないし、最悪死んでると思ってる」
 具体的にどんな目に遭うかを想像しそうになって、ぎゅっと両目を閉じる。
 どうして連れていってくれなかったんだと思ったことは、もちろん数えきれないほどあった。けれど、今なら、どうして彼がひとりで出ていく選択をしたのか理解できる。彼は、児童を保護できるほど大人ではなく、無責任に連れ出せるほど子供でもなかった。きっと、それだけのことなのだ。
「探して、ろくでもない方法で野垂れ死にました、って聞かされたくない」
「ジム。ですが、生きているかもしれません。どこかで――
「どこかでうまいことやって、たとえばあったかい家庭を築いて、順風満帆の幸せな生活をしてるのなら、それも知りたくない」
 なぐさめるようなスポックの言葉に、カークは強く顔を上げた。強い口調で遮ると、スポックはわずかに目を丸めて言葉を切る。
 幸せに暮らしていてほしくもないのは、完全に自分のきたない部分だった。そのハッピーエンドは、つまり〝ジム坊やを捨ててよかった〟ってことになるからだ。野垂れ死んでほしくはないが、幸福になってほしくもない。この薄暗い願望はスポックに見せたくなくて、カークは手を振ってまぜっかえす。
「とにかく、知ってしまいたくないんだ。今更会っても何喋っていいか分かんないし、どこかで生きてるかもしれない、って状態が一番いい」
「今更――、どこかで」
「あいまいなゆらぎをよしとするのは、君の中にはない法則かもしれないけど。でも俺は」
「いいえ、ジム。いいえ。それがあなたの気持ちなら、私は理解したいと思います」
 早口に畳みかけていると、ぐっ、とマットが沈んだ。窓際に逸らしていた目を戻せば、スポックはベッドに片手をついている。
 やや身を乗り出したような彼にまばたいて、カークはまじまじとスポックを見やった。
「ハーフヴァルカンとして、ヴァルカン星で父と母に育てられた私には、理解が及ばないかもしれません。不用意な質問であなたを不快にすることも、今回に限ったことではないでしょう。私は可能な限り、あなたを不快にしたくありません。ですが、それ以上に、私はあなたを理解したい。キャプテン――、ジム。私は、あなたのことが知りたい」
 静かな部屋と、小さな明かりの、ひそやかな夜の中で。
 誰にも内緒でここにいるスポックが言う、その言葉は強烈だった。
 ナラーダ事件のあと、転送室で見たスポックの後姿を思い出す。君が知りたい、と手を伸ばすことすらためらわれたのに、今、手を伸ばしているのはスポックのほうみたいだった。
 カークは落ち着くために、急いでうつむくと両手で目をこすった。涙腺に異常はなかったが、情報量が多すぎて一度目を覆いたかったのだ。けれどすかさず、ぎゅっと腕を掴まれた。
 入院用の部屋着は半そでだ。まるでやけどしそうな熱い手のひらに、びくんと体が勝手に跳ねる。なにより、スポックが直接触れてきたことが衝撃的で、カークはそのまま固まってしまった。
 ぐい、と強引に腕を引かれ、なすがまま顔を上げる。スポックはそんなこちらをじっと見つめて、安堵したように小さく息を吐いた。
「泣いているのかと」
……手」
「手?」
 ぽかんと、馬鹿みたいにつぶやいて、スポックのきれいな指が巻きついた自分の手首を見下ろす。その視線を追ったスポックは、そつなくすぐさま手を離してしまった。
「失礼しました」
「なんだか必死だな」
「あなたを泣かせたくありません」
 その言葉でもういっぱいいっぱいになって、カークはよいしょと両足を引き戻すと、膝を立ててそこに顔をうずめる。泣かせたくないってなんだ、と心の中でのたうち回り叫び倒してから、彼の前で泣いたことなど、パイクが死んだときと自分が死んだとき以外にない、と思いつく。
 カークはゆっくりと、膝の上で組んだ腕を入れ替えた。まだ掴まれた感触の残る手首に、そっと唇をくっつける。
「ジム」
 不安そうに小さく呼ばれて、顔を伏せたままゆるやかに目を閉じた。
「父親のことは? 俺の家族のことっていったら、やっぱりこれが一番だろ」
……あなたが不快でなく、泣くこともないなら、知りたいです」
「ふふ、俺のことちっちゃい子供だと思ってるな」
「思っていません。ジム、具合が悪いのですか」
 伏せたままでいると、どうもスポックは落ち着かないようだ。そう悟って、カークは顔を上げた。小さな明かりに照らされたスポックは、つつましく距離を取って、熱心にこちらを見つめている。
 つつましさという概念が、このヴァルカン人から吹き飛んでしまえばいいのに。ふいにそう思って、小さく笑った。
「でも、父親のことは、正直一番分かんないな。いたことがないから、全部根も葉もない憶測にしかなんないよ。もしかしたらこうだったかも、なんて考えればきりがないし、その答えも永遠に出ない。どう考えたらいいのか、自分でもよく分からないんだ」
 言葉にしたこれが本心なのかどうかも分からないくらい、父親のことは本当によく分からない。生まれてこのかた考えないことがなかったくらい、良い感情も、悪い感情も、どちらでもない、彼の情報に対するただの感想も持っているけれど、全部の色を足したら白になる光みたいに、うまくまとまらないし、どう考えるのが適正なのかも分からない。嫌いだ、と思ったことはもちろんあるけれど、嫌いだなんて思えるほど彼のことを知らない、とも思う。なにせ、会ったことがない。だからこそ分かりたくもない、と思っているのかもしれない。そこも、よく分からない。
 自信なさげにスポックを見上げれば、彼はもの言いたげに言葉を探した。どことなく、沈痛と焦燥を持て余しているような様子に首を傾げていると、スポックは慎重に呼吸して、腿の上できちんと自分の手を重ねる。まつげを伏せ、じっとその指先を見つめる横顔は思慮深かった。
「私の父は、感情の制御ができないでいる私に、自分の運命を選べと言いました」
「運命を? それは、ヴァルカン人として生きるか、地球人として生きるか、みたいなこと?」
「今思えば、もう少し大局的な意味合いを含む言葉でした。ですが、当時の私はそうですね、そう考えていました。11歳の頃です」
「ちっちゃいな」
「私は参考までに尋ねてみたのです。おそらく彼の人生で最も感情的であっただろう、彼の結婚について。何故、地球人をパートナーに選んだのかを」
「答え、分かるぞ。『それが一番論理的だから』、だろ?」
 思いがけず、スポックのプライベートな話を聞くことができて、カークは身を乗り出した。にやにやしながら見上げれば、スポックは驚いたようにこちらを向いてくる。どうやら正解したらしいが、だとしたら何も驚く要素などないのに、と思うと面白かった。
「たぶん、地球人をより効率よく理解するために、とか、外交官として地球と交流するときに心証がよいから、とか、そういう耳障りのいい理由をつけてさ」
……お詳しいですね」
「はは。それでいてその実、ただ単に君の母さんが好きだった。アイラブユーなんて一度も言ったことないのに、全部自分の中に隠してたんだ。だろ?」
「私の父と話しましたか?」
「正解? だとしたら、君はそっくりだな」
 容易に思い描けるそんな場面に、カークは素直に笑う。スポックは物思わしげに口を閉じてしまって、じっと考え込んでいた。ふと、彼がブラッドベリへ転属になったときの顛末を思い出して、なんとなく笑いを引っ込める。『そっくり』の引き合いにあの出来事を回想するのは、ちょっとだけ座りが悪かった。サレクとアマンダの関係は、カークとスポックの関係とは、およそ違う、はずだから。
「スポック」
「いえ。ただ……、あなたならすぐに分かることが、私には分からなかったのだなと」
「ん? どういう」
「母が亡くなったあと、再び感情の制御ができないでいる私に、父はこう言いました。結婚したのは、愛していたからだと」
……それは」
「私は父のことを、ひどく複雑な存在だと認識していました。かつて、母との関係を〝ペアリング〟と称した彼は、母をないがしろにしているようにも思えた。相容れない存在だと思っていました。地球へ来てからはほとんど関係を絶っていましたし、おそらく何事もなければ、母への侮辱を容認した彼を、私が許すことはなかったでしょう」
 沈んだ声が淡々と続くほど、つのる何かにカークは息をのんだ。スポックとサレクの関係は、ごく普通の父子に見えていたからだ。彼の複雑な思いの中に、隠しきれない母親への愛情が垣間見えて、なんだか触れてはいけないような、そんな気持ちで口を押さえる。
 呼吸もはばかられる、そんな思いで彼を見つめれば、スポックはすっとこちらを向いた。
「ですが、私は彼のその言葉に、改めて〝結婚〟と称された、その秘めた言葉に、ある種の許しを得ることができました。私が父を許すのではなく、私が父に許されたようだった。きっと、あなたがすぐ看破したように、母はすでに知っていたのでしょう。こうして、遅まきながら、私は彼を理解しました。今では純粋に尊敬する、素晴らしいヴァルカン人のひとりです」
 カークはほっと息を吐いて、手を下ろす。
 それなら良かった、と思っていると、スポックは痛切な様子で眉をひそめた。
「私にとっての父とは、そういうものです。このすべてを、あなたは生まれたと同時に喪い、一切から遠ざけられている」
 そんなふうに、突然、自分の話に戻ってきて、カークは思わず肩を揺らす。
「そう思うと、ひどく衝撃を受けます。私は――、ジム、心苦しく思います」
……君が? 苦しい?」
「はい。それに、悲しいです。とても悲しい」
 そう言うスポックが、なんだか本当にヴァルカン人らしくなく、本当に、悲しそうに見えて、少し申し訳ないくらいだった。
 最近の彼はどうも、感情を伝える努力をしているらしい。だんだんとそういうことが分かってきて、カークはぎゅっと両手を握る。それが誰のための努力かなんて、言われなくても分かるからだ。嬉しい気持ちと、少し後ろめたい気持ちがある。抱きつきたいような衝動と、突き飛ばしてしまいたいような衝動も。
……俺も、悲しいよ」
 結局、カークは素直にそう言った。スポックはただじっと、静かにそばにいてくれる。



「すごくちっちゃい頃、すごくお気に入りのぬいぐるみがあったんだ。タオル地の、薄ピンク色した薄っぺらい象で、俺はずっと、寝るときはそれ枕にして寝てた」
 ぽつりと、そんなことを言ってみた。思いついたことをそのまま喋っている自分が新鮮で、少しだけ愉快だった。カークはベッドの上でもぞもぞと尻を動かして、いつまでも背筋が伸びているスポックに寄ってみる。のけぞるようにされた最初と同じく、彼は遠慮するように身を引いたけれど、構わずぐっと体重を預ければ、彼はそこでぴたりと静止した。きっと動けばベッドから転げ落ちると思ったのだろう。ざまあみろだ。
「案の定、そのうち毛羽立って、ぼろぼろのぺしゃんこになって……、母さんが捨てちゃった。分かってたんだ、仕方ないって。もう捨てるしかない状態だったし、仕方ないって。でも、なんだろうな、俺はとにかく悲しくて、悲しくて、悲しかった。あの悲しみだけは何故か覚えてる」
「そのとき、そばにいてくれた人は?」
「覚えてない。ほんとにちっちゃかったから」
 スポックが喋ると、触れている肩のあたりに振動を感じた。気のせいかもしれないが、スポックの声は低く滑らかで気持ちいいのだ。そりゃあ体も震えるだろう。
「可能なら、私がその場にいたかったです」
「いてどうするんだよ。君だって立派な幼児だろ、ふたりで泣くのか? どうにもなんないだろそれは」
「ですが、そばにはいられました」
 一瞬だけ、本当にいいのか? と自問した。その答えが出る前に、えいやっと、カークは腕を彼の背に回して、その皺ひとつないぴっしりとした制服の腰あたりを掴む。服だけを握り込むと、スポックは身じろいでこちらを見下ろしてきた。その突き刺さる視線は無視して、カークはぼんやりと薄暗い病室を見つめ続ける。
……乳幼児の移行対象でしたら、私にも覚えがあります」
「ええ? スポックが? ぬいぐるみ?」
「飼っていたペットを安楽死させました。ひどい怪我で、どうしようもなかった」
「ああ……
「仕方ないと分かっていました。私も、もちろん。けれど私の感情は乱れ、ひどい嵐のようでした。それが何なのか、当時の私は分かっていませんでしたが、今ならばはっきりと分かります。私は、とにかく悲しかった。悲しかったのです」
「ああ、なるほど。分かったぞスポック。俺もそこにいたかった」
「あなたがいても、私は論理的な言動を守り、つつましく退去を申し出たでしょうね」
「ま、俺は構わず抱きしめるけど。抱きしめて、髪を撫でて、そうだよね、悲しいよねって」
――ジム。それを今、していただいても?」
……えっ?」
 じんわりと服越しに伝わる体温に感じ入っていると、何か変な言葉を聞いた。
 跳ねるように身を起こして、とっさに姿勢を正してしまう。本当に意味が分からなくて、ほとんどほうけてスポックを見れば、彼はごく真面目な表情だった。
「えっ?!」
「いいですか」
「えっ……、あ」
 それから真面目に、重ねていた手をほどくのを見て、カークは戸惑いながらも、よく考えずに両腕を軽く広げる。
 すかさず、スポックは自ら、腕の中に収まってきた。というより、ほとんどこちらがハグされているような状態になった。
「ジム」
 ベッドの上で座っていることを除けば、非常に節度を持った抱擁である。スポックは小さくカークを呼んで、回した腕にそっと力を込めた。高めの体温に包まれているうちに、だんだんと、スポックの様子を窺うことができるようになって、カークはそっと肩から力を抜く。彼は、震えてはいなかったけれど、ほとんど縋りつくような様子だった。
 カークの父親がいないことや、割とハードだった家庭環境のこと。スポックの父親が最愛の地球人を亡くしたことと、スポック自身も友だちの地球人を一度亡くしたこと。論理と感情、言うべきことと言わないでいること、自分たちの重責。大事な『家族』を大事にしたい、そのために、カークが支払う代償のこと。
 いろんなことが重なって、スポックは今、ちょっとつらくなっているのかもしれない、と思った。
 そして自分だけに、それを打ち明けているんじゃないだろうか。こんなふうに――、言葉もなく。
 そんな思考に至った途端、ぶわっと腹の底から湧き上がるような熱を感じて、カークはぎゅっと目を閉じた。歓喜に似た、少し不謹慎な感情を、ゆったりとした呼吸で押しとどめる。それから、まるでマッコイがするような振る舞いになるよう、細心の注意を払って、その背中をぽんぽんと叩いた。
「つらかったな、スポック」
……あなたも、ジム」
 なぐさめると、同じように返される。優しい手のひらが自分の背中を撫でて、カークも少しだけ、つらかったことを反芻した。
 死んだこと、死なれたこと、死なせたこと。父親のこと、母親のこと、兄貴のこと。それに付随する自分のどうしようもない感情。『家族』だなんだと言いながら、本当は家族のことなんてまったく知らないんじゃないかと思えること。転送室で背を向けたまま、微動だにしないスポックのこと。
 じわっと涙腺に来て、頑張ってまばたきする。いつもなら笑ってかわせることも、体温の高い腕の中にいると、なんだかやたらと難しかった。新しい発見だ。
 ――ちょっとだけ。ほんのちょっと。
 そう思って、カークはそっと伸びをする。スポックの肩口に顔をうずめると、頬をくっつけた彼の首筋は熱かった。



「なんか、子供返りでもしてんのかって感じだな」
「子供返り?」
 そっと、慎重に離れて、カークはあっけらかんと笑った。首を傾げるスポックも、まったくいつもどおりに見える。
 そんな彼から手を離して、自分の力だけで身を起こした。もう終わり、と自分に強く言い聞かせる。
「たとえだよ。やーっぱ、単調な入院生活で気が滅入ってんのかな」
「それならばご安心を。明日からは本格的なリハビリが始まりますよ、キャプテン」
「やなこと思い出させんな。あのボーンズのにやにやした悪い顔見たか?」
 わざとらしく顔をしかめてマッコイを揶揄すれば、スポックは気前よく片眉を跳ね上げた。いつでも眉だけは分かりやすいんだよな、なんて思いながら、カークは笑って唇を舐める。
 半そでの部屋着は生地が薄くて、見なくてもその熱い体温はよく伝わった。スポックは体を離しながら、背中に回していた腕をほどき、名残惜しそうに肩甲骨をなぞって、今は肩の先に触れている。
 一瞬、ふたりが真顔で見つめ合う瞬間が来て、カークはぞわっと背筋を震わせた。
「スポックくんは、名残惜しいのかな? 君のほうが子供に返ってるみたいだぞ。もっとぎゅっとしてやろうか?」
 にやっと口元をゆがめて、とっさにそうからかい立てる。この恐ろしいような、それ以上の何かのような震えの正体を、絶対に知りたくはなかった。できればずっと、知らないままでいたいのだ。
 からかわれたスポックは、からかわれていることにも気づいていないようだった。
 きょとん、と自分の指先を見下ろして、そっと、羽のように、二の腕をたどる。
「触れていると、あなたが、生きているとよく分かる」
「ええ? 結構前から生きてるつもりなんだけど」
「分かっています。ただ、私にとって、あなたの生存は――、あなたの好きなたとえ話をするのであれば、あなたは私の『ぞうさん』です。いなくなると悲しい」
「うはっ。ま、真顔で何言ってんだこいつ、ぞうさん??」
「たとえ話です」
「ははっ」
 大好きな『ぞうさん』を抱きしめて眠るときの安心感を思い出しながら、カークは遠慮なく笑った。体を揺らせばふっと離れるくらいの指先から、じわりと伝わる体温を切なく感じる。抱きしめて眠れたらどんなに幸せだろうな。
「今夜だけだぞ、子供に戻るのは」
「それならばあなたは、そろそろいい子に眠るべきですね」
 にんまりとした笑みを渡せば、しれっとした表情が返ってきた。
 肩をすくめて仕方なさそうに笑いながら、カークは部屋の薄闇を見つめる。スポックの手のひらがそっと背中を撫でてきて、思わず吹き出してしまった。峻厳とした顔の大きなスポックが、ちっちゃな象のぬいぐるみをぎゅっと抱きしめているところなんかを想像してしまう。
 いつかの夜のこどもたちが、今夜は安らかでありますように。カークはそんなふうに祈って、そっと目を閉じた。