「スポック! 数値が全部戻ったぞ!」
穏やかな白い部屋の安らいだ沈黙を切り裂いて、突然、病室のドアが開け放たれた。ここが個室だからか、マッコイは弾んだ声で無遠慮にそう叫ぶと、いそいそとこちらまで歩いてくる。
精検の結果が出ると聞いて、と昼休み中にここまで来ていたスポックは、すかさず椅子から立ち上がった。
「ドクター。やりましたね」
「ああ、本当に
……。スポック、お前のおかげだ」
「私は何もしていません。あなたの努力の結果です」
彼らはベッドサイドで向き合い、熱っぽくそう言い合う。おいボーンズそれは真っ先に俺に言うべきなんじゃないか、とこちらが憮然と押し黙っていれば、あろうことかマッコイは、スポックをハグしようと腕を広げた。
カークが大きく口を開けた瞬間、スポックは片手を挙げて、その動作を押し止める。
「ドクター。念のためお伺いしますが、これは友情のハグでしょうか」
「は? 友情なんかあってたまるか」
押し止められたマッコイは素直に待機しながら、ド真顔のスポックに、ド真顔でそう答えた。どんな照れ隠しだよ、とカークがジト目になっている間に、スポックは何故かはっとしたしぐさをする。
そして気まずそうに視線を外すと、後ろでつないだ指をもじもじと動かした。
「
……失礼ですが、私にはウフーラという」
「恋愛でもねーよ! びっくりするわ! 慰労だよ、慰労!」
「慰労
……。しかし、私はジムにもされたことがありません。ジムにもされたことがないのに」
「あとでいくらでもしてもらえ」
「
――え、ごめん、何? 俺なんかこれ当てつけられてる???」
目の前で繰り広げられる、そんな友人ふたりのふわふわしたやり取りに、とうとうカークは声を上げた。根を上げた、と言い換えてもいい。
ベッドのリクライニングからも勢いよく背を起こすと、スポックは意外そうな顔つきでこちらを見下ろしてきた。ぱちぱちとまばたきをする彼は、おそらく無罪だろう。イノセントそのものでその発言か、と思うとまた別の頭痛もしてきそうだが、問題はマッコイである。
こちらに一言もくれることなくいちゃいちゃし始めた彼を睨めば、マッコイはふんと小さく息を吐いた。そして驚いたことに、そのままぎゅっとスポックに抱きつく。
もちろん、カークはほとんど跳び上がらんばかりに叫んだ。それはもう元気いっぱいに。
「あーーっ! ちょっ、ボーンズ! 何してんだ!」
「おーおー、体力戻ってきてんな、よかったよかった」
「よくねえ~! 待った、俺もまだそういうハグはしてないんだぞ!」
「スポック的には未経験らしいが? どういうのならやったんだ」
「俺が体当たりして肩組むみたいな
……、おいぎゅっぎゅすんなボーンズ! スポックも嫌がれよ!!」
「うらやましいか? はっはっは。だったらおとなしく安静にしてろこのばか。お前がちょろついて貧血起こして倒れたことを、俺は少なくとも2週間は根に持つぞ」
「それにしても罰し方が陰湿じゃない?!」
やはり、昨日のことは相当腹に据えかねているようだ。カークはそう悟って、勝ち誇ったように見下ろしてくる親友に泣きつく。確かに、誰にも見つからないように歩く練習をしようと考えたのは蛮勇であったし、ひと気のない廊下でしばらく動けなくなってしまったのも愚策だった。探し回るはめになったマッコイを半泣きにさせたことも、彼はさんざん文句を言っていた。確かに、ちょっと悪いことをしちゃったなと思っている。
思っているけれど、これはあまりにたちが悪すぎるんじゃないだろうか。
そんなふうに口をへの字に曲げていると、昨日の面会時間をロジカル詰めの反省会にしてくれやがったスポックは、きょとんとこちらに目を向けた。ちなみに、マッコイのしっかりとした両腕の中で落ち着いたままである。
「これはキャプテンにとっての罰になるのですか? 不思議ですね、地球人とは
……」
「いや待て、これはジム専用だ。ジムを基準に地球人を測るのは危険だぞスポック、こいつのアホは超ド級だからな」
「失礼しました。不思議なのはいつでもキャプテンそのものでしたね」
「ねーーー長くなーーいーー???」
その状態で愉快な会話を楽しそうにキャッチボールし始めるふたりに、カークはとうとうどさりと体を投げ出した。恨みがましくふたりを見上げながら、間延びした声でそう訴える。
すると、マッコイはこちらを見てにやりと笑い、よりによって、スポックの首筋にそっと頬を寄せた。
「やっぱあったかいな。さすがヴァルカン人」
「はあ
……」
「あとなんかさわやかな匂いする」
気のないスポックの返事に、溜息のような感想をこぼしたマッコイは、満足そうに目を閉じる。
それが、カークの限界だった。
「ボーーーーンズ!!!!!!」
「うるっせえ! 血圧上げんなばか!!!」
「理不尽!!! 上げさせてんのはそっちだろ!!!」
そのままぎゃあぎゃあと言い合いをしている間に、休憩時間の終了が近づいたスポックは、丁寧な礼をして去っていった。相変わらずマイペースな副長である。ちくしょう。
とはいえ、実際のところ、こんなふうにろくでもない話ができるようになったのはいいことなのだ。
体力がありあまるくらい暇だ、などと思えるのも、きっと贅沢なことだろう。そんなふうに、カークは思う。
死の淵から目覚めてしばらくは、倦怠感や違和感、漫然とした鈍痛なんかが全身を覆っていて、ただ時が流れていくだけで疲弊し、あっという間に眠くなったものだった。このときも、今と同じように、ただ何もしない時間がだらだらと過ぎていたに違いないのだが、暇と思える心身的余裕は一切なかったと言っていい。そのことを考えれば、確かに、とても贅沢な悩みなのだ。
「けど、暇なものは暇なんだ。なあボーンズ、そろそろ出歩いてもいいんじゃないか?」
「口を慎めよミスター・カーク、ベッドに縛りつけられたくなければな」
明るい陽がさんさんと差し込む真っ白な病室で、まるっきり天使みたいな真っ白な制服を着ているマッコイは、どす黒く重々しい声を発しながらトントンとカルテを更新する。絶対に何かが詐欺なんだよな、と思いながら、カークはむっと口を尖らせた。
「まじで暇なんだよ。あんまり眠くならないし、ベッドから10分以上離れるとエマージェンシーが鳴るし」
「お。ついに導入したんだな。うちの看護クルーの自信作だぞ。対キャプテン用みまもりセンサー」
「やっぱうちのクルーの仕業か! 本部ナースにまで妙なガジェット提供すんなよ! なんかすげぇ得意顔でベッドに細工していったぞ!」
「文句があるなら、お前が今まで医療ベイでしでかしてきた自分の所業を数えるんだな」
うんうん、とマッコイは頷いて、彼自身もなんだか妙に得意げな顔をした。そんな親友をねめつけてやると、マッコイは皮肉めいた歪ませ方で口角を持ち上げてみせる。カークは遠慮なく、両手を顔の横に広げて指を曲げ、歯茎を見せて威嚇のポーズを取った。途端にマッコイは吹き出して、ちょっとだけ困った表情になる。
「まあ、確かに今が一番暇かもな。このまま数値の安定が確認できれば、晴れて地獄のリハビリプログラム開始なんだが」
「ものすごく恐ろしい響きの単語が晴れ渡ってて怖いんだけど。だろ? 俺の主張は全面的に正しい、論理的に言っても確かです」
カークは威嚇の手をゆるめて、今度はしれっとした表情を作りながらヴァルカン・サリュートを掲げた。マッコイはなんだか憐れみに満ちたまなざしになって、しみじみと見下ろしてくる。
「お前、よっぽど暇なんだな
……」
「うるせーよ」
「分かった、ちょっと考えてみる」
「えっ、まじ? やった~!」
「あと、スポックにシッター時間延長で発注しとくわ」
「子守じゃねーんだよな。あとみまもりセンサーって名前もやめろ絶対」
そんなふうに、マッコイの譲歩に喜んだり、ほとんどこちらを幼児として扱ってくるありさまに苦言を呈したりしながら、楽しくじゃれ合って、数時間後。
仕事の合間にわざわざやってきて、暇つぶし用の大きなタブレットを持ってきてくれた有言実行のマッコイは、まさしく光の天使に見えた。後光輝く白衣の天使である。
「マイスウィートエンジェル
……」
「うるせえ。いいか、自分の健康状態に気をつけて使うんだぞ」
「うん使う! ありがとうドクター!」
「こういうときだけドクターと
……」
苦み走った顔をしかめているマイエンジェルはガン無視して、カークは早速スクリーンをアクティブにした。そして、うきうき顔で颯爽と、ネットワークへ接続する。
同時に、アクセス不可の警告メッセージと、燦然と輝くペアレンタルコントロールの文字が現れた。
「
……ボーンズ」
「なんだ」
「患者のお子さんが使ったそのまま、うっかり持ってきちゃったんだよな?」
「いいや。正確に、間違いなく、論理的に、お前専用の設定だ」
瞬間的に表情が虚無と化したカークは、天使改め悪魔の主治医に視線を向ける。マッコイはわざとらしくひょいと片眉を持ち上げると、ヴァルカン・サリュートをしようとして失敗した。
「意外と難しいな」
「ちょっとパパ! ペアレンタルコントロールってなんだよ!」
「パパ言うな。これ、どうやってこの間を広げるんだ?」
「知るか! うわ、ろくなアプリ入ってない
……! 完全にちっちゃい子向け
……!」
「お前を自由にするとろくなことをせんからな。どうせ本部にハッキングでもして、どうせ要らん仕事を始める。看護師のメンバーにも、お前のことは凄腕のスパイか何かだと思って、日々動向に注意するよう喚起してるんだ。隙あらば要らんことをするからな、お前は」
「スパイって。俺を何だと思ってんだよ
……」
「天気のいい日にご機嫌で外出した5歳児」
「一番迷子になるやつじゃん!!!」
あまりの仕打ちに、カークは粘り強くマッコイに取りすがった。俺にこの『たのしいパズル』と『おえかきスケッチ』で何をどうしろってんだ。そんなふうにあれこれと言って聞かせたものの、驚くほど取りつく島がない。彼はどうも、このレベル以上の文明の利器を渡せば、確実に問題を起こす、とかたくなに信じているようだった。そしてまあ、実際のところ、正解である。ちくしょう。
「どうせリハビリまでの暇つぶしだ。お絵描きでもして待ってろよ、ジム・ボーイ」
「絶対嫌がらせだろこれええ!」
そんな無責任なことを言って、我が親愛なる主治医は悪い笑みを浮かべたのだった。
タブレットを睨んでいても回線は開かないので、とりあえず、カークはこのおもちゃで遊んでみることにした。何事も挑戦である。
マッコイに言われたからではないが、スケッチブックを開いて、付属のペンを取り出してみた。近いうちに直筆が必要になるだろうと考えて、思いついたことを書いてみる。普段、ペンで何かを書くことはめったにないので、久しぶりに乗る自転車みたいにふわふわとした不慣れ感があった。もしかしたら手指のリハビリにもなるかもしれないと考えると、少しだけ前向きにもなれるというものである。
詩人でも文筆家でもないので、書くのは連続性のない散文だ。
今日はいい天気だ。外に出たい。分厚いステーキが食いたい。
私はジェームズ・T・カークと申します。この度は、お悔やみを申し上げます。
「遺族の方にお手紙を?」
「そのつもり。俺は殉職通知、間に合わなかったから」
「キャプテン。あなたは全速力でした」
「ふふ、うん。ごめんな、ちょっとやりきれないだけ。仕方なかったのは分かってる」
こちらの手元を見やって神妙な表情になるスポックに、カークは気安い微笑みで返した。
シッター時間の延長とやらをマッコイは本気で発注したのか、このタブレットを入手して以来、毎日見舞いに来てくれているスポックの滞在時間は伸びていた。暇なのでありがたいのと、単純に話すのが楽しいのと、律義に付き合ってくれる気持ちが嬉しいので胸がいっぱいになる、反面、厄介な問題が積載しているだろう事後処理に追われている彼のことを考えると、心苦しい気持ちがわだかまる。
けれど、来なくていい、なんて優しい言葉は、自分の中には存在しなかった。
来なくていい、と気遣って、本当にスポックが来なくなったら、すごくすごく嫌だからだ。
そんな自分本位の欲求を、カークは今のところ、改めるつもりがなかった。ベッド上での生活に、ずいぶんと甘えていると思う。けれど、少しなら、この場だけならいいんじゃないかと、心の中の不安定で頼りない自分が、ひざまずいて許しを乞うているのだ。
目が覚めてからのスポックは、いつどおりに静かで、論理には厳しく、感情は奥ゆかしく控えている。
それでも、今までよりうんと近くにいてくれているということは、すぐに分かった。彼はカークを心から気にかけていて、その気持ちが伝わることに躊躇する様子もない。マッコイとのやり取りもそうだが、本当に、とても自然に、まるで親友みたいに、彼はそばにいてくれた。
ずっと親しくなりたいと思っていたのだ。自分の気持ちが一方通行じゃないと分かることは、施しようもなく甘かった。どんなに怖いことがあっても、つなごうとしてくれる手があると確信できるのは、まるっきり奇跡のような、どうしようもない安心感がある。
だから、少しでも多くの時間、彼にそばにいてほしかった。スポックの存在は、ほとんどライナスの毛布のようだった。
けれど、それを彼に悟らせる必要はない。
カークはにこりと元気に微笑むと、スポックに椅子を勧めた。すると彼は、素直に頷いてちょこんと座る。まるでお利口な犬みたいでかわいいな、とカークは毎回思っていた。
「ボーンズに、血清についての細かい話を聞いたよ。あいつ、とうとう数値がきっちり戻るまで隠し通しやがった」
「そうですか。しかし、ドクターならそうするでしょう。あなたの精神的負担を考えてのことです」
「うん、まあ分かるんだけど。仲良いな
……」
「仲が良い?」
「君とボーンズが。まあいいや」
「仲が良い、の定義が不明ですね」
仲良くなるのは構わないが、なんだか自分の知らない間に交流を深めたような雰囲気を感じると、ちょっとだけ気に入らない。友だちがほかの友だちに取られて拗ねる子供みたいな自分の意識に、カークは軽く鼻で笑った。根拠もなく他人が自分に属すると考えること自体、甘えすぎだなあ、と思う。
「結局、俺は怪我がすぐ治る体になったわけじゃないんだな」
広げたタブレットで手持ち無沙汰にぐるぐると円を描きながら、カークは深刻そうな話にすり替えた。スポックはその言葉を聞いて、慎重に頷いてみせる。よく伸びた背筋も、つつましく腿の上で重ねられた手も、きちんとしていて好感が持てた。
「あの血に含まれる特殊な組織は、体内をめぐり、身体活動に影響のある細胞を検査し、必要とあらば患部を壊死させ、代わりの細胞を再生します。どのようなメカニズムにおいてその働きが統率されているのかは、はっきりとは分かっておりません。何をどこまで解明するかは、ドクターの判断ですね。ですが、少なくとも組織自体は、あくまで血液に含まれているだけです」
「うん、何か月かで全部体外に排出されるだろうって。致死相当の線量浴びてこれだけ元気なの、ほんと意味不明だな」
「彼らは無酸素でも活動できるようですから。致命的な環境であっても地球人の構造を維持できるという機構を、約3世紀前に確立していたというのは驚異です」
「なあ、これってさ、つまり、骨髄移植してたら、俺はスーパーマンになれたってこと?」
「スーパーマン、が具体的に何を想定しているかによりますが、骨髄の調査は行っていません。あなたにそのような処置を行う予定もありません。思考実験は無意味です」
「いや~、まあ、ただちょっと、怪我しない体になれたら楽かなって」
「
――キャプテン」
「こっわ。ごめん、冗談」
「脳の損傷はほとんどないと聞いていますが、それをまさに今実感しています」
「おいそれどういう意味だよ」
うかうかと軽率なことを言えば、わが峻厳たる副長閣下は、冷静にどすの効いた低音で呼び咎めてくる。想像どおりの反応に、カークはわざとらしく片頬を膨らませてみせた。スポックは片眉を上げてそれを受けとめ、しれっとした顔をする。いつものそんなやり取りが、心の底から楽しかった。
殉職通知に伴う遺族への挨拶も、こじれにこじれたらしい事故報告の対応も、カークが眠っている間に終わってしまった。
すべてスポックがやり遂げた、と聞いたのは、体調が安定してからのことだ。
自分がどういう〝経緯〟でこうなっているのかも、その間に何をして、何をしなかったのかも、すべて、教えてくれたのはマッコイだった。
「悪かった、ジム」
彼は、自分を生き返らせたことを、一度だけそう謝罪した。
「でも、反省はしてない」
そしてそう続けて、いかにも悪そうな、親友同士の笑みを浮かべてくる。
だから、カークは手招きして、寄ってきた彼の肩を軽く叩いてやったのだ。
「俺はありがとうって言った」
「んん? 俺は聞いてないぞ。スポックには言ってたけど、俺には言われてない気がするな?」
「拗ねてんのかよ。ありがとう、ボーンズ」
ゆっくりと、大事に感謝を伝えれば、こちらの笑顔を写したように、マッコイはめったに見せないような柔らかい笑い方をした。
彼が教えてくれた経緯と結果の中で、そのときにマッコイが何を思って、スポックがどんな様子だったか、できるなら聞いておきたいと思っていた。きっと、つらいことはいくらでもあっただろう。自分と一緒に生きたいという願いだけで彼らが起こしたことを、全部食べ尽くしてしまいたい欲求がある。
けれど、そんな笑顔を見てしまったら、もう何も言えなくなってしまった。
つらいことはすべてここで終わらせて、新しい朝を生きるべきだ。振り向かずに、前を向いて、いつものように。
『キャプテン。入室許可を』
「勝手に入ってきていいんだぞ。ボーンズなんかお構いなしだろ。どうぞ」
今日も暇つぶしにごりごりとタブレットのペンをいじっていると、インターコムからそんな声がする。カークは手を止めて応答ボタンを押し、姿勢よく入室してくるヴァルカン人の部下を迎えた。彼はきびきびとベッドサイドまでやってくると、まずはこちらの顔色を窺う。そんないつものルーティンに、カークはいつも笑ってしまう。
「毎日毎日飽きないな、お前も」
「飽きる要素がありません」
「えー、俺のこと大好きじゃん
……」
「座っても?」
「まさかのスルー。いいよ」
益にもならない軽い会話をしながら、椅子に腰かけることで少しだけ目線の下になるスポックの顔を眺める。いつだって乱れのない前髪だ。
彼がやってくるのは、ほとんどの場合、日中の業務が終わったあとだった。カークの許可を得て入室し、カークの許可を得て着席する。遠慮なく入ってきて遠慮なくベッドに座ってくれていいのに、と言いもしたのだが、彼は聞き入れることがなかった。相変わらず頑固なことだが、なんとなく、スポック自身が『キャプテンからの許可』を得たがっているような様子もあったので、強くは言わないことにしている。
こうして座って、最初の軽い雑談が途切れると、彼はいつも本日の業務報告をした。差しさわりのない内容に終始していたが、彼の低く滑らかな仕事の話に耳を傾けていると、エンタープライズに戻ってきたようで安心する。
「エンタープライズの解体、一時凍結になって本当によかった
……」
「はい。幸いでした」
「おっとぉ? 君が? 幸せ?」
「ベリーハッピーです」
「あはっ、はは、笑かすなこら」
「スコット少佐による大量の検証結果は、完全に相手の戦う意欲を削いでいました。高度な戦略ですね」
「はははっ。あー、分かる、スコッティに喋らせれば大体の技術屋は黙るよ。さーすが、俺のエンジニアは遠慮が違うな」
スポックのささやかな歩み寄りは、そのギャップがいつも面白くて、幸せだった。
業務報告が終わってしまえば、自分たちは他愛のないやり取りをするだけである。穏やかで、楽しい、豊かな時間。今日と同じ日が明日も来ることを疑わない、そんな時間だ。
考えなければならないことは山ほどあって、心の中で折り合いをつけなければならないことも、これから自分が背負っていくべき重責も、十分に理解しているつもりである。けれどカークは、彼らと話す間だけは、ただ彼らのことだけを考えた。きっとそうしたほうがいいと、いつもの直感が告げていたから。
「あ、スポック、さっきまでボーンズ描いてたんだけど見る?」
「ドクターを?」
他愛のないやり取りの一環として、カークはくるりとペンを指で回してみせた。スポックはきょとんとして、不思議そうに身を乗り出してくる。
カークはスケッチブックを開いて、該当のページをめくった。ほとんど腰を浮かせた彼が見やすいように、腿の上のタブレットを掲げてやる。するとスポックはみるみるうちに、ものすごく難しそうな表情になった。
「角が
……、生えていますが
……」
「これは今日、俺がお昼の散歩権を交渉したときのボーンズ」
「屋外での散歩はまだ早いです」
「そう言ってめちゃくちゃ怒ったときの顔。ひどくない? ちょっとお伺いしただけなんだぞ」
「念のためお聞きしますが、どのようにご提案を?」
「しおらしい顔で、切実に、90分外出コースでお願いしますって」
「
……その両手の動きはなんですか」
「やっぱ知らないか。育ちがいいなあ。これはなスポック、こっちが俺のチン」
「なるほど。地球人の比喩表現として、角が生えるに値します」
「答えにたどり着くの早すぎない?? だって、何度言ってもたったの10分すら外に出してくれないんだ、嫌がらせもしたくなるだろ」
「そのうち怒りで神獣になりかねません」
「やだボーンズ伝説になっちゃう
……」
「ちなみにキャプテン、私もあなたのその不謹慎な行動について、少し申し上げてよろしいでしょうか」
「はい俺が軽率でした! 結構です!!!」
スポックが深々とした険しい溝を眉間に並べたタイミングで、カークは呼び寄せた彼の顔をしっしと遠ざける。もの言いたげなまま口を閉じるスポックは、けれどおとなしく、再び椅子にちょこんと座った。その様子に満足してから、カークはふと思いつき、デッサンをする画家のように、彼に向けてペンを立てる。
「よし、じゃあ次は君の番だ」
「私を描くということでしょうか」
「角は生やさないよ」
遠慮なくスポックを凝視しながら、気軽にペンを走らせた。絵心はまるでないので、記号的ならくがきだ。マッコイはマッコイと言い添えなければ伝わらない出来だったが、ヴァルカン人は特徴が端的で描きやすかった。前髪を揃えて塗りつぶし、耳と眉をうんと尖らせてやる。
口をむっとさせて、ぷんぷん! と効果音を書き込めば、おこおこスポックの完成だ。絵の稚拙さと単純さが合わさって、自分でふふっと笑ってしまう。
ゆるんだ頬のまま顔を上げると、スポックはまっすぐこちらを見つめていた。
石膏像のように微動だにしないのは、絵を描くことへの配慮だろうか。ひたむきに向けられるそのまなざしに、カークは思わず目を逸らしてしまう。
なんとなく、タブレットを見下ろした。しんと静まり返った室内に、降り積もるような思いがあるように錯覚する。
ひたひたに寄せられる視線の圧力に負けて、再びカークは顔を上げた。スポックは変わらず折り目正しいが、腿の上の手はいつの間にかぎゅっと握り込まれている。ダークブラウンの虹彩は、やたら白いこの部屋の、清楚な明かりを反射していた。
「
――ジム」
そして、ぽつりと、彼はそうこぼす。目を合わせても、スポックは動かなかった。まるで無意識に、こぼされたもののようだった。
ああ、きっと彼は。
ずっと、こうしていたのだろう。この部屋で、ずっと。
眠る自分の姿を見つめながら、ずっとこんなふうに、目覚めを切望していたのではないか。唐突に、そんな妄想が頭から離れなくなる。カークはからからになった口の中を潤すように、ごくりとつばを飲み込むと、もう一度タブレットに目を落とした。行き場のない膨れる思いを持て余しつつ、とにかく何か書こうと、彼の名前を添えてぐるぐると円で囲む。
「でーきた。見る?」
「早いですね」
バレないように呼吸を整えて、間延びした声で沈黙を破った。スポックはぱちりとまばたいて、音もなく立ち上がる。あっさりと霧散した濃密な雰囲気を、少しだけ名残惜しく思いつつ、カークは得意げにタブレットを掲げた。
スポックは、やっぱり複雑そうな表情だ。
「耳が長すぎませんか?」
「デフォルメというものだよスポックくん」
「耳が長すぎます」
「こだわるね」
執拗な文句をつけてくるスポックに笑いながら、カークはまた思いついて、今度はペンを差し出してみた。一緒にタブレットも押しつければ、スポックは戸惑うように眉を寄せて、渡したすべてを受け取ってくれる。
疑問を呈する視線を受けて、カークはにんまりと意地悪く笑ってやった。
「次は君が俺を描く番だ」
「そのような順番は初耳です」
「今思いついたからな」
「私が、あなたを?」
「こんなハンサムは描きがいがあるだろ? ま、ちょっと、今はへろへろだけど」
話の展開がまるで分からない、というようなスポックに、カークは両手を広げてみせる。患者用の部屋着だし、痩せたせいかちょっとだけ骨の目立つ体だ。これも早いところ戻したいと思っているが、リハビリが始まらないことにはどうしようもない。
へにょ、と眉尻を下げて笑いながら見上げると、スポックは突如、決然とした顔つきになった。
そしておもむろにペンを持ち直し、静かにタブレットを片手で構える。
スポックはそのまま、するすると、まるで踊るようにペンを走らせた。
「どんな見た目になろうとも、あなたの本質は変わりません。どんなことがあっても、あなたはあなただ」
飛び出してきたそんな賛辞とも取れる言葉と同じくらい、滑らかにペンを動かし終えると、彼は一式をそっとこちらの腿の上に戻してくる。
カークはそれを見下ろして、ほとんど固まってしまった。下手くそなスポックの似顔絵に寄り添って書かれていたのは、優美な曲線を持つヴァルカン文字だった。
顔を上げて視線で問えば、スポックは豊かな情感をその目に映して、ふっとまつげを持ち上げる。
「ジェームズ・タイベリアス・カーク」
「
――え?」
「と、書きました」
合わさった視線にぽかんとして、一瞬、何が何だか分からなくなった。遅れて、スポックの声でフルネームを呼ばれた、ということに気がついて、途端に心拍数を増やしてしまう。
「絵、だって、言ったのに」
「私にはこう見えます」
「哲学の時間かな」
「この世には解釈というものが存在しますので」
「へりくつ」
そう言って、頑張って、恨みがましい表情を作ってみた。ああこれはまずいな、顔が赤いな、と思っていると、しれっとした顔のスポックは、小さく首を傾げてくる。それから生体モニタを見やり、カークの体調に変化
――主に、発熱していないかだろう、ちくしょう
――がないかを確認した。
問題がないことを悟って、スポックは顔を戻す。
「キャプテン、そろそろ退室します」
「うまい具合に逃げたなこの~」
「可能であれば、多少の描画技術を習得したあとにご依頼ください」
「適当ならくがきすらできないってのも難儀だな」
「困っていませんので。それではまた明日、おやすみなさい」
「
――うん。また明日。
……おやすみ」
スポックは律義に訪問者用の椅子を仕舞うと、ドアの開閉する小さな音だけを立てて去っていった。これも、いつもと同じのことだ。
ひとりきりになった病室で、カークはそっと腿の上を見下ろす。
まるっきり丁寧に描かれた、きれいなきれいな読めない文字。
「
……こんな、きれいなんかな、俺って」
思わず、率直な感想を口にすると、何とも言えないこそばゆさと後ろめたさが同時に湧いてきて、カークはわっと顔を覆った。
スポックにきれいだと思われていることが恥ずかしくて、自分がそうきれいでもないことが申し訳ない。けれど、まるで大事にされているみたいで、嬉しくて嬉しくて仕方ない。ばかみたいに。
どうしようもない気持ちでいっぱいで、しばらくごろごろしていると、そのうち血圧アラートが鳴ってカークは飛び上がった。
夜のとばりが降りる頃、いつもスポックはやってくる。毎日のうちの少しだけを共有する、彼とのささやかな時間は、いつもいつも、こんなふうに優しかった。怒られることがあっても、少し意見が食い違っても、最後は同じ明日を夢見て、おやすみなさいと安らかな夜を願う。
毎日、明日が来るのが楽しみだった。
今はそれしか娯楽がないから、と言われてしまえばそうだろう。けれど、本当に楽しみなのだ。
いつ退院できるか分からないことも、今の自分の健康状態が続くのかどうかも、みんなに心配をかけていること、ほったらかしてしまっている仕事のこと、静かな病室で動けないままひとりきりでいると、あとからあとから考えてしまういろんな不安、悪い夢を見て真夜中に起きてしまうこと、そういった、いずれは解決しなければならない重い問題を、両足踏ん張って受け止められるくらいに。
カークは日がな一日、時間ができれば、スポックのヴァルカン文字を眺めて過ごした。定時にやってきてストレッチや清拭を手伝ってくれるマッコイから、何にやにやしてんだ気持ちわる、という温かい言葉をたまわったくらいだ。うるせーよ、なんて返しながら、自分もスポックの名前を書いてみたい、と浮ついたことを考える。ヴァルカン文字を練習して、うんと発音が難しいらしい彼の名前を、きれいにきれいに描いてみたくなった。それでどれだけ自分がスポックのことを大事に思っているのか、とことん思い知ってほしい。
「
……いや、でも、あんまり伝わりすぎると気まずいな」
うんうん、と独り言をこぼしながら、ばかみたいに頷いてみせる。カークは生体パネルの端を見やって、現在時刻を確認した。
もうすぐスポックが来る時間だ。そう思った瞬間、敏感になった聴覚が、ぷつ、とコムをつなぐ音を拾った。
『
――ジム。起きてる? 入っても、いい?』
ぱっと笑顔になった自分の顔が、露骨に凝り固まるのが分かる。
一瞬、誰か分からなかった。実際、声だけなら判別は不可能だ。けれど、不安そうに抑えられた女性の声と、今この部屋に無条件で出入りできる人物のリストを照らし合わせれば、それが誰かは容易に推測できた。
カークは、しばらく逡巡した。できることなら、寝ていたことにしてしまいたい。
けれど、もうすぐスポックが来てしまう。スポックには、帰ってほしくない。
四散してぐるぐるとまとまらなくなった思考のまま、そろりと手を伸ばして、カークは内線をつないだ。
「どうぞ」
がちがちに硬い自分の返答に応じて、静かにドアが開く。
極度に緊張した面持ちで入ってきたのは、案の定、ウィノナ・カークだった。
目が合う。ある程度向こうも覚悟しているようで、逸らされることはなかった。こちらも逸らすことはしない。
ぐっと息をのむように、動向を窺っていると、ウィノナはゆっくりとそばまでやってきて、ベッドより2歩ほど離れた場所で立ち止まった。
背もたれをいくらか持ち上げてあるベッドに横たわったまま、カークはじっと身を硬くする。相手からコンタクトを取ってきた以上、自分から話す必要も、椅子を勧める必要もないと思った。
人間に遭遇した野生動物のように固まるカークの様子を見て、ウィノナは落ち着きなく生体モニタに目を移す。しばらくその数値を読んだあと、もう一度、意を決するようにこちらを向いてきた。
つま先から頭まで観察して、彼女はそっと口を開く。はく、と空気を食んで、もう一度閉じる。
相手もほとんど用意できていない、と気づいて、カークは少しだけ力を抜いた。最大限に頭を回す必要がある。少しくらいは気を抜いたほうが、自分はうまくやれるほうだ。
「
……体調は?」
考え考え、やっと出てきた言葉がこれだった。
カークは軽く笑って、小さく肩をすくめてみる。
「ごらんのとおりです。ドクターから説明は聞いていると思いますが」
こわごわ距離を測るような物言いが面倒で、殊更丁寧な言葉を選んだ。自分のほうが上官ではあるが、先輩は先輩である。
そんな反応に、ウィノナはびくりと小さく震えた。そして小さな声で、こんなふうに返してくる。
「
……ええ。退院にはもう少しかかると、聞いています」
何年ぶりの会話だろうな。そう言ってマッコイと肩でも組みながら、精いっぱい笑ってやりたい気分だった。景気よくビールでもやって、エンタープライズの上級士官たちとブリッジメンバーを呼んで、朝まで飲んで騒ぎたい。嫌そうな顔をするスポックに目いっぱい絡んで、酔っぱらって抱きついてそのまま眠ってしまいたい。
「ジム。私は
――」
さて、何を言うつもりだ? そんな心構えで、カークはじっとウィノナを見据えた。
見据えられた彼女は、うろたえるように口元に手を添えると、じわりと目に涙を浮かべる。
「あなたまでいなくなったら、私は」
ほら来たぞ、と想像上のマッコイの肩をばしばしと叩いた。俺は医者だ、太鼓じゃない! とかなんとか言いそうだなあいつは、なんて考えると自然と笑みが浮かぶ。
「それはよかったです。俺はまだ死んじゃいない」
「生きていてくれてよかった。ジム、私は本当に、あなたにとってはひどい母親だと思う。でも」
「でも?」
意図せず、強い言葉が出た。
その接続詞を使って何をする気だ、と咎めるような。
ひくり、と言葉を飲み込んだウィノナの目から、ほろりと涙がこぼれる。泣かれるのはシンプルに困るな、と思った。
スポックに抱きついたら、あったかいらしい。おのれボーンズめ。いつかあの体にくっついて、さわやからしい匂いを好きなだけ嗅いでやる。
「あなたは大切な人を喪って、とてつもなくひどい目に遭った。俺も、俺の親友たちがいなくなったらと思うと、想像して余りあります。あなたはとてもひどい目に遭った」
「
……ジム」
「それと同じように、俺もひどい目に遭いました。確かにあなたはひどい母親だ。そして、それが変わることはありません。こうして話していても、やっぱりあなたはひどい母親だと思う」
ああだめだ、これはちょっと感情的だ、とカークは話を切った。自分の言葉に自分で興奮して、頭に血がのぼってしまう。
今こそ、ヴァルカン人の作法が必要なときだった。助けてスポック、俺にヴァルカンパワーを分けてくれ。
愕然とこちらを見つめる濡れた双眸に、カークはそっと目を閉じた。ゆっくりと息を吐いて、手元に触れる大きなおもちゃのタブレットを握りしめる。
「あなたのことは、可哀想だと思います。そんなに悪い人でもないし、過去に囚われず幸せに暮らしてほしい。ただ、それは俺の見えないところで起こってほしいと切望します。カークさん」
『
――キャプテン』
言い終わるタイミングで、聞き心地のいい低音が耳を打った。カークはぱっと目を開けると、さっとコムに手を伸ばす。
ウィノナのほうは見なかった。こちらの態度をどう思ったかは分からないが、もう何もかも、どうしようもないことだ。
「スポック! もう終わるから帰るなよ」
『私は待機していますので、十分に時間をお使いください。それだけお伝えしたくて
――』
「すぐ済むから! 10秒待ったら入ってきてくれ。命令だぞ、スポック」
『
……分かりました』
スポックからの同意を取りつけると、カークはぱっと手を離した。おどけた表情でウィノナのほうを向けば、涙をぬぐって平静な態度に努める彼女は、戸惑ったように1歩下がる。
本当に、可哀想な人だと思った。もっとうまくやれたことは、もしかしたらあったかもしれない。けれど、自分がそうだったように、どうやったらいいのか分からなくて、最低なことを繰り返してしまったのだろう。彼女にとってのパイクや、マッコイやスポックが、彼女にいればいいと思う。
ただ、もうこの人を親だと感じる気持ちはないだけだ。
「またどこかで会うかもしれませんが、お元気で」
見つめてくるまなざしに、カークは軽く微笑む。敬礼をすると同時に、ドアが開いた。
スポックは一瞬、精密に部屋の状況を確認してから、音もなく歩み寄ってきた。突然現れた長身のヴァルカン人に、ウィノナはもう1歩後ろに下がる。そしてスポックとカークを見比べると、少し疲れたように、小さな吐息をこぼした。
「健康に気をつけて、ジム」
そう言って、彼女は部屋をあとにする。静かにその背中を見守っていたスポックは、ドアが閉まると同時にベッドへ体を投げ出した上官に視線を戻した。
「
……よろしかったのでしょうか」
「何が」
「私が中断させたのでは」
「いいんだよ。というか、来てくれて助かった。もっとひどいこと言っちゃいそうだったし」
「ひどいこと?」
「はああ、疲れた
……、いきなりすぎるんだよまったく。もうスポックがここに座ってくんないと報われない!」
「私がベッドに座ることとの因果関係が見受けられません。椅子に座っても?」
「椅子は却下。いいだろスポック、たまには横着してみろよ」
そばにいてほしい、という言葉を変換して、にやにやした笑みを作ってベッドの縁をぽんぽん叩く。
スポックは眉間に皺を寄せて、しばらくそんなカークの様子を観察した。それからおもむろに口を引き結ぶと、きゅっと制服の裾を伸ばして、1歩、ベッドに近づいてくる。
自分で言っておいてなんだが、カークはちょっと驚いた。本当に、上官のベッドサイドに尻を乗せるなんてことを、スポックがしてくれるとは思っていなかったのだ。慌てて頭のほうに手をやって、ベッドの高さを少し下げる。すると、ヴァルカン人の部下は、小さく失礼と断って、ほんの近くに座ってくれた。
そびえ立つような背中を見つめて、カークは息をのむ。彼がどこまで歩み寄ってくれるのか、いっそ試してみたいという好奇心が、腹の底でぐるりと渦巻いた。
そっと、さりげなく、体をずらして近づく。手を伸ばせば届く距離だ。背もたれからほとんどずり落ちるような形で、よく伸びた背中を見上げて、カークは自分の手を握り込んだ。
「
……キャプテン」
顔を見られないのは、少しマイナスだな。そう思いながら、小さな呼びかけに耳を傾ける。
「なに」
「彼女からの面会を、断りましょうか?」
「ええ?」
「ひどいことを、言いそうだと。それはつまり、ひどいことを言われたのでは?」
「えええ」
突然、思いがけない提案をされて、カークは吹き出した。シーツに頬をこすりつけながら、ひとしきり笑ってスポックを見上げる。
「やや飛躍した発想だな、ミスター・スポック。それは、相手が誰か分かってて言ってる?」
「
……ええ、あなたの母親です」
振り向いてこちらを見下ろしたスポックの表情は、とても真剣だった。
シーリングライトを遮るように、彼の姿は少しだけ影を作る。カークはゆったりと笑って、この会話を終了させるか思案した。自分にとってはどうということもないが、彼にとっての『母親』は、とても特別なものだろう。
「キャプテン。私は副長権限で、あなたの家庭環境と、過去の保護履歴を閲覧しました」
「おう。いきなりだな? ちなみに俺は君の優秀なアカデミー記録をのぞき見したぞ」
「勝手に閲覧したことは謝罪します。あなたは瀕死の状態でしたし、親族を調査する必要がありました」
「ダウト。それはボーンズの仕事だ。本当のところは? スポック」
思案している間に続いてしまった会話の先が知りたくなって、カークはくるりと指で空気をかき混ぜた。得意げな顔を作って眉を持ち上げながら、スポックの静かな表情をにっこりと見つめる。
彼は、少しだけためらう様子を見せてから、再びそっと背中を見せた。
「
……私は、薄情だと思ったのです」
「
……へ?」
そうして繰り出された答えに、カークは思わず目を丸める。ヴァルカン人が? 情の薄さを? そんな驚きに満ちていると、スポックの髪がさらりと揺れた。うつむきがちになった彼は、腿に置いていた手をぎゅっと握り込む。
「あなたが瀕死の重体になったことも、親族面会が行えることも、艦隊士官であれば当然知っているはずです。もちろん、あなたは独立した成人であり、自身のことはすべて采配できるでしょう。けれど、この1か月、まるで音沙汰もなく、事態を静観していたことは、あまりにも無責任です。いったい何故、そのようなことが起こるのか、私は解明したかった」
とうとうと語られるその言葉は、滑らかに流れるようでいて、少し水底に引っかかるような、一種の不満が感じられた。カークはいよいよ瞠目して、ぽかんとスポックを見上げるだけになる。
彼が人の悪口を言うなんて、ものすごく珍しいことだ。非論理的と断じるのではなく、ただどうしてとしがみつくようなことも。
「あの方が、あまりあなたを顧みなかったことには、相応の理由があります。ですが」
「人の母親にずけずけ言うなあ」
「申し訳ありません。ご不快でしたら取り消します」
とりあえず、素直に思ったことを伝えてみたら、スポックは早口でそう言い添えた。それがまるで慌てているみたいで、カークは笑って力を抜く。いつの間にか全身に力が入っていたようで、柔らかいマットレスが優しく背中を包んでくれた。
微動だにしない平らな背中は、まだ向こうを向いたままだ。こちらを向いてほしい、とカークは思った。
「いちいち相手の感情を推し測って事実に口ごもるのは、非論理的ってやつじゃないか?」
「はい。ですが、私はあなたを不快にしたくありません」
「ああもう、ちょっと待って、スポック」
ふいに、彼の情動の正体が分かって、思わず両手で顔を覆う。ベッドに小さく圧力がかかって、スポックは振り向いたようだったが、カークはしばらくそのままでいた。
スポックは、大事にしてほしいのだ。俺のことを。
ウィノナ・カークに、大事にしてほしいと思っている。そしてそれが果たされていないことに、腹を立てているのだ。
なんてことだろう。そう思うと、まるっきり泣けてきそうな心境になる。スポックがそう思ってくれてるってだけで、もうすべてが十分だった。
「キャプテン?」
「ジムって呼べよ、いつもみたいに。君はなんだかずっと、俺をジムって呼ぶことに躊躇してるみたいだ」
「
……それは」
「俺が寝てる間にどんだけ俺のこと呼んでくれたのかは分かんないけど、今度はちゃんと目を開けるから、呼んでよスポック」
両手で顔を覆ったままそう言うと、間近にいるスポックは小さく息をのんだ。
それから少しだけ身じろいで、十分な時間をかけたあと、かすかにそっと息を吸う。
きっとそれだけの時間、彼は自分が目覚めることを願っていたのだ。そう思うと、引き絞っている涙腺がゆるんでしまいそうだった。
「
――ジム」
静かに、けれど確かに、まるで大事な秘密の言葉を紡ぐように、スポックはそうささやく。
カークは、ぱっと手を離して目を開けた。かち合った彼の双眸は、まぶしそうに少し細められる。
「ジムだよ~」
「
……お元気ですね」
自分の顔の両サイドで、ぱっと手指を広げてそう言うと、スポックは柔らかく、優しいまなざしでそう言った。
スポックがウィノナに望むことは、スポックが当然の行いだと考えることだ。つまり、彼は彼の母親によって、そのように大事にされていたのだろう。病気や怪我をすればすぐに駆けつけて、きっと身の回りの世話を焼いたに違いない。
のっそりとした図体で静かに座っているスポックに、カークはなんだか嬉しいような気持ちになった。なるほど、自分の大事な人が、きちんと大事にされているというのは、すごく気持ちがいい感じだ。スポックがヴァルカンでいじめられたりしていたら、自分は後先構わず乗り込んでしまいそうである。
「母親のことは、そんなに心配するなよ、スポック」
微笑んでそう言えば、スポックは疑わしげに眉をひそめる。心配性がマッコイから伝染でもしたか? とこちらも疑わしく思いつつ、カークはぽんぽんと彼の腕を叩いてやった。
「もう、いろいろ割り切ってるから。君もこうして来てくれるしね」
「割り切って?」
「そう。ま、俺がアカデミーに入るってなっても、結局なんにもなかったから」
「なんにも
……」
「俺の履歴にそう書いてなかったか?」
「彼女は、長期に渡り不在だったと」
「そう。でも、別におかしなことじゃない。たまたま、うちはそんな感じで、俺とあの人はあんまり合わなかった。それだけ。小さい頃はさみしい思いもしたけど、まあ、今更なんだよな。俺は今、こんなに立派に育ってて、自分の生活を確立してて、自分の船と家族だって持ってる。いなくても暮らしていけるようになった途端に近づいてこられても、俺は正直、ちょっと困るよ。あの人の椅子は、もうないんだから」
少し、悲劇的に言いすぎただろうか。自分のこういう思考を言葉にするのは初めてで、なかなか加減が分からない。
けれど、スポックと『母親』のことを話すなら、ちゃんと言葉にするべきだと思った。
見下ろすスポックは、寄せていた眉をほどいて、どことなくしゅんとした顔つきになる。それがかわいくて笑っていると、彼はそっと身じろいだ。
ずる、と尻をずらして、もう少しだけこちらに体を向けてくる。
「
……それは、悲しいものでしょうか」
「悲しい
……、のかな。うん。まあ、悲しい出来事ではあったかな」
「ジム。あなたが悲しいのなら、私も悲しいです」
「えええ、大きく出たな、君が悲しい? どうしちゃったんだよもう、スポックめ」
なかなか斬新な発言をするスポックに、カークは思わず吹き出してしまった。軽い笑みで軽く言って、内心の動揺を抑え込む。彼が見せるひたむきなまなざしは、確かに、悲しみに沈むような静けさをたたえていた。
スポックが喜怒哀楽を渡そうとする、なんてのは、もちろん驚きの事態なのだが。
単純に、スポックが悲しいのは自分も悲しいな、と思った。
「でも、さみしくはない。今はね」
どうしようもないメビウスの輪を脱しようと、カークはおどけてそう言ってみる。実際、事実だった。
するとスポックはぱちりとまばたいて、心得たように小さく顎を引く。
「あなたがさみしくないのなら、私はとても幸せです」
「うわあ、出ちゃったよ、ベリーハッピー」
ヴァルカン人が見せるあまりの素直さに、カークは手持ちのカードを使い切った気分で、ベッドに身を投げ出した。