冬野暉/Hikari Fuyuno
2023-07-03 17:41:15
17291文字
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痣と傷

※創作刀剣女士ネタ
※同田貫正国ルート

 その日の目覚めはかつてなく清々しかった。
 昨日まで胸を塞いでいた息苦しさが消えていた。節々が熱を持って膿んでいるような倦怠感も、血が混じった痰を吐くたびに焼ける喉の痛みも、嘘みたいになくなっている。
 白いカーテンから射しこむ朝陽が宙に伸ばしたまま固まった両腕を照らす。
 青白い肌に焼け爛れたような錆色の痣がまだら状に広がった、頼りない娘の手。
 そろそろと自分の顔に触れる。
 ウェーブがかかった雪藍の髪に取り巻かれた面は白く、十代後半の少女の、清婉で整った造作をしている。濃い藍色に煙る睫毛がふちどる垂れ目がちな双眸は若草色で、薄く開いたくちびるは瑞々しい桜色だ。
 だが、顔の左半分――左目の周辺を覆う錆色の痣は、美しいという言葉とはかけ離れていた。
 痣まみれの指が左目に触れ、震えながら拳を握りこんだ。
 ベッドから起き上がると、長い髪がうねりながら腰まで流れ落ちる。
 掛布を剥いで両脚を床に下ろす。丈の短いワンピースタイプの患者着からすんなりと伸びた右脚も錆色の痣が虫食いのように浮かんでいた。
 そこは白く殺風景な病室だった。
 パイプベッドと枕元の床頭台があるだけだ。昨日までほぼ寝たきりの生活だったのだから、これでじゅうぶんだった。
 冷たい床をよろよろと歩く。
 寝ついたあいだに筋力が落ちたらしい。それでも倒れることなくドアまでたどり着き、どん、と拳を叩きつける。
「だれか……だれか! 主様が……あたしの主様が……早く、早く! 手遅れになる前に、早く助けて!」
 どんどんとドアを叩きながら、絶望のような確信を強く覚えた。ドアに額を寄せてずるずると崩れ落ちる。
 違う。この感覚は……もはや手遅れなのだ。
 主は、たった二度しかまみえることのなかった自分の審神者は、手の届かない場所へ旅立ってしまった。
 顔を両手で覆ってうなだれる。ドアの外がばたばたと騒がしくなった。
正君まさぎみ! 疱瘡正宗ほうそうまさむねさま! 先刻本丸から入電があり、審神者さまが……
 スライド式のドアが開き、黒い管狐――くろのすけが飛びこんできた。
 本丸との連絡係を担っている政府のナビゲーションAIだ。この刀剣専用の医療施設に収容されて以来、何かと気にかけてくれている。
 名を呼ばれた疱瘡正宗がのろのろと顔を上げると、くろのすけは動きを止めた。ふっさりとした丸い尾が力なく垂れ、頭を彼女の膝にこすりつける。
 やさしい被毛の感触に口元を歪め、疱瘡正宗はくろのすけの背中を撫でた。
「主様が亡くなったんだね」
……はい。本丸のこんのすけから、いましがた息を引き取られたと……入電がありました」
 ぐうと喉の奥が引きつる。
 両手を差しだすと、くろのすけは何も言わず抱きしめさせてくれた。
「主様は苦しまれずに逝けた?」
「ええ……ええ。正君が呪詛を引き受けてくださったお陰で、安らかに、眠るようなお最期だったと」
「そう、そうか……それならよかった。本当に……よかった」
 涙を瞼の下に押し隠し、くろのすけの毛並に顔を伏せる。管狐はクゥンと鳴いて疱瘡正宗に頬擦りした。
 ――疱瘡正宗は、ある審神者の女性の形代として顕現した刀剣女士である。
 疱瘡正宗の主は時間遡行軍の襲撃に遭い、その際に歴史修正主義者から呪詛を胸に受けた。
 それは徐々に肺を腐敗させ、最後は呼吸できずにもがき苦しみながら絶命するという病のごとき呪いだった。
 優秀な審神者である女性を救うために政府はあらゆる方法で解呪を試みたが、呪詛はあまりにも手強かった。結果として、病状の進行を二分の一のスピードまで遅らせる程度のごまかしで終わった。
 最後に選ばれたのは、刀剣の付喪神に呪詛の病毒を移し替えて延命を図る形代の術だった。
 徳川宗家伝来の打刀・疱瘡正宗。疱瘡快癒の祝いの品として時の将軍から世継ぎへと贈られること四度よたび
 その逸話から、主の身代わりとなって病や呪いの穢れを引き受けることができる、稀有な性質を持つ。政府は疱瘡正宗の特性に目をつけ、試験運用を兼ねて女性に顕現させた。
 はじめてまみえた主の姿が眼裏によみがえる。
 呪詛の病毒に侵された身は儚く痩せ細り、自らの脚で立つことも儘ならず車椅子に座りこんでいた。
 だが、落ちくぼんだ眼窩の底の瞳は溢れんばかりの気概に白熱していた。凍雪を割いて細い茎の先に花を咲かす一輪草のような、凛然と美しいひとだった。
 枯れ枝を思わせる両腕は大事そうに腹を抱えていた。膨らみらしい丸みはまだほとんどなかったが、女性の仕草から身重だとひと目でわかった。
 政府がなんとしても呪詛を解こうとした理由こそ、女性の懐妊だった。夫君である刀剣男士は本丸襲撃時に命を落としていたが、女性の胎内には忘れ形見が宿っていたのだ。
 将来の審神者候補の確保は戦局を左右する急務であり、審神者の婚姻・出産は大いに奨励されている。審神者同士のみならず、付喪神や妖異との交わりによって生まれる半人の子は総じて強い霊力に恵まれるため、殊更手厚い庇護下で育てられる。
 政府の意図は、形代の術による延命で出産までなんとか母体を持ち堪えさせようというものだった。わが子の命を最優先に望んだ女性もこれに同意し、疱瘡正宗の顕現に至ったのだ。
 ――どうか、このこを。
 助けてほしい、力を貸してほしいと願う声が仮初めのからだに命を吹きこみ、心臓を動かした。
 形代の特性と引き替えに、両手と右脚、顔の左側に穢れの痕が醜い痣として残った。
 刀剣の付喪神は美しい者ばかりだ。主の目に、自分の姿はさぞ不快なものとして映っているに違いない。
 覚悟して向き合った主の顔には戸惑いこそ浮かんだものの、疱瘡正宗が呼び声に応えたことに対する喜びに一瞬で払拭された。ただひたすらに疱瘡正宗に縋り、希求するまなざしに、目覚めたばかりの魂が打ち震えた。
 差しのべられた手を取ることに、迷いなど浮かばなかった。
 ――あたしをお望みですか。
 ――でしたら何度でも、お役に立ってみせましょう。
 ――あたしは空蝉、あたしは形代。あなたの苦しみを、どうぞこの身へ移し替えてください。
 両手で押し戴いた主の手の甲に忠誠の接吻をすると、震えながら固く握り返された。
 ――ありがとう、正宗。
 斯くして人と刀の誓約は成され、主の呪詛を肩代わりした疱瘡正宗はこの医療施設に隔離された。
 疱瘡正宗が病毒の穢れを引き受けているあいだ御子は順調に成長し、月満ちて出産の日を迎えた。産声を上げたのは、父君譲りの髪と瞳の色をした玉のような姫君だった。
 最後に主と会ったのは、それからひと月後のことである。
 どうしても娘をひと目疱瘡正宗に会わせてやりたいと主が頑として言い張り、結界の効果を付与した硝子の壁越しに五分間だけという条件で許可が下りた。
 半年以上ぶりに再会した主は更に痩せこけ、背凭れの角度を調節できるタイプの車椅子の上で何本もの管につなげられていた。すっかり髪が抜け落ちた頭を毛編みの帽子で覆い隠し、薄い皮膚に眼球や頬骨のかたちが浮き上がった顔は土気色をしていたが、しっかりとわが子を抱いて幸福な母親そのものにほほ笑んでいた。
 ――このこはあなたの子よ、正宗。
 硝子のむこうの姫君はとても小さく、だが健康そうで、襁褓にくるまれてすやすやと眠っていた。
 ――このこを産むとき、痛みも苦しみも嘘のように感じなかったの。あなたが全部肩代わりしてくれたから、わたしの体力で産み落とせたのよ。
 ――だから、このこはあなたの子でもあるの。あなたがいなければ、このこは無事に生まれてこられなかった。本当に、本当に、ありがとう。
 何度も何度も感謝を告げる主に、疱瘡正宗はたたただ頭を下げた。硝子越しに重ねた手は体温まで感じられなかったが、泣きたくなるほど嬉しく己が誇らしかった。
 ――どうか一日でも長く、姫様のおそばに。そのためにあたしがいるのですから。
 神である自分の祈りをだれが聞き届けくれるのか見当もつかなかったが、朝に夕に祈り続けた。
 再会から更にひと月、主は生きた。呪詛に抗い、審神者として大往生を遂げた。
 ――わずか生後三ヶ月足らずで遺された姫君はどうなるのだろうか。
 疱瘡正宗は洟をすすり、涙を拭うとくろのすけを抱え直した。
「くろのすけ、姫様はこれからどうなるの? 本丸の刀たちで育てるにしても白刃隊のお役目があるし、やや・・をいきなり城主に据えるわけには……それとも、政府から然るべきお方を城代として遣わしてくださるのかしら?」
 くろのすけの耳がピンッと立った。
「正君。ご息女と本丸の今後について、審神者さまの遺言があるそうです」
「遺言?」
「はい。審神者さまのご逝去を以て白刃隊は解散。全刀剣は刀解、他本丸もしくは政府への移籍、どちらかの身の振り方を選ぶようにと」
 管狐の口から淡々と告げられた『遺言』の内容に思わず絶句する。
「ただし、疱瘡正宗のみ所有権をご息女に譲渡。遺言の開示を以て本刀をご息女の護衛刀に任じ、審神者招集可能年齢に達する義務教育課程修了まで本丸において傅育せよ……と、こんのすけからの通信に全文が記載されていました」
 疱瘡正宗はへなりと座りこんだ。
「あたし以外の刀は刀解か移籍って……どうして?」
 くろのすけは口を真一文字に結び、首を横に振った。
「わたくしにもさっぱり……。ただ、以前こんのすけが『襲撃に遭ってから、主様は本丸の刀剣男士に不信感を抱いておられるようだ』とこぼしていたことがありました」
「不信感?」
「ええ。どの男士に対してもよそよそしい態度を取るようになり、身の回りのお世話はこんのすけに任せていたそうです。間もなく懐妊が判明したので、身重のために神経質になられているのだろうと周囲も様子を見ていたのですが……
 くろのすけから、自分を除いて本丸の刀剣はすべて男士だと聞いてはいた。そもそも刀剣女士は存在自体が稀少で、本丸に一口いれば儲け物というのが実情である。
 姫君が生まれてからは、驚くことに大半の世話を病身の主自ら行っていたという。こんのすけのサポートがあるとはいえ、どれほど刀剣男士たちが手助けを申しでても任務を優先するようにと言って頑なに拒み続けたらしい。
 疱瘡正宗は眉をひそめた。
 思い返してみると、主との面会に本丸の刀剣はだれも付き添っていなかった。
 自分ならば、本丸の外で余命いくばくもない主をひとりになどできるはずもない。つまり、主自身が刀剣の付き添いを許さなかったのだ。
……姫様は、いまも本丸に?」
「はい。おそばにこんのすけが控えております。審神者さまのご容態が急変されてすぐに医療班を含む政府のスタッフが派遣されたので、現在はその者たちがこんのすけとともに保護しています」
「遺言を聞いたほかの刀は?」
 くろのすけの視線が一瞬、揺れた。
……反発する者と粛々と受け容れる者、半々だったそうです。遺言に従う意向を示した刀剣は全振り刀解を選び、すでに本丸から退去しています。反発した者は刀剣部屋にて待機中で、説得に応じず退去も拒否する場合は一時的に顕現解除の措置を取って回収する予定です」
 疱瘡正宗は細く息を吐いた。「このこはあなたの子よ」という主の言葉の真意が、ようやくわかった。
 ――わたしの代わりにこのこの母となり、立派に育て上げて。
 ――このこを守って。ほかのだれでもなく、あなたの手で。
 いきさつはわからない。しかしなんらかの『原因』があって、本丸は主母娘おやこが安らげる場所ではなくなってしまった。
 それでも遺していかねばならぬわが子を、主は自分に託したのだ。たった二度しか会ったことのない刀に全幅の信頼を寄せて。
 全面的に遺言の内容を重んじる姿勢を示しているあたり、政府は『原因』について把握しているに違いない。その上で白刃隊に対する主の不信感、遺児となる姫君の身に危険が及ぶ可能性を認め、高い戦力の維持よりも次期審神者候補の安全を選んだ。
 狂しいほどの哀惜を奥歯を噛んで押しこめ、疱瘡正宗は両目を見開いた。睫毛の先から散った光が若草色の瞳に灯り、鮮やかに輝く。
 くろのすけがぱたりと尾を振り、胸を膨らませた。
「くろのすけ。疱瘡正宗は主君の遺言に従うと担当官にお伝えして。護衛刀のお役目、慎んで拝命いたします――と」
「承知いたしました」
 深々と叩頭したくろのすけはパッと顔を上げると、「ひとまず医療スタッフを呼んでくるので、正君はお待ちになっていてください!」と言って慌ただしく駆けていった。
 転がるような勢いで遠ざかる管狐をぼんやりと見送り、疱瘡正宗はふと病室を振り返った。
 しらじらと射しこむ朝陽は昨日と変わらず静謐で清らかだ。だが、薄ら明るい病室はただただ空虚で、確かにもう主はいないのだと理解した。
 疱瘡正宗は空蝉の刀。わが身に注がれる主の苦しみこそ、彼女にとっての愛だった。
 彼岸は遠く、別れは永い。しかし、痣まみれの手は空っぽではない。
「さようなら、主様」
 つなぐべき小さな手を想いながら、疱瘡正宗はひと粒の涙を流した。