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収穫祭の翌朝は最悪の気分だった。明け方まで眠れなかったと言うのもあるが、飲みすぎてふらふらの父さんを明け方に回収してきた母さんが、寝室に引きずっていくのを諦めてそのままリビングに父さんを放置したせいで、僕の部屋まで信じられないいびきが聞こえていたからだ。耳栓代わりに音楽のボリュームを上げて、そうしてまたモーディスの声と音に脳を揺さぶられる。他の曲を聞けばいいだけなのに、そうする気にもなれなかった。
昼近くになってようやく神経が落ち着き、数時間うとうとすることができた。けれど、三日間はりきりすぎた、と言うか、この三日の情報量が多すぎて、完全に許容量を超えてしまったらしい。母さんが夕方頃部屋をノックして僕の様子を見に来るまで、ベッドの上で丸まって動けずにいた。すっかり元気になったような気がしていたけれど、そんなことはなかったのかもしれない。その現実にまた落ち込む。喜んだり落ち込んだりを繰り返して、疲れてしまったのかもしれない。
モーディスのために、ピュティアス先生の所にいって図書館の話を聞かなきゃと思っているのに、外に出るのが怖くなっていた。モーディスと会うのが気まずい、とも思ったけれど、頼まれごとを反故にするのは罪悪感がある。モーディスはもしかするともう、僕のことなんてどうでもよくなってしまっているかもしれないが、村にはあと数週間滞在する筈だ。エリュシオンは何もない田舎だけれど、できれば、僕のこと以外はいい思い出になって欲しい。
収穫祭が終わってから三日間の殆どを寝て過ごすと、ようやく、調子が上向いた。
今日こそピュティアス先生の所に行くのを決め、家を出ると、庭で母さんが仕事をしていた。散歩? と尋ねられ、ピュティアス先生の所に行ってくる、と口にした。
「モーディスが図書館を使いたいらしいから、鍵を貸してくれないか聞こうと思って」
その言葉に、母さんは少しだけ考えるような表情を見せてから、「実は昨日モーディスさんに、あなたのことを聞かれたの」と続ける。昨日? 心臓が跳ねてる。モーディスが昨日、家に来たって?
「そう。スマートフォンにね、あなたの具合を尋ねるようなことが書いてあって。三日間で随分打ち解けたんでしょう? 心配しているみたいだったから、宿に顔を出して上げたら? と思ったんだけど、用事があるならちょうどよかったわね」
母さんの言葉に、曖昧に頷いた。当然のことだが、母さんは僕とモーディスの間にモネータがサーシスに恋をした日数より、何倍も早い日数で恋が発生したことなんて知りもしない。帰郷して塞ぎ込んでいた息子に、いい友人ができたのかもしれないと純粋に喜んでくれているのだろう。
学校に向かい、庭の掃除をしていたピュティアス先生に話をする。ピュティアス先生は僕をパイロットに導いた先生のお孫さんで、僕が村にいた最後の一年だけ、先生として関わりがあった。
「うーん。
……図書館の鍵を他所の人に貸すのはちょっと抵抗があるから、あなたが鍵を管理して、一緒に入退をするならいいよ、本を貸す場合は必ず何を借りたかメモを残してね」
当然の反応だった。僕はモーディスはそんなことをしないともう分かり切っているが、先生は全く関りがない。モーディスとの時間を作る必要が生じたことに嬉しさと同時に緊張を感じたが、それを理由に「入室を許可されなかった」と嘘をつくわけにもいかなかった。
「共用語の本っておじいちゃんの蔵書ぐらいしかなくて、私はあまり読めないから殆ど遺品整理で売ってしまったんだけど、それでもいいの?」
「多分、そんなに読めなくても大丈夫だと思う。かなりの本好きみたいだから」
「へぇ。見た目のわりに意外ね」
やっぱり先生もそう思うよな? と数日前、モーディスが少しむっとしていた顔を思い出した。どう考えても本なんて読まなそうなんだから、そう思うのも仕方がないじゃないか。そう、ここにはいないモーディスに、もう一度言い訳をしておく。
「今月は学校がお休みだから、鍵は持っていていいよ。旅人さんが満足したら返しに来て」
先生から鍵を受け取り、お礼を言って別れると、気が乗らない、と思いながら宿へ向かった。
宿に顔を出すと、掃除をしていたおかみさんが「モーディスさんなら散歩に行ってるよ」と教えてくれる。お礼を言って宿を出て、はたと足が止まる。
よくよく考えると、あのまま部屋で事に至っていたらかなりまずかったよな? そこまで壁が厚いわけでもないし
……。モーディスは来月には村を出て行くから多少の恥は問題ないだろうが、僕はまだいつオクヘイマに帰れるのかわからない状態だった。こんな小さな村で噂になるのは、モーディスと気まずくなるよりもさらに居心地が悪い。当たり前のことに今更気づき、やっぱりあの時理性が仕事をしてよかった、と胸を撫でおろした。
モーディスを探して村をのんびり歩き回っていて、あまりにも静かなことに気が付いた。どうやら僕が寝込んでいた数日で、里帰りをしていた人々はとっくに元の場所へ帰ってしまったらしい。ペソは無事にサインを貰えたのだろうか。モーディスはきっと書いてやっただろうけど。
祝祭の庭の二階か桟橋のあたりにいるだろうか、と思ったモーディスは、結局ブランコのある池の傍にいた。小さなテーブルに場違いなシルバーのラップトップを置き、プロ仕様のヘッドフォンをつけている。休みなのに仕事をしているのか、仕事と生活が切り離せない性質なのかはわからない。
モーディスは僕の姿に気付くと、ヘットフォンを外して、「起き上がれるようになったのか」と無感動な表情で言った。いつ出会ってもかわらない美貌のモーディスは、まるで数日前、僕に好きだと言ったとは思えないほど普通だった。勿論、拒絶されたり、なにか極端な反応が返ってくるよりはましなのだが、少しだけつまらないな、とわがままにも思ってしまった。昨日のことをもしかして覚えていない? と聞いてしまおうかと思ったが、「まさか」と言われてもそれはそれで反応に困るので、藪をつつくような真似はやめておく。
「昨日家に来てくれたんだって? 母さんから聞いたけど、心配かけたみたいでごめん。
………図書館の件はさっき聞いてきたんだけど、僕が鍵の管理をして、一緒に入退するなら使っていいって。本を借りたければ、借りた本をメモしておけばいいらしい」
「今から入れるのか?」
もう少しそっけない反応が返ってくるかと思ったが、その予想は外れた。モーディスは明らかに瞳をきらきらと輝かせてラップトップを閉じると、いそいそと広げていた荷物を鞄にまとめている。
「勿論いいけど」わかりやすい反応に思わず笑ってしまう。「共用語の本はやっぱりあまりないらしいけど、問題はない?」
「ない。それに、お前がいるのであれば、気になればお前に翻訳させる」
ふふん、と何故か得意そうなモーディスに、顔が熱くなるのを感じた。もしかするとこの男は案外人たらしの自覚があって、ずるいのかもしれない。それか、大勢に愛されるスターだから、他人は自分に優しくしてくれるものだと傲慢にも思っているとか。あるいは、この村にいる間だけ恋人を演じることを望まれているのかもしれない。疑似恋愛と言うかなんというか。
……そんな風に、モーディスを悪者としてみようかと思ったけれど、僕には無理だった。もし本当にモーディスに好かれているのなら、僕はどれだけの対価を支払ってもいいだろうと思ってしまったからだ。
「おい、なにをぐずぐずしている? 学校の隣か?」
一人で悶々としているうちに、モーディスは数日前に僕が渡した地図を片手に、僕を置いて歩き始めてしまっていた。
「学校の隣だよ」
待ってくれ、と慌てて背中を追いかける。
学校の隣に設置された物置サイズの「図書館」の鍵を開けると、学校を閉めている間もピュティアス先生が定期的に掃除をしているのか、妙な湿気や埃臭さは感じなかった。
小さな机が三つと椅子が同じく三つ。僕も共用語の基礎をここで先生
―ピュティアス先生のお爺さんだ
―に教わったっけ、と懐かしい感じた。分厚いカーテンの下から潜り込み、窓を開ける。日光を遮断するために、カーテンは開かないよう、上で固定されている。
部屋の灯りをつけて、風に少し揺れるカーテンの隙間から日差しが床に差しても、まだ室内は少し暗い。テーブルランプを付け、モーディスに棚の分類表記の説明をしようとすると、すでにモーディスの姿は入り口にはなく、本棚と本棚の間にいた。
「棚の説明しようか?」
「分類記号を見ればわかる。ここは芸術だろう」
モーディスに言われ、棚の振られた数字を見る。僕にはわからなかったが、確かに芸術の棚だった。
「ええと、じゃあ、用があれば呼んで。そこにいるから」
「時間はいいのか?」
「
……予定は特にないから」
「
…………………………そうか」
モーディスは表情を変えなかったが、質問を失敗したな、と思っているのがなんとなく伝わってきていて、その気遣いがちょっとだけ苦しい。なにしろ村に帰ってきてからの僕は、起きる時間と寝る時間を決めてはいるものの、朝食を食べてまた眠ったり、散歩にでて両親の仕事を少しだけ手伝ったりはするけれど、それも調子の良い時だけで、日々の予定は全くといっていいほどない。何かしなくちゃと思うことはあるが、本を開いても文字は頭に入ってこないし、仕事のことを考えると具合が悪くなる有様で、「しばらくは《なにもしない》をしていいんですよ」とヒアンシー先生にも言われていた。
「今日のところはすぐに借りる本を決める。急だったから、待つ間手持無沙汰だろう」
モーディスは手に取った本をぱらぱらとめくると、脇に抱えて棚に視線を戻し、本の背を指先で撫でている。本を手に取ってページをめくり、棚に戻すか脇に抱えるかを数度繰り返したのち、「これにしよう」と少し大判の本だけを残した。
「読めそうかい?」
「これは楽譜だから問題ない」
モーディスは楽譜を開き、嬉しそうに笑う。顔が可愛い。
……じゃなくて。
「そっか、君にとって楽譜って共用語みたいなものか」
僕には楽譜だなと言うことしかわからないし音も想像できなかったけれど、モーディスは「そういうことだ」と頷く。
「貸出カードがこの辺にあるはずなんだけど
……」
部屋の入口にある背の低い棚の上に、小さなカードとペンの入っている入れ物が置いてあった。一枚を抜いて、誰の名前を書かれていないことを確かめる。
「タイトル書くから、本を見せてくれ」
モーディスから楽譜を受け取り、タイトルと日付をカードに書く。ケースにカードを戻して、楽譜を返そうと隣のモーディスに向き直る。両腕を組んで部屋の柱に背中を預けていたモーディスはすぐには本を受け取らず、僕に意味深な視線を向けた。
「
……それで?」
さっきまで感情の読み辛い無表情を浮かべていたモーディスが、今は眉を寄せて、拗ねたような顔をしていた。え、と思わず声が零れるのと同時に、モーディスがため息を吐いた。
「お前も俺と同じだと思っていたが、まさかこのままなかったことにするつもりか?」
「お、同じって
……?」
思わず、背後を振り返った。扉がしっかりしまっていることを確認し、モーディスに視線を戻すと、おい、と不愉快そうに鼻を鳴らされる。
「散々俺にいやらしい目を向けていたのはお前の方だろう」
「いっ、いやらしいってそ
………………、それは
……」
モーディスの明け透けな言い方にかーっ、と顔に熱が上る。否定できる余地はどこにもなかったが、こんな風にはっきり言われるのはかなり恥ずかしい。
「それはその、
……ごめん、気持ち悪かったよな
……」
「? そんなことは言っていない。酔っている俺が嫌だっただけで、今はいいのか?」
「へ? ちょ、ちょっと待った。え? あの、昨日の話って
……本当に本心で言ってる?」
モーディスの困ったような表情に、昨日の会話を慌てて振り返る。好きになったとは言われて、キスまでした。と、言うことはそう言うことだって理解していいんだろう。多分。
「ええと、念のため確認したいんだけど、セフレを募集してるわけじゃないんだよね?」
「は?」
「ごめんなし、今のなし! 聞かなかったことにしてくれ」
地を這うような低い声に、慌てて否定する。けれどモーディスの瞳は剣呑そうに吊り上がっていて、盛大な舌打ちが落ちた。
「そういう相手がいるように見えるか?」
モーディスの言葉は疑問形だったけれど、肯定したら絞め殺すとでもいいそうな鋭い目をしていた。慌てて首を横に振り、ごめん、と口にして俯く。冷や汗が首の後ろを流れて行くのを感じながら、自分で言った言葉に傷ついていた。いや、傷ついたのは僕よりモーディスの方だろう。
「すまない
……」
もう一度謝罪をすると、「それがお前の答えか?」とモーディスが静かに言った。
「それともセフレなら歓迎という意味か?」
「どっちも違う!」
慌てて顔を上げた先の表情に、ぎくりと体が強張る。金色の瞳を細めて、冷たく僕を見つめるモーディスがいたからだ。雑誌やテレビで見る、鋭利な刃物のような鋭い美貌。誰も気安く触れるな、と全身で言っているかのようだった。ごく、と息を呑む。
「
……ごめん、誤魔化そうとして変なこと言った。そんなこと、本当に思ったこともない。正直に言うよ」
情けないことを告白するのは本当に恥ずかしい。だけど、昨日のモーディスの言動が「酔ってたから」ではないとわかった以上、僕も、誠実に向き合うべきだった。頭の中で、一瞬でも恋人を望んだのであれば。
「確かに僕は君に惹かれてる。それは誤魔化しようがない事実だ。だけど、
….僕と付き合って君にメリットがない」
「メリット?」剣呑そうな表情で聞いていたモーディスが、困惑したように表情を緩める。「お前はメリットで人間関係を構築するタイプだったのか? その性格と顔でそれは、俺よりかなり意外性があると思うが
……」
理解できない、と書いてあるモーディスの表情に「そうじゃないけど」と反論する。そういえば、何故かずっとモーディスの僕に対する評価が高いと不思議に思っていたが、事故で僕を知ったのなら、僕がモーディスに理想像を抱いていたように、モーディスも僕に「事故を救った英雄」という理想像を抱いていたのかもしれない。
「違うけど、でも今の僕はその
……——パイロットじゃないし、こんなだから」
「? それがどうした?」
「えっ」
深刻な事実を告白した、筈だった。なのにモーディスは首を傾げて、本当にわからない、という顔をしている。
「いや、重大な事実だろ!? 僕はもしかしたら復帰できないかもしれない。今のところ、目処は立ってないから
……」
「二度と飛ぶなと言われたわけではあるまい?」
「そうは言われてないよ。だけど、復帰したとしてもまずは地上勤務からで、暫くはやっぱり飛ぶことはできない。それは君の思うような僕じゃないだろ。だって君はその、パイロットの僕が好きなわけだろ」
モーディスはまだ僕の言葉がピンと来ないのか、パチパチと瞳を瞬かせて、困惑したように眉を寄せている。もしかして僕の感覚がおかしいのか? そう思うが、普通、新しい恋人に仕事をしていなくて、こんな状態の人間は選ばないだろう。ましてやモーディスみたいに、世界中から愛されてるような人は、僕以上に相応しい人がいくらでもいるに決まっている。
「そんなことを言った覚えはないが、そう受け取られる余地はあったか
……?」モーディスの独白のような一言が落ちる。その言葉にちょっと救われた気がしたが、同時に、自惚れるな、と胸に鋭い痛みも感じた。「お前が俺を救ったのは事実だ。お前が今パイロットであるかどうかも、お前が今休んでいることも関係がない」
「関係ない
……?」
ない、とモーディスが力強く口にして、僕の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「お前がパイロットに復帰しようできまいが、それと俺の感情に関係はないが、俺を救った男がこんな田舎の村で
——のどかでいいところだとは思うが、お前に相応しいとは正直思わん
——燻っているのは気にいらん。休養するにはいいのかもしれないが、医者も近くなく、刺激も少ない。このままでは、お前はここで人生を終えてしまうかもしれん。お前に礼を言いに行くと決めた時には、ここまでお前の人生に深入りするつもりはなかった。勿論なにか手助けできることがあればとは思っていたが、それはお前が俺に助けを求めるならば、と考えていた。今は
——お前が言うと言わざるに関わらず、助けてやりたいと思っている。できれば俺の力で」
「
……それはどうして」
「お前を愛したからに決まっているだろう。愛するものの人生を思って何が悪い?」
堂々とした言葉に、ぽかん、と口を開けてしまう。何を言われたのか理解するのに、何度も頭の中でモーディスの言葉を繰り返す必要があった。関係がない。僕がパイロットじゃなくても、仕事ができる状態じゃなくても。そう言われるのは
……純粋に、嬉しかった。重苦しく胸につっかえていたものが急にスッと取れて、どこかへ消えてしまったと感じるくらいには。
「
……ぼ、僕もその、君に惹かれてるし、君に望まれて悪い気はしないどころか、舞い上がりそうなほど嬉しいよ。
……だけど、だからこそ思うんだ。今の僕じゃ君には釣り合わない。君はスターで、僕は休職中の一般人。そんな人間が一緒になれるわけが、」
「その割には随分とキスに乗り気だった気がするが」
言葉尻を掴んで差し込まれたモーディスの言葉にたじろぐ。確かに昨晩の出来事は、何も言い逃れができない。
「そ、それはしょうがないだろ
……、君だって好きな相手にキスをねだられたらするんじゃないか?」
「ああ」
ここでそんな簡単に頷くなよ、と僕は再び言葉をなくし、モーディスをじっと眺めていた。どうしてモーディスが僕なんかを望んでいるのか、僕は本当にわからない。僕がモーディスを好きになるポイントは幾つだってあるのに、その反対は何も思い浮かばない。今の僕には職も財も地位もない。モーディスにはその全てがある。それなのに。
「
……そんなにお互いのことを知らないだろ」
「なら、残りの日数で知っていけばいい。それで違うなと思えば、俺が村を去った後はそのまま関係を絶てばいい」
僕がどんな言い訳をしようと、モーディスにはどうやら響かないようだった。彼は自分の決定が正しいと信じているのだろう。
「ごちゃごちゃ言っているが、俺はちゃんとわかっている。ようは、村を去る前にお前の心を動かせばいいと言う話だ」
僕の手から楽譜を取り、モーディスは図書館を出て行く。
「暇なら、明日から午後は宿の夕食まで読書に付き合え。お前が鍵を持ってくるのを待っている」
僕が鍵を閉めるのを確認せずに、モーディスは大事そうに楽譜を持って、宿へ帰っていった。
*
それからの一週間、午後の殆どを本当にモーディスと図書館で過ごした。と言っても図書館でモーディスが僕にキスをねだったり、なにかアピールをしてくることもなく(本音を言えばちょっとだけ期待していた)、純粋に本を読んだり、持ち込んだラップトップで作業をしているモーディスを何もせず、贅沢に眺めるのが殆どだった。時々モーディスが僕に本の内容を尋ねてくる度に、向かい合っている状態から隣に移動し、内容を確認する。自分の読書では信じられないほど文字が頭に入ってこないが、モーディスのためだと思うと普通に読めて、意味も理解できる。そういった現象に直面する度に、ヒアンシー先生の「いい影響を与えているのでしょうね」と言う声が脳裏に蘇った。
モーディスは僕が隣に座ると、いつも、少しだけ距離を詰める。わざとなのか、たまたま触れてしまったのか絶妙にわからない間隔で、肩や腕や髪がそっと僕に触れて、その度に緊張した。モーディスの表情をそっと伺おうとしても、そういう時のモーディスは真顔を崩さず、早く読め、と翻訳を急かして来るばかりだ。どう考えても弄ばれていると感じたが、悪い気はしなかった。
次の一週間に入る前、モーディスが「宿のキッチンを借りられるようになった」と鍵を閉めている僕に言った。日曜日だった。
「しばらくここで知ったレシピの練習をするから、図書館通いは週二程度にするつもりだ。月曜と木曜の午後はここに来い」
会う時間が減るのはがっかりだったが、それをなるべく表には出さないようにした。一週間の図書館通いでモーディスのことがまた少しだけ分かったけれど、それでも、このまま隣に立つ自信は今の僕にはやっぱりなかったからだ。モーディスはメリットなんて関係ないと言ったけれど、僕みたいななにもない一般人が傍にいるなんて、どこかの未来でバレたら恥をかかせてしまうだろう。
……なんて、そんな考えが全て言い訳だということはわかっていた。ただ単に僕は臆病になっていて、自分に自信がないだけだった。モーディスは口にしたことを違えるようなことはしない男だろう。だから、今の僕がどうであろうと関係がないと口にしたのは、嘘偽りのない真実だ。そう信じられるのは、彼が自分自身の持つ言葉の強大さに対して、かなり自覚的だからだ。僕の前ではかなり砕けているけれど、収穫祭の間、僕が通訳する間、モーディスは最低限の言葉しか口にしなかった。別に誰彼構わず威圧的な態度を取っていとかそういうことではなく、線引きがきちんとしている。そう感じた。
だからこそ、こんなにうだうだ迷っている。モーディスはどうやら本当に僕のことが好きらしい。信じられないことだが。だけど、彼が様々なリスクを背負っていることを理解しながら、たかが恋愛感情で彼のイメージやキャリアを壊してしまうようなことを僕がしていい筈がない。もう少し若い時分だったなら、もっと短絡的に行動したかもしれない。だけどもう、社会人になって十数年も経過したいい大人だ。もしモーディスの隣にいることを望むなら、僕はせめてもう少し、世間に胸を張れるような生活に戻らなくちゃいけない。そう思っている。
「
……でも、モーディスは別に関係ないって言うんだろうな」
図書館の壁にもたれかかって、随分と長い間悩んでいたようだった。すっかり日が暮れて、空には月が上っている。
月夜に照らされながら自宅まで帰る間、モーディスとの関係をどうすべきか悩んでいた。
翌週はモーディスに言われた通り、月曜日に図書館で待ち合わせをし、先週と同じように彼の読書を手伝った。火曜と水曜は予定がなくなってしまったので、また、以前のように村を散歩したり、父さんの代わりに釣りをして時間を潰すことにした。散歩の合間や釣りのポイントを変える間、宿の傍を通りかかると、空いた窓からモーディスがギターを弾く音が聞こえた。彼の音楽ジャンルとは明らかに異なるし、村に伝わる音楽とも違う。基礎に立ち返ると言っていたから、きっとクラシックを弾いているのだろう。音楽に関しては全くわからないが、耳に心地のいい音だ、と素直に感じた。普段、眠るときに聞いている「メデイモス」の激しい曲とは何もかもが違ってイメージとかけ離れていると感じていたが、僕にとっては荒天も好天も同じ空で、飛ぶ際の技術やリスクが異なるだけ、と言うのと同じようなものなのかもしれない。
上手く釣れなかったな、と空のバケツを地面に置き、モーディスがギターを爪弾く音を、ベンチに腰掛けて長い間聞いていた。彼が村を去る日はもう決まっている。その後は、こんな風に彼の原点の音楽が聞こえてくることはないのかと思うと、それには確かな淋しさを感じていた。
*
残りの日数、僕は意識しすぎてぎくしゃくしてしまい、なんとも言えない距離感でモーディスと過ごすことが多かった。図書館では以前の様にモーディスを見つめることは難しく、読めもしない本を広げ、頬杖をついてぼんやりしていることが多かった。
モーディスは日がな一日、宿で自炊をして村の人や宿のスタッフにおかしを配り始めていて、すっかり村の人々からも好かれていた。
いつからか、モーディスはギターの練習場所を部屋から宿の傍の木陰や、僕が教えた昼寝スポットで弾くようになった。音に惹かれて、祝祭の庭の二階にモーディスを見に行ったりもした。ファジェイナの笛吹男のようだ、とモーディスが笑い、「このまま僕は君に誘拐されるってことかい?」と笑い返せば、モーディスは少し瞳を見開いたのち、すっかり黙って、僕なんてまるでそこにいないかのように演奏に戻ってしまった。モーディスは僕に「なら誘拐されろ」と言いたがっているような気もしたが、さすがに僕の願望すぎるだろう。
僕は未だにモーディスの告白にはっきりと答えていないくせに、モーディスが片言のエリュシオン語で、村の人と会話をしているのを見るたびに、気に入らなくて胸が悪くなっていた。僕に声をかけてくれれば、いくらでも君とスムーズに話せるのに。そんな風に。
「
……暇なら今夜、夕食でも食べに来るか。今夜は俺がまかないを作ることになっている」
村の人と会話を終え、野菜を大量に貰っているモーディスに挨拶をすると、僕の嫉妬に気付いているのかいないのか全く判別できない真顔で、モーディスがそう口にした。変な嫉妬はするくせに、誘われたら誘われたで気まずく思っている。それでも、その誘いを断る気にはならなかった。
夜、宿に向かうと、一階の風呂場から丁度出て来たモーディスと出くわす。しっとりと髪が濡れたままの姿に思わず視線を反らしてしまい、僕の反応に、モーディスが意地悪そうに喉の奥で笑う声がしっかりと聞こえた。
「夕食は部屋に運んである。油のにおいが気になっただけだ」
「
……別になにも言ってないけど?」
階段を一緒に上りながらぼそりと答えると、モーディスは僕の耳許に唇を寄せ「期待したか?」とからかう。思わず背中をはたいてやりたかったが、廊下で騒げばおかみさんに聞こえてしまうだろう。無言でモーディスの先を行き、部屋の前まで小走りに向かった。
「
……期待なんかしてない。と言うか、しないから」
「それはどちらの『しない』だ?」
部屋に入るなり、ドアをしめてモーディスに怒ったふりをして言えば、モーディスは濡れた髪を後ろでひとつにくくり、それから僕の腹を指先でそうっ、と撫でて、囁くように言った。
その所作のひとつだけでも、今の僕には刺激が強すぎた。モーディスの手を思いっきり掴んで、反則だろ、と小さな声で言うのがやっとだ。
「どっちもしない。バレたら村にいる間中、絶対に村の皆にからかわれる」
「ふむ、それは確かに由々しき問題かもしれん」
モーディスは完全な棒読みでそういうと、完璧な食卓にしている部屋のテーブルの前に僕を座らせ、冷蔵庫から冷えた水とザクロジュースを取り出し、それぞれグラスに注いだ。
「村のレシピを再現してみた。どうだ?」
ザクロジュースのグラスに口をつけたモーディスに促され、食事に口をつける。チーズが少なめのサラダ、オリーブ、エリュシオンの小麦を使ったピタとインゲン豆のディップソース、それから、香草と鹿肉のオーブン焼き。どれも村でよく食べる素朴なレシピだった。
「
……おいしい。君、本当に料理が上手いんだ」
素直に口にすると、モーディスが満足そうに微笑む。モーディスがそういう風に笑うと、年齢よりもずっと幼く見えることを知っている。パブリックイメージとは全く違う、純真そうな笑顔だった。勿論、仕事の顔をしている時のきつそうな美貌も好きだったけれど、可愛い一面を見るたびに、ますますギャップにやられている。
モーディスの黒いエナメルの指先がピタをちぎって、素朴な豆と塩味のディップソースを乗せて口に運ぶ。ちょうどいいな。そう呟いて、ソースのついた指先を舐めずにティッシュで上品に拭っている。彼ならもっといいものをいくらでも食べられるのに、僕と同じ、素朴な田舎料理を美味しそうに食べている姿に、何故か胸が熱くなる思いがした。どういうつもりで僕を食事に誘ったのかはわからない。けれど、モーディスが僕の好みを知ろうとしてくれている気がした。
食事の間は、ごちゃごちゃと余計なことを考えるのはやめよう。せっかくモーディスが作ってくれた食事なんて、この先の人生で二度と味わえないかもしれない。そう思い、食事に真摯に向き直ることにした。
食事の間、収穫祭の最後の夜に話したような、世間話をまたモーディスと自然に続けることができた。前回途切れた映画の話、読んだ本の感想。食卓が空になって、二人でグラスと飲み物のボトル、つまみを持ってソファへ移動する。小さな棚の上をテーブル代わりにして、また会話を続けた。仕事のあたり触りのない話は、お互いに業種があまりに違いすぎるのでどんな些細なことでも新鮮だった。
そうしてしばらく話続けているうちに、図書館で一週間毎日モーディスと過ごしていた時のように、段々とモーディスが僕との距離を詰めて来る。腕が触れ合った気がして、そのうち肩が触れる。緊張して心臓がどくどくと脈打ち始めたが、逃げられなかった。気づいていないふりをして、そのまま会話を続ける。モーディスがグラスを置き、僕に体重を明らかにかけてよりかかっている。肩に頭を乗せられ、膝に置いていた手に、とうとう指を絡ませられる。体をすり寄せられ、生々しい体温と、あまりのむず痒さと羞恥で体が跳ねた。だって、今夜のモーディスは一滴もアルコールを取っていないから、完全に素面だ。それなのに・
「
…………気に障ったら申し訳ないんだけど、君って案外そういう感じなんだな」
「イメージと違って幻滅したか」
「いや幻滅とかはないけど、面食らって、」
言い終わる前に、モーディスがさっと僕の頬にキスをした。
「
…………………………………………あのさ、本当にこう、誰彼構わずこうするとかじゃ、ないんだよな?」
「そんなことをすればキャリアが終わる」
あっさり呟くモーディスに、だよな、と答えた自分の声があまりにも小さい。体を押し付けて来るモーディスの肌の熱さが服越しでも強烈で、その上、モーディスの僕を見つめる瞳には明らかに熱が籠っていた。迫力のある美人にこんな風に迫られることって人生であるのか、とある意味で現実逃避をしていると、おい、とモーディスが拗ねたように僕の耳を引っ張る。
「痛っ」
「お前が考えすぎる男だということは、ここ数週間でよくわかった。だからこそもう一度言うが、お前がどうであろうと俺には関係がない。余計なことを考えるな。その上で、俺のことが嫌いだと言うのであれば諦めはつく。
――あと五日、村を出るまでに返事を考えておけ」
五日。その言葉に、急に冷や水をかけられた気分になった。君を嫌いになる人なんていない、なんて生ぬるいことを言おうとしていた僕の言葉はすっかり喉の奥に引っ込んで、急に現実が目の前に現れた。
「
……うん」
そう、答えることしかできなかった。モーディスに手を握られて、肩に胸がぴったりとくっついていて、まだ少し湿った髪が顎の下に触れていたけれど、それでも、僕も君が好きで、本当に気にしないなら君と一緒にいたい、とは言えなかった。覚悟はできていない。でも、自分自身を情けなさを理由に、付き合えないとはっきり言うのも嫌だった。本音を言えば、どうしようもなく好きだったからだ。
夜が更けて、月光がすっかり部屋に差し込むほど真上に上る頃、「帰るよ」とモーディスをやんわりと突き放した。何時間も、殆ど黙って寄り添っていたくせに。
モーディスは僕の態度に傷ついた顔を見せることもなく、「そうか」と小さく口にして、あっさりとソファから腰を上げる。そのそっけなさに、勝手に傷ついた。傷ついてしまった自分の弱さに、やっぱり傍にいるべきじゃないと確信してしまう。ごめん。口の中でそう呟き、ソファから腰を上げて、扉に向かう。
「ファイノン」
その背に、モーディスが声をかけた。グラスに真っ赤なザクロジュースを新たに注いで、半分ほどを一気に飲み干す。窓から差し込む月光が、グラスを呷って上を向いた喉から鍛え上げられた胸板から足の先まで、服の上からでもわかる完璧な彫像じみたシルエットを浮かび上がらせ、思わずその姿に見惚れてしまう。
グラスをテーブルに置いたモーディスは僕に向き直り、真剣な眼差しを向ける。
「かつて俺を救ったお前は、確かにお前が考えうる理想の自身だったのかもしれん。しかし、かと言って、それは今のお前がどうしようもない、と言う証左にはならない。少なくとも、お前の本質は変わっていないように俺の目には見えた。長い人生の間に、疲弊して歩みを止めることは勿論あるだろう。時には休息も必要だ。俺も、今仕事を休むべきではないと散々周りに説得された。だが、無理なものは無理だ。仕事は苦痛ではないし、やりがいも感じている。今の環境も悪くない。それでも、人間らしい生活をしたいという考えが頭に浮かんで離れなかった。休止の間、ファンを悲しませることに苦痛はある。しかし、俺を愛するもののためにも、俺は完全に壊れるわけにはいかない。その手前で、休むべきだと感じた。その一環で、お前に会いにここまで来た」
モーディスは僕の方へゆっくりと近づいてくると、僕の右手を力強く握り、胸に押し付けて、祈る様に目を伏せた。
「あの時、お前が救った大勢のうちのひとりが俺だ。救われた全ての者の言葉を代弁すると言い切るのは恥ずべきおこがましい行為だと思っているが、それでも、誰もがお前に感謝をしているだろう。お前は確かに俺たちを救った男だ。
……俺はあの瞬間、顔も名前も知らない、機内アナウンスで聞いた声だけのお前に、確かに祈った。お前にしかできないことだ。俺を愛する者のためにも、俺を救ってくれ。それから俺の命より大事なギターも」
最後の言葉は、微かに笑い声が混ざっていた。モーディスが顔を上げて、僕の手をゆっくりと離す。
「今のお前がどれほど自身を卑下しようと、俺はそれを否定する。あの日、お前が俺を救ったことを死ぬまで忘れることはない。お前は俺の救世主だからだ」
モーディスの手のひらが頬に触れて、そこでようやく、自分が泣いていることに気が付いた。うわ、と茶化そうとして声を上げた。かっこ悪いな。すまない、泣いたりして。無理やり笑おうとしたけれど、唇はぎこちなく動くだけだった。モーディスはそんな僕の目尻にそっと口付けて、それから、僕を優しく抱きしめてくれる。抱きしめ返せばいいのに、僕はモーディスに抱きしめられたことに半分パニックになっていて、完全に固まってしまっていた。
背中を優しく擦ってくれる手の温かさに、なんとか止めた筈の涙がまた溢れて来て、情けないことに体が震えて言葉が出てこなかった。僕の方こそありがとう。大袈裟すぎるけど、そう言ってもらえて嬉しい。軽口にしたかった。だけど、それをすることはできなくて、暫く、僕はモーディスに抱きしめられたまま泣いていた。
*
五日は瞬く間に過ぎて、その間、僕とモーディスの距離はかなり縮まっていた。と言っても、モーディスがソファで僕に寄りかかって本を読んだり、ギターを弾くのを黙って受け入れていただけで、別に手を繋いで散歩をしたりだとか、そんなあからさまなことはしなかった。する必要がなかったと言うより、時間が惜しかったからだろう。二人きりで、なるべく近くにいたかった。それだけだった。
見送りの日、モーディスは見送りの小型ジェットから降りて来た初老の男に何か口にすると、かけていたサングラスを外して、日差しに瞳を細め、盛大にため息をつく。
「頑固なやつだな」
その言葉は、結局、僕が告白にオーケーを出さなかったことに対してだろう。僕は村で過ごしたこの一か月の思い出を幸福として抱え、この後の人生を送るつもりでいた。やっぱり僕みたいな一般人が、彼に相応しいとは思えなかったからだ。せめて復職していれば結論は変わったかもしれないけれど、今の僕には無理だった。
―ところが。
「今日から二年後まで待っててやる。 それが俺の休暇の終わりだ、それまでに来い」
モーディスはメモ帳を取り出して何かを書くと、それを破って僕に押し付けて来た。受け取った紙片には、電話番号とメールアドレスが書かれている。
「
……これ、」
「何度も言わせるな。後二年待っててやる。その気になったらすぐに連絡しろ」
そう言い切ったモーディスの表情は、僕が連絡してくるのを確信しているような、自信に満ちた眩しい笑顔だった。