ながひさありか
2026-06-19 04:14:56
29284文字
Public STR-Phaidei
 

MOONLIGHT MILE5

・当たり前ですが雰囲気重視なので一部嘘も書いています。
・話の都合でヒアンシーのことを「先生」と呼んでいます。
・攻めの自慰がある(一瞬だけど)
・ぐるぐるパートはここまでで次からはぽんぽん進みます。

前回→https://privatter.me/page/6a2652f4b2e1d

 異常を示すアラートが鳴ったのは、高度八千フィートの巡航中だった。
 視界の端で計器を確認する。同時に、副操縦士がシステムパネルに手を伸ばし、「NLG、展開不可」と読み上げる。声が少し上ずっていた。いつもの冷静な彼らしくなかった。
「確認した。チェックリストを」
 自分の声を確認するよう、静かに言う。奇妙なほど落ち着いていた。
 チェックリストに沿って、前輪展開を試みる。作動しない。油圧系統を確認する。問題なし。ギア単体の機械的障害かもしれない。
 副操縦士がチェックリストの次の項目を読み上げた。ダメ。その次の項目。ダメ。項目が進むたびに、やれることが一つずつ消えていった。
 リストの最後の項目を終えた時、会話が途切れた。エラー音だけが続いている。
 深呼吸をする。隣で、緊張したように息を呑む音が聞こえた。ここから僕たちがやれることは、無事に降りるだけだ。目的地が近いことだけが救いかもしれない。
 無線を取る。驚くほど思考はクリアで、冷静だった。
「パン・パン、パン・パン、パン・パン。オクヘイマ管制、オクヘイマ管制、オクヘイマ管制。こちらOHA二六九一。現在高度八千、オクヘイマ上空。前輪展開不可。燃料消費のため旋回継続後、緊急着陸を要請する」
 すぐにセンターが応答する。周波数の確保と優先誘導が告げられた。了解、と返して、無線を置く。
 燃料がまだ多い。このまま着陸すれば、大規模火災になる可能性が高い。安全を確保するためには、消費しなくちゃいけない。だから旋回を継続する。
 CA席からチーフパーサーを呼び、状況を簡潔に伝えた。感情は乗せない。パニックを誘発するからだ。
 前輪が出ない。緊急着陸を行う。前方三列の乗客を後方に移動させ、手荷物も後方に集めること。全乗客に緊急着陸の手順を伝えること。
 そこで、チーフパーサーが緊張した表情をしていることに気付く。そのまま戻らないでくれよ、と思った。彼女を勇気づけた方がいい。
「大丈夫。こう言う事態に備えて僕たちは訓練をしてきた。僕たちも君もプロだ。乗客の安全だけを考えよう。パニックで二次被害が出ないように」
 意識して笑う。チーフパーサーの顔に血の気が戻り、力強く頷いて、すぐに出ていった。

 旋回しながら、燃料が減っていくのを待った。いやに冷静だった。
 副操縦士が数値を読み上げる。管制官と交信する。操縦桿を握りながら、ずっと計器を見ていた。高度、速度、燃料残量。ありとあらゆる数字が並んでいる。頭の中も数字でいっぱいだった。それ以外のものが入ってこない。
 ふと、右手を見た。震えていなかった。
 ――恐怖を感じているか。落ち着いて自分に尋ねた。
 いいや。
 そう結論が出る。恐怖を感じている暇がないと言うのが正しい答えだったかもしれない。意識は数字を追っていたが、心は凪いでいた。冷静さを欠けば判断と操縦を誤る。誤れば、リスクが上がる。
 客室に機長としてアナウンスをいれる。平静で穏やかな声だった、と思う。
こういった事態のために、訓練をしてまいりました。ご安心ください。マニュアルに沿った、完璧なアナウンスをした。筈だ。だけど、何故かここだけ記憶が少し曖昧だった。

 四十分後、チーフパーサーから報告が来た。
「客室、準備完了です」
「了解」
 燃料を見る。これがギリギリだろう。だけど、問題ない。問題はない、と言い聞かせる。
 管制官に最終進入を告げた。滑走路が見えた。長く、広い滑走路だ。消防車が両脇に並んでいる。既に泡が撒かれている。準備は整っている。問題ない。上手く行く。
僕ならできる。
心の中で口にした。冷静だった。シミュレーション訓練と同じように冴えていた。
 後輪が、滑走路に触れる。
 速度が落ちて行く。操縦桿を引き続けた。機首を浮かせたまま、数字を読む。逆噴射は使わない。荷重変化を制御する方が難しい。速度が落ちるのを待ちながら、できる限り長く、機首を空中に保つ。副操縦士が速度を読み上げる声が聞こえていた。互いに祈りはない。こういう場面で、頼れるのは自分の力だけだ。少なくとも僕は。
 限界が来た。これ以上、機首を浮かせていられない。静かに、操縦桿を緩める。
 機首が下り、滑走路を機体が擦る。火花が散り、煙が上がる。機体が揺れた。ブレーキ。速度が急速に落ちていく。ここでも祈りは出てこない。そんなことを考える余裕がなかったのかもしれない。前方を見、ブレーキの踏み加減を調整した。滑走路の終端が近づく。
止まれ。祈りの言葉の代わりに、数字からその言葉が頭の中で満ちる。止まれ。
 ――機体が止まった。予想した通りに、完璧だった。
 エンジンを落とす。
 隣で、副操縦士が何か言った。管制からの無線と、チーフパーサーから報告が届いた。
 全員無事。乗客二百三名、乗員六名。負傷者なし。
「了解」
 そう答えた自分の声は、完全に平静だった。
 右手を見た。震えていない。グローブを外すと、手のひらに操縦桿の感触がまだ残っていた。それでようやく、ほっと息を吐いた。うまくやった。できた。

 翌日、上司が僕に言った。
『完璧だった!』
 同僚たちも、副操縦士も、チーフパーサーも言った。取材に来た記者に、広報もそう答えていた。
 完璧だった。
 その言葉を受け取るたびに、頷いた。ありがとうございます。よかった、大事にならなくて。誰も怪我をしなくて。本心からそう思っていた。
 誰も聞かなかった。あの時恐怖はあった? と。僕自身も、しばらくの間、そのことを考えなかった。僕の記憶に恐怖はなかった。冷静で、完璧だった。そうだった筈だ。
 パイロットになって九年、機長になって四年。自分で事故を起こしたわけじゃない。怪我人も、死傷者も、一人も出なかった。緊急着陸を要した機材トラブルがあったけど、乗客と乗員、全員無事に着陸した。それだけだ。それだけの話だった。僕の対処は完璧だった筈だ。自分でも不思議なくらい。
 なのに、半年程経ってから、なぜか、そこから何かが変わった。
 うまく言葉にできない。あの日から、操縦桿を握るたびに、乗客の数が頭に浮かぶようになった。百四十七人。百九十二人。百六十三人。二百三人。単なる数字ではなく、命の重さだった。それを全て僕が背負っている。そんな当たり前のことはとっくにわかっている筈だった。それを自覚せずにパイロットは務まらない。それなのに、空を飛ぶたび、肺の奥に、じわじわと冷たい何かが積もっていくような感覚があった。それらを飲み込んでフライトをこなし、また積もらせた。何度も何度も。

 ――休職を言い渡され、エリュシオンに帰ってきてすぐのことだ。
《昏光の庭》というボランティア医療組織のカウンセラーが村に来るので、カウンセリングを受けてください。
 そう産業医に言われていた。気が乗らなかったが、カウンセリングに向かった。彼らが村を訪れる時は、宿屋が臨時の病院になり、数人の医師とスタッフが部屋に待機していた。診察を待っている間、村の人たちの多くは関節の痛みや風邪っぽくて、なんて雑談をしている。僕は宿の二階にある椅子に座って、ぼんやりと自分の番を待っていた。
 ドアが開かれて、小柄な女性が顔を出した。それが担当医のヒアンシー先生だった。
「産業医の先生から大まかなことは聞いています。でも、あなた自身の言葉で聞かせてください。今、何が一番辛いと感じていますか」
 先生は優しい声で僕を見つめ、そう尋ねた。少し考える。
……飛べないこと、です」
「飛べない、というのは、身体的に飛べないということですか」
「身体は問題ないと思います。……ライセンスも、資格も。会社からは、復帰できると言われています。でも……
「でも?」
「でも……自分では、もう終わったと思っています」
 パニックになって母さんに告げたあの夜以外、声に出して言ったのは初めてだった。言葉にすれば今度こそ現実になる気がして、ずっと心の奥に押し込んでいた。
「終わった、とはどういう意味でしょう?」
「パイロットを続けられない、と思っています。会社に言われたわけじゃない。でも……本当に復帰できるのかわからない、と思っています。こんな状態になったパイロットに何百人もの乗客の命を預けるべきではない。既にそう判断されている気がして……。その判断が間違っているとは言えない。それからもうあの感覚が戻ってこない気もしていて」
 人の顔を見て話すのは無理だった。窓の外を見ようとして、視線を床に落とす。空を見ると、飛べなくなった現実を見てしまう気がした。毎朝、空を見て今日は飛ぶのが容易だとか、骨が折れそうだとか、そんなことを考えていたはずなのに。
「感覚」
 静かに、先生が言う。カルテに何か書いているのか、宙空で指が動いていた。
「子どものころから、空が好きだったんだ。エリュシオンは空が高いから、たまに航空機が通ると機体がよく見えた。それで、飛ぶことに憧れを抱いた。どこにでも行けるんだ。そう感じたんだと思う。
 ……空が本当に好きで、そのために全部賭けてきた人生だった。エリュシオンは田舎だから、勉強も大変で、両親に無理を言って色々取り寄せてもらった。先生も探してもらったし、上京資金とか色々、苦労をかけたと思ってる。それでも、両親はずっと僕を応援してくれた。だから僕も必死で、言語学習でもなんでも、一日十五時間くらい机にかじりついてたと思う。大学の間も必死だったし、就職が決まった後も、訓練も、副操縦士の頃の下積みも、全部、一生懸命努力した。辛い日もあったけど、空が好きだったから、飛びたかったから続けられた」
「今は、その気持ちがなくなってしまった?」
「消えてはいないけど……、ガラスの向こうあるみたいに、遠く感じることが多い、かな。あるはずなのに触れられない」
 続けて、と言うように、先生が頷く気配がした。
……三年前、機材トラブルがあって、緊急着陸を経験した。怪我人は一人も出ていない。乗客も乗員も、全員無事だった。完璧な対応だったと社内で表彰もされた」
「当時のニュースを見ましたが、確かにあなたは完璧だったと言われていましたね」
 先生の声はただの事実確認で、それ以外の意味はなさそうだった。僕を過剰に褒めるような声は含まれていない。それに、何故か安堵した。
 僕は完璧じゃなかった。完璧だったなら、こんなに年月が経って、こんな風になるのは間違っているからだ。
「事故以来、空を飛ぶたびに乗客の顔、が、見える気がして」
 心臓が急に強く打ち、声が震える。頭の奥が急速に冷えて行く感覚に、まずい、と深呼吸をした。指先が冷え始めている。先生が椅子から立ち上がりかけて、やめる。口を開く。
「コックピットから客室は見えないのに、乗客一人一人の命を握っている感覚があった。彼らの帰りを待つ人が、少なくとも、乗せている乗客の二倍以上いる。もし僕が操縦を誤れば、悲しませる人が大勢いる」
「その感覚がするようになったのは、事故が起きてからですか」
……いや、ずっとそうだった筈だ。それを意識しないで飛ぶことなんてできない。でも急に、重さとして感じるようになった。それから、飛ぶたびに……その感覚が積もっていった」
「積もっていくと感じながら、それでも飛び続けていたんですね」
 先生の声に僕を責める色は見えなかった。声は優しくて穏やかなのに、まるでただ機械が確認をしているだけのようで、やっぱり、その平坦さに安堵を覚えた。
「休む、という選択肢が思い浮かばなかった。命の重さを感じるのは、プロとして当然のことだ。むしろ、今までの自分こそ意識が低かったんじゃないか、って。これは正しい感覚だ。僕は間違っていない。いつでも完璧を目指さなきゃいけない。飛ぶことに恐怖を覚えてはいない。……多分、そんな風に」
「当然のこと、ですか」先生が静かに、確かめるように口にする。「命の重さを常に感じることが、当然のことなんでしょうか?」
 え、と声が出た。そんな風に返されるとは、本当に全く想定できなかったからだ。
 恐る恐る顔を上げる。先生はカルテを打ち込ながら、少し考えるような表情をしていた。
……僕は間違っていない、はずだ」
 はい、と先生が頷いて、僕に視線を向ける。柔らかに微笑んで、間違っていません、と口にした。
「あなたがそれを感じたこと自体は、とても自然なことです。人の命を預かっているという実感は、責任感の現れだと思います。ただ」彼女は少し間を置き、慎重に言葉を選ぶように、細く息を吸う。「あなたが積み重ねてきたのは、実感ではなく恐怖だったのかもしれません。自分でも気づかないまま」
 その言葉が、静かに胸に落ちた。
 実感と、恐怖。――それは同じものじゃないのか? 困惑する僕に、先生がにっこりと微笑む。
 それから、先生は僕に、いくつかのことを丁寧に聞いた。
 眠れているのか、食欲はあるのか、夢は見るか。恐怖や不安を強く感じた時、誰かに話をしているか。
 眠れてます、と答えた。眠れない時もあるけれど、基本的には動けない日の方が多い。食欲もある。眠っていて食べられなかった日を除けば。夢は見る、コックピットの夢を。目が覚めたとき、どこにいるのかわからなくなることがある。仕事は? と飛び起きて、視界に映るもの何度も確かめる。子ども時代を過ごした自分の部屋、あるいはリビングのソファの上。オクヘイマの自宅や、ホテルじゃない。素朴で、麦の香りがいつも空気に混ざっている。その事実に、少しだけ傷つく。
 誰かに話をしているか、という質問には少し考えてから「帰ってくる前に母さ母には言いましたが、今は、特に」と答えた。
「話さない理由は何かありますか」
「心配させたくない。早く復帰して、安心してもらわないと、と思っているからだと思う」
「それは……『大丈夫か』と聞かれたくない、ということですか?」
 彼女の言葉に少し驚いた。自分でも気づいていなかったが、そうかもしれない、と思ったからだ。
「そう……かもしれない。大丈夫かって言われたら、大丈夫じゃないといけなくなる。心配そうな顔を見ると、笑わなくちゃって感じるんだ。僕はすぐに元気になるから、なるべく気にしないでって言いたいけど、現実的にそれが言えないことは分かってる。だから、話せないのかもしれない」
「でも、今日ここで話せましたね。話してみて、いかがでしたか?」
 唐突に、窓の外を見る気になった。穏やかな空に、薄い雲が流れていくのが見えた。
………………思ったより、言葉になった気がする」
「言葉にすると、輪郭が曖昧だったものが見えてくることがあります」
 耳に心地のいい、優しい声だった。
「キャリアが終わったという感覚については、今すぐに答えは出ないでしょう。でも、一つだけ言えることがあります」
 彼女の視線が、僕にまっすぐ向けられた感覚がした。ゆっくり、窓から彼女へ視線を戻す。今日はじめて、やっと彼女を正面から見た。
「あなたが感じた恐怖は、弱さではありません。何年もかけて自分の中に押し込み続けてきたものが、表に出てきた。それだけのことです。そしてそれは、治療できます」
 治療できる。先生の言葉を、呆然と繰り返した。
 はい、と彼女はにっこり、笑顔を浮かべている。その声と表情から、彼女の言葉に嘘はないらしい、と素直に感じた。
 キャリアが終わったとずっと思っていた。でも会社は「復帰できる」と言っている。目の前の医者は、「治療できる」と言っている。僕だけが諦めかけていたんじゃないか? そう、自分に問いかけた。多分、そうだった。
「ファイノンさん、次回もまたここに来て、話を聞かせてもらえますか。焦らなくて大丈夫です。一歩ずつ行きましょう」

   *

 カーテンの隙間から、朝陽が顔の中心を横切るように光が差し込んでいる。ぼーっとしたまま起き上がり、あくびをする。久しぶりに、夢を見なかった気がした。代わりに、昨晩、モーディスと別れる前後のことを思い出した。
 月明かりの下を並んで歩いた時の風の音、炎の爆ぜる音と村の皆の陽気な声、食事の名残の美味しそうなにおいと麦の香り。夢の中のようだった。月明かりに照らされたモーディスは綺麗だった。そう考えた瞬間、胸が苦しくなり、左手で摩る。
 僕はこんなに惚れっぽくなかった筈だ。何年も恋人とは無縁で、そこに感情もなかった。仕事が生きがいだった。それでいいと思って生きていたのに、ここに来て急に、まるで十代のような恋をしている。
 僕は今頭がおかしくなっているから、スターに優しくされて勘違いしてしまっている痛い一般人と言うだけかもしれない。いや、多分そうだろう。その自覚はある。自覚はある、と声に出した。モーディスはエリュシオンには一か月しか滞在しない。報われるはずがないんだから、スターへの憧れと言うか、芸能人オーラにあてられているだけだ、とはっきり理解したほうがどう考えてもいい。
 気分を変えるために、窓を開ける。収穫祭の最終日は、昨日より静かな朝だった。
 ふと、空を見た。薄雲の高さを、無意識に読んでいた。三千フィートほどか。視程は悪くない。 そう考えて、自分で驚いた。空を見て、数字が浮かぶ。村に帰ってきて、今日、はじめて。長い間、その感覚を忘れていた。手のひらに、操縦桿の感触がまだ残っている気がした。それが少し嬉しかった。僕がまだパイロットだという証拠だと感じたからだ。
「宿に行ってくるよ。ヒアンシー先生が来てる筈だから」
 リビングに顔を出し、朝食を食べている母さんに言うと、返答がいびきでかき消される。僕がよく倒れているソファの上で、父さんが両手両足を投げ出してまだ眠っていた。
「よく寝てるね」
「本当に明け方まで飲んで……
 母さんがため息をついて、本当にずっとうるさいの、と小さな声で言う。呆れてはいるが、怒ってはいない。
「診察に行くなら、ヒアンシー先生にジャムを持って行って。おいしく作れたから。後で広場で会うでしょうけど、あなたから渡した方がいいと思うから」
「わかった」
 母さんからりんごジャムの瓶を受け取り、宿へ向かおうとしたところで、モーディスのためにもらっていたワインを渡しそびれていたことを思い出したので、ついでに持って行くことにした。もし会えなければ夕方に渡せばいいだろう。

 今日は、《昏光の庭》の先生たちが、村で診察をやってくれる日だった。
 午前九時を少し過ぎた宿の一階は、診察を受けに来た村の人たちが十人前後いた。受付スタッフに名前と診察理由を告げた後、食堂でお茶を飲んだり、二階の廊下で呼ばれるのを待ったりと思い思いに過ごしている。
 もう顔馴染になっている受付スタッフは、僕が顔を出すとにこっ、と優しく微笑んだ。前回受付で伝えた通り、ヒアンシー先生の患者であることと、経過観察であることを伝える。今日、村に来ている医者はヒアンシー先生を含めて二人らしい。いつもより一人少なかった。となると、少なくとも一時間は待つだろう。
 どこで時間を潰そうかなと考えたが、食堂で大勢の雑談に混ざるのはさすがにまだ辛いので、二階に向かった。二階に上がったその時、角部屋のモーディスが丁度顔を出した。
「おはよう」
 挨拶をすると、おはよう、とモーディスも返して、僕を手招いた。
 朝型のモーディスはすでに起きてしばらく経っているのか、昨日と変わらないすっきりとした美貌だった。白いタンクトップにカーキ色のボトムを履いていて、長い髪をハーフアップにしている。胸元の派手なネックレスのチェーンが、鎖骨の窪みと胸襟を強調している。ずっと思ってることなんだけど、なんで裾がちょっと短いんだろう。赤い刺青の走る素肌が、少しだけタンクトップとボトムの隙間から見えて、視線がそこから動かせない。
「ファイノン」
 余計なことを考えてぼーっと見つめていると、モーディスが僕の名前を呼んで、今度は自分から近づいてくる。はっとして顔に視線を戻す。モーディスは僕の視線に気づいていないのか、はたまた気にしていないのか、特に表情を変えない。
「なんの騒ぎだ? 今朝から人がずっと出入りしているが」
「ああ、説明しそびれててごめん。今日はボランティアのお医者さんが、村に診察に来てくれる日なんだ。ちょうど収穫祭の期間だから、普段の慰労もかねて招待してるんだよ。今は診察室になってる二部屋と、その隣の一部屋が一階で受付をしてるスタッフさんと、そこで患者さんを呼ぶスタッフの部屋。明日の朝には船で帰るって聞いてる」
 モーディスに説明している間に、丁度、片方の部屋の扉が空き、スタッフが診察待ちの人の名前を呼んだ。二階にいないらしく、階段の柵越しに階下に向かって呼びかけている。しばらくして一人のおばあちゃんが階段をゆっくりと上って来た。
「君もどこか気になるところがあれば診て貰う? 当たり前だけど、共用語が通じるよ」
「不要だ。ここに来てからむしろ心身の調子は良くなっている」
 モーディスが腕を組んで首を振る。ちゃり、と胸許のチェーンが擦れる音がした。
「それならよかった。昼過ぎまでちょっと騒がしいかもしれないから、気になるなら村を散策しててくれ。ああそれと、これ、父さんの作ったワイン。甘くておいしいから君に飲んでもらおうと思って、貰ってきた」
 モーディスは僕の差し出した酒を「ほう」と言って受け取ると、ラベルもなにもないそれを物珍しそうに眺めた。
「感謝する。滞在中に飲ませてもらおう。――それはそうと、時間を持て余しているのなら部屋に来るか」
「え」
 その申し出に、どきっとした。本音を言えばモーディスと一緒にいたかったが、そんな資格はない、と感じてしまって言葉が出ない。
「診察を受けるのなら、ドアを少し開けておけばいいだろう。呼ばれれば声は聞こえる」
「うーん……、その、君の迷惑じゃないなら」
「? 迷惑だと思っていたら声をかけないが」
「それもそうか。じゃあお言葉に甘えて」
 意思が弱すぎる、と自分でも思ったが、誘われて断る方が失礼だろう。多分。
 二日ぶりに訪れたモーディスの部屋は、すでに村とは少し違う雰囲気になっていた。モーディスの傍にいるといつも微かに香るものと同じ匂いがしていて、テーブルの上にはラップトップと香水の瓶、メモ帳とペン、数冊の本、それから飲み物が置かれている。
「後で昼の内なら部屋でギターを弾いてもいいか、主人に聞いておいてくれないか。なるべく音は控える」
 モーディスが椅子を退いて腰を下ろし、ラップトップを操作しながら僕に言った。
「あーあれ、アコギだったのか」
 頑丈に鍵をかけていた風景を思い出して言うと、「いや、クラシックだ」とモーディスが訂正する。
「休みの間、原点に立ち返る気になった」
 モーディスの独白のような言葉にどう返答するか迷ったのと、正直に言うとアコギとクラシックギターはどう違のかわからなかったので、ふぅん、と曖昧に相槌を打つにとどめる。
「わかった。あとでおかみさんに聞いておくよ」
「頼む。それはそうと何故いつまでも立っている? 適当に座れ」
「いやなんか……緊張して?」
「緊張?」
 僕の言葉に、モーディスがハ、と笑う。座れ、ともう一度顎で示されたので、少し距離を取ってソファへ腰を下ろした。
「お前とは既に打ち解けたとばかり思っていたが」
「いやいや、そんなわけないだろ……。僕はただの一般人で、君はスターだ。生きてる世界が違うよ」
「そういう扱いをされたくないから正体を黙っていろ、と言った筈だが、お前にはそれがかえってプレッシャーになっているようだな。以前も言ったが、慣れろ。持ち上げられるような人間でもない」
「そう言われても……
「俺もお前と同じただの人間だ。多少音楽の才があるが、それだけの話だ」
 それだけなわけないだろ、ビジュアルだってさ、と言いたかったが、モーディスは片肘をついて手のひらに顎を乗せた姿勢で、つまらなそうに僕を睨んでいる。黒く塗られたエナメルの指先でとんとん、と苛立ったように自分の頬をつついているのが見え、「……まぁ、君がそう扱って欲しいなら」と渋々折れた。
「じゃあ、友人くらいの距離感にするけど、それでいいんだな?」
……お前は妙に踏み込んでくる瞬間があるかと思えば、変に慎重な面があるな」
「え、そうかな。距離感がおかしかったなら謝るよ」
 モーディスは僕の返答に少し考えるように沈黙し、やがて、いや、と目を閉じた。
「そのままでいい」
 再び目を開けたモーディスは姿勢を戻し、ラップトップに向きなおり、メモ帳を開いた。
 そのままでいい。それってつまり、どの程度の距離感なんだ?
 疑問は結局解消されなかったが、この歳になって人との距離がわからなくなってて、なんて正直に言うのはかなり恥ずかしいことだった。モーディスは結構はっきり言うタイプだなと感じたので、僕が不愉快なことをすればきっとすぐ言葉にしてくれるだろう。何故か、それに対する恐怖のようなものは感じなかった。
「少し確認したいことがある」
 モーディスはラップトップに向かって何かを打ち込みながら、そんな風に、時々僕に質問をした。どうやらメモしていたレシピや聞いた童歌なんかを打ち出しているらしい。タイピングの音を聞きながら、その作業を見つめていた。手持ち無沙汰だな、とは思わなかった。それはそうだろう。好きになってしまった相手をこんな風に眺めていられるんだから、見ているだけで満たされるに決まっている。
 そうしてどのくらいの時間が流れたのだろう。モーディスが僕への質問を途切れさせて、集中してしまっている。キータイプの音と、少し開いた扉の隙間から診察を待つ人々の声が小さく聞こえていた。都会的なモーディスのフレグランスと、麦の香りが合わさった部屋の空気は意外と居心地がいい。眠気に捉えられそうになったその時、「ファイノンさん」と廊下から声が聞こえた。あ、と立ち上がる。
「じゃあ行ってくる。診察が終わったら家に帰るから、また後で」
……ああ、じゃあな」
 その間は一体。僕に一瞥を向けてそう答えたモーディスは、もう視線をラップトップに戻してしまっている。単純すぎて、その意味深な視線にどきっとしたが、左胸をさすりながら部屋を後にした。

   *

「こんにちは。前回より随分と顔色がいい、と言うか嬉しそうですが、なにかいいことがありました?」
 扉を閉めて、小柄な主治医の前に座ると、カルテから顔を上げた彼女がにっこりと笑って僕に尋ねた。
 診察室に様変わりした宿の一室は、モーディスの部屋のものとも違い、爽やかなハーブの香りがかすかにする。窓の傍にはサンキャッチャーがかかっていて、きらきらとした光の影が部屋の壁や床に映っていた。診察室には他にも小さくてまるまるとしたユニコーンのぬいぐるみがいくつも置いてあって、子どもを診る時なんかはあれを抱っこさせたりしているらしい。名前がイカルンだという話は僕も聞いている。
 先生はハーブティーを淹れたカップを僕の前の小さなテーブルに置き、「薬だと思って全部飲んでくださいね」と口にした。安心する香りと、レモンのような味がするお茶だった。
「いいこと……
 考えて、すぐにモーディスのことが脳裏に浮かぶ。
「いいことと言っていいのかわからないけど、村に旅行者が今来てて」
「そう言えば、別の患者さんからも聞きました。すごく美形の男性が来たとかって」
 美形の、と言う言葉に何故かぎくっとした。モーディスが美形なのは誰が見たって明らかなことなのに、まるで僕だけが知っているような気分になっていたのかもしれない。
「そうなんだ。それで、彼は共用語しか話せないから、と通訳をちょっとしてるんだけど、なんていえばいいのかな。一緒にいると落ち着くと言うか、馬が合う感覚があって、少し前向きに今はなっているのかもしれない」
 僕の要領を得ない言葉を、先生はふむふむ、と優しく頷いて聞いてくれている。
「もしかしたら彼がちょっといい影響を与えてくれているのかもしれない。オクヘイマから来た人だから、懐かしく思っているのかもしれないし、反対に早く復帰しなきゃと焦っているのかもしれないけど」
「聞いているかぎりの表情や印象からの感想ですが……
 先生が穏やかな声で口にし、僕の目をまっすぐに見る。
「ファイノンさんは復帰の話を口にされる時、今まではそうしなきゃ自分の価値がない、とでもいうようにかなり焦っている感じがありましたが、今はちょっと違う感じがします。なにか具体的に、考え方が変わったような感覚が最近ありましたか?」
 そう問われて、今朝のことを思い出した。空を見て、フライトのことを考えていた。今までは空を見たくもない日の方が多かったのに、何故か今はそれを思い出せない。
 素直にそう口にすると、なるほど、と先生は言って、いつものように優しい声で僕の思考を紐解いてくれる。
 話を聞いてもらうだけなのに、何故かいつだって心が軽くなる気がするのが不思議だった。最初は彼女の実力を侮っていたけれど、産業医がいい先生ですと言っていただけあるな、と思う。
「つまりそのモーディスさんとは、お友達になれそうだと感じてらっしゃるんですね」
 先生の言葉に、うーん、と思わず正直な声が出てしまった。友達になりたいわけじゃない、と考えてしまったからだ。恋に落ちた直後だからだろうけれど、今の僕の思考はかなりまずいことになっている。世界的なスターと一般人(休職中)であることを考えれば、友達になることをベストの目標とすべきなのに、強欲にも恋人になりたいと考えてしまっている。
 ……そんなことを悶々と考えている間、先生は黙って微笑みながら、僕の言葉を待ってくれていた。
「まぁ、そう言う事だと思います。友人になれたらと思うような人と出会ったのも久しぶりで」
 職業柄出会いは確かに多いけれど、気の合う同僚はいても、友人は増えていない。ここ数年はプライベートはホテルか家で寝ているだけで、ジムに行くのが唯一の息抜きみたいな状態だった気がする。それも仕事のチェックに引っかからないために体を動かしていただけと言うか。こんな風になるまで、それらは自覚ができなかったわけだけれど。
「きっと新しい出会いがいい影響を与えているのでしょうね」
 何故だか僕より嬉しそうに先生が笑い、カルテに記入をしている。友人との出会い、とか書かれているのだろうか。
「それじゃあまた次回、お話ししてください。旅の方との友好が深まるといいですね」
「ありがとう。……あ、そうだ。これ、先生に渡すようにって母さんが」
 忘れて帰るところだった。持ってきていたジャムを先生に渡すと、「わあ」と大きな瞳がきらっと光る。
「美味しそうですね~。ありがとうございます、後でお母様にお会いしたら、改めてお礼を伝えておきますね」
 笑顔を浮かべた先生に別れを告げて部屋を出ると、一階に降り、おかみさんを探す。食堂の方から声が聞こえて来たので顔を出すと、診察を終えた筈の人たちがおしゃべりに花を咲かせていた。
 ギターの件を尋ねると、夜の八時くらいまでならいいよ、との返事があった。
 二階に戻ってモーディスのそれを伝えると、自宅に一旦戻ることにした。

 僕が帰宅すると、父さんと母さんは屋台の修復や、収穫祭の最後の夜の食事の準備に言っているというメモがあった。僕も手伝いに行くべきだろう、と思ったが、一人で色んな人と話すのはかなり憂鬱だな、と感じて、結局夕方まで本を読んだり、部屋に置かれたものを確認したりしていた。
 ふと、部屋に置かれた物を確認しながら、大勢としゃべることが憂鬱だと感じているのに、どうしてモーディスといる時はそんな風に思わないのだろう、と気が付いた。
 モーディスに良い恰好をしたいと思っているからか? と考えて、まさか、と口にでたけれど、先ほどのカウンセリングで「いい影響を与えているのでしょうね」と先生に言われたことを思い出す。
 実家に帰って来てから一度も、自分の部屋に置かれた物を整理しようだなんて思わなかったので、そんな気持ちになったことが不思議だった。だけど、今もモーディスのことを頭に浮かべただけで、ちょっとだけ気が楽になった気がした。
「浮かれすぎだろ……
 十代の初恋じゃあるまいし。一人で恥ずかしくなり、物の整理に思考を戻す。
 引き出しの奥から古いノートが見つかり、恐る恐る中を開いた。それは子どもの頃につけていた日記の一部だった。薄目でページをばらばらとめくって、またそっと引き出しの奥に戻す。パイロットになりたいこととか、今日食べておいしかったおやつ、勉強したことなんかが主に書かれていたが、まだ微笑ましいとは思えず、誰に見られているわけでもないのに勝手に恥ずかしく感じた。
 ベッドヘッドに置いていたスマートフォンに手を伸ばし、音楽を再生する。モーディスの二つ前くらいのアルバムに、子どもの頃について歌っているものがあった。「正しい人生」を押し付けて来る大人への怒りと反骨心。俺を見ろ、悪魔と社交ダンスをした俺は不幸に映るか? 幸福も不幸も自分のものだ、誰にも人生を代弁されたくない。放っておいてくれ真面目に文として書き出すとちょっと恥ずかしく感じるかもしれないが、モーディスの生命力に溢れた眩しい歌声と、頭上から雷のように突き抜けるギター音が単純に恰好よかった。歌詞も、自分の人生は自分でつかみ取るべきだ、と言っているようで、そこが結構好きだった。
 曲を流しながら、空に憧れた少年時代の僕が壁に貼りまくった飛行機の書かれたタペストリーや、空路図なんかを眺めた。村の人たちはみんな僕の夢を応援してくれたけど、大学では田舎者の貧乏人だから、無理せず農家になれよっていわれたこともあったっけ。
《煩い黙れカス》。意訳するとそうとしか言っていないシャウトに、思わず笑ってしまう。今となってはなんとなくイメージと違うんだよな、と思いつつ、あのモーディスがそう叫んでいる声を聞いている内に、胸がすくような気がした。
 妙な憂鬱が空気に溶けていくような感覚にほっとしながら、物の整理を続ける。

   *

 祭りの最後の夜だった。昨日と同じく、宿へモーディスを迎えに行くと、昨日と同じく既にモーディスの姿があった。モーディスは、朝と同じ服装で、今日は花冠を髪につけていない。夕焼けに照らされたモーディスの横顔が綺麗だった。モーディスの髪と輪郭が燃えるように輝き、麦の風に揺れている。
「今日のおすすめの食事はなんだ」
 開口一番、真剣な顔で尋ねられて、少しだけ面食らった。
「お昼を抜いたりしたのかい?」
「お前はもしかすると知らないのかもしれないが、たくさん食べたければ食事を抜いたりしないことだ」
 食いしん坊の理論を真顔でいうモーディスに、思わず吹き出してしまう。モーディスに「お前こそ昼を抜いたような顔をしている」と言われ、「食べたよ」と思わず嘘をついた。正確には診察室で飲んだハーブティーが今日、唯一口にしたものだった。
 モーディスが何か言いたそうに口を開くのに、慌てて言葉を被せる。
「先回りしてみて来たけど、そうだな……
 昨日と同じように、だけど、昨日食べなかった屋台を中心におすすめを紹介しながら、広場に向かう。入り口で双子に会い、また花を貰った。花冠とブレスレットの二つを作ったらしく、今夜はブレスレットを差し出された。双子は僕とモーディスの手首に器用に花を足しながら巻き、満足そうににこに笑っていた。
 医者の先生たちが来ているせいか、今日は共用テーブルのあたりに人が多い。人だかりができている一画からヒアンシー先生の声が聞こえていた。
 それを横目にモーディスに紹介した屋台に向かい、食事を受け取り、先生たちのテーブルから少し離れて、火の傍のテーブルに腰を下ろした
 今夜の食事の内、モーディスは蜂蜜クレープが随分気に入ったらしく、食べ終わると一人でまたそれを貰いに行っていた。
 一通り満たされると、今日は酒を飲む、とモーディスが上機嫌に言うので、父さんからワインを貰い、酒屋のおじさんのところでウゾと氷を買った。グラスを一つだけ受け取ると、モーディスが首を傾げる。
「お前は飲まないのか」
「あー……、その、飲めなくはないけど、今は医者に止められてるから」
 気まずく思いながら口すると、モーディスは「それもそうか。悪かったな」とあっさり退いて、それ以上はなにも言わない。そのそっけなさが、かえって優しさを感じて嬉しかった。ますます好きになってしまうのが止められない。ため息をつきたくなるのを堪えて、かわりに胸をさする。
 酒のかわりに、僕はハーブのコーディアルドリンクを買い、席に戻った。
 昨日と同じように、村の人たちが火を囲んで歌い始めるのが聞こえた。村長がオロニクスになにか感謝を捧げる言葉を叫んでみんなの陽気な声でかき消されているからだいるが、呂律がかなり怪しい。
 陽気で少し調子の外れた歌が響くのをぼんやり眺めていたその時、唐突にモーディスが「通訳してくれないか」と言った。
「いいけど、誰に、何を?」
「あそこでギターを弾いている者がいるだろう。一曲弾かせて欲しいと交渉したい」
 モーディスの視線の先に、ギターを弾いて歌っているおじさんの姿があった。普段は父さんと同じように麦を育てて、狩りをして、魚を釣っている。時々音を外しているのは、早々に酔っているからだろう。
「いいけど……ばれるんじゃないか?」
 共用語がわかる人の方が少ないのに、思わず声を潜めてこっそり尋ねる。
「今日になってもばれていないのにか?」
 モーディスが安心しきった表情で、おかしそうに笑う。
……まあ、君がいいならいいよ。でも、君の声ってやっぱりただものじゃないから、気づく人もいるかもしれない」
「その時はお前が誤魔化せ。それか、サインのひとつでもしてやるから黙っていてくれと交渉しろ」
「いきなり芸能人みたいなこと言うなあ」
 モーディスは僕の言葉を聞き流し、先ほどまでウゾと氷の入っていたグラスにワインを勢いよく注ぐ。味が混ざるだろ、と考えていると、「これはこれで悪くない」とまるで心を読んだようにモーディスが笑う。
「とりあえず聞いてくるよ」
 だめとは言われないだろう、と感じていた。村にきた稀有な旅人がこんな雰囲気の中演奏したいなんて言ったら、誰だって盛り上がるだろう。
 案の定、驚きとざわめきは広がったけれど、ノーとは言われない。みんなが火を見ながらグラスを傾けていたモーディスに視線を向け、きゃあきゃあとはやし立てる。
「モーディス! わからなくても伝わったと思うけど、いいってさ」
 喧噪に声を張り上げて、モーディスを呼ぶ。モーディスは大勢の注目が一気に集まっても顔色を特に変えず、そうか、と優雅に席を立って、ワインの半分くらい残ったままのグラスを持って歩いてくる。炎が弾ける音と指笛の音と人々の間を抜けて来たモーディスは僕にグラスを押し付けて、「通訳しろ」と言った。
「『祭りの席に招待いただきありがとうございます。感謝のかわりとして何曲か演奏させてください。』」
 おじさんからギターを受け取ったモーディスは、椅子に腰を下ろしてポジションを作ると、穏やかな微笑みを浮かべてそう口にした。その瞬間、一瞬だけ物凄い空気になったのを肌で感じた。老若男女関係なく(正確には子どもや女性の方が顕著に)、一斉にモーディスに魅了されたような表情をして、声を上げる。誰彼構わず色目を使うなよ。瞬間的にそんな感想が出そうになり、慌てて頬を叩いた。どう考えてもこれは、モーディスの「仕事の顔」の一つだ。モーディスが何をしている? と視線を送ってくるのに答えず、そのまま言葉を通訳した。
 モーディスはすぐには演奏を始めず、黒く塗られたエナメルの指先で弦をはじき、少し調子の外れていたギターのチューニングをしている。それだけで絵になる男だった。
 オロニクスに捧げるために高く上った炎が、ぱちんと大きく音を立てて、ごう、と風に揺れた。陽炎が一瞬、モーディスの影を何重にも地面に落とすのが見える。スポットライトなんてない筈なのに、楽器を構えた瞬間、それぞれに声を上げていた村の人たちが急に静まり返る。
 その瞬間、炎の爆ぜる音と、モーディスがスッと息を吸う音だけが世界にあった。

……いいもの聞いた」
「満足してもらえてなによりだ」
 村の人たちから散々酒を注がれて、モーディスは次々それを飲み干している。それを横目に見ながら、時々通訳して、僕はぼんやりとしてしまっていた。
 モーディスの「ライブ」は短い時間で、普段歌っているジャンルともかけはなれていたけれど、それでも頭の芯が痺れるような感覚が残っていた。むしろ絶対に「メデイモス」としてはしてくれないだろうプレイを見たからこそ、痺れているのかもしれない。
 あまりに陳腐すぎる感想だったが、当然のように歌もうまいし、演奏もうまかった。しかも歌っていたのは、モーディスを案内したり祭りの夜に、たびたび聞こえていた童歌だった。僕にはあまり記憶がなかったけれど、村でずっと歌われていたらしいそれを、モーディスは完璧以上に再現した。
 モーディスが歌い終わると、村の人たちが嬉しがって、何度か同じ歌を弾いてくれとモーディスにねだった。それをみんなが大声で歌うのが何度か続いて、それから、あれを弾け、とか古い歌をモーディスに誰かがねだった。
 知らん、とモーディスが言うと、「ならなんでもいいからもう一曲」、「あんた歌がすごくうまいんだな。歌手になったほうがいい」と誰かが言う。その言葉に、一瞬ヒヤリとした。モーディスの正体をしらないからこそ言える言葉だった。
 だけど、モーディスはその言葉に気を悪くした様子もなく、むしろ嬉しそうな顔をして「今から目指すには遅すぎるだろう」なんて嘯いている。
 いや、今からでも目指した方がいい! 売れたらワシが見つけたって宣伝するから、なんて、よっぱらったおじさんたちがわあわあ騒いだ。モーディスが「なら、売れたらレコードを送るから、聞いてくれ」と口にした。それにまた、「売れなくても作ったら送れ!」と盛り上がっていた。通訳をしながら、多分、僕だけがずっとひやひやしていた。モーディスはむしろ嬉しがっているようで、それが少し不思議だった。
「歌が上手いなんて、昨今逆に言われないからな」
「そういうものか。……ちょっとみんな、これ以上彼に飲ませないでくれ。普段飲まないようにしてるらしいから、水持ってきて」
 ほんのり顔が赤くなっているモーディスにまだ酒を注ごうとしている手を止めて、そう要求する。モーディスの空になったグラスを回収し、水を受け取って押し付ける。
「まだ飲めるが」
「チェイサーだよ」
 モーディスは不服そうな顔をしつつも、まあいい、と呟いて冷たい水に口をつける。水をごくっと飲んだモーディスの喉の動きに視線を取られて、誰かがピッチャーを僕に差し出したのを見逃した。僕の顔の横に腕をのばしたモーディスに、驚いてビクッと体が跳ねる。
「『ありがとうございます』。」
 モーディスがエリュシオン語で低く呟き、ピッチャーを受け取っている。
 ――やらかした。
「どうした?」
 モーディスが瞳を細めて、僕をからかうネタを見つけたみたいに、テーブルに頬杖をついてにんまりと笑っている。炎を反射した月光のような金色の瞳が綺麗で、なんでもないよ、とすぐには誤魔化せない。
 答えられないまま、唇を閉じて、視線をふい、と反らしてしまう。いやでも、しょうがないだろ。僕ははじめて生でみた、それも仕事じゃありえないジャンルを歌うモーディスの姿と声に完全にやられていて、理性的なでも冷静でもなかった。好きになった相手の一番魅力的な部分を、こんな距離で見てしまった。だから、頭がおかしくなっても仕方がない。
……………
 モーディスは答えない僕を急かさなかった。かわりに、なんだかおもしろがっているような目で僕をじっと見つめて、時々水を入れたグラスを傾けている。気まずい。多分、僕だけが。
 そんな地獄の時間を数分過ごしていると、ふいに肩をつつかれる。振り返るとペソの姿があった。
「ファイノン兄ちゃん、あのさ」
 ペソのひそひそ声に、すぐに察した。ばれたなこれ。
「ちょっと雰囲気違うし似てるだけかもって思ってたけど……、本人だろ? 声に聞き覚えある」
 ちらちらとあたりに視線を向けるペソの様子に、黙って頷く。懸念した通り、モーディスの正体に気付いてしまったらしい。
「黙ってて欲しいらしいんだ、仕事で疲れて旅行中らしいから」
「うん。こっち来る前に疲れたから休むとかって、そんな記事見た。……あのさ、お願いがあるんだけど」
 そわそわしているペソに、「サインぐらいならあげるから、かわりに黙っててくれって言われてる」と先ほどモーディスに言われた言葉をそのまま伝えた。
「マジ?」
 モーディスに「サイン欲しいんだって」と伝えるために振り返ると、もう、さっきまでの柔らかで色っぽい表情は消えていて、冷たい美貌の「メデイモス」になっていた。
「売るなよ」
 笑ってはいた。笑ってはいたけれど、微かに脅すような響きを持った低い声でそう呟くモーディスの瞳の力強さに圧倒され、僕もペソもちょっとだけ身を引く。
「売るなって。そんなことしないのわかってて聞いてると思う」
 ペソが首を勢いよくふり、売らなきゃもらえる? と興奮した様子で口にした。
「明日帰るのなら、帰る前にこっそり宿に来い。宿の主人に声をかけてもらえば、部屋から出て来る。村を出てもSNSなんかにサインをもらったと投稿しないでくれ。休暇中なんだ」
 モーディスの言葉を通訳し、伝える。マジ? もう一度ペソが口にするのに、「ペンとサインして欲しい物もって行けよ」と続けた。
 ぶんぶんと首が取れそうな程頷いたペソが、応援してる、と小さな声で言い、そわそわした足取りで去っていた。連れて来た恋人にも言うなよと口留めすべきだったかもしれない、と姿が完全に聞こえなくなってから思ったが、もう遅かった。まぁ、ペソは悪い子じゃないから、信じても大丈夫なはずだ。
「帰るか」
 モーディスが唐突に、ぼんやりとした声で言った。てっきり今日は火が消えるまでいるのかと思ったが、酒を飲みすぎて気が変わったのかもしれない。
「腹も満ちて、歌い疲れた」
 少しも疲れていない顔で言うモーディスに、冗談なのか本気なのかどっちだ? と思うが、僕もそろそろ限界が近い気がした。体力と言うより、対人ポイントのようなものが。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか。なにか飲み物とかつまみが欲しいなら貰ってから帰る?」
「食事はもう十分だ」
 首を振るモーディスと同時に席を立ち、陽気な声と灯りから離れて、二人で月夜の道を歩いた。風が少し冷たかったけれど、火照った頬に心地いい。酒を飲んだモーディスは特にそうなのか、横目で伺うと、気持ちが良さそうに瞳を細めている。
「ファイノン、少し話さないか」
 昨日と同じように、宿へと向かう坂道の前で別れようとした僕を、モーディスが引き止めて来る。
「部屋に来いってこと?」
 ちょっとドキドキしながら尋ね返すと、モーディスが無言で頷く。
 そんな誘いに、ついていかない理由がなかった。

   *

 部屋で、モーディスが父さんのワインを開けている。まだ飲むのか? とは思ったが、酔いつぶれても問題のない場所だから別にいいか、と止めなかった。
「いい夜だ。たまには酔うのもいいだろう」
 独白のように呟くモーディスの低い声にぞくぞくして、じわりと首の後ろに汗をかくのを感じる。
「水取ってくる」
 そのまま部屋にいるのが落ち着かず、水差しを持ってモーディスに止められる前に階下に降りた。
 冷たい水に手を浸し、顔を覆って少しでも熱を冷まそうとした。あまり効果がない気もしたが、落ち着け、と心の中で呟く。興奮と混乱で心臓がどくどく脈打っていた。深呼吸を何度も繰り返して、落ち着け、舞い上がってるだけだ、とこれも心の中で何度も呟く。
 少し落ち着いたのを確認して、なるべくゆっくり部屋に戻ると、ワインが一本、もう空になっていた。
……嘘だろ。普段は飲まないのって、そんなに飲めないからだと思ってた」
「健康と喉に悪い。今日はいい夜だから例外だが」
 笑ったモーディスの少し赤い頬が、テーブルにおかれたランプ型の小さな灯りの中でひと際輝いて見えた。部屋の照明はもう一つ大きめのがあるのに、モーディスは何故か小さいものをひとつしかつけていない。窓から月光が差し込んではいるけれど、それでも部屋の半分は薄暗い。
 ――ようは、ちょっと雰囲気がありすぎる。どういうつもりで僕を誘ったんだ? とぐるぐる考えていると、そんな僕を他所に、ほろ酔いで機嫌のいいモーディスが口を開く。意味深な話題だとかそんなことはなくて、雑談のようなものだった。
 最近読んだ好きな本の話、好きな料理、オクヘイマで気に入っている店の話。ツアーで回って美味しかった料理とその国の話、ツアー中の笑い話にできないトラブルと、笑えるトラブルの話。SNSに書くなよ、と釘を刺して来るモーディスに、「なら話すなよ」と気安く返した。それもそうだな、と言ってラインを再び注いだモーディスは、けれども話をやめない。上機嫌で、綺麗で、可愛かった。「誰にも言わないよ」。そう零すと、モーディスは「お前はそういうやつだろうと感じた」と過大な評価をしてくれる。むず痒い気分になったけれど、特別扱いをされたようでいい心地だった。……お酒を飲んでいるモーディスとの会話が途切れない。気づけば二本目も空になっていた。本当に酒に弱いわけではなかったらしい。
 昔見た映画の話をした。感想が意外と重なる。あそこで終わるのはあり得ないとか、続編は本当につまらなかったとか、そんな話で盛り上がった。モーディスは少しだるくなったのか、途中でソファのほうに移動していて、今は長い足を肘置きにひっかけて投げ出しながら、グラスとワインボトルを床に置いている。ソファの傍に椅子を引きずって行って、会話を続ける。顔が見たかったからだ。モーディスは僕が近づいても一瞥をくれただけで、なにも言わない。それが嬉しいような苦しいような、複雑な気分だった。
「なんか、不思議だな。君とこんな風に雑談してるなんて、現実じゃないみたいだ」
 こんな風に他愛のない話を誰かとするのは本当に久しぶりで、それに純粋に嬉しくなるのと同時に、モーディスが村を出て行く日のことをもう考えて胸が鋭く痛む。不安に思考が支配されそうになり、慌てて窓の外を見た。広場ではまだ祭りが続いている。炎の灯りが、遠くに見えているからだ。
 窓から差し込む月光の角度が変わっていることに気付き、ふと、部屋の時計を見た。気づけば、すっかり日付が変わっていた。ワインは三本ともすっかり空になっていて、うまかった、とモーディスが満足そうに言う。ソファのはじから長い足がぶらん、とぶら下がっている。
 眠たそうにぼんやりとした、だけど満ち足りた満足そうな声で、モーディスが「現実だ」と小さく笑った。その顔に、胸がぎゅう、と締め付けられる思いがした。好きだ。言えないけれど、頭の中で叫ぶように考える。
「君ってパブリックイメージでは全然笑わなそうなのに、意外と笑うよな」
 陶然とした気分で、ぼんやりと顔を見つめながら呟いてしまう。酒も飲んでいないのに、まだ、彼の声の魔力みたいなものに囚われているのかもしれない。
「そうか?」
 不思議そうな顔をするモーディスに、そうだよ、と呟いて、「さて」と椅子から腰を上げる。
「帰るのか」
「うん、もう随分と遅いから。長居しすぎてごめん」
 立ち上がった僕に合わせて、モーディスがソファから上半身を起き上がらせる。
……図書館の話は覚えているか?」
 唐突な話題だ、と少しだけ困惑しつつも、「「学校のだろ?」と口にした。
「ちゃんと覚えてるよ。明日以降、学校の先生に確認しておくから、出入りの許可が出たら連絡する。ええと、それじゃ、……また。ゆっくり休んでくれ」
――ファイノン」
 踵を返して部屋を出て行こうとした僕を、明らかに引き止める声だった。ほう、とモーディスが息を吐く音が聞こえる。その声がなんだか妙に色っぽくて、足が止まってしまった。
 恐る恐る振り返り、ソファへ視線を向ける。そこには、ソファに再び体を投げ出した、モーディスの姿がある。朝から結んでいた筈の髪は今は三つ編みを除いてほどかれていて、ソファの少し薄汚れた、灰色の皮の上に、金糸と血のように散らばっていた。混乱する。部屋の空気が明らかに変わったことだけはわかるのに、その理由がわからない。頬を上気させて、瞳をとろりと蜂蜜みたいにとろかせたモーディスが僕を手招く。酔っているからそんな表情をしているだけで、別に、そういうことじゃないだろう。そう言い聞かせても無駄だった。勝手に期待して、緊張して、心臓が破裂しそうだった。間違うなよ。そう言い聞かせて、手のひらに爪を立てる。落ち着け。モーディスが僕をそんな目で見る筈がない。モーディスにばれないように、慎重に、息を吐く。
 彼をここに案内した初日、ソファで眠っている僕とモーディスが入れ替わったみたいだった。
 立ったまま見下ろしていると、しゃがめ、と言うように腕を掴まれる。熱い。酔っているからだ。
「君、酒癖がもしかして結構悪いのか?」
 腕を掴まれたまましゃがむ。僕の言葉に、小さくモーディスが何かを言う。聞こえなかった。
「なんだい?」
 耳を寄せる。心臓が破裂しそうだった。眼の縁が熱くて、瞬きをするたびに自分が興奮しているのがわかり、その浅ましさに罪悪感が募る。ふと、柔らかい感触が、耳に触れた。
…………………………………………………………………
 無言で、ゆっくりとモーディスの顔を見た。
 ――え? 今、何が?
 金色の瞳を細めたモーディスが、唇の端を持ち上げて笑っている。にやついている。ふ、と唇の隙間から息を吐いた。アルコールのにおいがする。
…………さ、けぐせが、本当に悪いんだな」
 急に喉が乾燥して、内側がひっつく感覚があった。おかしい。この男が本当にそういう性質なら、とっくにスキャンダルが抜かれていてもおかしくない。つまり、そういう人間じゃない。じゃあ、今のは?
「そう思うか?」
 ざらついた、熱っぽい声だった。モーディスが喉の奥で笑う。
 なんだこれ? なにがおきてるんだ? 僕に都合がよすぎる。とうとう本当に頭がおかしくなったのか?
 黙っていると、モーディスが、僕の頬に腕を伸ばして、あきらかに、誘うように肌を撫でた。優しい力でそっと顔を引き寄せられる感覚があり、引力でりんごが地面に引き寄せられるようにモーディスの力に従ってしまう。段々と互いの距離が縮まり、モーディスが、瞼を下ろした。
 なだらかな瞼の薄い皮膚と、長い睫毛が至近距離で目に入った。綺麗だ。まるで作り物みたいなのに、確かに、瞼には青い血管の筋が見える。アルコールの混ざった吐息が僕の肌を撫でる。生きている。
…………、」
 唇が重なり、モーディスの指の腹が僕の頬を撫でる。びりびりと全身に電気が走るような衝撃が流れて、頭の中が一瞬で焼け焦げたような気がした。頭の中も体の中もすっかり焼け焦げてしまったかのように、思考が停止する。熱い。
 柔らかい唇を触れ合わせたまま固まっていると、モーディスの舌が僕の唇をつつき、思わず口を開けてしまう。
「っは、…………………………、」
 ソファに手を付き、モーディスのキスを受け入れることしかできなくなっていた。なにも考えられない。モーディスの手が僕の後頭部に回り、髪をかき混ぜられ、それが、頭の中を直接モーディスの長い指でぐちゃぐちゃかき混ぜられたように感じた。体が快感に震えて、ちゅ、ちゅく、と濡れた音がするたびにびくっ、と跳ねてしまう。キスをするなんていつぶりかもう思い出せなかった。熱い舌が僕の舌先をとらえて、下品な音がするほど絡まされている。息継ぎがままならない。モーディスのワインの味がする口の中が甘くて、遠慮とか混乱とか、なんでこんなことになってる? なんて疑問はどこかへ飛んでしまっていた。舌をモーディスの口の中に捻じ込むようにキスをして、ぢゅっ、と強く舌を吸った。前歯の歯列をなぞるとモーディスが擽ったそうに笑う。その声が可愛いくて耳に心地よかった。モーディスの両腕が頭の後ろに回る。何度か唇を押し付けるだけのキスをして、モーディスが唇の横にちゅっ、ちゅっ、とわざと音を立ててキスをしてくれる。は、と吐いた自分の息が完全に興奮していた。心臓が痛い。ネックレスのチェーンがちゃりちゃりと音を立てるのが聞こえるたびに気が狂いそうだった。
 ――頭の中でそんな喧噪を続けて、はっとする。興奮のかわりに、困惑が居座っていた。
……一般人をからかってる?」
 モーディスの腕から頭をなんとか抜くと、濡れた唇を手の甲で拭い、小さな声で尋ねた。
「俺がそんな真似をすると思うか?」
 モーディスが不服そうに、だけど愉しそうに、僕の胸に右手を置いた。口の周りから鎖骨まで唾液でてらてらと濡らした顔で笑う。胸襟を確かめるようにそっと擦られて、びくっ、と体が跳ねる。モーディスが笑う。これって、そういうことなのか? そんなの……あり得ない。
「ファイノン」
 モーディスが僕の胸から首筋へと、蛇のようなしなやかな動きで肌を撫でる。頬に手を添えられ、もう一度キスをする。ファイノン。低い囁き声に、耳から体が融かされるような気がした。心臓が震えて、視界が明滅する。は、と興奮した熱い息を、モーディスが唇で塞いでしまう。
 背中に腕を回されて、モーディスの手が僕のシャツを掴んだ。抱き寄せられて、その力と熱に抗えない。部屋の中に満ちていたモーディスの香水が鼻先で強く香り、触れ合った首筋と素肌の熱さに息が止まった気がした。熱い。他人の肌が触れていることに混乱している。好きだ。熱い。気持ちがいい。いい匂いがして、布越しにふれあった胸の柔らかさと心地よさに血が集中する感覚がした。まずい。混乱している。こんなことをしちゃいけない。僕が触れて良いような相手じゃない。そう思うのに、抗えない。抗えるわけがない。
 モーディスの顎の下に顔を潜り込ませて、首筋にキスをした。何度そこにキスしていると、モーディスが笑う。笑って、僕の体に体をさらにすり寄せて来る。まずい。
「三年前、航空事故にあった」
 モーディスが思い出したように、そんなことを言う。
 三年前? 心臓が嫌な風に跳ね、ぎくりと体硬直する。急激に熱が冷めて行き、頭の芯が痺れるほどの恐怖と寒さが広がっていった。興奮が一瞬で霧散し、恐怖に体が震える。
 モーディスが優しき抱き寄せ、背中をさすってくれる。触れ合った胸の温かさに、止まりかけていた呼吸を再開する。長く細く、慎重に、息を吐いて、吸った。それを繰り返す。
「お前の操縦する便だった。俺はあの日、お前のおかげで命を救われた。——だから、お前に会いにこの村へ来た」

   *

 あの日も、窓から空が見えていた。
 オクヘイマからクレムノスへの便だった。メデイモスは通路側の席に座り、本を読んでいた。窓際にはギターケースを置いていた。移動中はいつも本を読むことにしていた。仕事が忙しく、まとまって読書の時間を取るのが普段は難しい。移動中は本を読むのにもってこいだった。
 最初の異変は、音だった。
 何かが、止まった。正確には、ずっと続いていた低い振動が少しだけ変わった。そんな気がした。耳がいい自覚はある。気のせいではないだろう。そう感じ、メデイモスは本から顔を上げた。通路を挟んだ隣の乗客がシートベルトのサインを見ていた。CAが足早に通り過ぎる。嫌な予感がした。
 メデイモスは本をしまい、かわりにメモ帳とペンを出した。走り書きで今の日付と時刻を書き、異音がした、とメモをする。
 しばらくして、機長のアナウンスが入った。
 落ち着いた、優しく柔らかい声だった。アナウンスは出発前も飛んでいる間も何度か聞いたはずなのに、その時初めて声を意識した。
《前輪系統に問題が発生したため、緊急着陸を行います。安全のため、前方のお客様は客室乗務員の指示に従って後方に移動をお願いします》
 淡々とした声で、恐ろしいことを言っていないか? そう理解するのに、暫く時間がかかった。あまりに機長の声が穏やかで、不安を感じさせなかったからだ。そうなのか、と妙に静かに感じた。
《こう言った事態のために訓練を積んできています。ご安心ください》
 だめ押しのように、声が響く。緊急着陸の文言に似つかわしくない、本当に穏やかな声だった。
 暫くして、メデイモスはCAの案内に従い、ギターケースを持って、後方へ移動した。多少のざわめきはあったが、大きな混乱はなかった。二百人あまりが乗っていて、誰も叫ばなかった。CAに誘導されながら、全員が言うことを聞いていた。まるで機長のアナウンスに、鎮静の魔力があったかのように。
 ――いい声だ。
 メデイモスは自身の思考に、職業病だ、とシートに座り直し、ベルトを締めながら呆れた。そんなことを考えている場合ではないと言うのに、恐怖や緊張より、そのことばかりが気になっていた。いい声をしていた。穏やかで、少し甘さを感じるような、優しい声だった。プロだな、とアナウンスを反芻して考える。乗客をパニックにさせないための完璧な声だった。一つの震えも、息の乱れも感じさせなかった。恐怖を与えない声だった。
 CAがひとりひとりに話しかけていた。緊急着陸の手順の説明、頭を下げて、腕で頭を守ること。出口の場所。モーディスは聞きながら、自分の命よりギターのことが気がかりだった。大事な商売道具で、自分の体の一部のようなものだった。
 メデイモスは今一度シートベルトをしっかりと締め、それでも安心できずに、膝掛けをもらった。ギターが不安だ。そう口にすると、快く何枚も膝掛けを持ってきてくれた。隙間を埋め、ギターケースを包んで、ようやく諦めがついた。窓の外を見る。段々と、高度が下がっていくのがわかった。
 恐怖を感じたか? 後から考えれば、勿論、それは「イエス」だった。
 けれどもその瞬間は、「怖い」と言う感覚がどこか遠かった。代わりに、やけに細かいことが目に入った。走馬灯のようなものだろうか。いやに冷静な頭で考えた。前の席のヘッドレストのほつれ、窓の縁についた微かな汚れ。通路を挟んで隣に座った老人が膝の上で手を組み、必死に祈っている。祈っているのは彼だけではなく、段々と、潮のようにぶつぶつと祈る声が大きくなっていくのが聞こえた。
 メデイモスは神に祈るよりも、ファンのことと、バンド仲間とスタッフ、それからマネージャーのことを考えていた。死ぬわけにはいかない。ライブに行く途中だったと言うのもあるが、なにより故郷での公演だったというのが大きかった。 熱心なファンも地元のファンも楽しみにしている様子が連日マネージャーを介して伝わってきていた。一生に一度しかライブに来られない者もいる。その一度の機会を、永遠に奪う真似をしたくなかった。
 それに、とメデイモスは息を吐く。今回のライブでは、はじめて母親も招待していた。
 大きい音には慣れていないと思いますが、と口にすると、ビデオ通話の向こうで声を上げて笑っていた。あなたには言ってなかったから知らないだろうけど、若い頃はそれなりに遊んでいたのよ。本当に知らない話だった。
 頭を伏せて、神に祈るよりも、先ほどアナウンスをした機長に祈っていた。顔も知らない、声だけで自分を信頼させた男に。
 後輪が滑走路に触れたのか、強い衝撃があった。嫌な音がする。少しの悲鳴。嫌な速度を体で感じる。止めてみせろ、と身勝手な言葉を機長に向かって頭の中で繰り返していた。お前が安心しろと言ったのを俺は信じた。俺が信頼する人間はこの世にそれほどいない。だが、お前の声は信頼するに値する力があった。だから信じさせろ、口にしたものは必ず成し遂げろ。身勝手な祈りだった。勢いで速度が落ちていくのがわかった。メデイモスは頭を抱え、目を閉じた。
 音が変わった。先ほどよりもずっと鋭く、嫌な音がした。金属が地面を削るような音だった。振動が床から伝わってきた。何かが光ったのが視界の端に映る。そうすべきではないとわかっているのいに、視線が勝手に向く。火花だ。煙が流れて行く。機体が揺れた。ブレーキの感触が足の裏から来た気がした。またファンのこと、バンド仲間のこと、マネージャーのこと、それから母親のことが瞬時に脳裏を過る。最後に、神に祈る代わりにやはり機長のことが頭に浮かんだ。最初に名前を言われたような気がしたが、覚えていなかった。こんな事態になるとは思ってもみなかったからだ。自分を救う男の名を覚えておくべきだった。
 ――止まった。
 そう認識してからしばらく、誰も動かなかった。
 それから、アナウンスが入った。また、あの落ち着いた、優しく柔らかい声だった。けれども明らかに、その声には安堵が滲んでいた。なにごとにも動じない、全く問題ないと考えていたような、完璧な声ではなかった。感情の揺らぎのある、神でもなんでもない、自分と同じ、ただの人間だとはっきりと感じた。
 脱出のアナウンスに従い、機体を降りるしかなかった。ギターを置いていくしかない。その事実に躊躇しているメデイモスに、客室責任者が「必ずお持ちします」と口にした。信じるのは難しかったが、どうにもならない。他の乗客に迷惑をかけるわけにはいかない。
 スライドを降り、地上を踏んで、ふと振り返った。機体の鼻先が、滑走路に接していた。焦げた跡があり、消防車が近づいてきていた。

 空港のロビーで、係員が飲み物を配っていた。メデイモスは受け取り、椅子に座った。マネージャーに連絡をすべきだったが、生憎荷物はすべて機内に置いてきている。けれど、正直なことを言えばそれどころではなかった。ギターのことが頭から離れない。
 落ち着かないまま数時間待機の後、無事にギターも手荷物も戻り、今更力が抜けた。椅子に深く腰を下ろし、のろのろとした動作で、スマートフォンの着ないモードを解除した。案の定、マネージャーやスタッフから死ぬほど連絡が入ってきている。
「安心しろ。怪我もない」
 短く簡潔に、そう口にした。

 夜のニュースで、事故と機長の名前が流れていた。
 全員無事。機長の判断が称えられた。コメンテーターが「完璧な着陸だった」と言った。
 そのニュースを、ホテルのテレビでひとり、見ていた。
「ファイノン」
 機長の名を、一度だけ繰り返した。忘れないように。
 それから三年が経った。

   *

――つまり、お前は俺の救世主だったと言うわけだ。今更だが、お前にあの時の礼が言いたかった。人伝に食事に誘おうとしたが、休んでいると聞き、お前を追いかけてここに来た。……村を訪れる前は純粋に礼を言おうと考えていただけだったが、会ったらいい男で、好きになってしまった」
 笑いながら話すモーディスの言葉が、すんなりとは頭に入ってこなかった。好きだと言われたはずなのに、それより、色々な感情がこみ上げて、言葉にならない。 
 君が、僕が救った一人だって? ……お礼を言うためだけに、僕を探して、追いかけて来た?
 そんなの、あり得ない。映画じゃないんだから。それに僕はただの一般人で、今や休職中の何もない男だ。それなのに。それなのに
 モーディスが「いつ言うか悩んでいたが」、となんだかほっとしたように呟いている。その言葉が左から右へと抜けていく感覚がした。
 現実のものとはとても思えない。どう考えたって、僕の頭がおかしくなってしまったに決まっていた。
 モーディスが僕の頬を引き寄せてキスをしている。明らかに続きをねだられている感覚がしたが、 なんとか理性を動員して、離れる。
……? どうした」
「こういうのは、よくないよ。……えっと、嬉しくないとかしたくないとかじゃなくて、混乱してるから……
 君は明らかに酔ってるし。
 そう続けると、暫く沈黙があったのち、ふん、とつまらなそうにモーディスが鼻を鳴らす。
「興覚めだ。真面目な奴め」モーディスは舌打ちをしてそう零すと、僕の胸を強く押す。「帰れ」
 モーディスが僕を追い払うように手を振り、瞼を下ろす。
「図書館の件を忘れるなよ」
 静かな声で言うモーディスに、返事も出来ずに、部屋を出た。

 自分でチャンスを手放したことは分かっていたが、感情がぐちゃぐちゃで、どうしてもあのままは続けられなかった。
 僕が救った。その事実に嬉しくて泣きそうになっているのに、今の僕がこんな情けない姿になっていることが物凄く恥ずかしくて、消えてしまいたかった。だから大人しく家に帰ることにした。情けなさで体が震えて、後悔と羞恥で足がもつれる。
 ふらふらと家に帰って、だけど、そのままベッドには行けなかった。
 風呂場でシャワーを全開にして、手を伸ばした。濡れたキスの音も、舌の感触も、熱かった肌も、汗と香水のにおいも、全部が全部まだ鮮明だった。あのまま流されればよかっただろ。モーディスだってそれを望んでたわけで。後悔と興奮が収まらない。一度吐き出しても、まだ体が熱い。それも情けなかった。こんな風に性欲を感じていることも恥ずかしかったし苦しかった。彼が好きだ。だから触りたいと思っていたのも事実だし、どうにかなりたいとも傲慢に考えていた。それなのに、いざ、あんな綺麗な人間にそれを望まれたのかと思うと今の自分があまりに不釣り合いで、頭が混乱して、勇気がなくなった。
「ッ…………!」
 おさまらない。二回抜いて、冷水を浴びて、ようやく少し落ち着いた。
 この歳でこんな風になるなんて、本当にどうかしてる。
 そろそろと部屋へ戻ると、また心臓が脈打ち始める。さっきのは本当に現実だったのか?
 モーディスのキスと、三年前の事故のこと、それから、好きだとすごく簡単にいわれたこと。
 イヤフォンを耳に突っ込んで、曲を再生する。そうやってこのところは落ち着いていたから。だけど、それが悪かった。
 高いファルセット、低い息継ぎ。吐息混ざりのフレーズ。そのひとつひとつに、「さっき」をどうしようもなく思い出した。
……モーディス、」
 あの場から逃げ出したくせに、情けないくらい興奮していた。最低だ。
 歌を聞くのはやめられなかった。声を聞きながら眠るのを、もう、強く意識付けしてしまったから。
 ベッドの中でも射精して、ようやく、本当に落ち着いた。
 残るのは羞恥と後悔だけかと思ったけれど、天井を眺めているうちに、じわじわと、どうしようもなく嬉しくなるのを抑えられなかった。

 ――僕が救ったひとりだ。
 それが、あんなに美しい姿をしている。



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