どそ
2026-06-18 01:39:37
30067文字
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明順応

botw中の話
6月に出す本に乗っけたい話の進捗置き場でした 6/21完成



2.

 丸太のような棍棒がゆらりと振りかぶられ、空気を圧し潰すように眼前に迫った。
 剣と盾で正面から受けようと身体が動いたのに気付き、足に力を込めて横に跳ぶ。避けきれないので剣を軌道に沿わせて受け流した。今の足腰で真っ向から攻撃を受け止めるのはあまりにも悪手だ。
 二撃目を跳んで躱すと、別の小柄な魔物が重い得物を振り回してくる。
 右腕の動き出しが遅れた。間に合わない、と判断して左手の小盾で受ける。びりびりと左腕に痺れるような感覚を感じながらそれを跳ね除け、喉元目掛けて今度こそ剣を振った。

 群れていた魔物たちを倒し切ると、辺りはいっそう静かになった。
 右腕を持ち上げる。普段は動かさない方向に軽く捻ろうとしてみる。肩も腰も、ある方向にしか動かせないのは相変わらずだった。
 プルアやロベリーに会った時に、これって治るようなものなの、とも聞いてみた。駄目元で一応尋ねてみただけだ。首を横に振られるのは予想通りだったから、落胆する気持ちは自分でも驚くくらいに無かった。むしろ相手の方が目に見えて表情を暗くした。
 責任感じることじゃないよ、というようなことを言った。今はすっかり慣れたし、特に戦うのに支障も無い。そう伝えても二人とも表情は晴れないままだった。こちらをじっと見つめたまま、何かを言いかけて口を閉じる。なんとなく、謝ろうとしたんだろうか、と思った。
 実際、戦っている中でそれらの古傷が妨げになることはだいぶ無くなってきている。咄嗟に自分の身体の可動域を忘れた動きをしかけても、気付いて途中で動きを変えて立て直せるようになっていた。
……ここまでできるようになるまで、思ったより時間が掛かった)
 何度も何度も折り目を付けるように動きを反復して、さほど意識せずにその動き方ができるようになっても、実戦になると途端に身体は昔の動き方を優先した。
 魔物に襲われている旅人を助けたり、街道に近い魔物の拠点に奇襲を仕掛けたりする中で、本当に少しずつ、動きは身についていったように思う。うまく動けなかったせいで深手を負うことも何度かはあったけれど、それらを経てある程度は動けるようになってきた。
(次は、咄嗟にでも同じ動きができるようにしていかないと)
 まだ動きが身体に染み込み切っていないのだ。そこをどうにかしないと隙が生まれるのは必然だった。
 息を吐く。剣を振って血を軽く落とし、鞘に仕舞った。

***

 岩の突起に指を掛け、窪みに足を置いて身体を持ち上げる。
 青みを帯びた岩々の表面はすっかり乾いていた。頭上にあるような岩とも違ってざらついた出っ張りや割れ目もそれなりにある。なみなみと水を湛えた湖の岸には同じくらいの高さの岩が続いていて、ここまで来れば高い崖を苦労して上るようなことももう無さそうだった。
 やや斜面になっている岩の上を歩くうち、つるつるとした建物の一端が見えてくる。
 夜光石を含んだ岩に囲まれた里は、火山に行った後だとより涼しげに見えた。石でできた巨大な魚を中心として円を描くような造りの外壁には、今日も穏やかな陽光が降り注いでいる。組み立てたパラセールの持ち手を掴み、中心部に続く通路を目掛けて岩を蹴った。

 来る最中に中心部を見たときに姿が無い気がしていたけれど、やはりと言うかドレファン王はちょうど留守にしていた。
「ああ、王なら近くの滝に行かれていて暫く戻られませんよ」
 王の間に続く階段で警備をしていたゾーラ族がそう言うのを、間が悪かったな、と思いつつ聞く。挨拶くらいはしたかったけれどさほど長居する予定ではなかったし、里を出るまでに帰ってこなかったら言伝だけ残しておこうと決めた。
「わかった。もしかしてシドも出払ってる?」
「王子であれば上には居ませんが里の中にはいらっしゃるかと思います。行き違いになるかもしれないので、もし王子がこちらに来られた際はリンク殿が里に滞在されているとお伝えしますね」
 そうにこやかに言ってくれた彼に「助かる」と返し、横の階段を降りた。里に来た理由はいくつかあったけれど、一番大きかったのは手持ちの矢の残数が心許なかったからだ。この里で作られている矢は鏃が石を材料としたものだけれど、鉄のものとそう使い勝手に差がある訳ではない。道で出会う商人から買うよりも確実で、結構な量を手に入れることができたからかなり助かっていた。
 ついでに食料を買い、包みを抱えて店を出たところで声が掛けられた。
「あれっ、リンリンじゃない!」
 見ると、向かいの宿屋から顔見知りのゾーラ族がこちらに向けて手を振っていた。
「久しぶり、コダー。元気?」
 歩み寄りながら尋ねると「元気よ~」と朗らかな声が返ってくる。
「まあ、相変わらずって感じよ。外から来る人も前よりか増えたんだけど、まだまだ暇だし……そうだ、今日は泊まっていく? 安くしとくけど」
「いや、昼にはここを出るつもり」
 そっかあ、と残念そうにしたコダーが「そうだ!」と言って宿屋の中に小走りで戻っていく。帰ってきた彼女の手には、こんがりと焼き目の付いた小魚の串が握られていた。
「これ、さっき獲ってきて焼き上がったばかりなのよ。せっかくだから一本どう?」
「じゃあ、有難く」
 左手は先程買ったもので塞がっていたから、動きに気を付けつつ右手で串を受け取る。傍から見て特に違和感のある動きにはならなかったようで、彼女が「椅子も遠慮なく使ってよ」と案内するのに従って、宿屋の手前の椅子に腰を下ろした。
 冷めないうちにどうぞ、との言葉に甘えて魚に齧り付く。塩がまぶして焼かれた皮が歯でぱりっと割れ、火の通った身はほくほくとしてやわらかい。さっぱりとした味わいの白い身に塩がよく合っている。
「いや~、本当はこの種類の魚はミナッカレ湖のが一番美味しいんだけどね……
 魚を頬張りながら、コダーが少し溜息をついて話し出したのに耳を傾ける。ものを飲み込み、串だけを手にしながら「なんかあったの」と聞いた。
「しばらく火山の方から灰が飛んできてるのよ。ここの里は高いところにあるからいいんだけどさ」
「灰か……ん?」
 言葉に少し引っ掛かるところがあった。ふと思い立って聞いてみる。
「そういえば、火山の活動がちょっと前に落ち着いたっていうのは聞いてる?」
……えっ? 火山が落ち着いた!?」
 始めは聞き違えかというように訝しげな声を出した彼女が、次の瞬間大きな声で叫んだから軽く気圧された。
「うん。少なくともアッカレに灰が飛んでくることは無くなってると思う。来る時も特に感じなかった」
「良いこと聞いたわ~! そうしたら……あっちょうど良いわ、ルトアさん! 灰の心配無くなったみたい!」
 彼女がそう呼ぶと、広場を通り過ぎようとしていたゾーラの女性が「ほんと!」と顔を明るくした。
「じゃあ私あとで見に行ってみるわ! またね~!」
 嬉しそうに言い、どこかへ小走りで駆けていく女性を見送るコダーが、こちらを振り返った。
「ごめんなさいね、驚かせちゃったわよね」
「大丈夫。灰が……水に混じってると駄目ってこと?」
「そう。泳ぐのが結構しんどいのよ。それで、前はよく行ってた湖だったんだけどしばらく行くのをやめてたの」
 火山の近くの地域が灰に悩まされている話はちょくちょく聞いていた。ただ、ゾーラの里だとその話は聞かなかったからさほど影響はないかと思い込んでいたのだ。
「それならもっと早く伝えに来ればよかったな」
「何? いいのいいの、別に魚自体はこっちの川で獲れたしさ。それより伝えてくれてありがとね!」
 独り言に近い声にコダーは笑い、じゃあまたね、と言って宿屋の奥に歩いていった。
 立ち上がっていくらか歩いたところで、近くに立っていた老人が「さっきの話は少し聞こえていたゾラ」と話しかけてくる。確かモルデンという名前だったか。
「これでハイリア川も泳ぎやすくなるゾラな」
「そっか、そっちもか。ドレファン王とシドにも伝えた方がいいよね。シド見なかった?」
 訊くと、彼は少し頭を傾けてから思い当たったふうな顔をした。
「ああ、それならたしか」
――聞いたゾ! 灰が降らなくなったのか!?」
 被せるように快活な声が響く。振り向くと、ちょうど話に上がっていた人物が歩いてくるところだった。
「リンク、よく来たな! 話はさっき伝えてもらったところだゾ」
「あ、じゃあ話が早いな。伝えるのが遅くなって悪い。あとはドレファン王か」
「それなら他の者が伝えに行っているから心配無いゾ!」
 シドが元気に言ってくるのに対して、そっか、と頷いた。
……そういえば灰が駄目だってことは、ゾーラ族からすると泥が混じってる水も無理なの?」
 ふと浮かんだ疑問を口に出すと、シドが「そうでもないゾ」と答えた。
「灰は例外で、あれはエラに詰まるから駄目なんだゾ。多少の泥が水に混じるくらいならまず大丈夫だゾ。今回みたいに川や湖が泳げないくらいの事態になるのは滅多に無いんだゾ。前に似たようなことがあったのなんて、……
 言いかけたシドがちらりとこちらを見て口を噤んだ。その後を引きとるように、隣のモルデンが「ああ、大厄災の時ですな」と呟いて背を僅かに曲げた。
「あれは遠くから見ても分かるくらいに酷かったゾラな。川があんな色に染まるのを見たのは生きてきて初めてだったゾラ」
「モルデン……
 制止するように声を上げたシドを、名を呼ばれた彼はじろりと見上げた。
「変に気を遣うようなことでも無いゾラ。違うゾラか、リンク」
 そう言い、こちらを見てくるのに頷き返す。
「うん。だからシドも別に気にしなくていいよ。でも、ありがとう」
 シドはまだ少し苦い表情をしていたが「そうか」と頷いた。息をついたムズリが、広場の像にちらりと目を遣って口を開く。
「まあ、でも本当に、お主がミファー様のことを思い出してくれて良かったゾラ」
……そうだね」
 僅かな間に気付かれたのか、シドが「どうかしたのか?」と尋ねてくるのに「なんでもない」と返した。
 里に初めて来たとき、この像を見上げたとき、確かに頭の中に浮かんだ光景があった。
 昔に何を言われたのかもちゃんと知っている。
 それは、そうだった。


「あのね、私、一つ気付いてることがあるの」
 湖に浸かるように座っている神獣の上から、そう声が落ちてくる。里まで来たのだからと寄って、二言三言、言葉を交わしたあとのことだった。
 何を、と問い返しながら、彼女が言わんとすることをなんとなく察していた。
「小さい頃の話をするとき、あなたがほんの少しだけ視線を逸らしたから、たぶんそうなのかなって思ってた」
 自分では全く気付いていなかったけれど、そういうのはわかるひとにはわかるものなのかな、と思う。ダルケルに会ったときも、彼はこちらを見ると軽く首を傾げて『相棒、ちょっと雰囲気か何か変わったか?』と聞いてきた。
『俺のことは分かってそうな様子だな。知ってる様子って言うのが合ってるのかもしれねえが』
 豪快な性格どおりの言動をしながら、そんなことを何の気なしに言ってくる。黙ったこちらを見ながら、彼が元気付けるように腕を組んだ。
『まあ、だとしても前とそんな大差無えだろ』
 にっと笑った顔や言葉を、せめてこれからずっと覚えていようと思った。
 ミファーも彼と似たようなことを言った。大きくなにかが変わったわけじゃないよ、という柔らかな声を、ただ聞いた。
「覚えてなくたっていいの。それで何かが消える訳でも、無かったことになる訳でもないから」
 神獣から離れ、山道を下りながら、その言葉を何度か思い返した。
 ちゃんと覚えているか、持ったままかを確かめる。気付かないうちに失くすのは嫌だった。


 晴れていた空がにわかに暗くなり、雨がぽつぽつと降り出したのは、湿原に差し掛かって橋を渡り始めたときだった。
 少しくらい濡れてもいいかとそのまま歩いていたけれど、みるみるうちに雨が強くなってきたから、橋の先に見えている民家の跡に駆け込んだ。
 遠目から見ても分かるほどに壁のほとんどが崩れている。けれど幸いにも屋根は人間一人ぶんが収まるくらいは残っていたから、その下で身体を屈める。焚き火を付けたり身体を横たえたりするほどの幅は無いけれど、雨を凌ぐだけなら充分だ。
(けど、この広さで雨が弱まるまで何をしてようか)
 しばし何の気無しに木々や水面を眺め、ふと思い立って腰に下げていた板を手にした。古のシーカー族の人々によって作られたのだという板は、どういう仕組みか知らないが風景を写し取ることができる。ずっと昔に違う持ち主によって写されたものも、プルアの助けを借りて修復され、板の中にちゃんと記録として残されていた。
 記憶を戻すきっかけになるかもしれない。そう言われてから、絵で見たのに似た場所を探すようにしている。いくつかの場所はもう見つけていて、確かにそれらは手がかりとして大いに助けになった。
 頭の中に浮かんできた光景があった。長い金の髪の女性が――彼女が何かを話す。それを昔の自分が聞いている。
 陽の光が辺りを照らしている。湖畔の側で、前を歩く彼女の背中をただ見ている。
 雲が流れている。茶褐色の岩肌の上に魔物の死体がいくつも重なっている。
 月明かりが水面で揺れている。背後で呟かれる声が、古びた柱の間に響いている。
 その光景が頭に浮かびはするのに、どうしてかそれらは自分からはひどく遠いところにあった。どれもかつて確かに自分が見たもの、聞いたもののはずなのに、実感はまるで湧いてこない。
(感触が無い、というのが近いんだろうか)
 透明な膜が間にあるみたいに、触れてはいるのに掴めていない。見て聞いた以外のものが抜け落ちている。まだ自分のものになり切れてはいないそれらを、果たして「思い出した」と言っていいのか分からなかった。
 旅をする中で会った人々から話を聞くうちにも、いくつか知ったことがある。
 英傑と呼ばれた者たちのこと。彼ら彼女らと話したこと。昔の自分のこと。それらを頷きながら聞いていた。
 幼い頃に会ってからずっと親交があった。岩だとか鍛錬だとか、よく二人で話をしていた。
 そういうことがあった「らしい」。聞く話はすべてただの伝聞であって、それ以上のものになったことが無い。
 廃墟や崩れた瓦礫を見掛けたら近くまで行ってみるようになった。それらが元の形だった頃のこと、そこに人が暮らしていた頃のことを僅かでも呼び覚ませはしないかとじっと見つめてみる。期待したような揺らめきも、ほんの僅かなざらつきさえ生じない。ずっとそうだ。
 顔を上げる。降り出したときと同じように、急に弱まった雨は見ているうちにぱたりと止んだ。空にはもう晴れ間が広がりだしている。木の柱に手を付いて立ち上がり、屋根の下から出た。
 たぶん石段があるところにかつては扉があったのだろう。家の土台から降り、残っている壁の窓枠や床板を眺めながらそう思う。ここに住んでいたのが何人だったのか、どんな人間だったのかは知らない。もう知りようがないかもしれない。
「勝手に立ち入ってごめん。……屋根を貸してくれてありがとう」
 もう微塵も感じられない人の気配を、そういう言葉でなぞる。想像の中にしかない気配の縁取りを濃くする。その輪郭線が自分の中だけでなくて、この崩れた家にも残ってくれないだろうかと思った。
 記憶は、そこに空いた穴も含めて未だはっきりとしていない。何も自分の記憶としての実感は得られていない。
 けれど戸惑う気持ちはありこそすれ、自分が分からなくなることは不思議となかった。ぼんやりとした欠落を完全に見失うこともない。
 なんとしても辿り着きたい場所だけは、ずっと揺らいでいないからかもしれない。
 林のさらに向こうに城の影が見える。前よりは少し近くなったような気がして、それでもまだ遠かった。
  
 元の形がどうだったのかは定かでないが、崩れた建物の配置を見る限り、村は湿原に点在する比較的広い陸地に家を分けて建てていたようだった。島のようになった陸地の間は丸太と縄で作られたらしい橋で繋がれている。橋は一部が腐っていたり水に沈み込んでいることもあったが、ほとんどは問題無く上を通ることができた。
 ――風を切る音が聞こえたのは、木々の間の道を抜け、もうすぐ開けた場所に出るというときだった。
 橋を蹴って飛び退く。投げ込まれた槍が丸太に突き刺さって乾いた音を響かせた。見れば蜥蜴に似た魔物が二体、こちらに気付いて走り寄ってきている。
 槍が低く突き込まれるのを避け、間髪入れずにもう一体が剣を下から斬り上げてきたのを弾いて、やむを得ず湿地の水の中に足を踏み入れた。後退せざるを得ない攻撃や陸地から回り込む動きが、獲物を湿地に追い遣るためのものであることに遅れて気付く。この種の魔物にとって水場は絶好の狩場だ。足を取られて動きが鈍っているところを襲うわけか、と思いながら、ちらりと周りを見た。
 この一帯は広く水に覆われているが、深さは膝よりも下程度で、少なくとも見えている範囲には急に深くなっているような場所は無さそうだ。もっとも距離が近い陸地に一瞬目を遣り、距離を詰めてきた魔物の足を払いざまに湿地の中を走り出した。
 視界の端で蛇行するように駆ける魔物が槍を突き出すのを横跳びに避ける。二体に挟まれないよう、水底を強く蹴って突然走る方向を変えたりもしながら陸に辿り着いた。
 ごく小さな丘のような陸地を駆け上がりつつ剣と盾を構えた。追ってきた魔物たちが走る速度を落とし、音も無く二手に分かれる。一体はこちらをじっと見つつ首を揺らし、じりじりと近付いてきていた。もう一体の姿が視界の端に消え、気配が自分の背後に移動したのを感じて、姿勢を低くする。
 先に動いたのは正面の魔物だった。ほとんど同時に後ろの一体が飛びかかってくる。前から突き出された槍を剣でいなして足で踏みしめ、前方に踏み込んで背後からの攻撃を躱した。身を屈めて懐に入り、背中に回って首に剣を突き刺す。
 もう一体の斬撃を躱そうとしていたときに脇腹に微かに嫌な感覚が走った。首筋がひやりとする。動きかけたのを留まり、攻撃を剣で受け止めた。魔物が角で突いてきたのを盾で弾き返す。それで鍔競り合いの力が弱まったから、よろめいた体躯に重みを乗せて蹴りを入れた。
 短く鳴き声を上げ、跳ぶように仰向けに倒れ込んだ魔物に駆け寄る。そのまま逆手に持ち直した剣を振り下ろした。

 
 最初に襲ってきた魔物を倒してからも、橋を渡ったり民家の側を通っていると矢や槍が飛んでくることはしばしばだった。どうも湿原一帯が魔物の大規模な棲み処になっているようだ。崩れた民家なり木の下なりの休めそうな場所はあっても、多少なりとも安心して眠りに就けるような場所では無さそうだったから、ひとまず橋を辿って湿原を小走りで通り抜けた。
 少し進んだところの馬宿に着いたのは、ちょうど日が沈み始めた頃だった。
 空いている寝台を取り、革鎧やさほど貴重なものは入っていない荷物を横に吊るしておく。外に出るとロバの荷物を下ろしている商人が声を掛けてきた。
「まだ営業中だよ。見ていかないかい」
……肉とかある? 生の肉」
 聞くと、商人が「ちょうど新鮮なやつがあるよ」と調子良く答えた。
「さっき獲ったばかりだっていうのを買い取ったやつ。たったの九十ルピーだよ」
 じゃあそれ、と勢いで言う寸前、頭が数字を理解して踏み止まった。肉の大きさで考えれば相場の五割増しほどの額だと思う。
「なんかやたら高くない?」
「新鮮で特に質が良いからだよ。しっかり脂身の乗った良い肉、食べたい気分なんだろ」
 その通りではあったので何も言い返せずに黙った。人里離れたところ、特に森の中や廃墟の近くといった場所だと、焼いた肉や魚の匂いは鼻の利く種の魔物を呼び寄せやすいのだ。魔物避けの香というものもあるらしいけれど、それを使って実際に効果があったと言っている旅人に会ったことがないから、ほとんど噂話程度のものだろう。
 ゾーラの里に着くまではしばらく馬宿や村に寄っていなかった。つまるところ、干し肉でない肉にありつけるのはかなり久しぶりのことだ。
「どうする、買うか、買わないか」
……わかった、買うよ。はい」
 ルピーを渡し、まいど、と満面の笑みを浮かべる男から包みを受け取る。炊事場の鍋は今なら空いていそうだった。 
   
 腹を満たしてからも、なんとなく焚き火の側に座ったままぼんやりとしていた。
 前に比べれば知っていることはかなり増えた。多分、少しずつ戦えるようにもなってきている。今も遠くで動いているのが見える、光線を撃ってくる機械仕掛けの奴には、まだまだ歯が立たないけれど。
(昔くらい、いや、昔より戦えるようになる頃には)
 記憶だってもう少しは実感を伴うのだろうか、と思う。
 別に実感なんて無くても、記憶がちゃんと自分のものにならなくても、進んでいくのには何の問題も無い。ただ、道々で過去の話を聞くたび、当事者になれないことがずっと引っ掛かっている。失われたものを語られるとき、――願われるときに、なにか、靴で地面の割れ目を踏んでいるような感覚がある。
 考え込んでいたのだろう。横から「鍋使っていいかい」と聞いてきた声にも生返事で答えたように思う。
「なんだ、兄ちゃん、そんな辛気臭い顔して」
 だから、唐突に投げかけられた問いにも何も考えずに返していた。
……うまく、思い出せなくて」
「何をだあ? どっか行く道とかか」
 答えが返ってきて我に返る。横を向くと陽気そうな中年の男が椅子に座っていた。手に酒の瓶が握られている。
「いや、悪い、こっちの話」
「財宝がたんまり眠ってるっていう場所かい。それか、好きな女が欲しいものとか」
 男は既に少し酒が入っているらしく、言いながら背中をばんばんと叩いてきた。こちらの答えを待たずに言葉を続ける。
「なんだよ、紙に書いておかなかったのかよ。バッカだなあ~~それともなんだ、紙も無くしたのか」
……そんな感じ」
 答えると、男は低い唸りともつかない声を出し、不精髭の生えた顎を擦りながらしばし黙った。何か考えている様子だった。
「そん時は……なんだ、適当に歩いたりしてりゃあそのうち思い出すんじゃねえか」
 さっきまでよりはいくらか地に着いた声で、そんなことを言ってくる。
「適当、って言っても……
……まあ、これは俺の経験からくる話なんだけどよ。どうにか思い出そうとするから、ずーっと考えてるから、かえってなんも浮かんでこないこともあるんじゃねえか」
 鍋の下で燃える火が、男の服や顔を赤みがかった光で照らしている。頭をがしがしと掻き、男が荷物を解きながら言葉を続けた。
「一旦意識しないようにして、普段通りに忙しくして……それで何かが切っ掛けか分からねえけど、急に思い出すことも今まであっただろ」
……そういうもん?」
 訊くと、そうだよ、と声が返ってくる。
「経験無いか? ……ま、そういうこともあるから、兄ちゃんもそんな思いつめんなよ」
 頷いて、焚き火に視線を戻した。少し炎が弱まっていたところに男が薪を放り込む。
 薪が火に包まれて、表面から少しずつ黒く焦げていくのをじっと見つめていた。煙が木の燃える匂いと一緒に辺りを漂う。
 火の側に置かれた薪の束が影を作っている。灯りのもとが揺れているから、影は震えるように小さく動いていた。 
 
***
 
 ふと、目が開いた。
 身動きして気付いたけれど、身体の下にあるのは硬い床では無いようだった。やわらかく手触りの無い布に沈み込むように包まれている。頭を動かすと馬の紋様の入った垂れ布が目に入って、そういえば昨日の晩は馬宿に泊まったんだった、と思い出す。
 上体を起こして周りを見回す。人の気配が近付くと目が覚めてしまうから、今もそれで起きたのかと思ったけれど、他の客はすっかり寝静まっていた。馬宿の入口の布もまだ閉められていて、その隙間からは暗く沈んだ夜空が覗いている。朝が近い様子でもない。けれどなんとなく外に出たくなって、剣と簡単な荷物だけ手に取ってそうっと寝台を降りた。
 なるべく音を立てないように入口の布をくぐる。柱の傍らで丸まって犬がぴくりと耳を動かして頭をもたげ、こちらを見て鼻を鳴らすとまた目を閉じて元の体勢に戻った。荷馬車や木箱が月明かりで影を作っている脇を通り、見張り台の梯子に足を掛ける。上りながら、流れる空気が微かに澱み始めたのに気付いた。
……ああ、だから目が覚めたのか)
 夜空がいっそう暗くなる。下で身を伏せている犬が低く唸り出した。
 厩舎や森の中で眠っていたものたちが息を詰めて耳を立てる。無音で張り詰めつつもざわめくような異様な空気は、もう何度も経験したものだった。
 赤い月が昇るのだ。
 雲が追い立てられるように速く流れていく。空がみるみる血の色に染まっていくのを、見張り台の上に座り込んで見つめていた。
――また、赤き月の刻がきます」
 声が呟く。遠くに城が見えている。どろりとした靄が纏わりつくように渦巻く中心から、彼女が呼びかけているのが聴こえる。
「気を付けて……
 そう伝えてくる声に、あなたの方こそ、と心の中で答える。返事は無い。こちらからの声はきっと届いていないのだろう。
『ゼルダの力は直に尽きる』
 王はそう語っていた。時間は、彼女の力は、あとどれだけ残っているのだろうか。声からもそれは読み取ることができない。
 赤い月が上るときは魔の力が強まるときなのだと誰かが言っていた。だとしたら、この月が上るたび、彼女の力も大きく削れているのではないか。 
……もし、百年の眠りから覚めたとき、全部記憶を持っていたなら)
 自分はどうしていただろうか、とふと思う。
 飛び起きて、少なからず動揺した後にどのくらい冷静になれただろう。思うように動かない体を引き摺ってでも台地を降りて、まともに戦えないことなど構わずに城に向かっただろうか。それで――それでどうなっていたかは、分からないけれど。
 身体が急いているみたいだ。身体が頑なに昔覚えた動きをしようとするのを、そう感じるようになったのはいつからだったか。欠落も、今の自分の状態も、全て無視してまっすぐ進もうとする。一刻も早く城に向かいたい。間に合ううちに声の元に辿り着きたい。それは、記憶がまだはっきりしない自分にもよく理解できた。
 空が紺青に戻っていく。澄んだ風を深く吸って、息を吐き出す。
 祈られている。願われている。だからこそ今すぐに走っていってはならないと思った。
(落ち着け。焦るな)
 言い聞かせるように心の中で呟いて、寝台に戻ろうと腰を上げる。
 遠くの広い平野を、機械仕掛けの兵が歩き回っている。あれが居るせいで平野には人はおろか動物もほとんど寄り付かないのだと聞いた。それでも百年の間、巡回するようにずっと動き続けているのだという。きっと彼らには眠るという概念もないのだろう。
 昼も夜も存在しない。あの城にも、厄災にも、おそらくは彼女にも。
 ただ、赤い月が昇って消えて、また昇る。