ながひさありか
2026-05-18 00:31:02
18184文字
Public STR-Phaidei
 

MOONLIGHT MILE2



2-2

「食事は朝夜は宿屋で食べられるけど、村長が経営する小さなレストランが村の外れにあるから、昼夜はそこでも食事は可能だよ。時々気まぐれに村の誰かが楽器を演奏して歌ったりしてるから、もし賑やかなのが嫌だったら宿がいいかな。ギターを持って行くなら、何か演奏してくれって言われると思うから、そこは注意だね」
「気が向けば弾いてやる」
「店の人にもそう伝えておくよ。休暇で来てるんだから過度に干渉しないでくれって。ああでも、祭りの間は混ざってくれって言われるかも。……それで思い出したけど、絡まれるのが面倒だったら村の中央広場には来ない方がいい。明日から三日間は、収穫祭で夜通し火を囲んで踊ったり歌ったりしながら宴会をしてるから」
 メモを添えた地図を頼りに、モーディスに村を案内する間、村の人たちに何度か声をかけられた。
 どこから来たの? と尋ねる彼らに、「オクヘイマだ」とモーディスは答えていた。実際、自宅はオクヘイマにあり、レコーディングなんかもスタジオに行かずとも出来るらしい。スタッフを呼んだ方が面倒がないからな、とモーディスは淡々と教えてくれたが、僕には現実味のない話だった。
「ところで、自宅の話なんてして大丈夫なのか? もし僕が悪いやつだったらどうするんだ」
 モーディスのSNSアカウントはバズって流れてくる時にしか見ないので、彼が自分のアカウントに自宅の話題をあげているのかどうかは知らない。既出の情報ならいいけど……、と恐る恐る尋ねると、モーディスは僕の顔をじっと見つめてから、「お前が?」と鼻で笑った。
「お前はどちらかと言うと、罪悪感で自滅しそうなタイプに見えるが」
「どう言う意味だよ……
「人を見る目には自信がある。お前はお人好しの部類だ。俺が黙っていろと言えば黙っているタイプだろう」
……………
 胸を手の甲で軽く叩かれ、妙な距離の近さに戸惑った。それとも僕が芸能人と知り合って舞い上がっているから、勘違いしているだけなのだろうか。
 ロックスターの「メデイモス」はもっと近寄り難い男だと勝手に思っていたけれど、どうにもイメージが違う。
「信頼してくれるのはありがたいけど、戸惑うからあんまりプライベートなことは教えないでくれ。うっかり酔って誰かに喋るかもしれないし……
「酒は弱いのか」
「え? うーん……、普通かな。そもそもあまり飲まないけどね」
 唐突な話題だ、と思いつつも、モーディスの質問に答える。ちょうど波止場に差し掛かり、モーディスはサングラスを外して、瞳を細めながら海の向こうを見つめていた。
 村に定期船がやってくるのは、ちょうど一週間後の予定だ。時間がかかるが、オクヘイマまで村からのんびりと船で向かうことができる。流石にそんな物好きは今時あまりいないので、一晩かけてヤヌサポリスに行き、そこから飛行機でオクヘイマに向かうルートがスタンダードだ。
「ああでも、村の蜂蜜酒は甘くて美味しいからおすすめだよ。オクヘイマではネクタールが流行ってるけど、僕は苦手でさ」
 頭の片隅で、そう言えば彼は「体に悪いから」と殆ど飲まないと言っていたような、と昔どこかで読んだインタビュー記事を思い出した。
「どこの店のものがおすすめだ?」
 余計なことを言ったかも、と考えていると、僕を振り返ったモーディスが尋ねてくる。
「店? あ、あー、宿でも頼めば出てくるけど、さっき言ったレストランと、あともし瓶で買うなら週に二回、中央広場でバザーが開かれるからそこかな。祭りの間はいつでも広場で買えるけどね。村の特産品としてどこかに出荷してるとかでもないし、家庭料理の延長みたいなものだよ」
「お前の家でも作っているのか」
「どうだろう。そう言えば、帰ってきてから食卓では見てないな。もしかしたら飲んでないだけであるかもしれないから、もしあれば後で宿に持って行こうか? ——ああいや、酒は体に悪いから飲まないってどこかのインタビューで読んだから、無理にとは言わない」
 何故かモーディスに積極的に尋ねられている気がし、また余計なことを口走ってしまった。敬語を使うなと言われたせいかどうにも距離感を間違えている気がする。
「普段は喉にも悪いからあまり飲まないようにしているが、休暇中に少しくらいはいいだろう。宿に持ってくるのであれば付き合え」
「え」
——と言いたいところだが、それはいつかの機会にしよう」
 地図を持ったまま「次は神殿か」とモーディスはすたすたと歩いて行ってしまう。本当に小さな村なのでもう案内は不要だと思ったのかもしれなかったが、なんとなく、話題を逸らされたように感じていた。
 今、酒に誘われたよな?
 頭の中でモーディスの言葉を数度繰り返し、都合のいい思い込みではなさそうだ、と感じる。
 もしかして顔に似合わず、出会った人全員と友達になるタイプか? と考えて見るが、それならわざわざ案内役を指定したりはしないような気がする。所謂「陽キャのコミュ強」の人なら言葉がカタコトでも身振り手振りでなんとかしてしまうので、ちょっとモーディスのイメージからは外れている。
「おい、案内する気が失せたのか?」
「まさか。もう案内人が不要になったのかと思っただけだよ」
 数メートル先から声をかけてくるモーディスに慌てて追いつき、「神殿はこっち」と二股に別れた道の右側を進もうとすると。「待て」と背中に声がかけられる。
「そろそろ昼食を取りたいのだが、村外れのレストランは今日は空いているのか?」
「あー……、どうかな。多分、祭りの間は広場に屋台を出すはずだから、仕込みで閉まってるかも。一旦宿に行こう」

   *

 宿には一番最後に行く予定だったが、別に急ぎの案内でもないので、計画を変更して荷物の確認がてらモーディスを宿へと連れて行く。
 おかみさんに「彼に軽食って出せる? お腹空いてるらしくて」と聞くと「あんた今も人がお腹空いてるかどうか気にしてるのかい?」とくすくす笑われてしまった。その瞬間、完全に忘れていたはずの子ども時代の不名誉なあだ名を思い出し、顔が熱くなる。
「ち、ちが、そうじゃないって! 彼の方から昼食にしたいって言われたんだ」
「わかったわかった、おなかすいたノンちゃんは優しいものね」
 僕が慌てて答えたせいか、すっかり面白がってしまっているおかみさんが笑う。確かに子どもの頃の僕がいろんな人に「お腹空いた?」と聞いていたのは事実だったし、食べても食べてもお腹が空いていて母さんが苦労していた記憶はあるが、大人になってからそんな話を蒸し返されるのは本当に勘弁してほしい。
「あんたも食べるだろ? ご飯は作っておいてあげるから、先に宿の案内をしておやり。こっちは部屋の鍵で、このデカいのが貴重品入れの鍵」
……ありがとう。先に部屋に案内してくるよ。モーディス、これが部屋の鍵で……って何か言ったかい?」
 僕とおかみさんのやり取りを聞いていたモーディスが、ぽそりと何かを口にした。
 鍵を受け取る彼の肩が微かに震えている。
「おなかすいたノン、っ、ふ……
……君、本当はエリュシオン語がわかるんじゃないか?」
 無邪気なくしゃくしゃの笑顔を見せるモーディスの表情にどきっとするより、恥ずかしさのあまり、顔が沸騰したように熱くなる方が早かった。初対面の人に揶揄われるなんて心外だ。言葉が分からないなら伝わらないだろうと思っていたのに、都合の悪いことばかり素直に伝わってしまう。
 僕の詰るような言葉にモーディスは一瞬でスンっ、とした真顔になると、「殆ど言葉はわからんが、『おなかすいたノン』がお前を指していることは伝わった」と大真面目に口にする。
「子どもの頃のあだ名か? 随分と愛らしい……
 そう続けるモーディスの表情は再び崩れ、唇と眦が吊り上がる。今度は笑っていると言うより意地の悪いニヤついた笑みで、もし僕がゴシップ誌の記者だったなら、今すぐその顔をカメラに収めて、彼に辱められた挙句に脅迫を受けたと事実無根の記事を捏造していただろう。
「忘れてくれ今すぐ。忘れてくれないならもう案内はしない。……君の部屋は二階だよ」
「そう恥ずかしこともあるまい。食に執着のある奴は好ましい」
 何がそんなに面白いのか、ニヤつきの収まらないモーディスにイラッとし、モーディスを置いてさっさと二階へ向かう。その後ろを、モーディスがゆったりとした歩みでついてくるのも腹立たしい。
「案内しないと言った割には先導してくれるようだ」
 独り言のような音量で呟くモーディスに、もしかしてこいつって、見た目通り失礼で生意気な奴なのか? と飛行場で握手を交わした時とは真逆の感想を抱いた。
 果たしてどちらが彼の素なのかは分からなかったが、僕が悪人でないことに本当に感謝して欲しい。もし僕が頭の悪い悪人だったなら、君が村を去った後、身バレも気にせず様々な悪口をSNSに書いただろう。
「部屋の鍵は新しくしてあるらしいし、この村は治安はかなりいい方だと思うけど、戸締りはしっかりしてくれ」
 鍵を開け、モーディスを部屋に案内する。角の一番広い部屋を使うと言う話は聞いていたが、オクヘイマの彼の自宅と比べれば犬小屋みたいなサイズかもしれない。寝室はきちんとドアで隔たれていて、日中を過ごすには寝心地の良さそうなソファや、書き物をするのにちょうど良さそうな椅子とテーブルが手前の部屋に設置されている。
 全体的に陽当たりのいい部屋で、窓からは風車と波間のように揺れる麦畑の海と、中央広場や池へと繋がる道が見えている。僕の部屋や家と同じように、窓を開けると麦のいい香りがした。自宅と少し違うのは、宿の入り口周りはおかみさんが花をたくさん植えていて、今は赤と青の花が咲いているからか、花の香りも風に混ざっていることだろう。モーディスの部屋にも花瓶がいくつか置かれており、紫や黄色のヒヤシンスが花を咲かせている。
「悪くない。貴重品入れはこれか?」
 簡素な言葉を口にしたモーディスは部屋の隅に置かれていた大きな鍵付きの棚を指差し、怪訝そうな顔をした。部屋の家具はどれもいい意味で味わい深く使い込まれていたが、その棚だけは随分と真新しく、木の表面のコーティングもつやつやと光っていたからだ。
「多分? ギターを持ってくる話はしてた?」
「した」
 ようやく担いでいたギターを下ろしたモーディスは、僕から鍵を受け取り、棚の施錠を外す。
「ちょうどいいサイズだ」
「本当だ。もしかしたら君のために手配したのかもね」
 モーディスは慎重にギターをしまい、棚の内側についていたチェーンをギターケースにかけて、回転錠をセットしている。大事な楽器だから自分で持ち歩いているのだろう、と今まで特に尋ねなかったが、きっと彼はフライトでもギター用の座席を買っているのだろう。中身がエレキなのかアコースティックなのか、僕には知識不足でケースからは判断できなかったが、村に滞在している間に、弾いているところを見せてもらいたいな、と過分な欲が急に湧き上がるのを感じた。……ミーハーすぎる。絶対に言わないようにしよう。
「お前は意外と視線がうるさいな」
「え? ……あー、その、すまない。気をつけるよ。どうも君の雰囲気にずっとあてられてるみたいだ……
 棚を施錠するモーディスの様子を無言でじっと見つめていたことに気づいたのは、モーディスがふ、と口角を持ち上げて笑った顔を見た瞬間だった。
 慣れているし気にはしないが慣れろ、なんてモーディスは言っていたけれど、そんな簡単に慣れたら芸能人なんて職業は存在しない筈だ。人々を惹きつける稀有な才能を持つ一握りが生き残れるのが彼らの世界で、一般人の努力や運ともちょっと違う。
「文句を言ったわけではない。先ほど言った通り他人の視線には慣れているし、見られるのも仕事だ。ただ、お前の真っ直ぐな視線は妙に俺に刺さる」
 太陽のように眩しい金色の瞳が、僕を値踏みするように見つめている。その瞳の神々しさに心臓を直接を掴まれたような錯覚を覚え、息がつまる思いがした。
 モーディスの言葉ははっきりしているようでやや婉曲だ。難読本を読み解いている時と同じような気分に陥り、思わず自分の眉が寄ったのがわかる。
 彼の真意がわからない。わかりたい。君は僕に何を望んでいるんだ?
……それってやっぱり文句じゃないか……?」
 モーディスの考えていることは僕にはわからなかった。嫌われているわけでも鬱陶しがられているわけでもないだろう。どちらかといえばむしろ好意がある、ような、気がする。これは僕の思い上がりかもしれないが。
「そう思いたければ好きにしろ。荷物の整理をする。お前は適当に座って休憩していろ」
「そうさせてもらうよ。何かあったら隣にいるから呼んでくれ」
 寝室に運ばれていた荷物をベッドの上にも広げ始めたモーディスにそう言い、寝室を出ると、椅子と迷ってソファへ行く。
 何か飲むかって聞けばよかったかな、と気づいたのは、ソファにぐったりと沈み込んだその瞬間だった。
 まずい。クッションを抱き寄せて肘置きに体重をかけながら、思わずため息が溢れる。一気に押し寄せる疲弊感にパニックになりかけているのがわかり、落ち着け、落ち着け、と頭の中で自分に何度も言い聞かせることにした。
 初対面の人と長く話すのは、どうやら今の僕にはかなり負担の大きいことだったらしい。まだ村の案内は残っていたが、昼食を食べる気力が出るのかすら怪しい。
 途中で倒れたり動けなくなるのが一番まずいから、この後の案内は明日以降にさせてもらえないかとモーディスに言うしかない。
 そもそも、案内なんて引き受けてる場合じゃなかったのは明白だ。それができるなら、仕事をとりあげられて、休まされているわけがないんだから。
 明後日、村には「昏光の庭」から医者がやってくるはずだ。もしかすると彼女先生には叱られてしまうかもしれないが、早く人と関わって社会に復帰したいと考えていた。だから案内をすること自体は別に嫌じゃない。ただ、思っていたより気を張ってしまっていた。
(もしかすると、明日は起き上がれないかもしれないな)
 案内は明日にさせてくれ、と明確に約束をしない方がいいかもしれない。モーディスには悪いが、具合が良くなったら迎えに行くからと伝えて——
「どうした。体調が悪いのか」
………………………
 心配そうな顔のモーディスがいつの間にかそばにいて、僕を覗き込んでいる。着ていたライダースが暑かったのか(それはそうだろう。僕は半袖で彼を案内していた)、脱いだらしく、白いタンクトップ姿だった。健康的な肌を彩る派手な赤いタトゥーが似合っていて綺麗だった。アルバムのジャケットや広告で見るたびに、完璧なライティングで完璧な影の落ちる体だと思っていたが、あれは加工の手腕と言うより、彼の身体がそもそも彫刻のように美しいからこそ、カメラに収められてより美しさが際立っていたらしい。
 何か答えないと。そう思っているのに、頭の中には余計な思考がぐるぐると回って、打ち上げられた魚のように、ぱくぱくと意味なく、無音で唇が開閉するだけだった。
「ファイノン。……落ち着け、お前を責めたわけではない」
 僕をじっと見下ろしているモーディスの表情は、どこか冷たく感じるほど凪いでいた。
「触るぞ」
「っ、」
 妙なことを宣言したモーディスの顔をじっと見つめていると、モーディスの手が頬に触れる。楽器を長年扱っているせいか、少し指先の皮膚が硬い。他人の肌や熱が直接自分に触れるのが久々すぎて脳がおかしくなっている。ささくれだっているわけでもない、冷たいわけでもない、暖かなモーディスの手のひらの温度が受け入れ難い。触らないでくれ。拒絶したいのに体は動かず硬直していて、モーディスの金色の瞳から視線を逸らすことができない。
「呼吸をしろ」
 頬に手を添えられたまま、ゆっくりと肩を撫でられている。言われるまま、ふーっ、と息を吐いてみる。息を吸う。
 肩の上を手がゆっくりと降りていくのに合わせて息を吐き、肘の方から肩までゆっくりと上がるのに合わせて息を吸う。
 それを何度も繰り返しているうちに、だんだんと瞼が下りてくる。モーディスの体温に意識を集中させてしばらく深呼吸を繰り返していると、唐突に、体の強張りが解けた。
 はっ、と息を吐いてぐったりとソファに沈みむ。
……迷惑をかけてすまない、変なところを見せた」
 失態だ。村の人の前でこんな姿を見せてもキツイのに、ましてや初対面のモーディスの前でこんなことになるなんて。後悔と羞恥と気まずさと絶望感でぐちゃぐちゃになりながら、なけなしのプライドで起きあがろうとしたが、腕にうまく力が入らず、すぐにまたソファに沈んでしまう。
「無理して起きあがろうとするな。寝ていろ」
 モーディスがほっとしたように息を吐き、床から腰を上げる。どうやら僕を落ち着かせる間、床に座る羽目になっていたらしい。
「下に降りるのは辛そうだ。昼食は俺がこちらに持ってくるが、……それを説明する文を書けるか?」
 モーディスはスマートフォンを取り出すと、メモ帳を起動して僕に差し出す。
……いや大丈夫、もう起きれそうだ」
 ぐっと力を込めてなんとか起き上がると、ソファから腰を上げる。
「モーディス、中途半端で申し訳ないけど、この後の案内は後日にさせてもらえないか? 明日、調子が悪くなければ迎えに来るから、祭りを見つつ村を案内するよ」
「案内は俺が無理を言ったにすぎないのだから、お前は気にしなくていい。少し長い滞在だ、お前の気が向けば案内してくれ。待て」
 ふらふらと部屋を出て行こうとすると、モーディスに腕を掴まれる。ギョッとして振り返ると、モーディスが「あっ」とでも言うように、バツが悪そうに手を離す。
「階段を踏み外しそうに見えるが、本当に歩けるのか? せめて階下から呼ばれるまで休んでいろ」
……すまない。そうさせてもらうよ」
 立ち上がった道をまたふらふらと戻り、ソファに沈む。
「水か何かもらってくるか」
 椅子に腰を下ろしたモーディスは、テーブルに頬杖をつきながら僕を静かに見つめている。
 陽光がモーディスの顔の半分を眩しく照らし、部屋の壁にレースのカーテンの影が映って揺れている。肩から二の腕の筋肉のラインが綺麗だ。映画のワンシーンのような姿に視線がとられ、あの「メデイモス」と故郷でこんなことになっている現実味のなさに、頭が急にふわふわするような感覚がした。頭の中を冷たく締めていた絶望感が洗い流されるように遠ざかり、手足の感覚がはっきりと戻ってくる。
「大丈夫。だけど、君がもし水が欲しいなら、受付に誰かがいる場合は水差しを持っていけばいれてくれるよ。誰もいなかったら、食堂に飲料水用の蛇口があるから、そこから注いで。……とか、色々説明するつもりだった。もう少ししたら落ち着くと思うから、宿の案内だけはさせてくれ」
 急激に、心の荒波が穏やかになっていくのを感じる。不思議だ。自分のベッドの中で音楽を聴きながら何も考えないようにしている時ならさておき、宿屋のソファは、僕にとって馴染みのある家具ではないのに。
「緊張や様々な理由で、突然体調が悪くなる者には慣れている」
 モーディスの言葉は淡々としていたが、そこに冷たさは感じなかった。彼は平静を保つことで、他者に余計な影響を与えないようにしているのかもしれない。なんとなくだが、そんな気がした。
「村にいるのは休暇を取っていると言っていたか。それがもし仕事に関係するのであれば、俺もそうだ。数年走り続けたせいか、かなりの疲労を感じていた。アーティストは心身を切り売りするような人生——と言うと格好をつけすぎかもしれんが、少なくとも俺はそう思っている。無理をしすぎてどうにもならなくなった同業も何人も見ている。だから、お前も無理はしないことだ」
……どうしてそんな話をしてくれるんだ? 君と僕は今日はじめて会ったばかりの他人だろう。僕を信用しすぎじゃないか? それとも、君って誰に対してもそうなのか……?」
 もしそうなら、確かに、見た目に反して傷つくことも多いんだろうな、と僕は傲慢にも考えていた。
 歌っている時やインタビューでは誰も寄せ付けないような圧倒的な雰囲気を纏っているのに、その実、人と関わるのが大好きで、信じやすい性格なんだとしたらつけ込まれることだって多いだろう。
「さてな、俺にもわからん。お前はきっとお人好しだろうから、お前には話してもいいと感じた。それだけだ」
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