kanaco
2026-05-16 21:25:49
26254文字
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【十二信】片想いラヴァーズ

《十二信》未成立十二信。「好きなヤツがいる」と聞いて失恋したと思い込む信と、盛大に勘違いしている十二と、巻き込まれた王九。両片想いの信一と十二が通じ合うまでのおはなし。


 王九は喫茶に飛び込んできた青年を見て「あん?」と小首を傾げた。

 王九も見知った顔だった。
 廟街の架勢堂に所属する若頭、十二少。

 油麻地果欄と廟街は隣接している。だから王九にとって、十二と鉢合わせる頻度は信一よりむしろ高かった。九龍城砦と懇意である架勢堂も、油麻地果欄からすると均衡を保つ必要がある区域の一つだ。十二も信一と同様に、若いながらも一つ頭を出す男である。

 しかし王九からすればこれも信一と同様に、グルゥと唸る目つきの悪い子犬に過ぎなかった。信一に比べると幾分か感情を見せないことを重視している印象がある。信一が場の空気に合わせ、真実と嘘を器用に織り交ぜながら笑うのに対し、十二の温度は一定だ。ほんの時折、刹那的な感情をちらつかせ、詰めようとする。

 ところがベルが激しくなるほど乱暴にドアを開けた十二は、入口で止まったまま真っ青な顔をしたかと思うと、何か言いたげに口を開けたが音は出ず、終いには顔を真っ赤にし始めた。

 耳まで赤く染まった相棒を見て、驚いた信一が少し腰を浮かせる。王九が「何ごとだ」と声を発する前に、十二が二人の席に向かって足で蹴るように踏み出した。物凄い早さで席に近づいてきたかと思うと、十二の右腕が勢いよく伸びる。

 その腕の向かう先が自分の胸ぐらだろうと察し、王九は悠長に鼻白んだ。面倒くさそうに視線だけを動かす。目の端で向かいの席が動いたのもとらえた。

 王九の首に触れる一歩手前。
 十二の指先がピタリと止まる。

 音もなく立ち上がって冷静に間に滑り込んだ信一が、十二を抱きとめたからだ。人間の声が静まり返る中、穏やかなクラシックだけが流れていた。十二の背中に回した信一の手が、音楽のリズムに合わせるようにゆっくり動くのを、王九はじっくりと観察した。十二の空ぶった指先が力を抜き、腕がダラリと下に落ちる。

「どうした、十二?」

 殺伐とした空気の中で、妙に凪いだ沈黙を破ったのは信一だった。宥めるような柔らかい声を出して、落ちつかせようとする。何もかもが甘ったるい。見事な反応速度と、異常な事態に対する信一の穏やかで自然な振る舞い。

 王九は思った。

 こいつじゃん。

 信一が失恋したらしい、片想い相手の『男』とは。
 
 それからグルン、と目を乱入した厄介者へと移す。今にも噛みついてきそうな勢いと、嫉妬を隠そうともしない爛々とした猫目。あの攻撃性が何を意味しているかなど明らかだ。「おいおい」と苦言を呈したって、誰も王九に文句を言ったりしないだろう。
 
 いよいよ面倒くさいことになったぞ、と王九が思う目の前で、信一が十二を抱きしめていた腕を少し緩めた。声音と同じくらい温かさのある瞳を信一が十二に向けるが、肩上から覗かせて王九を射抜いている十二の瞳は、明確な敵意と獰猛な怒りを孕む獣の目でしかない。王九はあからさまに呆れた目をした。

 何だか知らないがポーカーフェイスが板についているはずの子犬の、触れてはいけない何かに触れたらしい。犬から虎に変貌した。とはいえ、子虎の尾っぽを踏んだところでどうということはない、と王九は思った。

 そして、クッキリと見えてきた『背景』がある。

「おい、信一」

 王九に名を呼ばれて、信一が顔を向けようとした。その瞬間、怒気を発しながらも黙りこくっていた十二が叫んだ。

「ダメだ!」

 信一がまたビックリしたように、視線を十二へ戻す。十二は信一ごと半回転するように体勢を入れ替え、信一と王九の間に立つ。信一を背中に隠して、なおも王九を鋭利に睨みつけた。それからもう一度、低く唸るような声を出した。

「王九なんて、ダメに決まってる」

 いきり立つ、完全なる拒絶の声。しかし言葉の意味を掴み損ねて、後ろの信一が「ん?」と間の抜けた声を出した。興奮している十二は、信一の様子にまだ気がついていない。

「王九なんて許さない」
「許さないって何が?」
「王九は敵だし、危険だ。どんな扱いをされるか分かんねぇし、信一を幸せになんかできない」
「おいおい、散々な言われようじゃねぇか」

 お前、俺の何を知ってんだ、と王九が口を挟めば十二がキッと睨みを強くする。大人としての譲歩でわざとらしく肩を竦めて引いてやると、十二は目をパチパチさせている信一の方を振り返った。

「信一が龍兄貴のことを好きなんだったら、信一の気持ちを尊重しようと思ってた。本当は虎兄貴のことが好きなんじゃないかって思いついた時も、マジで心臓が止まりそうだったし、一晩中悩んだ。でもお前が幸せって思うんだったら、覚悟しようって思った」
「んん?」
「ぶっちゃけ一睡もしてない。それくらい悩んだんだ。でも王九なんて論外だ!」
「待てよ十二、情報量が多いぞ」

 本当に困惑した信一が焦ったようにストップをかけるが、十二は構わずに両手で力強く信一の肩を掴んだ。向かい合うと真剣な十二の瞳が信一を射抜いて、信一は息を飲む。昨日も一瞬だけ感じた、大人びた視線だった。しかし昨日と違うのは、信一がハッとするほどの覚悟が、その目に宿っていたことだった。
 
「待っていられるか。王九なんかに取られるくらいなら……

 声にも強い決意が込められていた。信一が思わず黙って見つめ返す。

 十二はグッと緊張を堪えると、じっくりと言い聞かせるように言った。

 
「俺に、惚れさせてみせる」
 
 
 嘘偽りない、真剣な目だった。その本気度を信一は真っすぐに受け取る。信一は目を見開いて、ヒュッと喉を鳴らした。咄嗟には反応できなかった。でもとても大切な言葉を言われたことは分かる。やがて言葉の意味を理解していくと共に、信一の頬が徐々に朱に染まっていく。何とも形容しがたい高揚感が体の中を駆け巡った。あえて一つに言い表すなら、喜びだ。「なぁ、それって」とすぐさまにでも確認をしたくなる。

 ところが、その前に発せられた十二の次の言葉に、信一は再び目を点にした。

「王九とつき合うなんて、絶対に許さねぇ!」
 
「は?」
「は?」
 
 信一と王九が声をピッタリと揃えて、間抜けた声を出した。言葉の意味が飲み込めない。これまでは情報量の多さで脳が混乱していたためだが、今回は単純に脳が理解するのを拒否したためだった。それでも理解をした信一と、もともと嫌な予感がしていた王九は数秒黙り込む。それからまた揃って、地獄でも見たような顔で盛大に顔を顰めた。
 
「王九と俺が、つき合う?坊ちゃん、一睡もしてないの祟り過ぎだろ」
「おい、子虎。寝言は寝て言え。一人であらゆる臨界点を突破してんじゃねぇよ」
 
 二人があまりにも嫌そうな顔を揃えるので、ここで初めて十二が「うっ」と言葉に詰まった。年上二人の非難轟々ぶりに少しだけのけぞって、それでも食い下がる。十二からすれば、揃って嫌そうな顔をしているのさえ気が合っているように見えて、絶望的な気分だ。問題の王九を指さして、信一に噛みつくように言った。
 
「だってさっき、王九のこと好きって言ってたじゃねぇか」
「好き?俺が王九に“好き”って言っただって?」
「おい色男、お前のせいだぞ。おぞましい誤解を早く解け。……つーか」

 心底嫌そうな顔で王九が信一に顔を向けたまま、指だけ十二を指さした。

「こんな“しつけ”のなってない“感情駄々漏れ”ヤロウと、どうやったらここまで拗れるんだ」

 失恋したから泣いただと?目ん玉ついてんのか。
 こりゃ、お前だって相当悪いぞ。

 王九が憮然として言った。
 
 こんなもん。
 
 「悲劇じゃなくて喜劇じゃねぇか」

 王九から「やっぱり真正のバカだな?」と辛辣な言葉を散々に言われて、信一は今回ばかりは言い返さず、綺麗に無視した。その代わりに王九とお互いに指を差し合いながら、ムッとした顔で待っている十二に言葉をかけた。

「十二、どうしてここに?」
「この通りをパトロールしてた俊昊が見かけて、俺に連絡寄こしてきた。王九といるなんて、様子がおかしいかもって」
「そうか。心配してきてくれたのか。それで、好きって言葉が聞こえてたんだな」
……喫茶店に入ってきた時に、それだけ聞こえた」
「ふふ、うん。そりゃぁ十二は悪くない。神さまの悪戯ってやつだ」
……何それ」
「つまり、俺は王九に言ったわけじゃないってこと」
「王九じゃない?」
「もう少し丁寧に言えば、龍兄貴を想ってでもないし、虎兄貴でもない」
…………
「俺は、次に好きな人に会ったら、好きって言う。そういう決意の話をしていたんだ」

 十二が口を一文字に結んだ。困惑するような、堪えるような、だけどほんの少しだけ、縋るような目だった。

 信一はホッと息を吐いた。昨日とは違う。十二が失せた顔色であっても、感情が透けて見える。十二が不安がっているのが分かった。それを可哀想で可愛いと思うのは酷いだろうか、と信一は心中で自嘲的に笑う。信一は深呼吸をすると、もう勘違いを生むことのないように真っすぐ十二を見つめ、短い言葉を丁寧に告げた。

「好き」

 信一の告白を受け取って、十二の瞳孔がブワっと開いた。

「俺が好きなのは、お前だよ十二」

 色々考えてくれたみたいだけど、お前ってばちっとも当たりゃしない。でもゴメン、俺のせいだな。俺が主張を怖がってたせいで、散々惑わせてしまったってことだろ?

「でも、お前なんだよ」
 
 告げられてほんの数秒の間、十二が固まった。それから、ボソリと呟いた。
 
「外にいるとは限らない。灯台下暗し……。信一を泣かせたのは」

 また沈黙。そして次には、驚愕したように猫目と大口をかっぴらいた。

「俺かよ!」

 とんでもない重要事実に気がついた叫びを、信一は笑って肯定した。そして、本当はすぐにでも確認したかったことを聞く。

「俺を惚れさせる、って言ってたよな十二少」
 それって、つまり。
「お前も俺のことが」

 言葉を続けようとした瞬間、重要な言葉が口の中で消えた。突然十二が一歩踏み出して、片手で信一の口を塞いだからだった。不意を突かれた信一が(昨日からこんなのばっかり!)と驚くと、真剣な顔の十二がズイっと踏み込んできた。

 怒っているのか不機嫌なのか、分かりかねる表情。しかし信一には心情がハッキリと伝わった。すごく緊張している。なぜならば、自分の口を覆う手のひらが汗びっしょりで、僅かに震えていたからだ。

「待て、俺に言わせろ。こんな大事なこと、譲りたくねぇ」

 信一は顎をコクコクと縦に振った。十二は手を外す。それから信一に倣って、丁寧に告げた。
 
「俺が好きなのは、お前だよ信一」

 間違って伝わることなどないよう、言い聞かせるように言う。信一は目を輝かせて、ニッと笑った。

「お見合いに行ってもお嬢さんを断ったの、俺が好きだからだな」
「本当は行きたくもなかったけど、体裁ってモンがあって。でも俺はずっとお前一筋だったから」
「お見合いに行ったことを俺に知られたくなかったから、怒った?」
「そういう色恋話を、出すの嫌だった。そういう話題をしたら、嫌な話聞くかもじゃん……
「俺が、龍兄貴のことを好きだと思ってたから?」

 十二は素直にコクリと頷いた。信一は「それは何となく、分からないでもないけど……」と寄り添う感想を返した。指摘は、周りからされてきた。子供のころから信一は龍捲風にベッタリであったから、その強烈な光景を見続けて育った十二が思い込むのも無理はない。
 
「でも、虎兄貴が好きって何だよ」

 あの人は確かにカッコイイけど、でも俺がっていう発想は本当に分からないぞ、とギロリ睨んで指摘すると、十二はたじろいだ。それから緊張していた表情をフニャリと崩し、落ち込んだように嘆いた。

「だって、龍兄貴に相談したら”灯台下暗し”で考えてみろって言うからさぁ」
「兄貴が?確かに兄貴は俺が十二を好きなこと、知ってる」
「俺が信一を好きだってことも知ってた。それでたぶん、見かねてヒントくれたんだけど」
「けど?」
「灯台下暗しって言ったら、お前のすぐ傍だろ。で、龍兄じゃないなら次に近いの、ウチの大老かなって」
「なんでそこでお前自身が抜けんだよ」
「だって灯台下暗しっていうから!俺じゃ灯台そのものじゃん!」
 
 十二の物言いに「ええ?」と困惑をした信一は王九を見た。「なぁ、今の理屈合ってる?それで言うなら灯台、俺じゃね?」と聞くと、暇を持て余して信一と十二の問答を眺めていた王九は「アホだということだけ分かる」と、ただの悪口を返した。

 それを聞いた十二が頭を抱えた。我関せずの王九が、いつの間に頼んだのか二杯目のコーヒーを優雅に口に運ぶ。信一が混乱したように眉間の皺をギュウと寄せて王九を見た。そして十二も目をクリっとさせて王九を見るので、王九は興味がなさそうな顔で口を開いた。

「どっちも灯台を自分だと思ってた。子虎は自分が影を探すつもりでいるから、自分が数に入ってない。色男の近くにいる人物を探した。でも色男からすりゃ、陰に隠れるくらい内にいるのは子虎だった。簡単な話だろ」
「灯台下暗し……
「つまり、お前たちはまだ自分中心でしか考えられねぇガキくせに、大人ぶって相手中心で考えようとするから、おかしなことになる」

 王九はヒャヒャヒャとバカにするように笑った。信一が少しのイラつきを見せて、棘のある声を出した。
 
「相手中心で考えるの、何が悪いんだよ」
「悪いとは言ってねぇよ。おかしなことになる、って言ってる。安心しろお前ら。見ている方向も、失敗も同じだ。つまり、話せば分かる」

 お前は反省点をもう分かってんだろ、と王九は信一に言った。ニヤリと片方だけ口の口角が上がる。
 
「同レベルで、似合いじゃねぇか」

 良かったな、と王九が言った。信一は拍子抜けしたような顔をした。

……なんだよ王九、珍しく優しいじゃん」
「お前らの茶番劇に巻き込まれた可哀想な俺へ、マスターがメニューで一番高いコーヒーを奢ってくれた。その釣りだ」

 二杯目を飲んでいると思ったら、それか。いつの間に……と、信一と十二はカウンターの向こうにいるマスターを見た。柔和な表情をしたマスターがカップを丁寧に拭いている。信一たちの視線に気がついて微笑んだので、信一と十二は小さく会釈した。それから二人は改めて向かい合った。
 
……つまり信一が泣かせた犯人は、俺かよ」
 
 十二が「ひぇ~」と情けない声をあげて天を仰いだ。気に入らない相手だったら潰す、とまで豪語していたのが急に恥ずかしくなって、十二は穴があったら入りたい気持ちですらあった。一方で、信一は気まずそうにしたが、おずおずと話しかけた。
 
「おかしな話なんだけど、昨日、十二が誰かに恋してるって聞いた瞬間、俺の世界が変わっちまう気がしてさ」
「世界が変わる?」
「そう。俺とお前の、関係性が変わる気がして。それって今すぐじゃなくても、近い先で世界をガラリと変えるくらいの大事な気がしてさ。怖くなった。だから自分でも気がつかないうちに、泣いたんだと思う」

 肝心の「好き」も、言えなかった。

 信一が神妙な顔をして言うと、十二が「……分かる」と言った。

「俺もそれが根底にあって、信一が龍兄貴を好きだと闇雲に思い込んでたのかも」
 
 関係の形を壊さなきゃ、俺たちの『今』がずっと続く。そう、思ってたんだ。理屈をつけて、それを守ろうとしてた。

……龍兄貴は俺のことを変だってよく言ってた。好きで執着するくせに、距離を作って安心してるから」
 
 肩を落とす十二を見ながら信一は思案して、少しだけ声のトーンを変えた。気にかかることを、重々しく問う。

「龍兄貴と虎兄貴が相手なら、俺のこと諦めんの?」
「信一の気持ちがそこにあるなら。……とか言って、納得したことなんてなかった。信一が幸せならいいだろって、自分に言い聞かせてただけ。思い込もうとしてたんだから、未練タラタラの裏返しだよな」
「らしくもなく、臆病な坊ちゃん」
「俺に好きな相手がいるってだけで、泣き始めたヤツに言われたくない」
「御もっともだ、十二少。俺たちの反省点は、こんなに好き合ってるのに、踏み出さなかったことだ」

 信一がパチンと指を鳴らして、口角を上げてニヤリと笑った。
 
「俺たち龍でも虎でもなく、鳥だった」
「なんだよそれ」
「チキン」
 
 何それ、しょうもない、と十二が力無く笑った。しかし「でも」とすぐに切り返す。

「それは終わりだ」

 過去の自分ときっぱりと決別をしたような、力強い言葉と声だった。少しだけ頼りなさげだった目の揺らぎが無くなり、精悍な顔つきになる。子供っぽさと大人っぽさを不安定に行き来していた少年が、グッと男らしい顔をして信一を見つめた。十二が威勢を取り戻したので、信一は楽し気な表情で片眉をひょいと上げると、綺麗に笑った。

「俺たち、遠回りしてた」
「でも最初から特別だった、だろ。俺も、お前も」
「ああ」
「じゃぁ俺たち、一度だってブレてない」

 遠回りはしたけど一途だし、これからもずっとそのままだ。信一がそう嬉しそうに言うと、十二がニパッと満開の笑顔を見せた。そして、急にスッと目を細めた。

 よく知る幼馴染の、知らない艶めいた表情。

 信一は息を飲んだ。

 信一が「あ」と声を出すよりも先に、十二があまりにも自然に顔を寄せた。どんなに近くったって、二人にとっては自然な距離感だ。子供のころから、ずっとそう。

 例えば十二の頬が信一の頬に触れ合ったとしても、額同士をくっつけあったとしても違和感はない。もとから恋人同士の距離感だったと言っても、過言ではないのだ。

 しかし今新しいことは、それら行動について、二人分の自覚した感情がたっぷりと乗っていることだ。
 
 呼吸が近づく。迷いや躊躇はもう無かった。
 
 十二の唇が信一の唇へ、愛し気にふんわりと重なる。

 信一は僅かに目を見開く。口を合わせるだけの爽やかで優しいキスに胸がきゅっと甘く締まった。

 繊細なキスはすぐに離れていった。

 唇同士だけでは体温が伝わるわけじゃないのに、去ってしまった瞬間に信一は寂しさを感じた。でも、先ほどまでの重苦しい気持ちは完全に晴れあがる。それは十二も同じだった。

「俺、もう遠慮なんてしねぇから」

 誰が相手だって関係ない。
 例え、兄貴たちだって。

 諦めたり怯んだりしない。

 十二の瞳の中に宿った確かな強い光に魅入られて、信一は華やかな笑顔を見せた。

「おお、突然、グイグイくる」
「グイグイ行くべきだって、分かったからな」
「素直が取り柄な俺たちだから、慣れないことはするなってこった」
 
 信一が「なぁ、王九?」と、黙りこくってもはや空気になっている王九に声をかけようとした。

「あれ?」

 気がつけば、王九が座っていた場所はもぬけの殻になっていた。信一が「いつの間に帰った?あいつ」と首を傾げると十二も「信一とのことに夢中過ぎて、王九なんか全然気にしてなかった」と言った。

「さすがに帰ったのかも。だって王九、マジで関係なかったもんな」

 十二の意見で、信一は店の時計を見た。随分と長居をしてしまっている。さすがにもうお暇をしなければ。

 そう思った信一は机に伝票が無かったので、十二を連れたって引き続きカウンターにいるマスターに声をかけた。

「長い時間すみません。それに騒がしくて……

 初老ほどの年齢に見えるマスターは、優し気な瞳のまま柔和な表情を見せた。

「かまいませんよ。朝は客も元から少ないし……。青春だなと、思っていたところです」

 信一と十二は恐縮して、しかし喜びを隠せずに笑った。

「あの、伝票ください」
「ああ、それなら一緒にいたお客さまがお支払い済んでます」
「え、王九払ってったの?奢ってって言ったけど、あの様子じゃ会計しないでバックレたのかと思った」
 
 意外!と信一が言うと、マスターが穏やかな視線を2人に向ける。

「二人への、お祝いなんじゃないですか?」
「祝い?あの王九が??」
「熱心に話を聞いて、時に厳しく、時に温かくアドバイスしてたじゃないですか」

 マスターが「感心だった」とでも言いたげに頷いて言った。
 
「あの方、お2人の恋のキューピットですね」

 
「王九が俺たちの」
「恋のキューピット???」

 
 信一と十二はこれまでの人生で一番キョトンとすると、同時に顔を見合わせた。マジで?と言いたくても否定はできかねる、何とも奇妙で生ぬるい空気が、キューピットのおかげでくっついた若い恋人たちの間で流れる。

 神妙な面持ちで、信一が言った。

「とりあえず、龍兄貴と虎兄貴に報告しよう」

 

 次の日の夜。
 
 王九は大老闆に呼び出されて首を傾げた。急遽呼び出されるようなことをした覚えはない。少しの緊張感を持って大老闆の部屋に足を運んだ王九を待っていたのは、予想外の言葉だった。

「なんぞ知らんが、架勢堂の虎からお前宛に高級乾貨セットが送られてきたぞ」

 大老闆は「若い二人が世話になった、とかいう怪文書付きだ」と言いながら、胡散臭そうな目で王九を見た。お前何をしたんだ、という不審がる視線を受けて、王九があまりにも鬱陶しい気分になれば、さらなる言葉が追い打ちをかける。

「もっと意味わからんことに、九龍城砦の龍から高級茶葉セットも送られてきた」

 その恐ろしさは、「感謝を込めて近いうちに茶を入れに行く、という怪文書よりもっと質の悪い予告状入りだ」という大老闆の補足で、よりいっそう凄みを増した。

 まさか九龍城砦と架勢堂の若者たちの恋愛相談に巻き込まれたなど、口が裂けても言えず、代わりに口の端を盛大にヒクつかせる。

 しかし高級食品に罪はないということで、届いた贈り物は結局受け取られた。

 その日の深夜。九龍城砦の龍捲風が、自分の寝床の横で中国茶を入れているという悪夢を見た王九が、ふと胸騒ぎがして目を覚ました時、それは正に正夢。

 寝返りをうった瞬間、その視界に映り込んだ『茶を勧めてくる龍捲風』に心臓が止まりかけ、一切の声を出すこともできず無言で追い出したのは、とんでもない事件であった。しかもその後、王九に追い出されたので大老闆の元に茶を入れに行ったらしいのは、油麻地果欄でも間違いなく珍事であった。

「怖ろしい体験をした……」とげっそりする王九は、何とも腑に落ちない気分だった。

 ちょっと好奇心を出したら、勝手に巻き込まれ、恋敵と勘違いされ、修羅場になり、成り行きで口添えただけなのに。

 寝不足の頭で仕事に出たものの「あまりにも理不尽では……」と思い続けていれば、なぜかいそいそと集まってくる部下たち。

 驚きを通り越して不機嫌になれば「九哥が恋愛相談の達人だって、なんか噂ですよ」「恋愛成就に功績があるとか」「九龍城砦と廟街の若いのが、機嫌良さそうに言いふらしてました」と震える部下たちがペラペラと喋る。

 それに目を剥いた王九は。

「もう二度とあのガキ共には関わらない!」
 
 そう、心に固く誓ったのだった。