魔界の王であるブラックのもとに、妃の──正確にはその契りを交わしたうちの一人の訃報が届いたのは、夏の終わりの夜も更けきる頃だった。
次の動画の企画を練っていた書斎の窓際に、音もなくその便りは存在していた。最後に会ったのは何百年前のことだろうか。懐かしい気配が微かに感じられた。
魔界とは異なる世界に住む彼女とブラックが逢引くためには、世界と世界を隔てる壁を壊す〝力〟を使う必要がある。マスターSとの戦いでカメラちゃんがダウンロードした〝力〟を共有しているブラックは、逢瀬のたびにそれを帯びさせた手紙で誘いの言葉を送った。コミニュケーションアプリの一行で済むものを、しばしば気障な香りをつけた便箋まで用意して。文面はもっぱら一緒に肉を食べようというものか、でなければ果たし状だったけれども。
アカネから返事は届かなかった。気が向いたときにだけ彼女はふらりと現れた。便りはブラックが送り、彼女が返さなかった返信用の封筒を使って届いたもので、当然ながらアカネの筆跡ではなかった。
季節に外れた涼しさの晩で、夜明けの気配もまだ兆 さない空はなおのこと暗かった。ブラックは書斎の窓のそばに乏しい花を残していた薔薇の木から夜露を集め、薄墨を磨 って返事をしたためた。
翌日、ブラックは艶のない黒いスーツを、わざわざ古ぼけさせてから身につけ別れの席へと向かった。理由はどうあれ久し振りに彼女を訪ねるのだから粧 し込みたいのが本音だったが、ここは礼儀を優先させたのだった。
きさらぎ駅の森で使いの鬼の出迎えを受けながら、不謹慎にもブラックの心は浮き立っていた。正午の日差しを遮る木々の深い緑が、二人でそぞろ歩いた日々の記憶を語る。その細い木漏れ日がアカネの髪と目の色をいかに際立たせたかがありありと思い出された。
昼なお暗い森の奥には伊佐貫トンネルの入り口によく似た洞穴があり、そこが鬼達の根城になっている。何度か足を踏み入れたことのあるブラックは、今回も丁寧に地面へ膝をつき、貢ぎ物を差し出した。
竜の鱗、一角獣 の角、鷲獅子 の風切り羽……花を手向ける代わりに持参した宝は目にもあでやかなものばかりだったが、それらがアカネの棺を飾ることは叶わなかった。便りで知らされていた通り、葬儀はすでに済まされており、彼女の遺体はここにない。遺影や形見も残されていないようだった。
ならばせめて一族のために役立てて欲しいというブラックの言葉に、奥の間から出てきた大鬼が深く頭を垂れた。この大鬼が喪主にあたる立場の者らしい。便りも彼が書いたのだろう。知性と情緒を感じさせる佇まいの鬼だった。
応接室にあたる広く岩をくり抜いた部屋へ通され、盃を受ける。人間の血が加えられているのだろう酒は強く、赤かった。
「オレちゃんは魔王という立場上、多くの妻を持ちました。しかしアカネさんとの思い出には、どうしても格別のものがあります」
酒を干したブラックが告げると、格別良いとも悪いとも言わないのに、大鬼は声を張り上げて男泣きに泣いた。しばしば群れの率い方が強引に過ぎるようにも見えたアカネだが、鬼達からは慕われる長 だったようだ。ブラックの胸に感慨のようなものが去来する。同時に、彼女の不在がひときわ現実味をもって感じられた。
「お尋ねするのも涙の種になろうかとは存じますが、聞かせていただけませんか。どのように亡くなられたのか」
ブラックは盃を置き、声を低めた。ブラックが今日ここへ来たのは、アカネの番 の筆頭としての立場を明確にするためだ。ただ彼女を悼むだけなら一人、心の内でも出来る。
もしもアカネが他の魔物と戦って命を落としたのであれば、自分がその敵を討ち、場合によっては鬼の群れを自分の庇護下へ置く。その権利と幾許かの義務が自分にはあるとブラックは考えていた。自由を好むブラックにとって、余計な仕事が増えるのは煩わしいことだが、この件をアカネの他の番——そんな者が居るとして——に譲るのは不愉快だ。それに彼女に勝つほどの相手となら、ぜひとも手合わせしてみたいという期待もあった。
しかし大鬼の返答はそんな想像とは異なるものだった。かなり前から病で臥 っていたらしい。自分ならあらゆる世界のどんな珍しい薬でも、強力な治癒の魔術でも、携えて枕元へ行くことが出来たものをとブラックは思い、すぐに無意味な思考を終わらせた。
アカネはそんなことを望まなかったのだ。しかし返信用の封筒を処分していなかったということは、死後に訪ねることまで拒んだわけではなかったのだろう。それさえ知れれば十分だった。
洞穴を出ると煙の匂いがした。弔いが終わった区切りの宴が始まるらしい。その酒席で新しい長が決まるのだ。もうじき昼餉 が出ると大鬼は言ったが、ブラックは丁重に席を辞した。胸が詰まって酒もこれ以上は喉を通らないと言えば、強いて引き留めもされなかった。
あてどもなく森を歩いて行くと、やがて川のほとりに出た。流れに沿えば幾度かアカネと共に訪れた湖へ行き着くはずだ。ふり返ると鬼達の宴の煙は遥か遠く、蒼褪 めた空へ消え入るように見えるばかりになっている。彼女の葬儀の日にも同じような煙が昇ったのだろうと考えた。
長を頂点として群れの社会を築き、人間に似た文化を持つ鬼達だが、墓や遺物に対するこだわりは無いらしく、火葬された後の灰は残らず雨に流されたそうだ。ならば少なからずこの川の水と一つになったのだろう。水は土に染み入り、縄張りである森を守り続ける。歴代の鬼の長達は皆そうなのだ。代を重ねるほどにこの場所の異界としての特異性は強まっていく。都市伝説の地、きさらぎ駅の森として。
湖へ出た。木々の影が開けた先に見える景色は夕焼けに染まり、それを映す湖面は砕けた紅玉 や柘榴石 を撒き散らしたように輝いていた。太陽が投げつける断末魔の光を受けて、雲はまるで空に開いた傷口のように、とめどない夕映えの色をしたたらせている。あらゆる不吉な予兆で世界を溢れかえらせる、凄惨な赤はあの日と同じものだった。
いつのことだったか、ここで二人夕暮れを眺めたとき、ブラックは思わず「あなたの色ですね」と呟いた。魔王をして〝思わず〟口にさせた一言にどれほどの賛辞が込められていたか、知ってか知らずかアカネは微笑んだ。夕日を受けた彼女の瞳も、髪も、唇も、頬も、赤く照り映えて、心臓であり血溜まりの、罪であり浄罪の、生であり死の色に染まりきっていた。
半ば感嘆しながらブラックは悟った。この場所は彼女自身だと。彼女が統べているだけではない。アカネは生粋の鬼であり、この森から切り離せない存在なのだ。魔界の悪魔のものになることは決してないのだと。
ブラックは懐に忍ばせてきた、彼女に贈ろうとした薔薇の花を渡すことなく一礼した。傍目 には単に鬼の統領に敬意を表したようにしか見えなかったかもしれない。アカネもあまり気に留めてはいない様子だった。服の上から薔薇を抱いた胸を抑えると、棘は肌を刺して痛ませた。
魔界へ持ち帰った薔薇の花を、ブラックは庭の一角に挿した。根付いた木は今も書斎の窓のそばで秘めやかに咲いている。昨晩に薄墨を磨る露を求めた、あの薔薇の木だった。
——もしもあのとき違う選択をしていたら?と絢爛たる光の反射を見つめながらブラックは想像した。アカネを魔界に連れ去り、伴侶に仕立て上げることができないのなら、自分はどうだっただろうか?上級天使から悪魔の王になった自分なら、その身分さえ捨てて鬼の大将の夫となることもできたのではなかったか?彼女が望んでくれさえすれば。
今や無数の世界を股にかけるブラックの想像力は、精神だけを現実とは違う可能性の〝自分〟に置き換えることもできた。もしもあの日に戻れたら、と思いながらブラックは目を閉じる。
懐から取り出した薔薇を捧げ、これより自分はアカネのものになると誓った、架空の〝あの日〟に還っていった。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.