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kaisou
2026-04-16 20:40:07
14736文字
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1740年コンクラーヴェ話
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Inter memoriam et manum 記憶と手のあいだに
1740年コンクラーヴェ話・別視点10
過去と現在の話②
差し伸べられる手。取る手。
※歴史創作なので悪しからず
▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある
https://privatter.me/user/kaisou_ja?category=110867
全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。
夕方の書簡は、いつもより少し長かった。
人払いのあとの部屋には、紙の擦れる音と、蝋燭の火がときどき小さく鳴る気配だけが残っていた。窓の外はまだ明るい。その明るさも、宮殿の奥へ届く頃にはだいぶ薄まっている。机の上には封を切られた書簡がいくつも重なり、返事を要するものとそうでないものとが、コシアの手で静かに分けられていた。
オルシーニは最後の一通を読み終えると、目を閉じたまま、しばらく椅子の背に体重を預けていた。疲れているのは分かる。そして自分から言う人ではないことも、コシアは知っていた。
「もう一通は、明日へ回しましょうか」
低く言うと、オルシーニは目を開けた。
眼差しには、まだ光があったが、その奥には、長い一日の終わりにだけ現れる僅かな鈍さが見え隠れする。
「いや、ここまででいい」
そう答えて、椅子から立ち上がろうとした。
その時だった。
ごく自然に、コシアへ手が差し出された。
呼ぶでもなく、頼むでもなく、そこにいると知っている相手へ向ける手だった。自分が取るのが当然だと、まるで最初から決まっていたかのような差し出し方だった。コシアは一度瞬きをした後、その手を取った。取ってしまってから、自分の遅れに気づく。
「
……
失礼いたしました」
「何がだい」
オルシーニは穏やかに言った。
何でもない顔だった。本当に何でもないのだろう。立ち上がる時、いちばん近くにいる相手へ手を預けただけだ。
信じているから。頼っているから。たぶん、それだけのことだ。
それで済まないのは、自分の方だった。
年老いた人の、骨ばった手だ。指をかける時の力は驚くほど無防備で、体重の預け方にはためらいがない。手のひらで感じる体温と信頼の自然さが、コシアには時々たまらなかった。
立ち上がるのに必要な時間は、ほんの短い。
なのに、その短さの方がむしろ残酷だった。長ければ支えることだけに集中できる。短いからこそ、触れているという事実だけが異様に鮮やかになる。
「ありがとう」
立ち上がったあと、オルシーニはそう言って、ほんのわずか笑った。
コシアは手を離した。
「当然でございます」
声は静かだった。ここで嬉しそうな顔をすれば、すべてが壊れる気がした。壊れるような何かを、最初から持つべきではないと分かっているのに、それでも胸の奥では、その一言だけでどうしようもなく救われてしまう。
――
いつまでも、こうして呼んでくれればいいのに。
もちろん、言わない。
そんなことを口にした瞬間、たぶんこの静かな時間は、二度と今まで通りでいられなくなる。
だからコシアは、素知らぬ顔で次の書簡をそろえた。何でもない表情の時こそ、人はうまく笑えている。自分が今、まさにそうでありながら、彼は視線を紙へ落とした。
しばらくして、オルシーニがふと窓の方を見た。外は昼と夕のあいだの曖昧な色へ移りかけている。石壁の影がだんだんと濃くなり、硝子越しの光にも冷えが徐々に混じり始めていた。
「少し、歩こうか」
その言い方は軽かった。許可を求めるのでもなく、命じるのでもなく、思いついたことをそのまま口にしたような声音だった。
「外でございますか」
コシアは問うた。
反対はしない。しないが、言葉の置き方でどれほど本気かを測る。
「ほんの少しだけだよ」
「少し、とは人によって違います」
「お前の『少し』に合わせよう」
その返しに、コシアはわずかに目を伏せた。
こういう時、この人は妙に素直だ。素直で、ずるい。最初からこちらの答えを知っている人の素直さだ。
「では、廊下まで」
「それでよい」
そう言って、オルシーニは本当にそれ以上を求めなかった。
コシアは燭台の位置を直し、机の上の紙が風に動かぬよう押さえてから、その半歩後ろについた。
⸻
廊下へ出ると、石の床はもう昼の温度をほとんど失っていた。
高い窓から入る光は長く薄く、壁に掛けられた織物の金糸だけが、消えきる前の火のようにかすかに残っている。夕方の宮殿には、昼とは別の静けさがある。人の気配はあるのに、声だけが遠い。足音ひとつが、いつもよりよく響く。
オルシーニはその静かな廊下を、ゆっくり歩いた。ゆっくりであっても、どこか安堵した気配があった。書簡の山から離れ、祈りの場でも会議の場でもない場所を進む。
「寒くはございませんか」
「まだ大丈夫だ」
そう答えてから、オルシーニは横目でコシアを見た。
「お前は、こうして歩くとき、いつも半歩後ろだね」
「半歩が、ちょうどよいのです」
「少し前ではいけないのか」
「いけません」
「なぜ」
「聖下が立ち止まられた時に、すぐに寄れないからです」
オルシーニはそこで小さく笑った。
あまりに当然のように言われると、かえって何も返せなくなる。そういう笑いだった。
廊下の角で、灯りの届き方が変わる。
石の継ぎ目が見えにくくなり、足もとの濃淡が曖昧になる。オルシーニはそこで一度歩みをゆるめた。気のせいと言えるほど小さなためらいだったが、コシアには十分だった。半歩寄る。寄った、その次の瞬間だった。
手を取られた。
ぎょっとするほど強くではない。確かめるような、ごく自然な力だった。転ばぬために。歩きやすくするために。ただそれだけの理由で、教皇は手を取った。
「これでよい」
そう言って、オルシーニは微笑んだ。
コシアは返事ができなかった。できるはずがなかった。手と手の間に温度がある。指のかかり方がある。相手がこちらを頼っていると知れる重さがある。そんなものを、平然と渡されて、どうして何もない顔ができるだろうか。けれど、しなければならなかった。
「
……
段差がございますから」
ようやく出た声は、思ったよりずっと平らだった。自分でも驚くほどだったが、それがありがたかった。喉の奥では、別の声が出たがっていたからだ。
いつまでもそのままでいてください。
離さないでください。
言えないことばかりが、手のひらの内側で熱を持つ。
オルシーニは何も知らない顔で、そのまま歩いた。本当に知らないのかどうかはコシアには分からない。分からないが、この人は時々、残酷なくらい自然に人を信じる。触れる。寄りかかる。そうして触れられた方の心だけをどうしようもなく乱す。
窓の外は、さらに暗くなっていた。廊下の先に見える扉の金具だけが、鈍く光っている。そこまで行けば、この手もきっと離れる。役目へ戻り、手のぬくもりは何事もなかったように衣の内側へ消える。それでも、歩みは止めない。止めればこの短さを惜しんでいることが知られてしまう。
やがて扉の前で、オルシーニの手が離れた。本当に何でもないように。感謝も、特別な言葉もない。支える役目を終えたから手を離した、それだけの仕草で。
「助かったよ」
オルシーニは穏やかにそう言った。満ち足りた、やわらかい声だった。
コシアは頭を下げた。それで終わりにした。嬉しかったことも、苦しかったことも、この人が無邪気に触れたことも、その無邪気さに救われてしまったことも、無理矢理胸の中へ押し込んだ。
扉を開けると、オルシーニは何も言わず部屋へ入っていった。その後ろでコシアは自分の手を袖の下でそっと握った。さっきまでそこにあった重みが、もうない。ないのに、まだ残っているような気がした。
どうかもう一度、と願う気にはなれなかった。次があると期待するにはまだ手のぬくもりが残りすぎていた。暖かさのかけらが、十分すぎるほど残っていた。
だからこそ厄介だった。
偶然なら、いずれ記憶の彼方へ押しやることもできる。何ごとも無かったように繰り返される、小さな信頼の癖。立ち上がる時。ほんの数歩を渡る時。そのたびに、自然に手が差し出され、そのたびに自分だけが徐々に深い方へ沈んでいく。
泣くこともできない。引き止めることもできない。その都度にきちんと支え、離し、見送る。
笑える時は笑う。
抑えた声で答える。
何でもない顔をする。
それができるうちは、まだ壊れていないふりができた。
コシアは遅れて部屋に入った。いつものように燭台の位置を直す。揺れる火を見ながら、さっきまで握られていた手のぬくもりが戻ってきた。でも、それを認めてしまえば失ってしまうようで、怖かった。
だから今夜も、何も言わない。
言わずに、いつも通りそばにいる。呼ばれれば手を差し出す。それを繰り返すたびに、自分は救われ、苦しむのだろう。
それでも、そばにいたかった。
⸻
夕方の書簡は、やはり少し長すぎた。
最後の一通を読み終えたとき、オルシーニは紙の上に視線を落としたまま、しばらく指を動かさなかった。部屋は静かで、蝋燭の火だけが小さく鳴っている。人払いのあとの空気には、昼間のにぎわいが引いたぶんだけ、書簡の重さだけが残る。 返事を出せば済むもの、考えを寝かせねばならぬもの、見なかったことにはできぬもの。年を取ると、一つひとつの判断が徐々に骨へ沈むようになる。 だが、同じ部屋にいる若い男は、そういう沈み方をする人間ではない。 少なくとも、表には出さない。
「もう一通は、明日へ回しましょうか」
低い声でそう言われて、オルシーニは目を上げた。 コシアはいつもの顔をしている。きれいに整っていて、余分なものがない。それ自体が過ぎていた。
近頃とくにそうだ。顔に疲れは出ていないが、出さぬようにしている顔と、もともと疲れていないのでは違う。長く側に置いていれば、それくらいは分かる。
「いや、ここまででいい」
そう言って立ち上がろうとした時、わずかに足が遅れた。 老いだ、と彼は思う。
現実を受け入れていないわけではない。だが、受け入れていることと、毎回それをしかたがないと思うことは別だった。 そこで、コシアに手を差し出した。 誰かに頼るというより、反射的に動いた。そうしたら取ってくれると、最初から知っているから。 コシアは一拍遅れて、その手を取る。
「
……
失礼いたしました」
「何がだい」
オルシーニは穏やかに返した。 謝るようなことではない。本当にそう思っていた。自分が手を出し、相手が取った。それだけだ。そこに説明も、礼儀だという注釈も要らない。要るとしたら、それはまだ距離のある相手に対してだけだ。 コシアの手は若い。そして暖かかった。若いが、軽くはない。支える時の手つきに迷いがない。力で持ち上げるのではなく、こちらが最も無理なく立てるところへ自然に重みを逃がしてくる。こういう支え方をする人間は珍しい、とオルシーニは思う。しかも本人は、それを特別なことだと思っていない顔をする。
「ありがとう」
立ち上がってから言うと、コシアはすぐに手を離した。
「当然でございます」
その答えに、オルシーニは目を細めた。嬉しいとも、困るとも、何も出さぬようにきちんと並べた声だ。若いのにそういうことばかり上手くなるのは、あまり良い傾向ではない。このまま、机へ戻せばさっきの続きになる。 紙と火と静かな疲れの中で、コシアの顔はいまより、少しずつひどくなるだろう。本人はきっと否定する。だからオルシーニは、窓の方へ目をやってから、軽く言った。
「少し、歩こうか」
案の定、コシアは
「外でございますか」と問うた。
すぐ反対しないのは、この男なりの譲歩だが、言葉の置き方は、半分止めにかかっている。
「ほんの少しだけだよ」
「少し、とは人によって違います」
「お前の『少し』に合わせよう」
その返しに、コシアはわずかに目を伏せた。 こういう言い方がずるいことくらい、自分でも分かっている。だが強く命じればこの男は従う顔で自分を引く。そうなるよりは、半分こちらが折れる形の方が良かった。
「では、廊下まで」
「それでよい」
予想通りに、 燭台の位置を直し、紙が乱れぬよう押さえ、何でもない顔で半歩後ろにつく。まるで、歩くまでの準備そのものに意味があるかのように、手を抜かない。
こういうところが、オルシーニは好きだった。 好きだと口にすれば、相手が困ることも知っている。だから言わない。だが、思わないわけではない。
⸻
廊下へ出ると、石の床はもう昼の温度を失っていた。 高い窓から入る光は長く薄く、壁の織物だけがかすかに明るい。人の気配はあるのに声だけが遠い。夕方の宮殿には、昼と夜の間にある静かな時間が流れている。オルシーニはその静けさを好ましく思った。 好ましく思えるのは、ひとりではないからだろうと思う。半歩後ろに、いるべき人間がいる。そう思うだけで廊下の長さも、石の冷たさもわずかにやわらぐ。
「寒くはございませんか」
「まだ大丈夫だ」
答えてから、横を見た。 コシアは半歩後ろにいた。整いすぎている、と時々思う。だから崩したくなる。
「お前は、こうして歩くとき、いつも半歩だけ後ろだね」
「半歩が、ちょうどよいのです
「少し前ではいけないのか」
「いけません」
「なぜ」
「聖下が立ち止まられた時に、すぐ寄れないからです」
その答えに、オルシーニは小さく笑った。 本当にそういうところだけは正直だ。忠義と呼んでもよいし、職務と呼んでもよい。それだけではないものが混じっている気もするが、それを見極めようとすると、この若い男はたいてい小さく距離を置くので、あまり追わない。
廊下の角で、光が変わる。 継ぎ目が見えにくくなり、石の段差が曖昧になる。そこで足がほんのわずかに迷った。加齢のせいだろう。あるいは、思ったより今日が長かったせいかもしれない。 気が付けばコシアがそばに寄っていた。 だから手を取った。 深い意味はなかった。 それがいちばん自然だったから。そこにいて、こちらが預けても崩れず、しかも余計な騒ぎにしない相手の手だった。
「これでよい」
そう言うと、コシアは返事の代わりに
「
……
段差がございますから」と言った。
声が驚くほど平らで、オルシーニはちらりとその横顔を見た。やはり閉じた顔だった。何をそこまで抑えたいのかまでは分からない。分かると思うのは思い上がりだ。少なくともこの男が、無防備な顔を人前に出すのを嫌うことだけは知っていた。
いまはそれでよかった。 手を離せと言わぬなら、そのままで歩く。 そういうところで無理に優しくすると、たいてい失敗する。
廊下の先に扉が見える。 そこまで行けば、この手も離れる。オルシーニはそれを惜しまなかった。惜しむような仕草をすれば、いま持っているものの意味が変わってしまう。変えたいわけではない。信頼は、信頼のままであってほしかった。
扉の前で手を離した。
「助かったよ」 と言うと、コシアは頭を下げた。 その奥に熱のようなものが残っている気がして、オルシーニはそれ以上何も言わなかった。ここで踏み込めば、たぶん今よりうまく閉じる。そんな顔をさせたいわけではない。
部屋へ戻ると、コシアは燭台の位置を直し、紙をそろえていた。手つきは正確で、表情も崩れていない。 けれどオルシーニには分かっていた。あのわずかな廊下の時間が、この若い男にとって何でもなかったはずがないことくらいは。
だから、あえて何も言わない。
礼を重ねもしない。
気づいているとも言わない。
それがこの男に許せるぎりぎりの近さであることを、もう覚えてしまっていた。
夜の祈りの時刻を口にすると、コシアはいつも通りに頷いた。その作り方が、哀れで愛しかった。 愛しい、という言葉を、オルシーニは自分の胸の内でだけなぞった。外へ出してよい言葉ではない。出せば形が変わる。形が変われば、この静かな均衡は保てなくなる。それでも、ひとつだけ確かなことがあった。 自分はこの男がいると息がしやすい。 それが年のせいなのか、疲れのせいなのか、あるいはもっと別の理由なのかは、あえて考えなかった。考えれば、何かに名をつけねばならなくなる。名をつければ、たぶん今のようには触れられない。
それは、惜しかった。
だから次もまた、ごく自然に手を出すのだろう。呼ぶでもなく、頼むでもなく、そこにいると知っている相手へ向けて。そしてコシアはきっと、一拍遅れてそれを取る。その遅れまで含めて、もう自分には馴染んだものになりつつあった。
⸻
コシアが祈りの支度のために一礼して部屋を出ると、室内は急に広くなったように感じられた。実際には何も変わっていない。 燭台の火は同じように揺れ、机の上の書簡も、窓の外の薄い夕闇も、そのままだ。人が一人いなくなるだけで、部屋の空気の置き方はこんなにも変わるのかと、オルシーニはふと思った。
椅子に腰を下ろす。ついさっきまで支えにしていた手の感触は、もうない。掌のあたりだけが妙に静かだった。あったものが消えたというより、さきほど確かに誰かの若い力を預かっていたことだけが、遅れて身体に残っているようだった。
オルシーニは自分の手を見た。骨ばって、血管が浮き、若い頃のようにはもう動かない。年を取った手だ。受け入れているつもりではいる。だが、受け入れることと、意識せずに済むことは別だった。
オルシーニはごく小さく息をついた。安堵の息だった。今の自分を誰かに見られなくてよかったとも思う。見られれば、自分が何に喜んでいるのかまで見透かされる気がしたからだ。
遠くで足音がした。目を閉じると先ほどの情景がよみがえる。
廊下の冷たい空気。
石の継ぎ目で足が迷ったこと。
ためらいなく寄ってきた気配。
差し出した手を遅れてでも、確かに取るあの、手。
その遅れが、オルシーニは嫌いではなかった。 無礼だからではない。気安いからでもない。 自分に手を預けられることを、あの男が何でもないこととしては受け取っていない。その証のように思えたからだ。そこにある躊躇と誠実さの両方が、妙にあの男らしかった。
かわいいものだ、と一瞬だけ思って、オルシーニはすぐにその言葉を胸の内で畳んだ。ちょうどよい言葉が見つからないまま、自分はあの男がいると息がしやすいのだという事実だけが残る。それで十分でなければならなかった。
やがて目を開けると、部屋はもうほとんど夜の色をしていた。 燭台の火が机の端を照らし、紙の白さだけが小さく浮く。オルシーニは椅子の背から身体を起こし、書簡の上に置かれたままの指をゆっくりと引いた。
部屋の扉が静かに叩かれる。 祈りの時刻だった。 オルシーニはいつもの声で返事をした。 その声の下に、まだほんの少しだけ、外の冷たい空気と若い手のぬくもりが残っていた。
⸻
その夜の用向きは、長くはなかった。
書簡は三通。返答は二つ。口で済ませる話がひとつ。
それだけのことだったが、人払いのあとに交わされる話には、昼の会見とは別の重さがある。言葉は少なく、机の上の燭台はひとつだけで、部屋の隅はもう薄く闇に沈みはじめていた。ランベルティーニは最後の紙を閉じると、机の端へ指先で押しやった。
「今日はここまででよい」
コシアは一礼した。呼ばれれば来る。用が済めば消える。いまの自分の立ち位置を、身体の方がもう覚えている。だからいつも、終わりは静かだった。何も残さぬ顔で一歩引き、音を立てずに部屋を出る。それで済むはずだった。
机の端に置かれた紙片が一枚、燭台のそばから滑り落ちた。薄い音を立ててゆっくり床へ落ちる。コシアが動くより先に、ランベルティーニが自分で拾おうとした。椅子から半ば腰を浮かせ、手を伸ばし、ついでに足も一歩出る。いつものことだ、とコシアは思った。こういう人は、手の届くものをわざわざ人に拾わせる前に、まず自分で取ろうとする。
「そのままで」
そう言いかけた時には、遅かった。燭台ひとつの灯りでは、机の影に落ちた床の継ぎ目が浅く見える。
ランベルティーニのつま先が、その見えにくい線にわずかに取られた。派手によろめいたわけではない。だが、危うさとしてはそれで十分だった。コシアは反射で踏み込み、伸びた手が相手の手首を取る。そのまま引き上げるようにして重心を戻した。
指先ではなく、手首だった。
咄嗟だったからだ。距離を測る余裕も、選ぶ余裕もなかった。支えるのに必要な場所へ、必要なだけ触れた。
「
……
失礼を」
コシアが低く言う。ランベルティーニはすぐには答えなかった。呼吸をひとつ整えてから、ようやく小さく息をつく。
「いや」
声は落ち着いていた。それから、手首を取られたまま、わずかに顔を上げる。
「助かった」
ここで、普通なら離れる。支えた。立ち直った。礼もあった。それで十分のはずだった。コシアも、離すつもりだった。しかし離そうとしたその時、ランベルティーニの手がわずかに動いた。振りほどくのではない。取られている側の手が、わずかだけこちらへ残る。止めるほど強くはない。すぐに終わらせるには足りない程度の力だった。コシアの指先が、そこで止まる。
部屋は静かだった。
燭台の火が小さく揺れる音がする。落ちた紙片はまだ床にあり、その白さだけが机の影でかすかに浮いていた。このくらいの接触は、支えとしては何でもない。何でもないはずなのに、身体のどこかが先に昔を思い出しかける。
夕暮れの廊下。石の継ぎ目で足が迷い、ごく自然に預けられた重み。
あの時は、何でもない顔で起きた。だからこそ、何でもなくは済まなかった。
「コシア」
「はい」
返事はできた。それだけだった。
「手を離すのが早い」
コシアは、そこでようやく相手を見た。叱責ではない。からかいとも少し違う。何もないふりをして済ませるつもりのない目だった。
「もう足もとは定まりました」
「そうだな」
ランベルティーニはあっさり認めた。認めた上で、なお手を戻そうとはしない。コシアは息を整えた。整えなければならなかった。いま触れているのは偶然の延長であって、それ以上ではない。そういう顔をしていなければ、何か別のものが声より先に表へ出る気がした。
「では」
「まだだ」
低く返されて、コシアは目を伏せかけた。まだ、とは。足もとではない。用件でもない。なら何だ。分かりたくない問いほど、相手は簡単な声で口にする。
ランベルティーニは動かない。強くも引かず、かといって自由にもさせない、その曖昧なまま待っている。逃げ道を塞ぐ時、この人は時々こういう静けさを使う。
「いま」
と、ランベルティーニが言った。
「帰ろうとしたな」
「用向きは済んでおります」
「それだけの顔ではなかった」
コシアは返さなかった。返せば長くなる。長くなれば、隠しておきたい方へ話が寄る。そう分かっていた。
「何だ」
ランベルティーニは続けた。問い詰める声ではない。ごまかしたまま去ることだけは許さない、という声音だった。
「
……
何、とは」
「いま、何を飲み込んだ」
コシアの喉が、わずかに動いた。距離を詰めるつもりはなかった。依頼人と、それに応じて呼ばれるだけの人間。そのあいだにあるべきなのは、用件と沈黙だけだ。足りない灯りの下で、落ちた紙片ひとつのために手首を取り、そのまま何かを言わせるような間柄ではない。
ないはずなのに、手はまだ離れていない。
コシアは、ゆっくり息を吸った。吸ったはずなのに、胸の奥では少しも空気が足りなかった。昔の別の記憶が、身体の方にだけ残っている。自然に預けられた重み。何でもない顔で触れられた温度。あの時言えなかった言葉の残りが、遅れて喉の奥まで上がってくる。
「
……
今は」
声に出してしまってから、自分の声だと分かった。掠れていた。言うつもりはなかった。少なくとも、口の外へ出すつもりは。
ランベルティーニは黙っている。その黙り方が、いちばん悪い。聞こえなかったふりも、軽く流すこともしない。次を待つ。撤回するならさせればよいのに、それもさせない。
コシアは目を伏せたまま、もう一度だけ言った。
「今は、少し」
そこで止まった。止まっただけで足りた。何を、とは言わなくても分かる程度には、もう言いすぎていた。昔ついに言えなかったものに、あまりにも近い響きだった。
沈黙が落ちる。
ランベルティーニは、その沈黙を軽くしなかった。笑わない。慰めない。勝ったような顔もしない。ごく短く頷いてから、手を振りほどくのではなく、ごく静かに支え直すために力を返した。
「分かった」
それだけだった。それだけで済ませるところが、この人は厄介だった。もっと何か言われれば、まだ冷たく返せる。からかわれれば怒れもする。理解したような顔で短く受け取られると、それ以上こちらの方が動けなくなる。
コシアはようやく手を離した。離してから、自分の指先に力が残っていることに気づく。握っていたわけではない。なのに、何かを放したあとのように熱だけが残る。
ランベルティーニはしゃがまず、机の脚のそばへ落ちた紙片を杖の先で軽く寄せた。それを見て、コシアは息をつく。
「最初からそうなさってください」
「次はそうしよう」
「本当でしょうか」
「努力する」
その返しに、コシアは目を閉じたくなった。それでも閉じず、ただ床の紙片を拾い上げて机へ戻す。紙は軽い。軽すぎて、さっきまでの数拍の方がよほど重く感じられた。
「では、失礼いたします」
今度こそそう言うと、ランベルティーニは頷いた。引き止めない。でも何もなかった顔もしない。その半端さがまた、ちょうど悪い。
扉のところで一度だけ振り返ると、ランベルティーニはもう机の方へ視線を戻していた。
ただし、戻りきってはいない横顔だった。こちらがちゃんと歩けているかどうかを、まだ半分だけ気にしているような顔だった。
コシアは何も言わず、部屋を出た。廊下は冷えていた。石の継ぎ目が、さっきよりはっきり見える。歩きながら、コシアはそっと自分の手を握った。もうそこには何もない。ないはずなのに、まだ、離す前の圧だけが残っていた。
昔、言えなかったことがある。
何でもない顔で預けられた重みに、何も言えないまま終わったことがある。今夜のそれは、あれとは違う。違うはずなのに、胸の奥で触れる場所だけは妙に似ていた。だから厄介だった。
だから今も、同じことを口にしたわけではない。したくもない。それでも今夜、自分は確かに引き止めたのだと、認めないわけにはいかなかった。
今は、少し。
それだけで通じてしまったことが、ありがたくて、腹立たしくて、救いだった。
⸻
コシアが部屋を出たあとも、ランベルティーニはしばらく机の前に立ったままだった。
落ちた紙片は、もう机の端へ戻っている。燭台の火も変わらない。部屋の隅に沈んだ影も、そのままだ。何ひとつ大きくは動いていない。それなのに、さっきまでこの部屋にあった緊張の置き方だけが、変わってしまった気がした。
椅子へ戻る前に、ランベルティーニは一度だけ自分の手を見た。つい先ほどまで、コシアの手がそこに触れていた。咄嗟に支えるための、必要最小限の接触。表向きにはそれだけのことだった。表向きにそれだけで済んでいなかったことも、もう分かっている。
あの男は、すぐに離そうとした。
離すべきだと知っている手つきだった。支えた。助けた。それで終わりにするつもりだった。ところが、その終わり方の方がわずかに遅れた。遅れたというより、身体のどこかだけが離れることを拒んだ。目を凝らさねば見落とすほどの、ためらいだった。
だが、見落とせなかった。
いま見ている自分の手の皮膚には、もう何も残っていないはずだった。それでも、さっき手首を取られた時の圧だけが、妙に正確に思い出せた。若い力だった。強引ではなく、しかし迷いもない。支えるべき場所へ一息に届く手つきだった。
立ち直ったあとで離れかけた指先だけが、今度は驚くほど慎重だった。あれほど速く触れたくせに、離れるところでためらう。そこに、この男の厄介さが全部出ていた。
見落としてやることもできたはずだ、とランベルティーニは思う。何も気づかなかった顔で礼だけ言い、紙片の話に戻り、あとはいつも通りに帰せばよかった。そうすれば傷は浅く済む。表面は乱れない。
それでは駄目だった。コシアは、ああいう時に黙って帰せば、なかったことにする。整った顔のまま、また次も同じように立ってしまう。それができる男だと、もう知っていたし、それを何度もさせてよいとも思わなかった。
さきほど、自分は足を取られた。
ほんの小さな乱れだった。笑って済ませてもよい程度のものだ。コシアは反射で踏み込んできた。あの速さには、単なる職務以上のものが混じっていた。もちろん忠実なのだろう。用心深くもある。呼ばれれば来て、必要な時にだけ現れる。いまの立場にある男としては、それで十分すぎるほどだ。
あの時の手は、もっと深いところから出ていた。考えるより先に身体が選んだ動きだった。あれを、そのまま何もなかった顔で済ませるのは、少し卑怯な気がした。
ランベルティーニは椅子へ腰を下ろし、机の端へ指を置いた。燭台の火が紙の白さを揺らす。さっきの沈黙が、まだ部屋のどこかに薄く残っているようだった。
なぜそこで追及したのか。答えはひとつではない。ひとつは、あの男があまりにも慣れすぎているからだ。自分の顔を整えることに。言葉を飲み込むことに。見なかったことにして立ち去ることに。若い頃からそうだったわけではないだろう。そういう手際は、たいてい後から身につく。人に仕え、場を読み、壊してはならぬものを見続けるうちに、少しずつ覚えてしまう。それを全部捨てさせたいわけではない。あれはあれで、この男が生き延びるために要る技だ。それでも要るからといって、何もかもそこへ押し込んでよいわけでもない。
もうひとつは、あのためらいが、自分に向いていたからだ。ここがいちばん厄介だった。
もしあれが単なる過去の影なら、そっとしておくこともできたかもしれない。昔の誰か、昔の何かに引かれただけなら、いまここで言葉にさせる必要はないが、あれは違った。コシアはたしかに、離れがたいものとして、自分の手を少しだけ止めた。ほんの短い時間だけだったが、十分だった。
それを感じてしまった以上、見なかったことにはできなかった。
そして最後に、いちばん認めたくない理由がある。自分は、聞きたかったのだ。何を、と言われれば困る。露骨な言葉を期待していたわけではない。告白めいた何かを求めていたのでもない。ただ、あの男が何を飲み込んだのか、それが知りたかった。知った上で、それを軽く扱わずに受け取れる位置に、自分はまだいたかった。それは善意だけではない。観察でも、配慮でも、それだけでは足りない。少しの執着と我儘がある。自分に向けられた、あのわずかな躊躇を、完全に闇へ戻したくなかった。そういう、あまり潔くない気持ちがあった。
ランベルティーニは目を閉じた。コシアの声を思い出す。
――
今は、少し。
曖昧な言い方だった。それがかえって正確だった。何を、とは言わない。言えない。言わぬまま、それでも止めた。あの男に言えるのは、あれが限界だったのだろう。そして、限界まで来たからこそ、あの短い言葉が外へ出た。
その短さが、かえって心に残った。
もっと濁されると思っていた。あるいは最後まで黙ると思っていた。あの男は限界のところで、たしかに自分へ一言だけ向けた。その事実が、思ったより深く胸に入った。満たされた、と言ってしまえば軽い。何も受け取れずに終わるはずだった沈黙の中に、確かにこちらへ向いたものが残った。そのことを、ランベルティーニは嬉しいと思ってしまった。
だから、あれでよかった。
もっと言え、と迫るつもりはない。言わせたことを悔やんでもいない。ただ、あの言葉を冗談にせず、慰めにもせず、そのまま受け取るしかなかった。そうしなければ、次からあの男はまた以前より上手く閉じるだろう。それだけは避けたかった。
ランベルティーニは、自分の手を見た。さっき、振りほどく代わりに、ごく静かに支え直した手だった。意識してそうしたのかと問われれば、半分はそうだ。半分は、何も考える前にそうなった。あの時のコシアは、あまりに整いきらずに立っていた。あの顔のまま、何もなかったように離すのは残酷に思えた。だから支え直した。たぶん、それだけのことだ。
それだけのことで済まないことくらい、自分でも分かっている。
ほんのわずかに返した力の下で、相手の緊張がまだ解けきっていないのも分かった。離れたいのか、離れたくないのか、その両方が同じ手の内側でせめぎ合っていた。そこまで分かってしまう距離だった。そのことが、危うく、そして愉しかった。愉しいという言葉も、また少し違う。自分が押せば相手は閉じ、待てば限界のところで一言だけ落とす、その際どい均衡の中に、ランベルティーニは思った以上に心を引かれていた。
部屋の外で、遠く足音がした。
祈りの支度か、夜番の交代か。宮殿の夜は静かなまま動き続ける。人の気配は遠くなり、火の明るさだけが少しずつ増す。そういう時間の中で、自分はまた教皇としての顔へ戻っていく。けれど、その前に、ひとつだけはっきりしていることがあった。自分は、コシアが何も言わずに閉じるのを、もうあまり見ていたくない。見ていられぬほど哀れだ、というのではない。哀れみだけなら、もっと安全な距離にいられる。
そうではなく、閉じたまま去られると、自分の方に妙な欠け方が残るのだ。きちんと扉は閉まり、言葉も交わされ、用向きは済んでいる。なのに、何かだけが室内へ置き去りにされる。そういう終わり方が、近頃は少し耐えがたかった。
だから、さっきは追及した。追及というほどきつい声でもなかったが、それでもあの男には十分だったはずだ。十分に無遠慮で、十分に逃げ道を削る問いだった。それを自覚した上で、なお口にした。
自分は、思っていたよりあの男に甘くない。でも考えているより、甘い。その両方が、少し可笑しかった。
ランベルティーニはようやく椅子の背に身体を預けた。机の上には、拾われた紙片が静かに戻っている。燭台の火が紙の端を照らし、その白さだけが小さく浮いていた。
次に会った時、コシアはたぶん何もなかった顔をして来るだろう。整った声で挨拶し、必要なことだけを言い、余計なことはひとつも残さないように振舞うだろうが、さっきの一言がなかったことにはならない。
それでよかった。
そう思う一方で、まだ何かが澱のように残っていた。 本音を言えばあの短い言葉だけでは足りなかった。あそこまで出たのなら、もう半歩先も見たかった。自分へ向いたまま迷う顔を、もう少し長くこちらを見てていたかった。言葉を置かせたかった。いま胸の奥へ押し戻したものを、次ははっきりした形で受け取りたい。
そう思ってしまう自分がいることを、ランベルティーニは否定しなかった。否定しなかったが、それをそのまま許すほど無邪気でもなかった。完全に開かせるつもりはない。そんな権利もない。閉じるたびに少しだけこちらで引っかける
――
本音を言えば、その程度で済ませたいわけでもなかった。
だから今夜は、あれで止めた。
止めたことを理性と呼ぶのか、臆病と呼ぶのかは自分でも分からない。もう半歩先へ進めば、おそらく何かは取り返しのつかない形に変わる。その予感だけはあった。変えたいと思わなかったわけではないが、そのあとの失う輪郭も、うっすら見えていた。
祈りの時刻を告げる控えめなノックが、ようやく扉に届く。ランベルティーニはいつもの声で返事をした。その声の下に、まだあの短い躊躇と、掠れた「今は、少し」が残っていた。
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