2026-03-27 20:42:58
15998文字
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同じ春を見たかった 1・2・3

七月頒布予定の現パロ転生雑伊。
弁護士36歳×大学生18歳。
※モブ出てくる
※伊作に家族がいる
※前世の死の描写あり
※ハピエン

ーーー
【あらすじ】
大学進学を期に上京してきた伊作は、名刺を頼りに弁護士である雑渡のもとを訪ねる。雑渡は伊作を「恩人」だと言うが心当たりはなく、記憶にあるのはある事故のことだけ。
ある出来事からふたり同じ屋根の下で過ごすことになる、春の話。



 二,富士山の手前で

「部屋がひとつ余ってるから大丈夫。君の大学までも一駅だよ。ベッドとマットレスはあるんだけど、掛けるものがなくてね。とりあえず買い物に行かないと」
 どういう人生を送ったら部屋が余ることがあるのだろう。瞬きばかりしている伊作を横目に、雑渡は「こっちの部屋」と言って廊下に出て左手から二番目の部屋を案内した。
 雑渡が照明のスイッチを入れると、五畳ほどの部屋が照らされる。家具はなく、ベッドだけがぽつりと置いてある。マットレスにはカバーが掛けられたままで、中は少し埃っぽかった。
「好きに使っていいよ。とりあえず換気だね」
「ご家族のお部屋なんですか?」
――いや、家族はいないよ」
 雑渡は伊作に背を向けて腰高窓をがらりと開けた。温まった部屋に、春の匂いを抱いた冷たい空気が流れ込む。伊作はそれ以上聞くことができなかった。ただ、ふわりと風に揺れるクリーム色のカーテンは、なんとなく雑渡の趣味ではなさそうだった。
 
 駅までの坂を、一歩前を歩く雑渡の背中を追いかけるようにして降りながら、伊作は「どこへ向かうんですか?」と尋ねた。
「んー、丸の内かな」
 聞いたことを後悔した。知っている場所の方が少ない。地下鉄の階段を降り始めたので、どうやら近くではないらしい。
 雑渡の後に続いて混み合った電車に乗り込む。雑渡は煩わしそうに少し頭を下げてドアをくぐり、通路の真ん中に立つと、吊り革ではなく銀色のフレームそのものに掴まった。
 電車が動き始め、伊作も遅れて吊り革を掴む。悔しいが、掴むのにちょうどいい位置にそれがある。
(背、高いなあ……
 頭ひとつぶん上にある雑渡の横顔をじっと見つめてみる。ふと、吊り革を掴む腕が視界に入った。スウェットの袖口から隆々とした前腕がのぞく。
 火傷の跡。手の甲から肘に向かって、広い範囲に残っているようだった。右肘に添えられていた左手にも薄く跡が広がり、小指の先だけ一際色濃く残っている。――きっと、あの日のだろう。
 まじまじと見ては嫌な気になるかもしれないと、慌てて目を逸らしてドア上のディスプレイに視線を移す。映し出された路線図のどこにも、丸の内とは書いていなかった。
……次、降りるよ」
 雑渡に声をかけられたのは、新御茶ノ水駅を過ぎたところだった。次と言われたが、ディスプレイには『次は大手町』と表示されている。いよいよ訳がわからないので、考えることはやめて黙って着いていくことに決めた。
「そういえば、荷物は引越し業者じゃなくて宅配便で送ったんでしょ。まだ来てなかったなら、連絡してみたら?」
「え? ……はっ! そうでした!」
 思いもよらない一言に、伊作は慌ててスマートフォンを開いた。調べてみれば、アパートへ届けられず「宛先不明」として集配所に戻されているようだった。
「あぁぁ……よかった、無事だった……
「他に家に置いていたものは?」
「今日明日の洋服や、日用品だけです。貴重品は、このリュックの中に入れて来たので」
「そう、良かったね」
「あ、ありがとうございます」
 一瞬、雑渡が口角を上げたような気がした。その瞬間、ちょうど電車のドアが開き、人の流れに押し出されるように電車を降りることになってしまった。大きな背中を追いかけるのに必死で、表情は確かめることができなかった。
 
「支払いはカードで。領収書をお願いします」
 伊作は両手に荷物を抱えたまま、レジに立つ雑渡を小さく縮こまって見上げた。
 大手町駅に着いて少し歩けば丸の内というエリアに出た。いかにも煌びやかな高層ビルに入ったかと思えば、信じられない速度で買い物が進んでいく。セレクトショップで「これは好みに合う?」と聞かれて頷いた服は、ニットも、パーカーも、靴や下着までも、全部カゴに入れられた。これはまずいかもしれないと思った頃には、もう店員がレジへ運んでいた。
 結局、今日失ったよりも質のいい服たちで、大きな紙袋はすぐにみちみちになった。
「ぼ、僕もちゃんと払います」
「気にしなくていい、これは『お見舞い』だから。それに君、バイト探しこれからでしょ」
 そう言われてしまっては言葉もない。実の両親が残してくれたお金はあるが、今後の生活のために残しておきたいし、雑渡からのお金はまだ手をつける気にはならない。バイトはしていたが、春休みの僅かな時間で働いた給料などたかが知れていた。
 何も言い返せず俯いてしまった伊作を見て、雑渡は「持たせちゃってごめんね」と荷物に手をかけた。
「これくらい! せめてこれくらいはさせてください……!」
 奪われないようにと、紙袋を胸元に手繰り寄せて必死に抱える伊作の姿を見て、雑渡は声を出して笑った。
「じゃあ、半分こね。左手に持ってる方ちょうだい」
 抵抗も虚しく、結局、荷物まで持たれてしまった。できることと言ったら、深々と頭を下げることくらいしか見つからなかった。
……本当に、ありがとうございます」
「やめてよ。顔を上げて。私がしたいだけだから君は気にしなくていい。……最後にシーツとか、タオルかな、荷物になるから。さあ、その前にご飯を食べにいこう」
 背中をとんと押され、すぐ横にあったエスカレーターに促された。
 伊作がいつもしていたように右側に立つと、少し前に立つ人たちが左に立っているのが目に入って、慌てて左へと一歩ずれた。
(そうか、東京は右側なんだ……
 ガラス張りの向こうに広がる景色は地元とは大違いだった。ビルの隙間から覗く空は狭く、近くに山がないことが不思議だった。煌びやかな内装も、人々の洗練された服装も、まるで遠くの世界のようだ。
「あの、何階に行くんでしょうか」
 か細い声とともに振り返れば、整った顔が目の前にあって心臓が飛び出そうになった。伊作が上の段に乗っているはずなのに、身長の差がちょうど埋まってしまった。
「七階だよ」
 足元気をつけて、という雑渡の声はあまり聞こえていなくて、しっかり降り口に躓くことになった。
 
 雑渡が向かったのは、小洒落たビストロだった。
 大きな窓から差し込む淡い日差しを、ワイングラスやシャンデリアがきらきらと受け止めている。昼時は少しすぎていたが、土曜日ということもあって、中は満席のように見えた。
 雑渡の顔を伺ってみれば、平然と「予約の雑渡です」などと店員に声をかけるものだから、伊作は間抜けた顔であんぐりと口を開ける羽目になった。
「遅くなっちゃったね。お腹空いたでしょ。好きなもの食べていいよ。これは、『お祝い』だから大丈夫」
 雑渡は、そう言ってまたこの心当たりのない恩返しに名前をつける。さっきは『お見舞い』だった。そうすることに何か意味があるんだろうか。
 考えているうちに、「さあ、好きなの選んで」と休日ランチのメニュー表が渡された。
……た、高い)
 せめてもと一番価格の低い「若鶏もも肉のロースト」のセットにすると、雑渡もそれに倣った。
 注文を取り終えた店員が去ると、テーブルには沈黙だけが残された。人々のささめき合う声や、カトラリーが皿に触れる音が、ふたりの隙間を埋めていく。不思議と心地の悪さはなかった。
……なんで、僕にここまでしてくださるんですか」
 意を決して、重い口を開いた。お金の贈与にしても、居候のことにしても、理由もなく受け取っていいものを遥かに超えているとしか思えなかった。
 ちょうど、雲が太陽を覆ったのだろうか。窓から差し込む光が急に薄らいで、雑渡の輪郭を薄膜のように覆った。
――君には、恩があるんだよ」
 カラン、とグラスの中の氷が音を立てた。
 雑渡の声は、まるで幼子を言い聞かせるような響きをしていた。
「こんなにしてもらえるほどのことは、した覚えはありません」
「なにごとも、した方は覚えてなくて、された方は覚えているものだよ」
 水を飲む雑渡は、わざとらしいほどに目を合わそうとしない。伊作は思わずテーブルの下で太腿に掛けたナプキンをギュッと握りしめた。
……では、なにかお礼として、できることはありますか」
 伊作がまっすぐに見つめると、雑渡は困った顔をして頬に手を当てた。
「そうだねぇ」
 雑渡が答えを出す前に、料理が運ばれてきた。
 白い皿に載せられたローストチキンから香ばしい匂いが届いて、伊作は思わず胸いっぱいに息を吸い込んだ。朝からおにぎりしか食べていないお腹がぐうと大きな音を立てる。
……ふふ。じゃあ、次の家が見つかるまで、家事をお願いしようかな。掃除、洗濯、食事。できる範囲でいいから」
 雑渡はさらりと口にすると、話はおしまいと言わんばかりに手を合わせて「いただきます」と言った。
 ――そんな簡単なことでいいのだろうか。かといって、弁護士の仕事を手伝えと言われてもできる気はしないが。
 口をきつく結んだ伊作を横目に、雑渡は慣れた手つきでチキンを切り分け、大きな口へと運んだ。引き締まった頬が静かに上下するのをぼうっと見つめていると、不意に切長な隻眼と目があった。
「冷めちゃうよ」
 伊作ははっとして、ナイフとフォークを手に取った。
 たどたどしい手つきで、こんがりと焼き目の入ったチキンの皮に切れ目を入れる。
 ――パリッ。軽やかな音とともに、中から肉汁が溢れだした。クリームブラウンのグレイビーソースからは、バターのコクのある香りが立ち上る。添えられたポテトは厚切りで、振り掛けられた岩塩がきらりと光る。
「ん……っ! 美味しい……!」
 大きな肉の塊を口に頬張った伊作は、思わず声を上げて雑渡を見た。むっちりとした弾力の肉を噛めば噛むほど旨みが口中に広がり、思わず口角が上がった。鼻からソースの奥行きのある香りが抜けていき、ふっと肩の力が抜けていく。
「そう、よかった。あんまり落ち込んでなさそう」
 雑渡はふふ、と小さく笑った。
 伊作は口の中にあった肉の塊を飲み下した。雑渡の言うとおりだった。昔から何かと不運な目に遭っては、それなりに落ち込んでいたというのに。
 チキンを静かに切り分けるその顔を、じっと見つめた。
――雑渡さんのおかげだと思います」
 思うより先に、言葉が出た。
 伊作が目を丸くして三度大きな瞬きをすると、雑渡も同じように三度瞬きをした。
 黒い瞳と目が合う。胸の奥に知らない熱が込み上げる。会った時からずっと、この瞳を見るたびにそうだった。そのわけを、知りたくなった。
「家事、頑張ります。よろしくお願いします」
 息を深く吸い込み、伊作は頭を下げた。
 少しして、雑渡は皿にフォークとナイフを置いたかと思うと、くつくつと笑い出した。
「改めて、進学おめでとう。これからしばらくよろしく」
 伊作は頭を上げて頷くと、次の一切れをフォークで刺して大きく頬張った。

 一通りの買い物を終えて帰宅した後は、ランチの余韻など一瞬で吹き飛んだ。火事に関する山のような手続きが待っていたのだ。
 何から手続きしていいのかもわからずスマートフォンにかじりついている伊作の横で、雑渡は涼しい顔をしてタブレットを片手にコーヒーを飲んでいた。
 いよいよ気が狂いそうになってきた頃に、雑渡が「お疲れ様」と言ってホットココアを出してくれたのにはもう涙が出てしまいそうだった。いつのまに作ったのか、手続きのチェックリストまで手渡してくれたものだから、換気扇掃除でも排水溝掃除でもなんでもやろうと心に誓った。
 嵐のような一日を終えて、知らないベッドに潜り込む。実家で使っていた動くごとに鳥の叫び声のような音を立てるベッドと違って、音もなく滑らかに沈み込んで伊作を受け止めた。乾燥機でふわふわに乾かされた真新しいシーツとタオルケットが肌を撫でて心地いい。くたくたの体が形を失って端っこから溶け出してしまいそうだった。
 寝返りを打つと、積まれた段ボールとリュックが目に入る。この部屋にまだ馴染みきれていなくて、真っ暗な隅に身を寄せてひっそりと佇んでいた。
 まるで奇妙な夢でも見ているようだった。目が覚めたら新幹線の中ならいいのに。
 ――できれば富士山の手前で。
 そう願いながら重い瞼を閉じると、すぐに眠りの中へと沈んでいった。