柳堂知羽@一次創作
2026-03-20 20:30:09
11556文字
Public ⬛︎みえナい
 

そうして今日もみえナい【サンプル:通販あります】

何も起こらなかった、彼が知らないだけで。何も知らぬまま、ハヤテの日常は続いていく――。



……折角いい位置にあるのに、勿体ないなあ」
まだ開館してそこまで時間が経っていないからか、二階にはスタッフ以外の姿はない。もとより、ハヤテが配置されている公募展にはまばらにしか人が来ないのだが、念のために周囲に人がいないか確認し、壁際に近寄る。そこには年季が入っているものの、存外座り心地のよいソファがあるのだ。
ハヤテはじっとソファを見つめつつ、胸中のみで謝罪をすると、そこに片膝をつき、体をピンと伸ばす。すると目的の「それ」にぐっと近寄ることができるのだ。ハヤテはそのままの姿勢でポケットからハンカチを取り出すと、きゅっきゅと「それ」を拭く。だが拭いても拭いても曇りはとれない。やはり少しも「それ」―― ハヤテが「それ」称するその鏡はハヤテの顔を映すことは無かった。
この美術館には、壁際に来館者の休憩用ソファが多く設置されている。今、ハヤテが膝をついているソファも、本来は休憩用のものだ。場所によってソファの上部には、立派な絵画の額縁のようなフレームに収まった鏡がかけられており、その中の一つであるハヤテが監視を担当しているエリア側の鏡は妙に曇っている。
このことに気が付いたのは、美術館で仕事をし始めて二週間ほど経った頃だ。それ以降、ハヤテは時間を見つけては、曇りをとるためにこっそりと鏡磨きに精を出している。なお、これはハヤテの手掛ける業務内容外の行動だ。実際、他のスタッフはやらないし、一度上司に見つかった時は何とも言い難い表情を向けられた。
その際はすぐに慌てて理由を説明したのだが、結果として「禁止行動ではないものの、ちょっと目立つので気を付けてね」との言質をとることができたため、ハヤテは折を見てこの鏡を磨き続けている。
最近では、他のスタッフもそんなハヤテを生暖かく見つめているのだが、気にしたら負けだ。そもそもなんで他の面々はこの曇り方を気にしないのだろうとも思っているが、人によって「曇っている」というレベルが違うだけかもしれない。ハヤテとして「顔が見えないレベルの曇り方」は汚れていると思っている。
ここはそれなりに年月が経っている美術館であることを考えれば、そういう鏡があるのも分からないでもない。だが、他に見かけた鏡はぴかぴかでしっかりと顔が映るのに、この鏡だけは少しもハヤテの顔を映そうとしない。だからここだけ掃除の手が行き届いていないのでは、と思ったのだ。
補足しておくが、この鏡は展示作品ではない。美術館の備品の一つであり、来館者の身支度を手伝う鏡である。ハヤテの性格上、絶対に展示作品に悪さをするような人間ではない。更にいえば、期間限定とはいえこの美術館のスタッフとして、来館者向けの鏡が曇ったままなのが気になるだけだった。
何度か拭いては確認するが、やはり今日も鏡は白く濁ったまま。真鍮製のフレームが時間の経過を思わせるようなくすんだ色をしているのを見ると、鏡の汚れがとれないのも仕方がないのかもしれない。
確かに鏡が綺麗に映らなくても精巧なレリーフのフレームに縁どられた鏡だから、あるだけで価値があるのだろう。ただ、気になるのだ。
姿を映すことのない鏡を、ハヤテはこの二週間ずっと気にかけていた。
「まあ、これが噂の鏡じゃないだろうからいいんだけどさ」
やっと諦めたハヤテは、次の配置場所に足早に移動する。少し時間を食ってしまった。いくら展示を見に来る人が少ないとはいえ、全くの無人とは限らないから早めに指定された場所に向かう。
そんな中、ハヤテの頭の中を占めるのは、事前に仕事仲間から聞かされていた「とある鏡についての噂話」であった。

**

今回の仕事の依頼を受けた時、仕事仲間は口説き文句としてこう言った。
「あのね、そこには“未来の自分の姿”が映る鏡があるんだよ」
どうやらこの噂は美術館スタッフ内でしか語られていない話のようだ。実際、ハヤテも初めて聞いたし、調べてみてもインターネット上のどこにも情報が出回っていない。ハヤテがマークしているインフルエンサーも、美術館の話題は出しても「未来の自分の姿が映る鏡」については話していない。炎上系で有名な人達も同様に、だ。だからこそハヤテは驚いたように目をぱちくりと瞬かせた。
ただ、仕事仲間も噂を知っていても、どこにその鏡があるかは分からないようだ。仮に学芸員しか入ることができないような場所にある場合、監視員の身分でしかないハヤテには確認することはできない。とはいえ、学芸員しか入ることができないような場所にあるものについての噂を、ただの監視員が知っているだろうか。
脳内にスタッフ控室にいる面々を思い浮かべる。あの部屋には基本、監視等の業務を行う者だけがいる。確か学芸員は専用の部屋があったはずだし、見た限り、普段そこまでの交流もない。それどころか、ちょっぴり壁がある、だなんて誰かが零していたのをハヤテは聞いたことがあった。
いつもここまで考えて、体の奥底から這い上がってくるのは歓喜だった。
その歓喜の波が言っているのだ。――可能性に賭けてみろ、と。
ここ一ヶ月ほどでハヤテは休憩時間を駆使して、館内や自分でも入れるバックヤードエリアの鏡の場所はほぼ網羅したはずだが、現在進行形で噂の鏡を見つけることができないでいる。最近では、ハヤテがあまりにも鏡に執着するものだから、シフトがよく被る他の同僚らが気にかけて鏡の位置を共有してくる始末である。
だが、その誰もが噂話を知っているか、全く知らないかの二択で、誰も噂の鏡は目にしたことがないとのことだ。
ついでに言えば、たまたま控室に入ってきた学芸員を捕まえて話を聞いてみても結果は同じ。噂の鏡は、ハヤテの中では幻の鏡にまでランクアップしている。
だからといって、ここで諦めるハヤテではない。仕事をしっかりとこなしつつ、三ヶ月という期間の中で噂の鏡を探しだす。スタッフだからこそ入れる場所を重点的に、様々な場所の監視をするという名目で館内にも探りをいれよう。こう目標を立てたハヤテは日々の仕事をこなしつつ、館内地図とにらめっこし、様々なスタッフから話を聞く日々を過ごしていた。
なお、トラには後日改めて「この噂」について聞いてみたが、眉間にくっきりと皺を作った上で耳にしたことがない、と言っていた。むしろ身振り手振りで見聞きした話を伝えるハヤテに、そんな眉唾な話と肩を竦めてもいた。
ただ、トラは口を尖らせて拗ねだしたハヤテの頬をつつきつつこうも言っていたのだ。
――そもそもあそこら辺では、そんな「変なモノ」なんて存在できない。
その言葉の真意を深堀しようと思ったのに、異様なペースで酒を飲まされてノックダウンし、ついぞ話を聞くことができなかった。普段、酒を飲みすぎるとその時話した内容があやふやになりがちのハヤテであるが、妙にこの言葉が頭の片隅に引っかかっていた。トラの機嫌次第で、再度話を振ってみるぞ、とこっそり思っている。
さて、次の配置場所は、メインの監視場所よりも奥まった場所にある。そこには鏡がないことはすでに知っている。本日はこれ以降、監視の仕事をしつつ、担当外エリアの鏡をもう少し探索するための作戦を考える時間にあてよう。
そんなことを考えながら、ハヤテは静かに時を刻む空間を進む。
風景画、静物画、人物画、また風景画、そして時折抽象画。それぞれの絵に、それぞれの想いが塗りこめられている。その全てをハヤテは理解できるとは思っていない。ただ、上手だなという小学生のような簡単な感想しか抱けないものの、込められた想いが胸を高鳴らせるのも事実だ。だからこそ、噂話のことを考えつつも目の前に広がる絵画の海に目を細めてしまい、人の足音で監視作業をしていることを思い出して慌ててしまうこともある。
実のところ、想定以上にこの仕事は面白いと思い始めてきたところでもあった。もちろん、芸術のことは少しも分からないし、今後興味を持つかも未知数だ。ただ今後、また監視員の仕事を頼まれたら受けてもいいなと思うほどには、この独特な空間の中の一部になるというのも悪くないと思い始めていた。
ぽつりぽつりといた人の姿が完全に消える。場所的にそうなるのも無理はない。そろそろハヤテの配置場所につくのでその旨を報告する無線を入れると了承の返事がきた。さあ、またしばらく無音の世界で思考に浸ろう。

「なんだ、こいつ。なんで“ここ”にいるんだ?」
「こらこら、この方はすてきな絵に惹かれてきたのよ、きっと」

その二つの真っ赤な唇から流れるように紡がれた言葉が、静かに、まっすぐにハヤテの耳に入り込んだ。
ここは美術館の中でも人の少ない場所なので、静かな声でも周囲に響くような時もある。だがこの声はどこまでも静かで、時が沈殿する空間の中でじんわりと染み入るのだ。
「あら、あなた。似ているわ。そう思わない?」
「まあ確かに、そう見えなくもない」
そこには二人の姿があった。そしてまず、綺麗な黒髪だと思ったのだ。何せ低照度の館内の中でも艶やかで滑らかに見えた。きっと触れたら気持ち良いのだろう、その黒髪は重力に逆らうことなく、すとんと流れている様は流れる水のようでとても美しい。
「でも髪の毛の色は違うし、身長もこんなに大きくない」
「そうで、でもきっと、笑ったらそっくりよ」
次にこちらを見つめる薄茶色の目がどこまでも透き通っていて、見つめていると吸い込まれそうだと思った。まるでガラス玉のよう。透明度の高い目は瞬きするたびにきらきらと光の粒をこぼしている。
そして、そんな透明な目を際立たせているのが、目元にすらりと引かれた赤いラインだった。よく見れば、目の前にいる二人は揃って目元を撫でるような赤いラインを引き、耳には二粒の赤いピアスを刺している。整いすぎている顔に、その赤は鮮烈だった。
「へえ、涼風ハヤテっていうのか」
「ふふ、しなやかな水の香り。不思議な匂いがするわね、涼風ハヤテ」
大きな油絵の前で、その綺麗な髪と目をした者達、もとい、女性と少年がそれぞれ違った感情を乗せた顔をハヤテに向けている。
温かかった。寒々しかった。警鐘が鳴った。吐き気を催した。泣き出したくなった。懐かしさを覚えた。そして、――確かに歓喜した。
その強すぎる感情の渦は、静寂が支配する美術館内であまりにも異質だ。今にも叫びながら走りだしたくなった。それなのにハヤテは、この二人に対して穏やかに笑顔を向けた。どうしてだか、そうするのが一番正しく、そしてこの二人もそれを望んでいるように感じたからだった。