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柳堂知羽@一次創作
2026-03-20 20:30:09
11556文字
Public
⬛︎みえナい
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そうして今日もみえナい【サンプル:通販あります】
何も起こらなかった、彼が知らないだけで。何も知らぬまま、ハヤテの日常は続いていく――。
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木々が青く萌えている。
春がきた、いつの間にか春がきていた。
目の前に手を掲げながらも、眩しさに目を細める。鼻から入り込んだ新鮮な空気に肺が満たされる。大きく伸びをして、穏やかな空気の中で強張った体を解きほぐす。
太陽の光は不思議だ。浴びているだけで万能感に満ち溢れる。陽の光は体に良い、と言っていたのは誰だったのかはもう忘れてしまったが、その言葉だけが頭にこびりついている。そうだ、ならば今はもうなんでもできる。なんでもして良い。だってここは太陽の庇護の下にある穏やかな大地の上なのだから。
「行くぞ」
歩き慣れた土の道を久しぶりに歩く。ゆっくりと踏みしめるように、いつまでも忘れないように。なにせ、もうここには戻らない。戻れない。
全てを見届けたのだ。見届けたからこそ、もうここに残る理由はない。そして、次に見届けなければならないものがある。そのためにももうここには用はない、
「その前に少しだけお水が飲みたいわ」
前を行くものが肩を竦める。それもそのはずだ。もうここから出て行こうとした矢先だったのに、水が飲みたいなんて。
呆れたように振り返ればのんびりと笑う顔があった。
そんな笑顔を見たのは久しぶりのことだった。だからその顔に絆された、ということにしよう。
太陽に見守られながら井戸に向かう。今いる場所からそう遠くない場所にあるのだ。そこで水を汲み、ゆっくりと飲むことにした。よく考えたら自身も喉がからからに渇いていることに気がついたのだ。これからここを出ていくにあたり、渇きを潤おすのも悪くないだろう。幸いなことに、時間だけはたっぷりあるのだから。
風に頬を撫でられたことで肌を粟立たせていると、やっと井戸のある場所へと辿り着いた。いつ見てもこれは立派な造りをしている。誰だかが、自慢げにこれについて語っていたような気がするが忘れてしまった。
そうだ、全てはここに置いていくのだ。
地面に転がった桶を拾い上げ、土を軽く払ってから井戸に投げ入れる。ぽちゃん、という小さな音を聞いてから、縄を引く。水を汲み上げる際に鳴る滑車の軋む不快な音が頭の中でこだまして、いつ聞いてもつい眉間に皺が寄る。だが、隣で目を輝かせながら水を待つものは、少しだってそんな素振りも鳴り響く不協和音も気にすることはない。これはいつものことだった。今までも、そしてこれからもずっと。
風が吹く。この時期によく吹く乾いた風だ。この風が吹く時、昼夜の気温差が激しくなるので誰かが必ず体調を崩していたような記憶がある。そのせいか、風が耳の中で渦を巻く音が咳き込むような音に聞こえたような気がしたが、やはり幻聴のようであった。当たり前だ。
もうここには二人しか残っていないのだから。
がらがらと桶を引き上げ、土埃で汚れた井戸の淵に置くと、中にたっぷりと入った透明な水を見つめる。そこには確かに自分の姿が映っている。映っているはずだ。
――
赤、赤、あか。ああ、映っている。そこにはしっかりと。
思わず叫び出しそうになった。だが、その叫びを飲み込むように、隣にいるものが桶の中の水に手を差し込み、びしゃりと顔にかけ、頭にかけ、ついぞごくごくと喉を鳴らしながら飲み始めた。水面が乱れ、映っていたはずの顔が乱れる。それでいい、それでいいのだ、と誰かが言ったような気がした。だから隣にいるものに倣うように、ゆっくりと水に手を差し入れて、掬い上げた。
虫の声も、鳥の鳴く声すらもしない静かなしずかな場所で、無心に水を飲む。それは今まで飲んだどんな水よりも甘く、美味しかった。
□□□□□
薄暗い照明の中、ピンと張り詰めた空気に沈殿するような油の匂いが漂っている。そんな空間の中に響くのは数名の足音や布ずれの音だけ。もっと集中すれば、来場者の呼吸の音や空調の低く唸る音も微かにだが耳に入るが、それらの微かな音は高い天井に辿り着く前に大気に溶けてしまい、やがて聞こえなくなる。
都会のど真ん中と言っても過言ではない。そんな立地にある建物がこんなに静かだと誰が想像できるだろうか。一歩外に出れば老若男女、様々な人達が休日を謳歌しているというのに。
また一人、見知らぬ誰かが通り過ぎていく。ある一定の距離からじっくりと眺め、感嘆し、また移動する。幸いなことに悪さをする者は現時点で一人もいない。このままずっと、そういう人たちに出会わないといいな、なんて考えつつ、ハヤテはそっと目の前を通り過ぎる来館者の背中を見送った。
ハヤテの目の前には、故郷の素朴な風景画や、鮮やかな色彩で見る者を圧倒する抽象画など、様々な絵画が並んでいる。そのどれもが描き手の想いが存分に込められており、その熱量に圧倒される。
昨日見かけた二人の若者の絵も良かったが、今目の前にある公園の絵も素敵だ、と頭の片隅で考えた瞬間に、また新たな来館者が視界の端からやってきた。今度は二人。今日は珍しく人が来るなという感想を抱きながら、どうか悪さをしないように、と祈る。
――
来館者が来たら鑑賞の邪魔にならないように適度に監視しつつ、ちらりと絵に目をやることも忘れない。そうだ、今回のハヤテは美術館で監視員の仕事をすることになったのだ。
久しぶりにスーツに袖を通したが、体型が変わっていないからか無理なく着ることができたのは僥倖である。以前に比べていくら安いスーツが売っているとはいえ、突然の出費は痛い。これからも体型は変わらないようにしないといけないな、とハヤテは袖をめくって時計を見やる。
こちらは学生時代の時に急遽必要だからと、家電量販店で買った安い腕時計だ。安物だがそれゆえに丈夫なようで、いまだに合皮がへたることなく艶を維持している。最近は現場に時計があったり、スマートフォンで時間を確認できる場にいることの方が多いから、滅多に腕時計を使う機会がなくなっていた。だからスーツ同様に久しぶりに引っ張り出してきたのだが、そうなると電池の問題が発生する。昨日は仕事中に時間を確認できなくなり、めそめそしながら帰りに電池交換をすることとなったのであった。
そう、何事も事前の確認が大事である。時計の電池のみならず、仕事においても、人生を賭けて追いかけている「心を魅了するわくわくする」不思議な話を確認することにおいても
――
「涼風くん、そろそろそっちつくから休憩に行ってきて」
短い電子音が鳴ったと思ったら、無線機から声が聞こえた。これは同時期に一緒に仕事をすることになってはじめまして、と挨拶してからほぼ毎回顔を合わせている同僚の声だ。
そうか、もうそんな時間か。ハヤテはゆったりと椅子から立ち上がると、大きく伸びをしたい気持ちを抑えながらその場を後にした。脳内に休憩後の配置場所を思い浮かべながら。
*
*
何事も始まりは突然である。
だから単発のアルバイトも大将の店に行く直前に決定したし、その日の大将の店のお通しは菜の花の辛子酢味噌和えであった。
その日のトラは、ハヤテが来店するまでの間に、定位置である立ち飲みテーブルを陣取ってすでに何杯もの酒を飲んでいた。顔色は変わっていないものの、テーブルに並ぶ徳利の数に思わず腕を組んでしまう。トラは酒を飲む時に水を飲まない。その上でどんどんとアルコールを摂取するから、ハヤテは何度も水を飲ませようと苦心している。
今回も大将に水を注文しつつ、トラの横に並んで飲み過ぎはよくない、と言ってみたが、案の定、トラにはどこ吹く風である。それにほぼ毎日という高頻度でこの店に来ては酒を飲んでいるハヤテにも、その言葉はブーメランとして返ってくるため、あまり詰めることができないのが悔しいところである。
何が面白いのか、今日も今日とてハヤテのつむじをぐりぐりと押すトラの手を払いつつ、お通しの小鉢に箸をつける。極端に辛いものでなければ基本的になんでも食べられるのだが、菜の花等の苦みの強い野菜は食べられなかった時期が長い。それなのに気づけば美味しいと思うようになってきた。
大人になったな、としみじみしつつハヤテはたっぷりと辛子酢味噌をつけて菜の花を口へ放り込む。爽やかな苦味と、あとからやってくる甘酸っぱさがクセになる。満足げな音を漏らしつつもぐもぐと咀嚼した後、レモンサワーを一気に呷ると、たまらなく幸せだ。やはり労働の後のアルコールは格別なのだ。
そうやってお通しに舌鼓を打っていると、隣からするりと小鉢が寄せられた。そこにはハヤテが先ほど食べきった菜の花がこんもりと乗っている。ハヤテはジト目で隣を見上げるが、そこにはやはり少しも悪びれる様子のない男の横顔があった。
「トラさん、好き嫌いはダメですよ」
「オレは兎じゃねぇんだよ」
そう言ってちゃっかりときゅうりの浅漬けを頼んでいるトラにハヤテは溜息をついてみせる。だがトラはハヤテの呆れの混じった吐息を気にするような男ではないことを、ハヤテはよくよく理解していた。だからこそ、機嫌よく酒を飲む綺麗な横顔に肩を竦めてみせると、トラの分の小鉢の中身に箸をつける。
そんな時だった。不意にハヤテはこの店に来る前の出来事を思い出したのだ。
「俺、期間限定で美術館の監視員をやることになったんですよね」
――
ほら、最近もネットでバズってたグッズのある特別展をやってる、あの美術館。
手元のスマートフォンをすいすいいじって画像をトラに見せれば、先程まで上機嫌だったはずの機嫌が急降下し、眉根に深いふかい皴が寄っていた。浅漬けしか食べていないはずなのに、口元から乾パンレベルの硬いものを噛み砕くような音までする。いつの間に硬いものを注文したのだろう。テーブルを見ても、咀嚼の際に破壊音に近い音を発する食べ物の姿はなく、ハヤテは首を傾げるのであった。
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