kaisou
2026-03-18 22:19:24
5888文字
Public 1740年コンクラーヴェ話
 

Non ad quietem, sed ad onus. 安楽のためではなく、重荷のために

1740年コンクラーヴェ話・別視点5

1738年の夏の話。盤に戻された

※歴史創作なので悪しからず

▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある

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全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。

 呼び出しは、ひどく簡素だった。
 大仰な前触れはなかった。ただ、来るようにと言われた。それだけだった。
牢から教皇の私室へ通されるという事実だけで、十分すぎた。それは異例だった。いや、異例という言葉でもまだ足りない。囚われの身にある枢機卿が、裁きの場でも公の謁見でもなく、教皇の私室へ呼ばれる。起きてしまえば通路はそのままでも、出来事の方がそこに不似合いだった。
廊下を進むあいだ、視線は伏せられていた。だからこそ、かえって分かる。誰も見ていないふりをしている。だが、その見ないふりの揃い方だけで十分だった。これは普通ではない。罪人として閉じ込められていた男が、この時刻に、どこへ通されるのか。口にされぬ問いが、行く先々の空気に鈍い重みとして貼りついていた。
 軽い用事ほど周囲は飾り立てたがる。逆に、本当に重い判断は、奇妙なほど静かに下される。ニコロ・パオロ・アンドレア・コシアはそれを知っていた。知っていること自体が、すでに嫌だった。
通されたのは、公の謁見の間ではなかった。私的な居室に近い、小さな部屋だった。窓は厚く塞がれ、光は薄い。薬草と蝋の匂いが、閉ざされた空気の中に長く留まっている。そこへ、煎じた薬のわずかな苦みと、替えたばかりの麻布の乾いた匂いが重なっていた。清潔ではある。だが、その清潔さそのものが、長く病む人間の傍らにある部屋だと告げていた。華やかさはない。人を圧するための威容もない。だが、その代わりに、逃げ場がなかった。 
 
教皇は寝台に半ば身を起こした姿でいた。 

 痩せていた。

 年齢だけではない。長く病に削られ、寝台の上でなお職務を手放さなかった者の痩せ方だった。
手は薄く、骨ばり、顔色も悪い。肩の線はひどく軽くなっていた。目はもう、ほとんどこちらを捉えていないはずだった。視線はわずかに外れ、焦点も定まらない。だが、その衰え切った外側とは別に、決める力だけが異様なほど残っていた。身体が先に終わることを許しても、判断だけは終わらせまいとする人間の顔だった。

 中継ぎのつもりで担がれた老人が、思ったより長く生きる。

 そのことを、本人が知らぬはずもなかった。周囲には短く終わるものと思われ、都合よく次の時代への橋にされるはずだった人間が、目も見えず、身体も動かぬまま、なお決定だけは手放していない。人に都合のよい時期に、人に都合のよい死に方をしてやるものかという、ほとんど執念に近いものが、寝台の上にもまだ残っていた。老いているのにではない。老いながら、なお現役のままそこにいること自体が、この教皇の頑固さだった。
 脇には書類が積まれていた。読み上げ役の侍従が控え、別の者が文書の端を整えている。周囲が代わりに判断しているのではない。この人がまだ自分で握っている、ひと目でそれが分かった。見えなくなったといって、職務まで手放したとは限らない。むしろ手放せぬ者ほど、最後には人の声の揺れや、言い淀み、報告の順番に混ざる都合を聞き分けるようになる。見えていないと思って油断した者から、先に見透かされる。コシアは、その種の老いを嫌というほど見てきた。目が利かぬから騙しやすいと高を括る者から先に、足を掬われる類の老いだ。
「コシアか」
 静かな声だった。
「さようでございます」
「近くへ」
 コシアは数歩進んだ。床の石が冷たい。歩幅は自然に整った。こういう時だけは身体が勝手に覚えている。どれほど落ちても、どう立てばよいかだけは忘れない。その正確さが、かえって空しかった。失ったものはいくらでもあるのに、こういう作法だけは、身体の方が先に守ろうとする。
 教皇はすぐには口を開かなかった。書類が一枚読まれ、別の書類が手渡される。その一連のあいだ、教皇の指が紙の端に触れる。内容を見るためではない。読まれたものと、いま手にあるものが同じであるかを、手触りだけで確かめるような動きだった。長くそうしてきた人間の手だった。
 その沈黙のあいだに、コシアはもう用向きの輪郭を知った。説諭ではない。形式の確認でもない。処分の言い渡しだ。あるいは、その修正だ。赦免は考えなかった。希望していなかった、と言えば嘘になる。だが、期待するには遅すぎると思っていた。
「お前の件について」
 教皇がようやく口を開いた。声は弱くない。弱っている身体から出ているのに、不思議なほど揺れがなかった。その声が落ちた瞬間、部屋の空気そのものが、ようやく本題へ入る形に整った。
「進言は多い」
 コシアは黙っていた。どういう進言か、問う必要はない。切り捨てろという声だろう。完全に外へ出せ、もう戻すな、名ごと潰してしまえという声。しかもそれは、外の敵からだけではない。おそらくこの寝台のもっと近いところからも出ている。教皇は続けた。
「それも当然だ。お前には罪がある」
 そこで初めて、コシアはほんのわずかに指を動かした。反論のためではない。事実だからだ。否定すれば、そこから先は全部軽くなる。軽くしたくなかった。
「だが」
 その一語で、部屋の空気が変わる。
「当然であることと、正しいことは、同じではない」
 寝台の上の痩せた手が、ごくわずかに動く。視線はなおもぼやけている。だが、声だけは少しも曇らない。見えていないからこそ、教皇は人の言い分の中に混ざる私怨や、派閥の都合や、都合のいい省略を見落とさずにきたのだろう。見えぬ目の代わりに、長年、そういうものばかり聞いてきた耳がある。
「お前を切り捨てろという者たちは、お前の罪を並べ立てる」
 教皇は言った。
「それ自体は間違っておらぬ」
 コシアはなおも黙っている。
「だが、間違っておらぬことを、都合よく使う者もいる」
 それは、ひどく真っ直ぐな言い方だった。婉曲ではなかった。甥の名も、派閥の名も出さない。しかし、誰のことを言っているかなど、分からぬほど鈍くはなかった。
「何を隠し、何を誇張し、どこへ誘導したかも、私は知らぬわけではない」
 そこで初めて、コシアは顔を上げた。教皇の目はほとんどこちらを捉えていない。だが、それで十分だった。見えていない人間の言葉ではない。全部知った上でなお、自分の言葉として置いている者の声だった。
……では」
 コシアはようやく口を開いた。声は乾いていた。
「私は、派閥の都合で落とされたと、そう申し上げればよろしいでしょうか」
「言いたければ言え」
 教皇は即座に返した。
「だが、それでお前の罪が軽くなるわけではない」
 部屋の隅で、誰かが息を詰めた気配がした。教皇は気にしない。
「お前はよく務めた」
 コシアの喉が、ほんのわずかに動く。その一言の方が、よほど胸に刺さった。教皇は淡々と言った。
「寵愛されていただけの男として処理するのは簡単だ。だが、簡単な裁きはたいてい怠慢だ」
 情はなかった。少なくとも、甘やかな意味はなかった。個人としてコシアを嫌っていないことは、声の癖で分かる。憎んでいる相手には、人はもっと余計な力を込める。だがこの教皇の声には、嫌悪の熱がない。あるのは、知ってしまった事実を勝手に削れない者の厄介な誠実さだけだった。
「お前には罪がある。働きもあった。両方とも事実だ。ならば、片方だけで裁かぬ」
 教皇はそう言ってから、初めてその名を口にした。
「オルシーニのもとで、お前が何を担っていたかを、私は知っている」
 その名が落ちた瞬間、コシアは息の置き場を失った。
 部屋の中は何も変わらない。蝋燭の火も、差し込む光も、寝台の位置も。だが、変わっていないからこそ悪かった。この部屋の空気が、かつて近くで支えていた頃の記憶を、あまりに容易く呼び戻す。薬草と蝋の匂い。閉ざされた光。寝台の脇で交わされた短い言葉。枕元から自分の部屋へ通じる呼び紐が鳴れば、どんな時刻でもためらわず立ち上がっていた足。そういうものが、一度に胸の奥へ戻ってきた。
「破門は解く」
 声は静かだった。だからこそ、ひどくはっきりと響いた。
「ただし、無条件ではない」
 やはり、と思った。その一言で、かえって呼吸が戻る。全面的な赦しなど、似合わない。自分にも、この部屋にも。
「枢機卿位には復する。名も戻す。式次第の上でも、お前は再びその列に座る」
 そこまで聞いて、コシアはようやく教皇を見た。見えていない相手を、見る。妙なことだった。教皇は本当に見ていないわけではないのだ、とそのとき思った。輪郭や顔色ではなく、人間の重さの方を見ているのだと。そして、自分の目が届かなくなったからこそ、他人の都合のよい見方に最後の署名を渡すまいとしているのだと、コシアは思った。
「だが、自由は戻さぬ」
 教皇の声は少しも揺れない。
「収監は継続する。行動も文書も制限する。お前が以前のように動けると思うな。思わせるつもりもない」
 当然だった。それがかえって胸に刺さる。完全には戻さない。戻せないのではない。戻さない。その線引きの冷たさで、この決定が情ではないと分かる。
……都合の悪い赦し方をなさる」
 コシアはようやくそう言った。皮肉の形を取ってはいたが、声は乾いていた。教皇は少しも動じなかった。
「安楽のために赦すのではない」
 短い沈黙ののち、言葉が続く。
「お前を制度の外へ捨てる方が、よほど楽だった」
 コシアは何も言わない。言えなかったのではない。言えば、どの言葉も軽くなる気がした。
「だが私は、その楽な方に署名するつもりはない」
 寝台の脇に控えていた者たちの気配が、一瞬だけ強ばった。ごく小さい変化だった。息の置き方が乱れ、衣擦れが止み、紙を支えていた指先がわずかに動きを失う。その程度のことなのに、部屋の空気ははっきりとそれを拾った。誰も声にはしない。だが、反対があったのだろう。あって当然だ。むしろ、なければ不自然だった。甥の側に連なる者たちにとって、コシアを制度の内へ戻すなど、最後の失策にしか見えぬはずだ。
 コシアには、その反対の声が、まるでこの部屋の外壁のように感じられた。近くて、見えなくて、だがたしかにそこにあるものとして。だが、教皇はその気配ごと無視した。
 見えていないからではない。見えていなくとも、いや、見えていないからこそ、その一瞬の揺れを誰より正確に知ったうえで、取り合わなかった。寝台に半身を預けたまま、痩せた手をわずかに動かす。それだけで十分だった。部屋の中にある反対も、不満も、逡巡も、その手の届く外へ押しやられる。決めるのは自分だと、老いた教皇は何も訂正せずに示していた。
「戻す」
 その言い方は、恩恵を与える者のものではなかった。責任を返す者の言い方だった。
「すべてではない。椅子にだけだ」
 枢機卿の椅子。名誉というより、責任の場所だ。しかも自由を奪われたまま据えられる席だ。赦しというより、刑の形を変えただけにも見える。その誤解を見越したように、教皇は最後の一言を置いた。
「自分の終わりを、これ以上安いものにするな」
 そこで初めて、コシアは息の置き場を失った。視線は逸らさない。だが、胸の奥のどこかにだけ、遅れて言葉が落ちてくる。

 安いものにするな。

 それは赦しの文句ではなかった。慰めでもなかった。命令に近い。その一言は、いまここに立つ弱った自分だけへ向けられたのではない気がした。かつて裁かれながら、誰にも終わり方を触れさせまいとしていた自分の姿まで、見透かされた上で言われているようだった。
 言葉が刺したのは、罪でも失脚でもない。もっと始末の悪いものだった。ここまで来れば、自分はいずれこういうふうに終わるのだろうと、どこかで静かに引き受けかけていたもの。切り捨てられるならそれでもよい、戻れぬなら戻れぬでよいと、半ば諦めの側へ身体を預けかけていた、その弱り方そのものだった。それを見透かされたのだ、とコシアは思った。それがひどく堪えた。
 断罪されたことよりも、自由を戻さぬと言い渡されたことよりも、その方がよほど深く胸に入った。お前はまだ、そんなところで終わるつもりなのか。そう問われた気がした。
……感謝を申し上げるべきでしょうか」
 やっとのことでそう言うと、教皇はほんのわずかに眉を動かした。見えていないはずなのに、その反応だけは妙に正確だった。
「好きにしろ」
 その返しが、かえって救いだった。感謝を強いない。悔悟も感涙も求めない。ただ決定だけを置く。その冷たさが、いまはありがたかった。
コシアはゆっくりと頭を垂れた。深くではない。崩れた者の礼でも、救われた者の礼でもない。ただ、その決定の重さだけは受け取ったと示すための角度だった。
 部屋を辞そうとしたとき、教皇がもう一度、名を呼んだ。
「コシア」
 振り返る。
「赦したのではない、と思っておけ」
 コシアは、わずかに口元を動かした。笑いではない。だが、それに一番近いものだった。
「承知しております」
 それで十分だった。
 部屋を出たあともしばらく、歩幅は変わらなかった。廊下へ出た瞬間、熱が来た。閉ざされた私室とは違う、夏の盛りの空気だ。石壁が昼の熱を蓄え、日の落ちかけた今もまだそれを手放していない。汗が首筋を伝う。息が少し重い。変えなかった、という方が正しい。廊下の先にある光も、石床の冷たさも、さっきまでと何も違わない。

 破門は解かれた。だが、自由はない。名は戻る。以前の自分は戻らない。それでも、枢機卿には戻る。コシアはそこでようやく、この決定の本当の残酷さを理解した。切り捨てられる方が、たぶん楽だった。戻されるのは、楽ではない。戻されたまま生きろと言われるのは、もっと悪い。廊下の途中で、彼は一度だけ立ち止まりかけた。だが、止まらなかった。止まれば、その場で何かを考えてしまう。考えれば遅れる。遅れれば、自分の中の何かが崩れる。だから歩いた。 

 知った上で、裁いた。
 知った上で、戻した。

 その二つを両方やれる人間を、コシアはあまり知らない。裁くことで自分を正しい側へ置く者は多い。戻すことで自分を慈悲深い側へ置く者もいる。だが、この教皇はそのどちらにも逃げなかった。だからこそ、厄介だった。恨みだけで片づけるには正確すぎ、恩だけで受け取るには冷たすぎた。だからこそ、忘れにくかった。

 彼はそのまま、自分の名で歩いた。今度は、以前とは違う鎖を引いたまま。