kuzu
2026-03-07 23:21:44
8601文字
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相棒/♦︎光沢

いつのまにか相棒という言葉は呪いのように纏わりついていた。どうにもできなった。どうしようもなかった。※祖母捏造あり



設備が整っている証拠となる室内練習場。ここを選んだ理由の一つ。俺は今日も座ってミットを構えている。
「ナイスボールです」
 受けたボールを返球する。
 
 霞む視界に戸惑いながらも足を踏み出した道は沢村先輩の足跡が残る道ではなかった。あの時、色濃く書いた文字の場所に俺は進んだ。
 それでも野球は捨てきれなかった。これを捨てなければどうにもならないことは自分でも分かりきっていたのに。遠い道を選べなかった俺はあまりに滑稽だと、誰かが囁いていた。
「今日は上がるか〜」
「そうですね」
 立ち上がってミットを外す。再び寮に入って生活している。もう随分と他人と暮らすことに慣れてしまっていたし、1人で過ごす時間はなんだか物足りなくすら感じる。 
 ただ、ずっと前からある寂しさは存在を少しも小さくすることなく、居座っていた。
「飯いこーぜ」
「はい」
 時は止まることを知らずに正常に進み、季節は巡った。また夏が来る。沢村先輩を前に据えなくなって3回目の夏。俺は大学2年生になった。この年になって、嫌いな食べ物が増えた。いや食べれない食べ物かもしれない。今日はその食べ物が食堂に並んでほしくないと、思う。昨日も同じことを考えていた。しかし、食堂に足を踏み入れて、その願いは届かなかったことを悟る。
「おっ、今日納豆あるぞ」
 一緒に食堂に来た、この夏に向けてよく組むようになった投手にそう言われた。いや、おそらく大学に入ってからよく組んでいる。なぜかこの人に俺があてがわれた。
 食堂に充満する匂い。物を見るまでこの人は気づかなかった、気にしなければ些細な匂い。それでも、人間の五感で1番忘れにくい場所に染みついたもの。
「食ってやろうか?」
「別に、食べれないわけでは」
「そんな顔しておいて?」
「それは」
「というか、俺は好きだからくんね?って言ってんの」
「まぁ、そうゆうことなら」
「サンキュー」
 それでも脳内に溢れ出てしまった思い出はもうどうにもできない。周りの人の表情まで思い出せる。どんな会話をしているのかもおぼえている。まるで高画質で印刷した写真のように詳細に鮮明にフラッシュバックする。でもなぜか、もうその思い出に声は付随しない。映像ではない、ただの写真。次は何を忘れらるのだろう。何を忘れてしまうのだろう。
「見るだけで、その顔してよく言うよな〜。もはやトラウマレベル」
 そうだ。もうトラウマだと嘲笑えるようになったらどんなにいいか。どんなに楽になれるか。
「匂いが無理なんですよ」
 そんなこと一度も思ったことない。よく使われる理由だから、ただ並び立てている。ただ、強く染みついているのはそれで、記憶のトリガーになってしまっている。
「開けるまで匂いしないっしょ」
 まさに正論で、その通りで腹が立つ。人が何重にも何通りにも避けている場所を遠慮なく突かれる。無視したいと思っているだけでどうにかなるものではない。
「うわぁっ、こわっ」
 そういいながら、俺の分を請け負った目の前の一つ年上で、左投げの、投手が、嬉々として左手に握った箸で納豆を混ぜる姿見つめる。慣れないと思考してしまう自分にため息を吐きたくなった。
 
 
 翌日から、夏に向けての練習試合の日々が始まった。ベンチ入りを最終決定するための最終レースとも言える。本日2つめの練習試合で監督の前にならぶ。
「この試合のスタメンマスクは奥村で」
「はい」
 基本は一個上の先輩がスタメンマスクを被ることが多い。ベンチ入りしてもキャッチャーは交代も少なく、ブルペンキャッチャーとして使われるのはわかっている。一個上の先輩からは学ぶことが多い。近くで見れるなら何よりだ。
 そして、この試合の先発ピッチャーは夏にかけてよく組まされるようになったあの人で、なぜか俺を気に入っていると直接本人から言われた。
「お前らにしか使えないボール使ってみろ」
 その理由はきっとこの俺たちにしか使えないボール。横に鋭く曲がるボールをこの人は好むけど、一個上の先輩は前に転がして取ることが多いためリードの組み立て時に条件が俺より多くなりやすい。反転、俺は初めて受けた時からミットに音を鳴らして収めることができた。
 あの人に比べたら安定して変化するボールだと思う。驚かない俺に驚く先輩達。そんな中で、もっとあの人のボールは――と考える自分に嫌悪感を抱いたのは記憶に新しい。あまりにも失礼だ。
「よろしくな〜奥村〜今日あのボールいっぱい投げさせてくれ」
「相手の打線次第ですね。まぁ、あとあなたの調子にもよるかと」
「お前ほんとに先輩に物怖じしないよなぁ。捕りにくいボールなんだろ〜無敵じゃん」
「それを打たれたらどうするんですか」
「それは……お前が考えてくれるだろう?奥村捕手くん」
 軽薄な態度はこの人の特徴だ。馴れ馴れしく、いちいち距離感が近い。肩にこの人の利き腕が回る。横からも後ろからも正面からもぶつかってくる。それは言葉でもそうだと思う。
「まっ、いいか。嫌な時は首振るし」
「サインの無視だけはやめてください」
「善処しまーす。まぁお前は結局捕れるからいいじゃん」
 いつのまにかこの人の破天荒さにも慣れてしまった。自信があってちゃんと野球を知ってる人だと思う。だからこそ、サインが決まらないこともいまだに無視されることもある。でも、先ほどの言葉から全く信頼されていないわけではないのはわかっている。
 それでも、俺のリードが間違っていないと証明すると言ったあの人は無理やり俺と一緒に筆をもち、同じ目的を持って1つの小さなキャンバスに壮大な絵を完成させようとてくれいた。一緒に考えて意見を出し合って、時にぶつかって。かつて横流しされた“ピッチングは投手と捕手で作る一つの作品”という言葉。自らで深く考えるまでもなくまさにその通りだと思わされていた。

グラウンドに駆け出してダイヤを見渡す場所に1人座る。高いところから目線を送る目の前の投手に、投げたがっていたボールもサインを出す。嬉しそうに笑いながら頷いた後、振りかぶるその奥にあの人を見てしまった。
 無理やり広げた視野の中でも俺の視点は沢村先輩に固定されたまま。どんな時も、どんな気持ちでも、俺はあの人を見てしまうのをやめられない。


「ナイスボールでした」
「おう、さんきゅーな」
「いいピッチングだったな。リードも、珍しくこいつを乗せられていたな」
「ありがとうございます」
「今日のリードは俺好みだったな」
……そうですか」
「あはは、オーラしまえよ」
 その物言いに対する感情が顔に出てしまったのだろう。大口を開けて背中を叩かれ、笑われる。その姿はあの人そっくりだ。
「バッテリーごと交代する。奥村、ダウン付き合ってやれ」
「はい」
早々にグラウンドを離れるその人を俺も追いかけた。
 緩いキャッチボールをグラウンドの端で始める。試合中とは全く違うミットの響き。この人も、コントロールがいい。試合の後は特にそうで、キャッチボールでもちゃんと構えた位置に穏やかに収まる。軽薄さからも試合中の我儘さからも想像できない。
「そういえばさ、ずっと前から気になってたけど。なんでお前ってここきたの?」
……なぜ、そんなことを聞くんですか」
「いや、気になってたって言ったじゃん!シンプルに気になるんだよ」
 ただの世間話のように持ち出される。理由なんてたくさん並べ立てたじゃないか。それを答えればいい。これは世間話だ。なのに、目の前の軽薄な性格の、この人の瞳が試合の余韻を残したまま真剣に見つめてきて口がうまく回らない。
「勝手な想像だけど、お前ってS大の沢村のこと追いかけるかと思って。好きなんだろ?」
「好きってどうゆう……
「はぁ?お前インタビュー答えてたじゃん!テレビ取材の!えっ、そっちの意味なの?恋してるの?」
「違います!」
「お前ら!静かにダウンしろ!」
「げっ」
 思ったより大きな声で否定を放ち、さらにそれより大きい声で監督から咎めの言葉が飛んできた。先輩は頭を下げているのがわかる。でも、俺にはそれをする余裕がなかった。先輩が放った言葉が奪っていってしまった。それは耳から入って全身をゆっくり固まらせた。

「で、なんで?」

 途切れたと思ったのは俺だけのようで会話は再開された。
 
「わかりません」
「ふーん」

 ボールは自分の右手の中。返球しなければならない。言葉のキャッチボールもダウンのためのキャッチボールも止めたのは俺だ。

「別に、あの人は俺でなくてもいい」

 ひたすらに、あの人を追いかけていた。無我夢中で、自分の視界にさえ入っていればよかったのに。他の野手からあの人へ繋ぐ番号をもらった時に、俺を見てほしいと思うようになっていった。
 沢村先輩のボールを求めて入ってきた後輩に焦りを覚えたりした。クリス先輩や、御幸先輩が来るたびに沢村先輩の目線が気になって仕方なかった。俺の声に反応して、あの人の目線が俺に戻るたびに湧き上がる歓喜をひた隠し、俺の名を呼ぶ声に安心していた。

 しかし、あの空気も温度も暑くて重いグランドでみる瞳を知っているのは俺だけではない。

「当たり前だろ」

 いつのまにか足元に影を作っていた頭を上げる。あまりにも鋭い、その言葉がこの先輩から放たれたなんて想像できなかった。

「投手だからな。よりいい捕手がいいだろ。自分の投球を良くしてくれる相手がいい」
「そんなの言われなくても分かってます」
「なんだし……あ〜なるほど……お前は盛大に拗ねちゃってるわけか。まぁ確かにあそこには青道の外人っぽい人いたよな……

 投手目線のその言葉。いつもの軽薄さをまるで感じさせないその言葉が真実のように、今度は直接脳に届いた。
 
 
 夏はあっという間に通り過ぎていった。よく組んでいた左投手のあの先輩に俺の現状を知らされてから、居座っていた寂しさは少しだけ縮こまった。暑さが通り過ぎるとともに、沢村先輩を思い出す回数も減っていく。そもそも、もうあの人の瞳以外は少しずつ輪郭を失い始めていた。包まれた温もりはもう遠い彼方。触覚がなかなか思い出せない。たった2回しか抱き合っていない、それをここまで覚えていたのが異常なのかもしれない。それだけ時間が経っているという事実だけが突きつけられた。
 
 それなのに、1番思い出すことが少ない時期に入ろうとする、まるでそれを悟っているかのようなタイミングで表示された【沢村栄純】という文字。大学に入る時に先輩を外してしまったその名前。自室の外の騒がしさを奪うように軽快な音を立てながらそれは表示された。

 迷う指で開くと、その先はメッセージアプリだった。随分と前にした会話で終わっている。忘れられない『明日見に行くな』という文。
 それに続いていたのは――

『お前オフいつ?』

 そんなの、高校3年生の俺がずっと知りたいと思ってた。あなたのオフはいつですか?あなたはいつ俺、たちを見にきてくれますか?俺はいつあなたに――
 
 まるで、あの日の続きのように。忘れたと思った、あの人の声でメッセージの言葉が再生される。俺がどんな気持ちだったかなんて考慮されていない。小さくなった寂しさは再び存在感を元に戻す。俺自身、どこに向いているかわからない怒りが湧いてくる。勝手に視界が歪んでいく。いつもより随分と眩しい画面に落ちる水滴を何度も拭う。たくさんの違う感情が無限に湧いては、勝手に消費されていってしまう。それをどう止めたらいいのかわからない。
 両手で握りしめた、スマートフォンを胸に当てる。聞くに耐えない嗚咽だけが1人1人に与えられた寮の部屋に響いていた。

 思い出さなければ忘れられると思っていた。

 
 
 俺は、なにひとつ忘れていなかった。忘れられなかった。