山城まつり
2026-02-28 19:23:36
20272文字
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suicidal/leniency Karte02 Chapter005~006(新版)

スーリニの文庫化作業をしてるんですけど、Karte02で「肩甲骨粉砕骨折、腰椎圧迫骨折(T12~L2)、肋骨骨折→心筋裂傷(心タンポナーデに対し心嚢穿刺を実施)、頭蓋強打→脳脊髄液漏出、脳ヘルニアの兆候(穿頭ドレナージ実施)、大動脈損傷」としてるなら、「アレ? 脳の手術が優先では??」となり、調べたところそうだったので……(心臓・大動脈からするケースもあるみたいですが)ほな……書き直すしかなくない……? ガチ医療者に「素人が書くな!」と言われそうで、怖くない……? と思い、書き直しました。大変でした。もうゆるしてクレマリー……。

実はこのひとつ前のチャプター、Chapter004「緊急現場医療班」の「ここで穿脳ドレナージを!?」もびみょいらしいんですけど、そこを直すとなんかこう ね どないすんねん となるので悩んでいます もうちょっと考えます

ともあれ一応手術シーンはまさかの全書き直しし、一応形になって大きなミスもなさそうなので(現時点で、ではありますが)、みてみてママ~~~!!の気持ちで載せます。よしなに。

2026.2.28:うそごめん 読み返したけどミスあるかもです 明日以降直します……

感想あるとうれしいです。私がうれしいだけですが……マジで、大変だった…………。









──視点はルミエールのもとへと戻る。
ルミエールは処置の完了に、ほっとひとつ呼吸を落としていた。

脳への処置は終わった。
クレマリーの手技も正確無比だ。
予定通り。想定通り。アクシデントなんて起きない。全てが、正常。

……けれど運命はルミエール達を嘲笑う。
モニターが一度、ノイズを立てた。

──【死 ネ】、と。

ピーーーーーーーーーーーッ!
嫌な音が、耳をつんざく。ルミエールは思わず顔を上げた。ローザがバイタルを見上げ、悲鳴にも似た声を絞り出す。

「血圧急降下! MAP45! 灌流圧かんりゅうあつ低下してます!」
「リザーバー急減デス!」──鈴麗が続く。

──出血!?
ルミエールの背中が凍る。

「ど、どこですかッ!? どこから……ッ!」
「脳じゃねぇ! クレマリー!」

オリヴィエが叫ぶ。クレマリーも胸部に手を入れたまま、その手元を視線でくまなく探す。

「胸部でもない!」
「じゃ、じゃあ……どこから……!?」

胸腔は止まっている。心筋縫合部も問題ない。大動脈も、漏れていない。
なのに、血が減っていく。テオの命が、奈落へ誘われていく。
ルミエールは声を張り上げた。

「テオくんの体に、何が起きてるんです!?」
「分からねぇ! テオの症状……テオの症状……

オリヴィエが必死に所見を並べる。

「肩甲骨陥没、肋骨と腰椎骨折、脳ヘルニアの兆候は処置済み、心タンポも解除、大動脈置換に心筋縫合、〈スアサイダル症候群〉──」
「──待て」

クレマリーの声が場を止めた。

……〈スアサイダル症候群〉、だと?」
「あ、ああ。結腸の──まさか!」

オリヴィエが息を呑む。クレマリーの視線は、彼が言葉を言い終わるより先に、モニターではなく腹部に向いていた。

「腹部膨満……?」

ローザの声。それに背を押され、慌ててルミエールは腹部を押さえる──腹が、硬い。張っている。

「え、エコーくださいッ!」
「はい!」

直ぐにローションが塗られたエコーが渡され、プローブが褐色の肌に当てられる。白黒の視界。画質の悪い映像。けれど腹部の中には──黒い液体が、広がっている。ルミエールの呼吸が一度素直に、ひゅ、と止まった。

「腹腔内……大量出血……

喉が鳴る。エコーを再び押し当てた、その刹那。
──パン!

「!!」

腹部から、鈍い破裂音のような感覚。画面が一層常闇に染まる。

「な、何が起きて……ッ!」
……腸だ」──オリヴィエの、絶望をようした声。
「じゃ、じゃあやっぱりこれ……ッ!」

惨めに揺れる声で応答する。彼は短く、「ああ」と答えた。

「〈スアサイダル症候群〉の腫瘍──急成長で腸管穿孔せんこうしたんだッ! 腫瘍が腸間膜を巻き込んで、動脈枝を破った可能性、大!」
「──!」

言葉を失う。ルミエールは唇をはく、と開いたまま、その場に縫い付けられた。
隣でクレマリーが眉間にしわを寄せている。紅玉こうぎょくの瞳に僅かな揺らぎ──恐怖。
しん、と室内に重い沈黙が満ちた。バイタルモニターだけが悲鳴を上げ続けている。

──クリスタルの腫瘍が、内側から腸管を突き破ったのだ。その結果、腹腔内に血液が溢れ出す。
出血性ショック。平均血圧、45。視界が、ぐらりと揺れて狭まる。
……終わる。そんな考えが、頭を過ぎる。

「くそ……ッ。上から言われてたんだよ、言われてたのに……!」

オリヴィエが手を握りしめ、だん、と手術台を殴った。

「〈スアサイダル症候群〉の腫瘍は急成長するリスクが否めねぇ。最優先で切除しねぇと肉体的にも精神的にも一瞬の隙が命取りだって、知ってたんだ!」

拳が震える。ぎり、とラテックスの手袋が啼いた。

「でも、今回は脳と心臓が最優先だった。開腹なんて不可能だって、常識に囚われてた! 常識に囚われるなって、俺が言ったのに。俺の判断だ、俺の判断で、コイツは──!」

誰も、返せなかった。誰も、口を開けなかった。
ルミエールも手を震えさせる。──彼のミスでは、ないのだ。脳と心臓を守らなければ、テオはとっくに死んでいた。手術とは、「今生かすための処置」が最優先だ。心臓と脳がそれだった。彼は、何も悪くない。でも……

「くそッ!! くそ……ッ!! どうしたらいい。ここから、どうしたら……!」
「オリヴィエ、さん、」
「どうしたら──!」

絶叫が、室内を重く占めた。絶望が、室内を強く圧した。
誰も答えられない。誰も導けない。誰も──。
……だが、現実は。
現実は──そうじゃなかった。

……オリヴィエ」

声が、した。
淡々としたトーン。抑揚のない喋り方。先輩にも、敬語を使わないその言葉。
ルミエールは、そちらに目を遣った。オリヴィエも、ローザも、鈴麗も、そちらを見た。
そこに居るのは──。

──天使でも死神でもない。一人の、医者だった。

「私が、治す」

クレマリー・ルーヴィル。医術に愛された、医療の申し子。
オリヴィエが混乱したように、「クレマリー、?」と彼女の名を呼ぶ。

「オリヴィエ、お前は言ったな?『専門は命に関わる全部』だ、と」
「ああ、言ったけど……
「ならば、心臓外科の手技も──研修医、いや専攻医程度は出来るのだろう」
「まぁ、そうだな……ってえ? ま、まさか──」

クレマリーは一度双眸を伏せた。だが、次の瞬間、彼をしっかりと見据えて、

「──胸のオペを引き継げ。大動脈置換は終わっている。あとは心筋縫合をすれば終了だ。その間に私が結腸から腫瘍を取り上げる」
「な……今、この状態で!?」

叫びが返る。彼は目を剥き、彼女に訴えた。

「馬鹿言え! この状態で腹開いたら──」

ルミエールも不安そうに彼女を見上げた。非常識にもほどがあるのだ。外傷直後に大きな出血操作など、腹を開くなど──正気の沙汰じゃない! 無理だ、とそう訴えようとした。出来ない、と嘆こうとした。だが、その言葉は彼女の眼光の強さに気圧される。

「救える」

凛とした響き。

「私達なら、救える」

眩しすぎる立ち姿。

「私が此処で、メスを握る限り──」

その手には既に、剣が握られている。悪の根源に立ち向かう、勇者の剣が。

「──誰も、死なせやしない」

だから。
そう言って、彼女は此方を見た。仲間達全員の瞳を、追っていった。

「信じてくれるか」
言い直す。
「外科医ならば、看護師ならば、……信じてくれるか」

──その一言に込められた力に、喉が小さく上下した。足元に、重力が戻っていく。自分が此処に立っているという事実が、立っているからには救わないといけないのだという重圧が、ルミエールをこの場に繋ぎ止める。一同を、医療者の目に引き戻していく。

……恐怖は、消えない)

胸の内で小さく呟く。
……不安は、消えない。絶望の予感に、胸が締め付けられる。
でも、それでも。それでもルミエールの足は動いた──第一助手のポジションへ。

……僕も入ります。オリヴィエさん、胸は、お願いします」
「ルミエール」
「やりましょう、クレマリーさん。……僕だって、何も出来ない訳じゃない」
……分かった」

その台詞の後、術室が動き出す。時間が動き出す。
クレマリーはオリヴィエに縫合糸を押し付けると、腹部へと回った。彼女の顔を、ルミエールは向かいから見ている。
──迷いは、ない。

「始める」

彼女がそう宣言する。ルミエールは腹壁鉤を受け取ると、彼女の術野を覗き込んだ。
回り始めた世界に──小さく、ぽつりと声が落ちる。

「無茶、ばっかりしやがって」

オリヴィエの声だった。それを、横目で捉える──クレマリーは既に電気メスを握っていた。

……でも、嫌いじゃねぇ」
次いで、
「──全く、頼れる後輩だぜ」

その声が、胸に響く。胸に、届く。
向かい側から直ぐ、指示が飛んだ。ルミエールがそれに意識を集中させたのと同時に、オリヴィエが動き出すのを見る。
──糸を掴み、パッチをも手にしている。縫合の体勢に入っている。
彼なら、大丈夫だ。そう察し、ルミエールは術野に向かい合う。

腹部は、胸部同様に正中切開されていた。皮膚を裂くのと同時に、暗赤色の血液が噴き上がる。ぬるい。重い。血液は空気に触れた途端、鉄の匂いを濃く広げ、術野の光を鈍く反射した。

「吸引! ガーゼ!」
「はい!」

クレマリーの声が鋭く走る。
白い布が腹腔へ押し込まれ、瞬時に色を奪われる。赤が、白を呑み込む。
腹腔内は、既に血の海だった。温い血が臓器を浮かせ、腸管はゆらりと揺れている。まるで、誰かの内臓ではなく、水底に沈む標本のように。
ルミエールは吸引管を差し込み、視界を奪う血を引き続ける。だが、引いても引いても、滲み出す。命が、流れ続けている。

──その、奥。

橙色の結腸の左側に、異物があった。
腸管を内側から突き破る、歪な隆起。
異様な光を放つ結晶。鉱山に生えているような、クリスタル。
それは呼吸するように脈打ち、黒いもやはべらせながら、腸管を内側から裂いていた。

「これ、が、」

喉奥から声が溢れる。
病魔〈スアサイダル〉の囁き──美しく、残酷な結晶。
脈打つたびに黒い霧を滲ませ、腸壁をさらに押し広げる。裂け目から出血が滲み、赤がたらりたらりと流れている。

……大きい)

さっきより、確実に。

切開という刺激に応じるように、結晶は膨張し続けている。
まるでテオの絶望を糧に、育っているかのように。
喉の奥が冷えた。

「ルミエール」

その声に顔を上げると、クレマリーの瞳があった。
揺れていない。光も宿していない。ただ、底の見えない静けさがある。

「お前と私なら、救える。お前なら、私なら」

叱咤ではない。約束でもない。それは、宣告だった。
逃げるな。選べ。やれ……と。

その言葉が、刃になる。胸を強く打ち、震えを取り去っていく。
──やってみせる。ルミエールは結晶腫瘍を睨み据えた。

「僕が切ります。……結腸左半切除に移行します」

開幕の鐘が、厳かに鳴った。
響かせた声が、やけに遠く聞こえた。

まず、止血。
腹腔内は血で満ちている。それはじわりじわりと水量を増やし、吸引は既に追い付かない。ガーゼが一枚、二枚と赤く染まり、次々に取り出されては廃棄される。

「MAP40に低下しマシタ!」

鈴麗が叫ぶ。人工心肺はかろうじて循環を保っているが、全身は既に限界に近い。クレマリーが声を上げ返した。

「大量輸血開始! 赤血球、FFP、血小板!」
「はい!」

声が飛ぶ。輸血のパックが次々と接続され、人工回路を通じて体内へ送り込まれる。──それでもなお、循環は追い付かない。

(早く)

時間が、削れていく。心臓が、強く喉を圧する。
──腫瘍の周囲、腸管は裂け、そこから拍動性に出血していた。
ルミエールは、そんな腫瘍の周囲にメスを入れる。

(!)

刃先が跳ね返る。……硬い。
それは腫瘍ではなく、結腸でもなく、例えるならそう──地層だった。長い年月をかけて積み重なった岩盤のように、結晶は腸管を内側から抱き込み、深く根を張っている。

(は──剥がせない! 周囲ごと切り取ろうとしても、拒まれる!)

焦りが脳裏を満たした。刃を差し込むたび、抵抗が返る。ほんの欠片、腫瘍ではない結腸の一部すらも持ち上がらない。

「平均血圧40切りました! 現在39ッ!」

胸部で人工血管を繋いでいるオリヴィエの方から、ローザの鋭い声が飛ぶ。モニターはレッドアラームを泣き叫び、絶望の拍子を刻んでいた。

「~~~~ッ」

喉奥が狭まる。呼吸が一気に苦しくなる。助けたい。救いたい。手を取りたい。導きたい──彼を、テオを、奈落の底から。
そう強く願った。そう強く祈った。だが──。

【 終 ワ レ 】

ざざ、と異音を弾き出しながらモニターが嗤った。
それと同時に、人工心肺の回転音が一瞬乱れる!

「ポンプ流量低下!」──つんざくローザの声。
「何だ!?」

オリヴィエが顔を上げ、悲鳴じみた声を上げた。
ルミエールもはっと視線を持ち上げて、モニターと術野を見比べる。

──脱血不良。
──静脈から心臓へ戻る血液が不十分になる。
──腹腔内出血が多すぎるせいで、循環まで追い付かない!

「ぼ……ボリューム追加してくださいッ!」
「は、はい……!」

直ぐに輸血が加速する。けれど血圧は上がらない。数字がゆっくりと点滅して、1、2、3……最高血圧が5、下がる。
ルミエールの視界がぐわんと揺れた。

……間に合わない)
視界が黒ずみ、狭まった。
(──間に、合わない!)

【 死 ネ 】
【 終 ワ レ 】
【 こ っ チ ニ 】

がさがさがさ。モニターが嘲笑う。
ちかちかちか。無影灯が点滅する。

結晶がさらに膨らんだ。
腸壁を、もう一段階破壊するように。

……ッ!」

ルミエールは手を動かし続けた。メスを、握り続けた。
けれど腫瘍は剥がれない。まるで根を生やしているように、その場からびくともしない。鉱石のような腫瘍は硬く、どこからどうアプローチしても切り取れない。

「ど、どうして……ッ!」

救わないといけないのに。
助けないといけないのに。
テオを──殺したくないのに。

じわり、と目頭が熱くなる。喉が狭まり、息の仕方が分からなくなる。
血圧は下がり続け、彼の命を彼岸へといざなっている。
嫌な予感がした。
絶望が胸を侵蝕し始めた。
そして瞳から、雫が零れ落ちる──

──その、瞬間。

「ルミエール」

凛とした声。聞き慣れた、低い女声。
クレマリーが右手を伸ばす。それを、ルミエールの前に突き出した。

「私が代わる。メスを」
……っ!」

細い手が伸びてくる。けれどルミエールは即座に剣を預けられなかった。時間が止まる。渡せば、自分の敗北だ。でも、渡さなければテオは死ぬ。
クレマリーが短く息を吐いた。

「時間がない。渡せない理由がプライドならば、そんなものは捨てろ、ルミエール」
「ッ」
「代われ。……代われと、言っている」
……。」

刃のようなその言葉に、一瞬、固まる。
そして縋るように、クレマリーの顔を恐る恐る見上げる。

彼女の顔には、焦りなど滲んでいなかった。いつも通りのポーカーフェイス。光を失った双眸。けれどそこには、炎が宿っていた。

「代われ」
「──血圧、もう限界です!」
「ルミエール」
「循環が……ッ!」
「──ルミエール!!」

その凛々しい声に、ルミエールは唇を引き結んだ。そして、コンマ一秒待つ事なく、

「~~~ッ、は、はい!」

──メスを、渡した。
すらり、と白銀の剣が彼女の右手に滑り込む。点滅している無影灯の光を反射し、その剣は己の使命を全うするぞと意気込んでいる。
彼女は直ぐに、目線を術野に落とした。そして、数秒もしないうちに口を開く。──決断を、下す。

「部分的に剥がせないなら、結腸ごと広範囲を切除する。ルミエール、IMV挙上」
……っ、はい!」

彼女の腕は、即座に動く。即断。内側からのアプローチに切り替わる。
下腸間膜静脈かちょうかんまくじょうみゃく・IMVを挙上すれば、彼女の指先が腎筋膜との間を滑っていく。そのままクレマリーはクリップに持ち替え、下腸間膜動脈かちょうかんまくどうみゃく・IMAを露出して、確実に処理する。

血管が切離されるたび、出血が減る。
湖が、少しずつ引いていく。

彼女の指先は、組織の隙間を知っている。剥離が進むごとに、腸は自由を取り戻している。
クリップが掛かる。小さな金属音が、此処が現実世界だと告げている。ルミエールはただ、テオの体に起こる変化を見ていた。血が引き、オペが滞りなく進むのを見ていた。
──僕は、出来なかったのに。その思いに、唇を噛む。

「超音波凝固切開装置。リンパ節は郭清かくせいしない──〈スアサイダル〉の腫瘍は、〈病魔〉本体との接触でのみ増加するからな」

彼女の声が、淡々と飛ぶ。
理論を語りながらでも、その手技は鮮やかだった。
超音波装置の振動が、組織を分ける。煙が上がり、焦げた蛋白たんぱくの匂いが僅かに混じる。だが──出血は殆どない。未だもやを溢れさせるクリスタルから距離を取ったクレマリーの手が、術野で踊る。

……速い)

いや、速いだけではない。
正確なのだ。

彼女の剥離は、力ではなく理解で進んでいる。経験で進んでいる。どこまでが腫瘍で、どこまでが安全地帯で──どこまでが〝生きている〟のか。
それを、瞬時に見分けて進んでいる。

「ルミエール、IMVを切離」
……はい」

その術野に己の手が入り、静脈の枝をクリップで切離した。その手先は僅かに震えており、クレマリーの手が躍るワルツより明らかに劣る。だが彼女は、それを咎めない。

「切開、進める」

十分に内側から受動を進めたクレマリーが、そう呟きながら外側へと回る。まるで王者の登場にひれ伏すように、指先を組織が避けていく。S字結腸、下行結腸と腹壁とを繋ぐ膜へ、彼女の指が伸びた。
出血する可能性がある場所の筈だ。組織が裂ける危険性のある箇所の筈だ。けれど彼女の手は迷わず動いた。止まる事なく、また出血も起こる事なく──シーケンスが進んでいく。

(どうして、そんなに迷わないんだ)
問いは口には出ない。だけど、それでも。
(どうして──あなたは、出来るんだ)
……今だけは、その思考を封じ込める。

剥離が進むごとに、腸は自由を取り戻す。張り付いていた大地から、根が一本ずつ取り除かれていく。
横行結腸側から、下行結腸との間に位置する脾彎曲部ひわんきょくぶへ。
そこに手を伸ばした、次の瞬間──。

──ふわり。授動が終わった瞬間、脾彎曲部はようやく緊張を失い、ゆっくりと浮き上がる。

「ルミエール、引き出せ」
「はい、っ」
「鈴麗、自動縫合器」
「ハイッ!」

ルミエールはやや冷たい温度を感じながら、結腸を体の外へと引き出した。そこに、クレマリーが持った自動縫合器──縫合と切離を同時に担う機械──が刃を当てる。

──がちん。
音が鳴った。肛門側が閉じられ、切り離される。口側は温存され、人工肛門として挙上される。病変部が、一塊として取り出された。

外に、出てくる。拳より大きい、真っ赤な鉱物。
光を散らし、黒い霧を周囲に漂わせる、病魔の落とし子。
トレイに置かれたそれは、なおも緋色に光を放っている。
だが、もう成長しない。もう、現実を脅かさない。

「出血、減少しマシタ」
「血圧、50まで回復」

モニターの音が、ほんの僅かに穏やかになる。ルミエールは、初めて大きく息を吸った。肺が痛い。胸が痛い。だが、奈落への落下は止まった。

腹腔内は、ようやく暴風の縁を離れつつあった。
完全な静寂ではない。出血はなお滲み、血液は重たく臓器の隙間に溜まり続けている。それでも先程までの、命を押し返す濁流とは違う。あれは破滅の音だったが、今はまだ、抵抗の余地がある。

(まだ、終わってない)

ルミエールは、自分の内側に浮かびかけた安堵を押し戻した。
腸を繋ぐか、繋がないか──その判断が、次の未来を決める。

腹腔内を見渡す。腸管は浮腫で厚く、紫がかっている。大量出血と循環不全が、確実に組織を傷めているのだ。ここで無理に腸同士を吻合ふんごうすれば、縫合不全は避けられないだろう。腹腔内に再び感染と炎症が広がれば、テオは今度こそ帰ってこない。

「吻合は、しない」

クレマリーの声は低く、揺らがなかった。
その切断は敗北ではなく、選択だった。命を未来に預けるための、選択。

「ハルトマンでいく。ストーマ人工肛門増設」

──テオは、高校生だ。この歳で人工肛門だなんて、絶望するかもしれない──。
拒むだろう。泣くかもしれない。だが……死を選ぶより、ずっといい。

(怒ってくれたら、いい。生きていてくれたら)

そう思いながら、横行結腸の口側断端だんたんをそっと持ち上げた。
指先に伝わる温度はまだ温かい。拍動は弱いが、途絶えてはいない。

……生きている)

その事実だけで、手が震えそうになる。

術前に位置を決める余裕などなかった。緊急の連続手術が、その余裕を奪っていた。
腹壁を内側から押し上げると、張力の少ない一点が僅かに応じる。

……ここ、」
「ああ。ここだ」

クレマリーの手が動き、皮膚に円を描くように切開が入れられる。脂肪層を分け、腹直筋を鈍的に割り、腹膜へ到達する。層を一枚ずつ進む感覚は、どこか地層を掘る作業と似ていた。人の身体の奥へと、小さな出口を作っていく。

腹膜を穿ち、指を差し入れて開口部を広げる。
──僅かな穴。だがそれは、これからのテオを守る新しい門になる。

横行断端おうこうだんたんを」

その声に、横行断端を慎重に導く。
血液で滑る。浮腫で重い。引きすぎれば虚血を招く。短すぎれば腹腔内へ引き込まれる。2センチ、いや3センチ……緊張がかからない高さで止める──。
すると、粘膜が外気に触れ、赤が露わになった。
それは傷ではない。花弁のように柔らかく、しかし確かに生きている色だった。クレマリーがそれを見つめ、そっと固定糸を掛ける。
腸漿膜ちょうしょうまくと真皮が、ゆっくりとハグを、キスを交わす。円を描くように、等間隔で結ばれていく。糸が締まるたびに、出口は形を持ち始める。──人工の肛門。だがその響きの無機質さとは裏腹に、そこには確かな鼓動が宿っていた。

「色、良好です」

そう、告げる。クレマリーが糸を切り、手を下ろした。

……ルミエール、生食せいしょく
「はい」

腹腔内を再度洗浄する。血液を吸引し、滲出点しんしゅつてんを追加縫合する。ドレーンを留置し、見落としがないかを何度も確認する。手術とは、最後の一秒まで疑う作業だから。
その作業を黙々とこなすルミエールを一瞥し、クレマリーがオリヴィエに声を飛ばす。

「オリヴィエ、胸部は」
「なんとか終わったぜ。人工心肺、離脱準備。プロタミン投与」

その声を受けてゆっくりと、テオの体が自分自身の力で生命を背負い直し始めた。心臓が、自ら動き出す。人工的だった循環が、身体のものへと戻る。
──どくん。どくん、どくん、どくん。

モニター音が整う。バイタルが自己心拍の数値を表示し出し、術室にもうひとつの電子音を重ね始める。

「ノルアドレナリン持続下で、血圧、82の46」
「サチュレーション、正常デス」

人工心肺が停止する。心臓の鼓動が、彼の役目として戻ってくる。

手術室に静かな空気が流れ始めた。誰も、直ぐには言葉を発しなかった。静寂が世界を包む。静かな温度が、世界を満たす。だがそれは、破滅の静寂ではなく──あたたかな余韻だった。

……全部、終わったか?」

オリヴィエの声だった。クレマリーが瞳をすいと持ち上げ、頷く。

「終わった。ひとまずな」
「そっか。……良かったぜ。救えて。お前の無茶が、彼を救ったんだ」
「私一人の功績ではない」

ルミエールはそれを聞きながら、摘出された結晶を見つめる。そこに宿るのは、美しく、どこまでも残酷な光だった。

……これが、テオくんを殺しかけた)

これが、自分達を恐怖に陥れた。

……でも、)

でも──まだ、生きている。
テオの胸は、自力で上下している。

……。)

救えたのだ、と。
助けられたのだ、と、それがようやく胸に実感が落ちていく。
ルミエールは大きく息を吐いた。手袋の内側は汗で満ちている。

「ルミエール」

クレマリーが隣まで来た。その瞳は此方ではく、どこか遠いものを見つめていた。けれど確かに己に、言葉が掛けられる。確かに此方に、歩み寄ろうとする姿勢だった。

「救えたんだ」

その一言には、力があった。
〝お前が〟救えたとは、言われなかった。それが喉を静かに狭める。……けれど。

……みんなが居たから、救えました」

言いながら、頷く。返した台詞は、揺れていなかっただろうか。

──一人では、無理だった。
減圧。心臓。大動脈。結腸。
どれか一つ欠けても、終わっていた。クレマリーが、オリヴィエが、ローザと鈴麗が──みんなが居たから、救えた。自分一人では、何も出来なかった。
……何も、出来なかった。

……僕は)

そう思案しかけて、首を横に振る。それを言葉にしてしまえば、立っていられなくなる気がしたから。

手術室の光が、少しだけ和らいで見えた。世界はまだ、青白く灯っている。
だが──今は。
その光は、冷たい臨界ではなく。
……確かな、生の光だった。