世界を凌駕するお味

MHRウ教×ハ♀。夫婦。
バレンタインの、次の日。


ようやく解放してもらえた気がする──そんなことを考えながら、日が落ちて蒼天が陰り、桜吹雪の中に黄昏色たそがれいろが降りてきたカムラの里中を、里の教官ウツシが歩いて帰路についていた。

彼の眉は少々疲れたように下がって、口元を覆う鎖帷子くさりかたびらの中で小さなため息が漏れる。

今やカムラの里の中にすっかり浸透した『バレンタインデー』。王国から伝わった、大切な人へ愛と感謝を伝える風習。
老若男女問わず、想いを言の葉と贈り物に託して、伝え合う日──は、昨日のこと。

そのためか、今日の里中では、世間話の中に混じった惚気話のろけばなしや幸せ報告がさり気なく溢れていた。

小さな紙袋を片手に、どこか疲れた足取りでゆったりと歩くウツシも、先ほど米屋にてその洗礼を受けたばかりだ。

米屋をいとなむのは里中でも有名なおしどり夫婦、センナリとスズカリ夫妻。ウツシが片手に持つ紙袋の中身は、交易商ロンディーネのところで急いで買った、金色こんじきのリボンがかかった深紅色の小箱に入ったチョコレート4粒セットと、その足で米屋で買った瓶詰めのふりかけセットだ。

昨晩、彼は自分の妻が炊事場近くの戸棚を開きながら、ふりかけの予備がなくなったらしい旨の独り言を呟いているのを聞き逃さなかった。

(ちょっと遅くなっちゃったけど……チョコもふりかけも買えて良かったなぁ)

紙袋を見やりながら、ウツシが目尻を下げて想いを馳せる相手はもちろん、最愛の妻。自身の愛弟子でもあり、里の英雄とまで呼ばれし『猛き炎』たる娘。

(今日こそ、愛弟子と一緒に過ごせる……! 昨日までお互い忙しかったな……せっかくのバレンタインデーだったけど、今年は当日に過ごすのは難しかった……)

教官であるウツシも、英雄と呼ばれるほどの強者ツワモノである娘も当然互いに多忙な身。時に任務や狩猟は昼夜問わぬものもあるため、夫婦でゆったり同じ時間を過ごせる日は、ウツシにとって貴重な日。

そして、それがまさに今日であった──が、ロンディーネのところでのチョコレートの買い物以上に簡潔に終わるはずの米屋への訪問。それこそがバレンタインデーの影響によってすっかり話が盛り上がり、ウツシ自身も予想外なほど時間を食ってしまった。

(いやー……ロンディーネさんはあっさり帰してくれたけど、今日のセンナリさんは凄かったなあ。いつもは俺が愛弟子のことを喋り倒しちゃうのに、今日はあの人の愛の語りが……)

ウツシと彼の愛弟子である娘も、里中ではおしどり夫婦で有名だ。
特にウツシの嫁語りは里中の人間に『始めさせてしまったら最後』とまで言われるほどだが、先ほどはそんなウツシが聞く側に回るほど、センナリの惚気話が止まらなかった。

──嫁さんが昨日、俺のためにチョコレートを作ってくれたんだ。作り慣れなくて何度も練習してくれたらしくて、最高の力作を俺に……

──本当に最高だった、世界一のチョコレートだったよ

ウツシとて妻のある身、センナリの気持ちは痛いほど分かる。
彼の話に「そうですよね!」と熱く同調し、頷き、耳を傾け──その結果、当初の予定よりすっかり遅くなってしまった。

(……どんどん暗くなってきたし、早く帰ろう。早く……あの子の顔が見たい)

やや重たかったウツシの足取りに、ようやく軽やかさが戻る。妻のことを想うだけで、体からは不思議なほど疲労が消え、新婚さながらに『早く会いたい』と気持ちがはやった。

(──バレンタイン……今年は一日遅れちゃったし、急いで用意したものだけど、愛弟子……喜んでくれるといいな)

心の奥底で呟くウツシの胸は高鳴りながら、甘く締めつけられるような感覚を覚える。

歩いてる最中、ウツシの中では最愛の妻のことと、先ほどのセンナリの愛の語りが巡っていた。

妻スズカリからもらったという手作りチョコレートに関する熱い語りを思い出す度、ウツシの心は素直に『良かった』と感じる安堵の気持ち半分、羨ましさ半分の、苦笑を誘うような複雑な感覚に絡めとられた。

特に、先ほど聞いていた時はそこまで意識していなかったが、今になってウツシの中に不思議なもやを起こしている言葉がある。

(……世界一の、チョコレート……か)

あえてその言葉を胸の奥で復唱しながら、ウツシは鎖帷子で覆われた口元に、本人にしか分からない寂しげな笑みを浮かべる。
最愛の人が時間をかけ、ありったけの想いを込めて『作ってくれた』チョコレートが『世界一』なのは、当然だろう。

(……愛弟子。……ごめんね……愛弟子……)
 
言の葉はウツシの胸の奥でのみ響き、たちまちそこはきつく締めつけられる。先ほど購入したばかりのチョコレートが入った、ふりかけが入った紙袋を握る手には無意識に力が込められ、微かな罪悪感、申し訳なさに似たものを覚えかけた。

ぎりぎりと苦しいほどに胸が締め付けられる中でも歩を進めたウツシは、ようやく光溢れる我が家を捉えた双眸を意味深に細める。

己が内の靄や苦悶を振り払うように、彼は横に大きく顔を振った。

表情を切り替え、笑顔を意識しながら、彼は愛する人の待つ我が家に駆け寄って、元気に玄関引戸げんかんひきどを滑り開いた。

「ただいまー! 愛弟子、遅くなってごめんね!」
「お帰りなさい、お待ちしてました」

土間に入りながら片手の後ろ手で引戸を閉め、もう片手で口元の鎖帷子を真っ先にウツシの視界の少し奥にある炊事場。

彼を出迎える温かな声と共に、じゃり、と草履で三和土たたきを鳴らす音が響く。

声を奏で音を鳴らしたのはもちろん、彼が会いたくて止まなかった最愛の妻。彼女は安堵の狭間、想い焦がれるような初々しい笑顔を浮かべていた。

「今日もお疲れさまでした。大変だったでしょう?」
「ははは、ありがとう。任務終わりに買い物をしてたんだ、米屋さんに寄って来たよ」
「ああ、もしかしてスズカリさん? ふふふっ……わたしも狩猟から帰還した時に、橋の上でスズカリさんとバレンタインの立ち話が弾んじゃって」
「ははは、なるほど! キミもだったのか」

愛する人と同じ。そのことに何故か不思議と、妙にほっとしたウツシの口元に、安堵の笑みが浮かぶ。

「ふふふ、俺はセンナリさんだった。とっても幸せそうだったよ」
「スズカリさんもでしたよ。それで、その、わたし……その……

意味深に視線を下ろし、もじもじと言葉を濁らせる娘の瞳の奥。
ウツシは最愛の人のそこに、今の自分と同じ切なげな光が揺れているのが見えた気がして、ますます心が切なさと罪悪感に締めつけられた。

「今年は、昨日……バレンタイン当日に何もできなかったので、ウツシ教官に申し訳ないなと思って……

英雄らしいキレの良い素早さで振り返った娘が、炊事場の調理台の方へ向かって行く。その背中に「そんなことを思う必要はない」と声をかけそびれたことにも、ウツシはひどく後悔した。

すぐに彼の前へ駆け戻って来た娘は、両手を後ろに回した状態で、妙に緊張した様子。そしてウツシの目にはやはり、彼女の瞳がどこか申し訳なさそうな、自分の気持ちと似たような光で滲むように輝きながら、精一杯に微笑んでくれているように見えた。

「あ、あ、あのっ! ウツシ教官!」
「う、うんっ! な、何だい、愛弟子!」

娘につられたように、ウツシの声もひっくり返る。
予想以上の娘の声量、ほんのりと林檎色に染まった頬。その全てが彼には何より愛おしく、罪悪感に絞られていた心が少しだけ和らいだ。

懸命に、絶妙に身長差のあるウツシを上目に見つめていた娘だが、次第にその視線は泳ぎ始めた。
初恋の乙女を思わせるような初々しい様子で「あ、あの……」と、もじもじと言葉を選ぶ。

「い、いつも、本当にありがとうございます……! 少し遅くなっちゃいましたし、手作りも今日は難しかったんですが、どうしても……少しでも早く、気持ちを伝えたくて……! そのっ……これっ、どうぞ!」

娘が勢い良く頭を下げながら、後ろ回っていた両手で持った『何か』を、ウツシの前に差し出した。

@acadine