相変わらず忙しない日々が続いていたが、それでも合間を縫ってなんとか部屋を片付けた。あちこちに置いていた書類や本は書斎に運び、棚などの家具を拭き上げ、新しい紅茶を買って、先週はシーツまで洗って干した。
そうして万全の準備をして迎えた日――待ち人は、約束通りにサイラスの家の扉を叩いた。逸る気持ちを堪えきれずに小走りで玄関に向かい、扉を開く。オルベリクはサイラスの記憶にある姿と寸分変わらず、穏やかな微笑を浮かべていた。
「オルベリク! 遠いところよく来てくれたね」
「これくらい、大した距離ではない。……息災だったようだな」
「あなたも、変わりがないようでよかった」
八人と一匹での旅が終わり、サイラスがアトラスダムに戻ってきてからもう三ヶ月が経つ。恋人であるオルベリクとは手紙や本のやり取りを続けていたが、実際に顔を合わせるのは、解散してから初めてのことだった。
「……」
「……ええと、立ち話もなんだね。上がってくれ」
暫くそのまま玄関先で見つめ合っていたが、やがてはっと我に返り、彼を家に上げた。旅の最中も最低限の荷物しか持たなかったオルベリクだが、今日は違う。これまでサイラスが彼に送ってきた本を全て持って来たのだから、なかなかの大荷物である。
「……あれだけ掃除まで手が回らないと書いていたというのに、案外きれいじゃないか」
「あなたが来てくれるから、特別に片付けたのだよ。普段はこうはいかないね」
「そうか……忙しいのに態々悪かったな」
「気にしないでくれ。いつかやらなければいけないことだから、寧ろちょうど良い機会だった」
物珍しそうに室内を見渡すオルベリクを横目で見上げる。相変わらず彼はたくましくて、精悍で、ため息をつきたくなるほど素敵なひとだ。――本当は、会えたらもっとたくさん話したいことがあったし、夢の中では何度もオルベリクの胸に飛び込んだというのに、いざ目の前にすると何だか胸が一杯になってしまって、上手く視線が合わせられない。
「紅茶を淹れて来るから、座って待っていて」
「悪いな。手伝おうか?」
「大丈夫だよ。あなたこそ疲れているだろう? 自宅のように……とはいかないと思うが、気を楽にして、くつろいでいてほしい」
「では、甘えるとするか……」
オルベリクをリビングルームのソファーに座らせて、キッチンへと駆け込む。湯を沸かす間も落ち着かずに、意味もなくキッチンの中を歩き回ってみたり、既に何度も点検したと言うのに改めてカトラリーに欠けがないか念入りに確かめた。
紅茶が入ったポットとカップを持って戻ると、オルベリクは荷物の中から本を取り出していた。サイラスがあらかじめ机の上に積んでいた本たちの隣に並べ、内容を思い出すかのようにぱらぱらと頁を捲っている。
「お待たせ。こうして見るとたくさん読んだね。旅の最中に読み終えて家に送ったものも含めると、十三か……本当によく付き合ってくれたものだよ」
「まぁ……はじめはなかなか慣れずに苦労したが、習慣づいてからは楽になったな」
「ふふ、うたた寝しているあなたも可愛かったけどね」
今でも鮮明に覚えている。付き合ってまだ間もない頃、オルベリクはサイラスと趣味を共有してみたいと言って、共に読書をしてくれるようになったのだ。二人で本を選び、順番に読んだり、時には額を突き合わせながら一緒に読んだりした。旅が終わってそれぞれの自宅に戻ってからもその習慣は続いていて、手紙と一緒に本を送り合ってきた。何よりもサイラスが嬉しかったのは、オルベリクが読書をすること自体ではなく、サイラスのことを理解して歩み寄ろうとしてくれるその心意気の方だった。
紅茶をカップに注いで勧めると、オルベリクは礼を言ってそれを口に含む。自分も同じように紅茶に口をつけ、華やかな香りを味わった。
「美味い。香りが良いな」
「最近流行っている種類だと、トレサ君が教えてくれたんだ。実はあなたから手紙が届いた時にちょうど居合わせてね……ほら、この本を送ってくれた時のことだ」
積み上げた本の中から、先日オルベリクが送ってくれた兵法に関する本を取り出す。コブルストンの村長の旧友から譲り受けたというそれは、何度も読み込まれたのか傷みが激しい。オルベリクが感想として書いてくれていた通り、兵法の基礎が詰まった一冊であった。
「トレサは元気にしていたか?」
「ああ、ノーブルコートで商談を済ませてきた後だと言っていたよ。アーフェン君ともたまたま出会して、三人で食事をしたんだ。……この本はもう一度読み返したいから、うちに残そうかな」
「いいんじゃないか。その前はこれか……流行りの小説だとお前が送ってくれたが、少々若者向けすぎたな」
「確かにそうだね。面白い部分もあったが、読み返すほどではないか。これは状態も良いから古本市に持っていこうかな」
面白かった本、そうでもなかった本と、奇譚なく意見を述べながら、手元に置くものと次の持ち主を探すものに選り分けていく。もちろん一冊一冊にオルベリクと語り合った思い出があるが、保管場所にも限りがあるためできる限りは手放す決断をする。そうして最後にサイラスが手に取ったのは、とある詩集だった。
「……この本は残しておくよ」
「懐かしいな。もう、随分前に読んだように感じる」
オルベリクが眦を柔らかくして、サイラスの手元を見つめる。この詩集は、二人が初めて一緒に選んだ本だった。共に覗き込んで頁を捲り、音読してみたり、時には解釈を擦り合わせてみたりして、実に楽しかった。今でもふとした時に読み返したくなる不思議な魅力がある本だ。挟んだままにしてある栞を頼りに、お気に入りの頁を開く。
「『丸い月光 その外にいるわたし その外にいるあなた』……」
彼の視線が四つ葉のクローバーの栞から本文に移る。サイラスの音読に被せるような、穏やかで優しい声色が耳に心地よかった。
「『どれほど遠くにいても』」
「――『ふたりは、月の外側』」
最後の一文は互いの声が重なる。思わず笑みをこぼすと、オルベリクも同じように目を細めていた。
オルベリクとサイラスは生まれも育ちも大きく異なるが、こうして同じ世界に息づいている。そして二人の間にある物理的な距離など、月から見ればほんの僅かにしか過ぎない。この詩を読むと、些末なことに悩む自分が慰められるような気がする。
「詩とは面白いね。読む者によって感じ方は異なるし、同じ人物が読んだとしても、時と場合によっては違う感想を抱く場合もある。この詩はまさにそうだ……あなたが傍にいなくなってから読むと、寄り添うような優しさを感じたよ」
「そうか……。寂しい思いをさせたか?」
「いいや。でも……会いに来てくれてありがとう、オルベリク」
本を机に置いて逞しい肩に身を寄せると、オルベリクはサイラスの腰に腕を回して抱き込んだ。夢にまで見た温もりに体を預け、彼の首筋を撫でて口付けを誘う。覆い被さってくる影を見つめて、ゆっくりと瞼を閉じた。
「サイラス……俺も会いたかった。愛してる……」
「ん、わたし、も……」
角度を変えて繰り返される口付けが、それ以上の言葉を許してくれない。サイラスは早々に返答を諦め、少しかさついている柔らかな唇の感触を味わった。
ようやくオルベリクが顔を離す気配があり瞼を開くと、彼は照れたような、どこかばつの悪そうな表情をしていた。
「すまん、事を急きすぎたな……」
「ううん、嬉しいよ。そういえば、アーフェン君があなたは意外と情熱的だと言っていたな」
「アーフェンが?」
「四つ葉のクローバーの花言葉は、『幸運』……それから、『私のものになって』という意味もあるのだと」
「なっ、い、いや、そんなつもりでは……!」
先程まではあんなに情熱的なキスをしてきたのに、一転して狼狽する姿がおかしく映る。今更情熱的な口説き文句の一つや二つを恥ずかしがるような関係でもないだろうに、オルベリクはいつもサイラスの言葉を真っ直ぐに受け止める。そんな彼を揶揄するように、態とらしく上目遣いで見つめながら言った。
「違うのかい……? それは残念だ」
「いや、そうではないが、なんと言うか……意図していたわけではなく……」
「ふむ。あなたが求めてくれるなら、私はいつだってあなたのものになる覚悟があるのだが……違うと言うのなら、この想いは胸に秘めておこうかな?」
「サイラス……あまりからかわないでくれ」
「すまない、あなたがあまりに可愛いものだから」
困ったような表情が愛おしくてたまらず、今度は自分から彼の頬に口付けをした。すると、オルベリクも同じように唇に吸い付いてきた。
「……今度は花言葉の本でも探すか。お前に贈り物をする時に、誤って悪い意味を持つ物を贈らんように」
「そうだね、私も勉強しようかな。良い機会だから明日は本屋に行こうか、アトラスダムなら店は幾つもある」
「一日がかりのデートになりそうだな……。楽しみだ」
「うん。……こうしてあなたと一緒に過ごせて、とても幸せだよ」
再会したら話したいことはたくさんあったのに、こうして寄り添っているだけでも満たされていくから不思議だ。愛とはサイラスの予想を尽く裏切る。オルベリクに恋をしなければ、そして彼が応えてくれなければ、知らなかったことは山のようにある。これからもサイラスは恋心に振り回され、そして様々なことを知っていくのだろう。
分厚い胸元をそっと撫でると、強く抱き締められた。離れていた時間分、今は思う存分愛し合いたいと思っているのはサイラスだけではないらしい。やはりシーツを洗っておいて正解だったと、内心で胸を撫で下ろした。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.