村で採れた野菜と、言付けられた手紙が入った袋を持ち、オルベリクはコブルストンの入口に立つ。頭上には雲一つない青空が広がっている。風も穏やかで、気温も低すぎなければ高すぎもしない。旅立ちにはこれ以上ないほどちょうどいい朝だった。
「それじゃぁフィリップ。オルベリクさんの言うことをよく聞いて、ご迷惑をかけないようにね」
「母さん、昨日からそればっかり。分かってるったら!」
「もう……。オルベリクさん、この子のわがままでご迷惑をおかけしますが……よろしくお願いします」
「ああ、任せてくれ」
高揚を隠しもせずに目を輝かせる栗毛の少年と、申し訳なさそうにぺこぺこと頭を下げる彼の母親は実に対照的だった。――事の発端は、村長のもとに届いた一通の手紙だった。旧友から、近くの町に移り住んだことを報せる手紙だったらしい。ちょうどオルベリクも町に行きたいと思っていた頃合いだったので、ついでに返事の手紙でも配達しようかと申し出た。するとそれを傍で聞いていたフィリップが、自分も行きたいと手を挙げたのだ。
「すまんが、よろしく頼む。バーグ……いや、オルベリク殿。分かっているのだが、つい言い間違えてしまうわい」
「呼びやすい方で構わない。俺が申し出たことなのだからそう畏まらないでくれ」
「いやいや……ついでに野菜まで届けてもらおうと思って、荷物を増やしてしまったからの」
村長は朗らかに笑ってみせる。託された袋は南瓜などの野菜が詰め込まれていて、ずしりと重い。しかし、オルベリクにとってはこんなものは何の障害にもならない。
「これくらいの方が良い鍛錬になる。……フィリップ、準備はできたか?」
「うん! それじゃぁ母さん、行ってくるよ!」
「行ってらっしゃい、フィリップ。オルベリクさんもお気を付けて」
「ああ。明日の昼過ぎには戻ってくる」
大人の足なら日帰りできるだろうが、フィリップも共に歩くなら、と念を入れて一泊二日の旅程にした。事前に母親とフィリップ双方に地図を見せて、その旨を説明をしてある。
母親は未だ心配そうに眉を下げていたが、フィリップと来たらさっと背を向けて歩き出すものだから、親の心子知らずとはまさにこのことである。そんな彼が先行することのないようにオルベリクも大股で歩いて追いつき、次第に村から離れていった。
「今日は良い天気だね! 風が気持ち良いや」
「そうだな……。あまりはしゃいでいると、すぐに疲れてしまうぞ。山道を歩く時は体力の配分が重要だ」
「はーい」
明るく返事をして、フィリップはオルベリクの隣に並び立つ。今度は彼のペースに合わせてゆっくりと歩いた。
「もうボクも十歳だって言うのに、母さんったらずっと心配しきりだったんだよ。荷物だって自分で支度できたのに」
「親とは得てしてそういうものだ。それにしても、よく説得できたな?」
「枕元までお願いしにいくって言ったからね! まぁ、ボクの粘り勝ちかな」
得意げに笑う少年の顔と、恐縮しきりだった母親の顔が重なる。フィリップがこの遠出に付き合いたいと言った時、オルベリクは自身の母親を説得できたら良いと伝えたのだ。そうすると本当に一晩かけて説き伏せたようで、翌日には着替えなどの荷物を持って、オルベリクの家の扉を叩いてきた。
フィリップの同行を断らなかったのは、たまには外の世界を見ることも良い学びになると思ったからだ。山道は険しく、魔物や山賊と遭遇する危険性もあるため、少年はなかなか村から出られずにいる。親子の事情を知る村の者達は、不自由な中でもできる限り良い環境を作ってやろうとしている。オルベリクが少年を連れ出したのも、その一環であった。
「オルベリクさん、魔物が出たらボクも戦うよ!」
「いや、お前に実戦はまだ早い。今回はまだ、俺の戦いを見学していてもらう」
「どうして? 最近は打ち合いも教えてくれるようになったのに」
「見て学ぶこともとても大切だからだ。よく自警団の連中も、試合を見学し合っているだろう? あれは勝敗を当てるゲームではなく、自分だったらどうするかを考えながら、頭の中で戦っているんだ」
「頭の中で、戦う……」
少年は丸い瞳で前を見ながらも、真剣にオルベリクの言葉を噛み砕こうとしている。オルベリクは剣術を教えることはできるが、こうして理屈を噛み砕いて説明するのは少し苦手だ。たまに、上手く伝わらずに少年を困らせてしまうこともある。それでもきちんと説明しようと思えるようになったのは、恋人の影響が大きいだろう。
離れて暮らす恋人――サイラスとはコブルストンで出会い、共に大陸を巡る旅をした。学者である彼は口下手なオルベリクとは正反対で、本当によく喋る。そんな彼の穏やかな声を浴びている内に、言葉を扱うことへの苦手意識が不思議と薄れた。サイラスは語ることも上手いのに同時に聞き上手でもあり、オルベリクが言葉を探している時は、いつも微笑んだまま辛抱強く待ってくれていた。
「……うん、分かったよ! 頭の中で、試合をやってみる」
「その意気だ。……早速お出ましらしいぞ」
少年の肩に軽く手を触れて、立ち止まるように促す。視線の先にはラットキンがいて、まだこちらには気付いていない。剣を抜きながら、思い出すように呟く。
「……授業の時間だ」
このどこまでも広がる空の下で、サイラスは今、何をしているのだろう。教壇に立ち、オルベリクと同じ台詞でも呟いているかもしれない。そう思うと、知らず知らずの内に口角が上がっていた。
***
道中に数度魔物と出会したが、いずれも大きな脅威には成り得なかった。はじめて間近で魔物との戦闘を見たフィリップは、怯えと興奮が入り混じってやけに高揚していた。そんな少年を宥めつつ町に辿り着くと、広場で子供たちが遊んでいる様子が見えた。
「ねえ、オルベリクさん……」
「そうだな。俺は用事を済ませてくるから、少し遊んでくると良い。決して危ないことはしないこと、町からは出ないこと。いいな?」
「うん! ありがとう!」
見知らぬ子供というのもフィリップには新鮮なようで、目を輝かせて子供たちの輪に突撃していく。山道を歩いた後に全力で遊ぶとなると、きっと早くに眠くなってしまうだろう。少年を預かっている保護者としては、食事や睡眠などの基本的な生活習慣を疎かにさせてはならないという責任がある。夕飯は早めに食べさせようと心に決めて、村長の旧友の自宅を訪ねた。
住所を頼りに民家の戸を叩くと、コブルストンの村長と同じ年頃の白髪の老爺が顔を覗かせた。自分の風体が他人に恐れられると知っているので、すぐに村長からの手紙を差し出したが、彼はオルベリクを見ても眦を柔らかくするだけで怯えた様子はなかった。
「おお、あいつの遣いか……。遠いところ態々悪かったの。まぁ上がっていってくれ。茶でも出そう」
「いや、手紙とこの……野菜を渡すように言付けられているだけだから、もてなしは結構だ」
「そう言わんでくれ。手紙の返事も持っていってもらいたいし、野菜も家の中まで持って入ってもらったほうが助かるんじゃ」
言われるがままに家に上げてもらい、野菜を厨房の籠へと収める。老爺は野菜を撫でて一頻り喜ぶとオルベリクに茶を出し、机の上に便箋を広げた。
「悪いが、返事の手紙を書くまで待っていてくれんかの?」
「ああ……構わない」
改めて、老人の家をぐるりと見回す。小さな家だが埃っぽくはなく、窓から吹き込む穏やかな風が室内をゆっくりと循環しているようだった。寝台の傍にはフィリップの背丈ほどの本棚があり、本がぎっしりと詰まっている。
何気なく眺めているだけだったが、老爺は目敏くオルベリクの視線に気づいた。
「興味があったら、読んでいてもよいぞ。まぁ、古い本ばかりじゃがな」
「それなら……お言葉に甘えるとしよう」
本棚の前に膝をつき、背表紙を視線でなぞる。その内の一冊、兵法に関する本を取った。これはホルンブルグにいた頃に読んだことがある。当時は若かったこともあり、正直なところ座学は苦手だったが、今読むとまた違うものが得られるかもしれない。
椅子に座り直し、たまに紅茶をすすりながら頁を捲る。どれくらいそうしていたかは分からないが、三分の一も読まない内に、老爺は手紙の完成を告げた。
「できたぞ。すまんが、また配達を頼まれてくれるかの」
「承る。コブルストンの野菜も、ぜひ食べてくれ」
「一人暮らしには多いぐらいじゃのう。近所の奴らに振る舞ってやるとするか……ああ、もしその本が気に入ったのなら、持っていってもよいぞ。他にも、好きな本を持っていくとよい」
「良いのか?」
「うむ。そろそろ本棚がいっぱいになったから、整理をしたくてな。ちょうどよかったわい」
勧められるまま、兵法に関する本に加えて、小説を一冊譲ってもらった。これもまた随分と年季を感じる本で、角は擦れて丸くなっているし、表題も殆ど読めなくなっている。何頁か読んでようやく冒険譚だと分かるくらいだった。自分で読んでもいいし、フィリップに読ませても良いかもしれない。思わぬところで、町でこなすはずだった用事が済んでしまった。
挨拶を交わして老爺と別れ、広場へと向かう。しかし手遊びをしながら笑っている子供たちの中に、フィリップの姿はなかった。移動したのだろうかと周囲を見回しながら歩いていると、子供の泣き声が聞こえることに気づいた。フィリップの声ではないが、何かトラブルでも起きているのかもしれない。声のする方向に駆け出し、大木の根本で泣く少女と、彼女が見上げる枝の先にあるものを見て、オルベリクは目を剥いた。
「フィリップ! 何をしているんだ!」
「あ、オルベリクさん! この子の猫が、木を登って下りれなくなったみたいで……」
フィリップはオルベリクの背丈よりも高いところにある枝にしがみつき、小さな手を伸ばしていた。少年の言う通り、枝の先では縞模様の猫が身を強張らせて震えている。
「危ないだろう! とにかく下りろ、猫は梯子を借りてきてやるからそれで……」
「もう少しなんだよ! 大丈夫だよほら、おいで……怖くないから」
「フィリップ……!」
彼が両手で猫を抱きかかえた瞬間、案の定バランスを崩して上体が傾く。咄嗟に荷物を捨てて枝の下に回り込み、落下してきたフィリップを抱き留めた。少年は落下の衝撃に瞼をきつく閉じていたが、目を開けた時に真っ先に確かめたのはオルベリクの表情ではなく、腕に抱えている猫の姿だった。
「あーびっくりした、怪我はない?!」
「……それは俺の台詞だ……」
猫は呑気にニャーンと鳴いてフィリップの腕を抜け出し、しゃくり上げている少女の足に擦り寄った。少女は猫を抱き上げ、涙と鼻水で濡れた顔を柔らかな被毛に押し付ける。その様を見ながらオルベリクもフィリップを下ろしてやると、少年も猫と同じように少女に駆け寄る。
「ひっく、あ、ありがとう、フィリップ……」
「ううん。もう下りれないところに登っちゃだめだよ、よく言い聞かせておいて」
「うん……」
「さあ、もう泣かないで。おうちに帰れそう? ついていこうか?」
いつまでも子供だと思っていたが、自分より年少の者に対する振る舞いが身についていることに内心で驚いた。視線を合わせようと屈んで、優しい声掛けをするなんて、一体どこで学んだのか。子供の成長は早いということを改めて思い知る。
少女は頷いて猫をしっかりと抱き直し、危なげない足取りで去ってゆく。フィリップは手を振って少女を見送り、その背中が見えなくなると、得意げな顔でオルベリクを見上げた。
「遊んでたら、あの子が泣きながら歩いてるのが見えたんだ。追いかけて話を聞いたら、猫が木登りをしたって言って、それでね……」
「……フィリップ」
敢えて険しい顔をしてため息をつくと、フィリップは目を瞬かせる。もちろん少年が善いことをしようとしたとは分かっているが、それでもオルベリクの立場上、その行為を咎めないわけにはいかない。硬い表情を作ったまま、厳しく叱責した。
「なんて危ないことをしたんだ。あの程度の高さと侮るなよ。頭や背中から落下したら神経を痛めて、根治しない怪我を負う可能性もあったんだぞ」
「で、でも……」
「言い訳をするな! 俺が間に合ったから良かったものの、実際にお前は木から落下した。上手くいく保証がない行動を衝動的に起こすことは、勇敢とは呼ばず、無謀と呼ぶのだ」
「……」
てっきり褒めてもらえると思っていたのだろう。フィリップは唇を噛んで、言葉もなく目に涙をためている。
「事の顛末は、帰ってからお前の母に全て報告する。俺がお前から目を離してしまったこと、そしてお前が母や俺の言いつけを守らなかったこともな。説教で済めば良いが、今後こうしてお前を連れ出してやることを禁じられるかもしれない」
「お、オルベリクさんは悪くないよ! ボクが勝手にしただけで……」
「いいか、フィリップ……。行動には責任が伴うんだ。俺達はどちらもその責任を果たしきれなかった。これは、お前の母からの信頼を損なう行為に他ならない。深く反省し、信頼を回復できるように努めるしかない」
「……はい……」
すっかりしょげてしまったフィリップは、ぎりぎり泣くのは堪えているものの、鼻や耳の先まで真っ赤になってしまっている。――少年を叱りながら、オルベリクはやはりサイラスのことを思い出していた。いつだったか、オルベリクが前線で戦わなければならないことは理解はしているが、恋人としてはとても心苦しいと語っていた。年少の仲間の前では決してこぼさないその弱音を、彼の華奢な体ごと抱き締めて受け止めたものだ。
「お前はまだ幼く、一人では成し遂げられないことのほうが多い。今回で言えば、まずは大人を呼びに行って相談する必要があった。人の助けを借りるのは決して恥じることではないんだ。……分かるな?」
「……はい」
「よし……以上が、お前の剣の師としての話だ」
軽く咳払いをしてその場に膝を突く。フィリップの肩に柔らかく手を添えると、瞬きの拍子に丸い瞳から涙がこぼれた。その眼をしっかりと見つめて、今度はゆっくりと、語調を緩めて告げる。
「ここからは、お前の友人としての言葉だ。……確かにお前の行為は危険を顧みないものだったが、見返りもなく誰かのためだけに行動することは、大人だって易々とはできない」
「……」
「友として、俺はお前の勇気を誇らしく思う。よく頑張ったな、フィリップ」
「オルベリクさん……!」
胸に飛び込んできて、せきを切ったように泣き出した少年の背中を優しく擦る。まだ十歳、もう十歳だ。説教に反発する気持ちも多少はあるだろうが、それでも少年なりに、自分のための言葉だと理解してくれることを願う。
「……お前の母には俺も一緒に謝る。間違った部分を省みて、次はもう同じことは起こさないと、行動で示そう。大丈夫だ、お前ならできる」
「うん、うん……っ」
「それに、木登りができるというのは手足の筋肉がついてきている証拠だ。今度からはもう少し、足腰の鍛錬を増やしていくぞ」
「うん……ボク、頑張るよ! 母さんにもちゃんと説明してみる」
顔を離して自分の袖で涙を拭うと、フィリップは明るく笑ってみせた。軽くその栗毛を撫でてやっていると、見覚えのある少女が走ってくる姿が見えた。猫は家に置いてきたのか、今度は少女だけのようである。
「フィリップ……! よかった、まだここにいたんだ」
「どうしたの?」
「あのね、ふたりにお礼をしたくて……。これ、あげるね! フィリップのお父さんにも」
「む、いや……」
少女が持っていたのは四つ葉のクローバーで、フィリップとオルベリクの手それぞれに一輪ずつ握らせてくる。子供がお礼にこれを持ってくるというのは何とも微笑ましいが、ひとつ誤解をされているようだ。オルベリクがどう説明しているか考えあぐねている内に、フィリップが答えた。
「ありがとう。オルベリクさんはボクの剣の先生なんだ。一番、尊敬してる人なんだよ!」
「そうなんだね! 先生、ありがとう」
「ああ……猫が無事で良かった。次からは、きちんと大人の手を借りるようにな」
「はーい。それじゃぁ、バイバイ! また遊びに来てね」
――フィリップの言葉に目頭が熱くなりそうだった。オルベリクが心配することはない、フィリップは物事をよく理解している。彼はきっとこれから、真っ直ぐに成長して行けることだろう。
少女は片手を勢いよく振り上げて挨拶すると、また駆けていった。泣いている姿の印象が強かったが、元気を取り戻したようで何よりである。先程投げ捨てた荷物を拾い上げ、四つ葉のクローバーはハンカチに包んで懐に入れた。
「へへ、お礼もらっちゃった。四つ葉のクローバーって本当にあるんだね! 母さんにも見せてあげようっと」
「そうするといい」
「オルベリクさんも、サイラスさんに見せてあげたら?」
「なっ……」
けろりとした表情で言われたものだから、荷物を取り落としそうなほど驚いた。何故少年がサイラスのことを知っているのか――いや、顔見知りではあるのだ。そもそもサイラスと出会ったのがコブルストンでのことであるし、旅の最中に皆で訪れたこともあった。しかし、二人が深い仲であることまでは教えていない。冷や汗を垂らすオルベリクに対し、フィリップは相変わらず屈託のない笑みを浮かべている。
「よく荷物が届いてるもん、親友なんだよね? でも、サイラスさんなら見たことあるかなぁ」
「ああ、まぁ……。あいつは閉じこもって仕事ばかりしているだろうから、たまにはこういうものを見て、目を休めたほうがいいかもしれん。……さぁ、少し早いが夕飯にするか。腹が減っただろう?」
「うん! もうお腹ペコペコだよ」
少年の認識を聞いてほっと安堵したが、それを表に出さないようにさり気なく話題をすり替えた。少年の傍を歩きながら、再び空を見上げる。遠い場所でオルベリクも同じように先生と呼ばれていると知れば、サイラスはなんと言うだろうか。手紙に書く内容を考えつつ、日が沈んでゆく方角へと向かって行った。
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